照りつける日差しは眩しく、歩くだけで自然と汗が吹き出す。外を歩くだけでも体力が奪われるのに、子供は疲れ知らずらしい。孤児院に近づくにつれて聞こえるはしゃぎ声に、なんとなく微笑ましくなった。門をくぐると建物には入らず、庭の方へ向かう。この暑さにも負けず、元気に走り回る子供達を木陰のベンチで見守るシスターの姿が目に入った。

「よう、調子はどうだ?」
「あら、カイル。おかげさまで絶好調よ」

 カイルが声をかけると、座れるようにスペースを開けてくれた。ありがたく隣に腰掛けながら、「あの子らはなんであんな走り回れんの」「あなたも昔そうだったわよ」「絶対嘘」等々と軽口を交わす。修道服に身を包む彼女は、数年前にカイルが孤児院を出て行ったときから変わらない。相変わらず明るく朗らかで、子供達から慕われるのも頷ける。ひとしきり世間話にも満たない雑談を交わすと、本題とばかりに居住まいを正して向き直った。

「で、最近のクリスティは?」
「あなた来るたびそれね」

 呆れように息を吐くシスターだけれど、「この間は手作りの焼き菓子を持ってきてくれたの。子供達が大喜びだったわ」と教えてくれるあたり律儀で優しい。使用人と一緒に、朝から大量のクッキーやマドレーヌを作っていた姿を思い出して顔が綻ぶ。どうしてかその日は元気がなさそうだったので心配していたけれど、子供達には喜んでもらえたらしい。クリスティの頑張りが報われていたことにホッと胸を撫で下ろす。

 カイルと婚約してからのクリスティは、だいぶ変わったように見える。自分を押さえつけていた伯爵夫妻がいなくなったからだろうか、それともカイルがしつこくやりたいことや食べたいものや行きたいところを尋ねたからだろうか。徐々に細やかな願望を口にしてくれるようになった。近くで過ごせば過ごすほど、消えてしまったはずの淡い初恋とはなんだったのだろうかと思うほどにクリスティへの気持ちが大きくなる。なんでも叶えたいし、どんなわがままも聞かせてほしい。元が平民で優美な王子様なんて柄じゃないカイルだけれど、クリスティのためなら演じることだって苦ではない。

 彼女の一番の変化は、「領地のためにできることをしたい」と告げてくれたことだろう。自分には何もない、何もできないと項垂れていたクリスティを思えば考えられないことだ。嬉しすぎて、その日のうちにレイモンドに手紙を書いたことをクリスティはきっと知らない。レイモンドからは喜び半分、テンションの上がったカイルへの揶揄い半分の返事が届いた。

 決して良い親ではなかった先代伯爵夫妻だけれど、彼らが彼らのためにしていたことは結果としてクリスティのためになったらしい。朝から晩までみっちり授業漬けにされていたクリスティの刺繍や裁縫の腕前は、もはや職人並みだった。刺繍を施したハンカチなどは市場に出回っているものと比べても遜色ない。病院や孤児院に持っていった衣類や小物類の数々は、領民を大層喜ばせた。喜ぶ彼らを見て驚いたように、けれど心の底から嬉しそうにはにかむクリスティを見るたび、胸の辺りから音が鳴る。この人のためならなんだってできると思う。

「クリスティ様は本当に素敵な人よね。なんで婚約できたの?」
「うるせーな」

 それは本当にそうだと思うけれど、言って良いことと悪いことがあるだろう。昔馴染みだからか、シスターの言い草はなかなかに容赦がない。自分が孤児院で一時期お世話になっていたことを、クリスティに黙っていてくれるので何も言えないが。
 
「酷いこと言ったって言ってたのは謝れた?」
「……」
「うわ……」

 心底引いているような声は、グサグサと心臓のあたりに突き刺さる。クリスティのためならなんだってできると思っているカイルだけれど、昔遊んだことがあること、酷いことを言ってしまったことはいまだに言い出せずにいる。

