12
「……んっ……」

 目が覚めたのは昼前のことだった。全身を包む倦怠感と筋肉痛に耐えながら、緩慢に体を起こす。見慣れているようで馴染みのない、夫婦の寝室にはクリスティしかいない。カイルは仕事へ行ったのだろうか。ぼんやり考えながらなんとなく自分の体を見下ろし――喉奥から悲鳴が漏れた。胸の辺りに散らばるのは無数の赤い跡。一体いつの間にこんなにつけられたのだろう。キスマークを残されるのは初めてではないけれど、ここまでつけられるのは初めてだ。なんなら噛み跡もうっすら混ざっていて、昨日のあれこれを一気に思い出させる。

 好きでもなんでもないクリスティをこれ以上抱かなくて済むようにと、他の人を抱いても気にしないことを伝えたのはカイルの逆鱗に触れてしまったらしい。泣いて懇願してもやめてもらえず、延々と絶頂が続きこのまま死んでしまうかもしれないと思った。途中で気絶したせいで終盤の記憶がないけれど、宣言通り本当に朝まで抱き潰されたのだろう。でないとここまで体が痛むわけがない。ふと、あれだけ激しく交わった割に体にベタつく感覚もないし、シーツが清潔であることに気がつく。カイルか、それとも使用人が後始末をしてくれたのだろうか。どちらにしろ、情けなさにため息が漏れた。カイルに迷惑をかけたくないのに、そう思うほどにうまくいかない。仮初でも幸せをくれたカイルが、心底から好きな人と一緒になって幸せになってくれればそれでいいのに。クリスティの行動は全てが裏目に出ている気がする。

「ちゃんと、話し合わないとだよね」

 誰もいない部屋でぽつりと呟くと、クリスティは考えを巡らせる。何が一番大事か、それはカイルが幸せになることだ。クリスティはもう十分幸せにしてもらったのだから、これ以上は望まない。幸い婚約式も結婚式もまだだから、略式で済ませられるだろう。カイルが欲しいのは爵位で、好きな人はシスター。それなら、結婚はして別居するのが一番良さそうだ。結婚しないと伯爵位を継いでもらえないし、好きな人と暮らすのにクリスティがいるのは邪魔になる。叔父は以前、「クリスティが望むなら私の養子になって静かに暮らすという手もある」と言ってくれたし、療養という名目で叔父の家に身を寄せることを考えた方がいいかもしれない。孤児院の刺繍の先生も、今より頻度を減らせば無理なく続けられるだろう。

 ――これなら、カイル様も納得してくれるはず。

 昨夜はクリスティの言葉が足りなかったのだろう。クリスティが婚約を破棄したがっていると思われて、それであんなに怒っていたのかもしれない。考えれば考えるほど、そうだと思えてきた。これまでのカイルの伯爵領への献身とクリスティへの対応を考えれば、こんなところで破談になるなんてやってられないだろう。怒って乱暴にされたのも仕方がない。拳を握って決意を固める。カイルが戻ってきたらきちんと話し合おう。クリスティが言葉を間違えなければ、きっと話を聞いてくれるはずだ。今までずっとそうだったのだから。

「……よし」

 そうと決まれば部屋に戻らないと、と軋む体を引きずって隣の寝室へと戻る。ゴテゴテに飾り付けられていた母親の寝室は、婚約を機にクリスティの部屋になったけれどいまだに慣れない。そもそも自分の好みというものが自分でもわからないのだから、何をどうしたら落ち着く部屋になるかもわからないのだ。クリスティが屋敷に滞在するときは元々の自分の部屋を使わせてもらって、カイルの好きな人にはこの部屋を使ってもらえばいい。衣服を身につけてから、ぐるりと部屋を見回す。ふと、机の上のハンカチに目が止まった。カイルに頼まれた、刺繍途中のハンカチ。

「……」

 なんとなく、手に取って眺める。一体いつから刺繍を放棄したのだろうか。カスミソウを背景にあしらった「K」は、あと少しというところで止まっている。叔父の家に身を寄せるようになったら、庭のカスミソウはもう気軽に見ることはできなくなるだろう。結局、最初と何も変わらない。刺繍して欲しいとカイルが照れたように頼んでくれたのも、伯爵位のための演技だったのだろうか。私なんかが刺したものでいいんだ、と嬉しかったのに。

「あ……」

 ぼた、と雫が溢れる。ハンカチについてシミにならないよう、慌てて袖で涙を拭う。どうして涙がこぼれるのかもよくわからない。わかりきっていたはずなのに。カイルのような「理想の王子様」が、クリスティの前に都合よく現れるはずがないと。クリスティのことを愛してくれるはずがないと。全部わかりきったことで、納得したはずだったのに。どうしてこんなに胸が苦しいのだろうか。

