高校1年の春。

部活推薦で進学した私は、親元を離れてこの街にやってきた。

新しい生活の舞台は、五人の学生が暮らす小さなアパート。

まるで寮みたいに、廊下で「おはよう」と声を掛け合う日々が始まった。

隣の部屋には、同じ部活の一つ上の先輩。

憧れと、少しの恋心を抱く相手。

そして他の住人は、バスケ部の先輩、軽音部の女子、剣道部のゲーム大好き男子。

みんな個性的で、毎日がちょっとしたコメディみたいに賑やかだ。

そんな環境で迎える初めての一人暮らし。

「隣の部屋の人に恋してるなんて、味噌汁の匂いでバレたらどうしよう。」

鍋をかき混ぜながら、私は小さな秘密を胸に抱えていた。

天音は毎朝、味噌汁を作る。

一人暮らしを始めてからの小さな習慣。

朝起きてすぐ窓を開けるから、香りはアパートの廊下に広がってしまう。

弁当箱とリュックを抱えて玄関を出ると

―― 隣の部屋から、瑛大先輩が同じタイミングで出てきた。

「……あの、朝、何かしてるんですか?」

突然声をかけられて、天音は慌てて振り返る。

「え、あ、うるさかったですよね、すみません!」

「いや、違うんだ。いつもいい匂いするなーって思ってて」

瑛大は少し照れたように笑う。

天音の心臓は跳ね上がる。

(まって、匂いでバレてた……!)

「……味噌汁、です。毎朝作ってて」

「へえ、いいな。俺、朝はパンだけだから」

「じゃ、じゃあ……余ったら、先輩の分も……」

口から勝手に飛び出した言葉に、天音は真っ赤になる。

瑛大は一瞬驚いたあと、柔らかく頷いた。

「じゃあ、楽しみにしてる」

「え、ちょっとまっ」

そのやり取りを、廊下の奥から見ていたアパート仲間たちがニヤニヤしながら近づいてくる。

バスケ部の圭吾先輩が、「おーい、青春は味噌汁か!」

そして、軽音のボーカルをしているりいかが、「きゃー尊いんだけど!」

剣道部のゲーム大好き凌空が、「俺の分もー!」と、学校が一緒のメンバーが、からかってくる。

天音は顔を覆って「ちがうの!」と叫ぶ。

天音は歩き出しながら、頭の中でぐるぐるしていた。

(え、本当に渡すの?え、どうしよう……!余ったらって言ったけど、余らせる前提で作るの?いやいやいや!)

リュックを抱えたまま、しゃがみ込む。

「おっはー!」

軽音部のりいかが、朝の光みたいに元気に飛び込んでくる。

「朝見たよー!瑛大先輩に味噌汁作るんだってー?」

私の状態を見てりいかは驚いた。

「もうどうしたらいいかわかんないよーって顔してるけど?」

「うぅ……ほんとにどうしたらいいかわかんない……」

りいかはケラケラ笑って肩をぽんと叩いた。

「まあ大丈夫だって。天音の部屋からいっつもだしのおいしそーな匂いしてるもん」

「え、そんなにしてるの?」

「うん。結構だしの匂いかな。朝からお腹すくんだよねー」

「うわああ、やらかしたー……」

天音は頭を抱える。

りいかはにやりと笑って、声をひそめる。

「でもさ?瑛大先輩のこと、好きなんでしょ?」

「えっ……!」

心臓が跳ねる。

「だったらチャンスじゃん!」

「えーそういう問題じゃなくて――!」

天音は真っ赤になって叫ぶ。

りいかは「尊い~!」と両手を合わせて大げさに騒ぎ、通りすがりのクラスメイトまで「味噌汁?」と振り返る。

天音は「ちがうの!」と必死に否定しながら、顔を覆って走り出した。


廊下ですれ違ったとき、天音は偶然、瑛大が友人らしき人に話しているのを耳にした。

「隣の部屋の後輩がさ、味噌汁のいい匂いしててさ、明日、作ってもらえることになったんだ」

(ちょっとまって、ばらさないでよー!)

心の中で叫んだが、先輩の会話に首を突っ込むわけにもいかず、天音はおとなしく通り過ぎるしかなかった。

そして七時間目が終わり、帰りの時間。

クラスメイトたちの会話が耳に飛び込んでくる。

「瑛大先輩の隣の部屋の人って誰?」

瑛大先輩は、イケメンだから、好きな人も多いらしい。

けれど本人はそれをまったく自覚していない。

「え、しらない」

「なんか、朝ご飯作ってもらってるらしいよ」

「え、まじ?きゃー!」

(……隣の人って、私じゃん!)

天音は机に突っ伏しそうになった。

(でも、朝ごはんじゃなくない?私、味噌汁しか聞いてないんですけど!)

頭の中で必死に訂正するが、噂は勝手に広がっていく。

クラスメイトたちは「隣の人=朝ごはんを作ってあげてる人」として盛り上がり、天音は「いやいやいや!」と心の中で全力ツッコミ。

(どうしよう……これ、もう止められないやつだ……!)