「早く言わないと先延ばしにするだけ言いにくくなるよ?」
「……」

 あまりにも的を得た意見に返す言葉もない。事実、次期伯爵夫人として頑張ろうとするクリスティを見るほどに愛おしさは増し、謝る勇気がなくなる。「最近のクリスティはさ、今までで一番楽しそうなんだよ」と、唐突に話し始めたカイルにシスターは怪訝そうな目を向けた。が、何も言わない。その優しさに感謝して、言葉を続ける。

「自分を押さえつける存在がいなくなって、刺繍の先生っていうやりがいを見つけて、王子様みたいな婚約者がいて……」
「自分で言うんだ」
「うるせーな。……けど、そうでなきゃクリスティが俺を好きになってくれるはずないだろ」
「……」

 カイルとて鈍くないのだから、クリスティが少なからずカイルに対して思いを寄せてくれていることには気づいている。婚前に体を結ぶのを、顔を真っ赤にして許してくれたのはその表れだとも思う。けれど、それは「理想の王子様」を演じるカイルに対してだ。その昔伯爵家で働いていた小間使いで、クリスティの記憶に残っていないにしても酷い言葉を投げかけたカイルに対してではない。カイルが本物の王子様でないことも、平民出身だと言うことももちろん知っている。けれど、それでも見た目だけでも「理想の王子様」を取り繕えているからこそクリスティは好きになってくれたのだ。もし本当のことを告げて嫌われてしまったら――考えただけで目の前が真っ暗になる。

「だから言えない。嫌われるぐらいなら一生嘘をついてた方がマシだ」
「……そうかなあ」

 シスターは、納得していなさそうだったけれど結局それ以上は何も言わなかった。カイルはきっとこれからも「理想の王子様」を演じ続ける。彼女を奪われないためなら、なんだってする。レイモンドが断ってくれた、クリスティの元の縁談相手がギルドに来たときだって、クリスティに興味を持たれないようなんとも思っていないように振る舞えた。本当は爵位なんてどうでも良いのに、爵位にしか興味がないふりだってできた。

 カイルの「理想の王子様」ぶりは上出来で、これからもクリスティの理想の婚約者であり、夫になるはずだったのに。あとは喪が明けるのを待って婚約式と結婚式を挙げ、幸せに暮らすだけだったはずなのに。クリスティから距離を置かれ始めたのはその矢先のことだった。

 *

 前兆は今にして思えば、あったのだと思う。

 例えば、孤児院に焼き菓子を持って行ったと聞いた日、話を聞くと上の空だったことだとか、書類を職場まで持ってきてくれた日、帰ると明らかに泣いていたことだとか。様子がおかしいことはあったのに、踏み込まれたくないだろうと判断してそっとしておいたことは間違いだったのだろう。気づけば、クリスティから徐々に距離を置かれ、避けられるようになっていた。

 休日に遊びに行くことも、外へ食事に出かけることも。申し訳なさそうに断られ、やんわりと拒絶されるたびに目の前が真っ黒に塗り潰されたように錯覚する。心臓のあたりがズキズキと痛むのを堪えて、「そっか」と答えるけれど、うまく笑えているだろうか。どうして避けるようになったのか、俺が何かしてしまったのか、とうとう昔のことがバレたのか。薄い肩を掴んで問い詰めたい衝動に何度も駆られたけれど、結局行動には移せなかった。そうだと頷かれて、あんな酷いことを言っておいてよく婚約してほしいだなんて言えましたね、とでも言われたら。昔のことを謝る勇気さえないのだ、カイルのことを拒絶する理由なんて聞けるはずもない。