「んっ、くっ……」

 嗚咽を噛み殺すせいで、喉の奥がきゅうっと締め付けられるようだ。溢れる側から吸わせているせいで、袖が涙でぐっしょりと濡れていく。ハンカチが手の中でくしゃくしゃと形を変えるけれど、手放すことができない。どうせ渡すこともないのだから、別にいいけれど。くしゃり、とハンカチを握りしめたままその場にくずおれる。喉がひりひりする。しゃくりあげるせいで息が苦しい。両手で顔を覆ったせいで、とうとうハンカチも涙で濡れてしまった。もう誰にも贈ることはできない。けれど、それでもいい。カイルは困らない、誰も困らない。

 ――私に王子様なんて、現れない。

 隣からバタバタと慌ただしい音が聞こえる。部屋の掃除にきた使用人だろうか。それにしては随分と忙しないようだ。どちらにしろ、こんなに泣いている姿を見せるわけにはいかない。うずくまり、止めることもできないまま泣き続ける。両親が亡くなったときは涙の一滴も出なかったし、カイルが爵位目当てだと知ったときですらここまで引き摺らなかった。どうしてここまで胸が痛み、涙を止められないのかクリスティはわからなかった。

「クリスティ!?」
「!」

 バタンと大きな音がして、部屋の扉が開けられる。思わず顔を上げると、滲んだ視界に映るのはカイルの姿。焦ったように息を切らしていて、クリスティを見ると目を見開いて駆け寄ってくる。お仕事に行ったのでは、と尋ねようとしたのだけれど、その前に抱きしめられ言葉は出なかった。

「び、っくりした……どっか行ったんじゃないかって」
「あ、ご、ごめんなさい」
「……や、違う。ごめん、そうじゃなくて。俺の方が謝らないといけない」

 いつもとは違う、砕けた口調。クリスティを抱きしめる力は強い。気づけば、床に座り込んだカイルの足の間に座らされるような体勢になっていた。ほんの少し距離を開けようと身じろぐと、さらに強く抱きしめられる。逃がすまいとしているようだ。

「あ、の、カイル様。なんでも、ないです。大丈夫、ですから」
「違う」
「え」
「そんなに目真っ赤にして泣き腫らして、大丈夫なわけないだろ」
「そんなこと……」

 ないのに、と続けようとした言葉は、「……ごめん」と遮られた。いつもとは違う砕けた口調だけれど、そっちの方がよっぽどカイルらしいと思うのはどうしてか。ほんの少し体を離したカイルが、苦しそうにクリスティを見つめる。榛色の瞳に涙でぐちゃぐちゃのクリスティが映っていて、思わず目を背けた。なんとなく顔を見られるのが気まずい。けれど、カイルは手のひらをクリスティの頬に添えると、親指で涙を拭う。手つきがあまりに優しくて、心臓が軋んだ。

「昨日、抱き潰してごめん。体、辛いよな?」
「そんなこと、ないです」
「……あー、違う。間違えた」

 何かを悔いるようにカイルは眉間に皺を寄せる。間違えた、とはなんだろうか。そう思っていると、肩をがしりと掴まれた。

「辛いよな、なんて聞き方したらクリスティはそんなことないって答えるに決まってる」
「え……」

 カイルはクリスティを抱き上げて立ち上がり、ベッドに並んで腰掛ける。向かい合うようにして座ると、握りしめたままのクリスティの両手に自身の両手を重ねた。大きくて、暖かい手。緊張で思わず両手をさらに握りしめると、強張ったのを解すように拳を開く。手のひらからくしゃくしゃになったハンカチを取り出すと、矯めつ眇めつ眺めた。「これ……」と未完成の刺繍に目を留めるのを見て、慌てて取り返そうとしたけれど届かなかった。カスミソウとイニシャルを見て、カイルは目を見開く。

「これ、俺が頼んでたハンカチ?」

 泣きじゃくっていたせいで散々涙に濡れてしまったし、刺繍が完成することはきっとないからカイルがこれを受け取ることはないだろう。けれど、頼まれていたものというのは嘘ではない。無言でこくりと頷くと、手を握る力が強くなる。「クリスティ」と名前を呼ぶ声も、どこか強張っているようだ。カイルはハンカチのシワを丁寧に伸ばすと、そばにあったサイドテーブルの上に置い手口を開く。

「話があるから、聞いてほしい」
「……はい、もちろん」

 ぎゅう、と握られた手からは緊張が伝わってくるようで、クリスティの方まで強張ってしまった。何を言われるのだとしても、クリスティの返事は決まっている。本当は爵位目当てだということも、クリスティじゃない人のことを好きだということも、全部わかっているのだ。何を言われても動じることはない。

