時計を見ると、いつも屋上に行く時間は、とうに過ぎていた。
気づけば、夜はかなり更けていた。
——もう、天音は帰ってるよな。
今日は、やめておこうか。
そんな考えが浮かんで、けれどすぐに消えた。
グッと腕を伸ばして伸びをする。
「よし」
小さく呟き、スリッパをつっかける。
鞄と上着を掴み、病室を出た。
こうして夜中に抜け出し、屋上に行くことは、もう僕らの当たり前になっていた。
階段を上り、屋上の扉に手をかける。
一度、息を整えてから押し開けた。
冷たい風が肩の上をすり抜ける。
目を閉じて深く息を吸うと、その風が胸の奥まで入り込み、さっきまでの重たい気持ちをさらっていった。
屋上には、手すりにもたれて空を見上げる、後ろ姿があった。
長い黒髪が、夜風になびく。
「天音!」
呼びかけた声に、天音がぱっと振り向く。
ワンピースの裾が、ふわりと揺れた。
「もぅ、遅いよ」
少し膨らませた頬と、拗ねたような声。
けれど、どこか楽しそうだった。
「ごめん。お待たせ」
「本当だよ、お詫びに何かしてもらわなきゃ」
そう言って口先を尖らせ、軽く睨みつけてくる。
それが可笑しくて、思わず笑ってしまう。
「ちょっと、何笑ってんの?」
そう言いながら、天音も笑い声を重ねた。
沈んでいた夜が、月明かりに照らされて、やわらかくほどけていく。
「ねぇ、いつまで笑ってるの」
長い袖を持て余すみたいに振り回し、ペシペシと肩を叩かれる。
「あれ?それ、いつもと違う」
淡い水色のカーディガンを羽織っている天音を見て言う。
「ふふ。よく気づきました」
くるりと一回転して、裾を揺らす。
「どう?ネットでポチッと買ってみたんだけど、ちょっと大きかったかなぁ」
「うん。大きいな……」
「え、やっぱり?」
さっきまでの自信が嘘みたいに、困った顔で慌てだす。
それを見て、胸の奥が緩む。
……やっぱ、いいな。
病気とか、未来とか。
そういうものを考えなくていい時間が、ここにはあった。
手すりに手をかけ、夜空を見上げる。
月は、ぼやけた輪郭のまま、静かに光を落としている。
「綺麗だね」
ぽつりと呟く。
「そうだね」
すぐ隣で、同じ空を見上げる気配がした。
「ねぇ、遥人。
流れ星って見たことある?」
唐突な問いに、幼い頃の眠れない夜を思い出す。
「……あるには、あるかな」
「ほんと?
じゃあ、その時、お願い事した?」
一瞬、息が止まる。
「……どうだったかな」
少し間を置いてから、軽く笑う。
「星にお願いなんてしたところで、って感じだよな」
「そう、なのかな」
天音ははっきりしない声で答える。
「だって……
願ってみないと分かんないよ」
真っ直ぐで、どこか寂しそうな視線。
心を見透かされているような気がして、目を逸らした。
「……そうかもな」
それ以上、何も言えなかった。
話しているうちに、空はゆっくりと色を変えていく。
星は薄れ、月は低く沈んでいた。
「今日、まだ空描いてなかったね」
床に置かれた鞄を見て、天音が言った。
「夜明けの空、描いてみようかな……」
「夜明け……」
驚いたように、天音が空を見上げる。
ほんの一瞬だけ、顔が強張った気がした。
「ずっと夜の空しか描いてなかったもんな」
薄明るくなり始めた屋上で、鞄からスケッチブックを取り出す。
夜明けの空。
描いたことはないし、ちゃんと見た記憶もなかった。
赤、オレンジ、黄色。
頭の中で、ぼんやりと空を並べる。
東雲色、だったっけ。
高鳴る胸を押さえながら、天音に声をかける。
「絶対、綺麗に描けると思う」
そう言いかけた、その時。
「私、もう戻るね」
「え?」
思わず間の抜けた声が漏れる。
天音は、もう扉へ向かっていた。
「待って、まだ今からだよ」
「また夜にね……」
振り向かずにそう行って、扉の奥へ消えていく。
あまりに唐突で、しばらく閉じられた扉を見つめる。
やがて、白っぽい光が屋上を満たし始めた。
振り返ると、深い紺色から、紫、薄桃、淡いオレンジへと、空が溶けるように移ろっていく。
「……綺麗」
思わず、声が漏れた。
初めてだった。
空には、こんなにもたくさんの色があるなんて、知らなかった。
こんなに美しいなら、もっと前から見ていればよかった。
そう思いながら、筆を取る。
空を見つめ、ひたすら手を動かした。
夜明けの空が描き上がる頃、日は水色の空を背景に、眩しい光を放っていた。
天音も、見たらよかったのに。
せっかく、こんなにも綺麗なのに。
「……まぁ、いっか」
どうせ、また夜に会えるし。
そう呟いて、頭上の空に、まだ乾ききらない空を重ねた。