 他愛もない話をして、ニコニコと無防備な微笑みを向けてくれるクリスティは幻か何かだったのだろうか。気づけば、カイルが来たばかりの頃、何かが狂い始めたのは一人で抜いているのを見られたときからだ。クリスティに避けられ始めてから、夜を一緒に過ごすこともなくなっていた。眠る前に本を読んだり、お酒を飲んだりと二人で過ごす時間はカイルにとって何よりの楽しみだったのに。伯爵家の夫婦の寝室は無駄に広い。カイル一人では持て余してしまう。目覚めるたび、一人であることを自覚して気分が沈む。それでもクリスティの父親が生前使っていた個人の寝室ではなく、二人で過ごすはずの寝室で毎日眠るのはクリスティが何かの気まぐれで来てくれるのを願っているからだろうか。

 こうやって悶々と考えていても、何かが解決するわけではない。むしろ、考えたせいであれこれ思い出してしまった。小間使いとして、孤児として、商人として、忙しなく懸命に生きてきたカイルは女性経験が少しもない。何度か酒の席で女の子を紹介されたり、娼館に誘われたりしたけれど、そんな気分にはなれなかった。

 クリスティとの行為だって、本当は結婚するまで我慢するつもりだったのだ。一度散ってしまったとはいえ淡い初恋相手であり、再会してからは日毎愛おしさが増す相手と一緒にいて、よくぞ耐えた方だと思うのだけれど。顔を真っ赤にして、一緒に寝たいだなんて言われて我慢できるはずはなかった。触れるところがどこもかしこも柔らかいのも、頭がクラクラするぐらいの甘い匂いも、真っ白い肌がほんのり紅潮するのも、甲高い嬌声に艶が滲むのも。拒絶されないのをいいことに夜な夜な体を重ねていたことを今更後悔する。一度知ってしまったら、もう知る前に戻ることはできないのだから。

「あー……」

 ベッドに腰掛け、天井を仰ぐ。気を紛らわそうと思えば思うほど、意識してしまう。クリスティには一体いつから触れることを許されていないのだろう。生理現象と欲が憎い。仕方なく夜着を寛げ、自身に手を伸ばす。シーツに散らばる銀髪も、カイルを見つめる潤んだ翡翠の瞳も、瞳を閉じれば瞼の裏に鮮明に思い浮かぶ。クリスティを想像して抜くことに罪悪感を覚えなかったわけではないけれど、カイルにとって欲を抱く対象は彼女しかいない。

「クリスティ……」

 まさか隣の部屋まで聞こえていて、本人が部屋に入ってくるとは思わずに名前を呼んでしまう。情けないところを見られてしまったと慌てたのも束の間。別の女を抱いても気にしないと残酷なことを言われ、自分でも驚くほど頭に血が上った。気づかぬ間に育っていたクリスティへの執着は、本人には一つも伝わっていなかったらしい。衝動的に押し倒し、いつもより乱暴に行為を進めてしまう。カイルにクリスティ以外の女性を抱く気がないのだとわからせたくて、何度も何度も絶頂へと追いやる。いつもみたいにしがみついてもくれないし、恥ずかしそうに「好き」と口にしてくれることもない。

 ――俺のこと、もう好きじゃないのか。

 頭を殴られたような衝撃。いや、もしかしたら最初からカイルのことなんて好きではなかったのかもしれない。望まない縁談を断るのに必要だったから、評判の悪い老人に嫁ぐぐらいなら平民でも同世代と結婚した方がマシだったから、カイルを仕方なく選んだだけなのかもしれない。カイルが好意だと思い込んでいたのは、全てクリスティの演技だったのだろうか。自分のためにハンカチを繕ってくれと頼んだとき、嬉しそうにはにかんだのも嘘だったのだろうか。

「……はは」

 自嘲するように笑う。演技も嘘もお互い様だ。カイルだって、「理想の王子様」を演じていたのだから。昔はこの屋敷で小間使いをしていたことを隠して嘘をついていたのだから。クリスティを見下ろすと、ぼろぼろと涙をこぼしてカイルを見上げている。こんな男に捕まって可哀想だと思う反面、二度と手放してやりたくない気持ちが増した。身を屈めて口付ける。呼吸すら奪っているようで、心臓が軋んだ。