「前に、昔も誰かとカスミソウを一緒に見たって言ってたの覚えてる?」

 予想の斜め上の質問に拍子抜けする。そんな遠いところから話し始めてどうしたいのだろうか。意図が読めず、「? はい」とだけ返す。きょとんとして、よくわかっていなさそうなクリスティに、カイルは一瞬だけ傷ついたように眉根を寄せた。が、すぐに気を取り直して短く告げる。

「あれ、俺なんだけど」
「……」
「……」
「……え!?」
「やっぱり覚えてないよな」

 ほんの少し残念そうにそう呟くカイルをまじまじと見つめる。暗褐色の髪に榛色の瞳。隣り合って座る姿を見て、ようやく合点がいく。初めて会ったときの既視感の正体にやっと気がついた。逆に、どうして今まで思い出せなかったのだろう。ひとりぼっちだったクリスティの、生まれて初めての、唯一の友達だったのに。「ご、ごめんなさい」と謝ると、「いや、謝らないといけないのは俺の方だから」と返される。眉間に刻まれた皺は深く、どうしてか苦しそうだ。クリスティの手を握る力は痛いぐらいに強い。よほど言いにくいのか、口を開けては閉じることを繰り返している。

「……カイル様」

 空いている方の手を握りしめ、クリスティは口を開く。いつだったか、婚約の話を持ち出そうとしたときになかなか言えなかったことを思い出した。あのときよりもクリスティは、自分の意思をきちんと口にできるようになった気がする。

「小さいときに遊んでくれたこと、忘れていてごめんなさい」
「え、いや、それは俺が……」
「でも、昔仲良くしてくれた人がいて、その人と一緒にカスミソウを見たことは、覚えてなくてもずっと私を支えてくれてたんです」

 小さいときからずっと授業漬けで、両親には愛されず、友達の一人もいない。叔父以外に理解してくれる人がいなくて、ずっと孤独でひとりぼっちだったクリスティにとって、覚えていなくても確かにクリスティの支えだったのだ。「一緒にいてくれる誰かがいた」という事実は。それがカイルだというのなら、尚更。カイルの目を真っ直ぐに見つめる。思い出してみれば、榛色の優しい瞳は昔から変わっていない。どうして今まで気づけなかったのか不思議なぐらいだ。

「一緒にいてくれて、ありがとうございます」
「いや、俺は、そんな……」
「だから……もういいんです」
「……は? もういいって何が?」
「カイル様が爵位目当てなのも、本当に好きなのはシスターだということも、知ってます」
「……」
「……」
「……はあ!?」
「結婚式が終わったら私は叔父の家に行こうと思います。この家は自由にしてくださって構いません。だから……」
「ちょっと待って!?」

 ガッと両肩を掴まれ、言葉を止める。クリスティにしては珍しく、ハキハキと淀みなく言葉を紡げていたと思うのにどうして止められてしまったのだろう。肩の骨がミシミシと軋む勢いで掴まれているので、少し痛い。思わず顔を顰めると、向き合っていたからその表情がよく見えたのだろう。「ご、ごめん」と慌てて肩から手を離して両手を上げる。手を出していませんよ、というポーズらしい。散々手を出した後なのに。

「えっと、だから、その、婚約は破棄しないし、結婚もしますがそのあとは好きになさって、」
「待って、頼むから本当に待ってほしい」
「は、はい」

 愕然とした表情のカイルは、クリスティの顔をじっと見ると頭を抱え始めた。おかしい、思っていた反応とだいぶ違う。カイルが昔仲良くしてくれた友達だからこそ、結婚して爵位を譲ることも、他の人とこの家で暮らすことも受け入れられたのに。一緒にいてくれたお礼の意味も込めたつもりなのに。どうして、喜んでくれないのだろう。「あの、カイル様……?」と呼びかけると、「なんでそうなるんだよ……」とか細い声が聞こえる。

「……いや、違うな。俺がずっと本当のこと言えなかったからだ」
「え……?」

 困惑していると、カイルはゆっくりと顔を上げる。いつも冷静を取り繕うカイルだけれど、表情はなんとなく読み取りやすい。後悔を宿した瞳に見つめられ、クリスティは口を噤む。じっと見つめていると、カイルは何かを決意したらしい。ぎゅ、と唇を一度強く引き結ぶと、「ごめん」と勢いよく頭を下げた。

「クリスティは覚えてないかもしれないけど、最後に会った日、酷いことを言ってごめん」
「ひ、酷いこと……?」
「……親の言うことを聞くしかできないお前に、待っているだけのお前に王子様なんて現れない、って」
「!」

 物心ついたときからずっと、呪いのように言い聞かせていた言葉。誰に言われたのか顔も名前も忘れてしまっていたのに、言われたことだけはずっと覚えていた。驚きのあまり、「そう、なんですか……」と他人事のような言葉しか出てこない。

「謝って済むようなことじゃないし、本当ならもっと前に言わなきゃいけなかったのに。……嫌われたくなくて、ずっと言えなかった」