夜が来た。
いつもなら、もう屋上に行く時間だ。
行ってどうすればいいんだろう。
天音は、きっといないのに。
どうせ行ったって、会えない。
それが分かっているのに、今日もまた同じように屋上へ向かってしまう。
そう考えるだけで、身体がズンと重たくなる。
それなのに、手は迷うことなく鞄へと伸びて、足は自然と屋上へと向かっていた。
一段、一段と階段を上る。
足元を見つめたまま、扉を押す。
生ぬるい風が、首筋を抜けた。
背後で、扉がギジリと音を立てて閉まる。
——やっぱり、戻ろう。
体を翻し、もう一度取っ手に手をかけようとした、その時。
「遥人」
夜闇によく通る、聞き慣れた声がした。
驚いて振り向く。
そこには、いつもの屋上に、
ずっと待ち望んでいた彼女が、ふわりと佇んでいた。
「あま、ね……?」
「……久しぶり」
長い黒髪を耳にかけながら、少し俯いたまま、天音は言った。
言いたいことも、聞きたいことも、たくさんある……
それなのに、どれもうまく言葉にならなかった。
「……よかった」
ただ、それだけは伝えたかった。
天音は、困ったような笑顔を浮かべて、小さく頷いた。
夜風が吹き抜け、天音の長い髪を揺らす。
月明かりに照らされて、淡い影が足元に落ちていた。
「今日は、あんまり長くいられないの……」
ぽつりと落とされたその言葉に、胸の奥がぎゅっと縮む。
「そっか」
手すりに手をかけ、空を見上げる。
天音は、僕の少し離れた隣に立ち、同じように手をついた。
帰ってしまった理由も、来なかった理由も、
本当は聞いてしまいたかった。
けれど、天音の横顔を見ると、言えなかった。
広がる空よりも、ずっとずっと遠くを見ているような、どこか寂しげな横顔だったから。
視線を上げると、空は相変わらず綺麗だった。
何も知らないみたいに、星が瞬いている。
「……綺麗だね」
「そうだな」
天音はしばらく空を見つめてから、小さく息を吐く。
「……じゃあ、行くね」
「……うん」
引き止める理由は見当たらなかった。
天音は一度だけ振り返り、微笑んだ。
「また、夜にね」
その言葉を残して、天音は扉の向こうへ消えていった。
すっと、体から力が抜けていくのを感じた。
足元に置いていた鞄からは、スケッチブックの端がはみ出ていた。
——次、見せなきゃな。
天音のさっきの言葉が、約束のように心にすっと沈む。
来てくれて、よかった。
会えて、よかった。
ただそれだけで、心が落ち着いた。
たった三日のはずなのに、ずっと久しぶりに感じた。
まだ、渡せなかった絵を鞄ごと抱えたまま、
僕はただ、次の夜が来るのを待った。

