階段を上がるたび、足音が遅れて返ってくる。
一段、また一段。夜の中に自分の存在だけが取り残されていく。
手すりに触れた指先に、冷たさが刺さるように伝わった。
それでも強く握り締めて、足を前に出す。
屋上へ続く鉄の扉が、ひどく大きく見えた。
取っ手を掴む。鉄に熱を奪われ、指先の感覚が鈍った。
扉の隙間から夜風が吹き込み、扉は押し返されるように重くなる。
金属の擦れる音。
反射的に力を込めて、ようやく視界が開けた。
屋上に出た瞬間、風が肩をかすめる。
三月の夜は、春と呼ぶにはまだ早い。
吐いた息は白く、すぐに闇へ溶けた。
足元のコンクリートは、昼の温度を失っている。
手すりに手をかけ、体を預ける。
眼下には、街灯に照らされた家々が寄り添い合っている。
近い光と、遠い光。
規則正しいはずの景色が、どこか頼りない。
顔を上げる。
南の空に淡く瞬く星。
ひとつだけ、まるで手を伸ばせば届きそうに輝いていた。
無意識に右手を伸ばす。
指先は何も掴めず、空を切った。
広く、高く、果てしない。
君と見上げた空はいつだって、触れられそうで、遠かった。
自然と隣へと視線が流れる。
何かがそこにあるはずだと、身体だけが覚えている。
いつもなら、君がいた。
何も言わずに空を見上げて、少し遅れて、同じ星を探していた。
その間を埋める言葉は、いらなかった。
『綺麗だね』
何度も何度も聞いた声が、耳の奥でかすかに響く。
胸の奥が詰まり、遅れて息を吸う。
冷えた空気が肺の奥まで落ちていった。
瞼を閉じる。
白い天井。閉じられたカーテン。
ベッドの上で、ただ横たわっていた日々。
今日も、同じように終わるはずだった。
何も起きず、何も選ばずに。
それなのに、揺れたカーテンの向こうに、夜空が広がっていた。
溢れるほどの暗さが、確かにそこにあった。
その空に、別の夜が重なる。
星が降った夜。
君が、泣いていた夜。
胸の奥で鼓動が鳴る。
はっきりと、確かに。
止めようとしても、止まらない。
この音は、誰のものなのか。
まだ、分からない。
生きている。
そう言い切るにはまだ怖い。
気づけば、ノートを抱えていた。
ここまで来たことだけが、確かだった。
冷たい床に腰を下ろし、膝の上にノートを置く。
風が吹き、星が瞬く。
世界は、何も変わっていない。
ノートを胸に引き寄せる。
もう、君の温もりは残っていなかった。
ぎゅっと強く、そして優しく握りしめて、もう一度顔を上げる。
小さく息を吸い込み、震える指先でノートの端を掴む。
「……開けるよ、天音」
声は、風に紛れて消えた。
そっと、ページをめくる。

