孤児院に拾われて数年が経った頃。カイルは商人になった。
伯爵領は領主の経営手腕が酷いのもさることながら、そもそも勢いのある産業も豊かな土地もない。舗装もされていない道路には浮浪児やホームレスが転がっている。孤児院に拾われて面倒を見てもらえた自分は相当運のいい方らしい、と思ったことは一度や二度じゃない。教会が運営する孤児院は数少ない富裕層の市民からの寄付で成り立っていたけれど、それももう厳しい状況らしい。富裕層が富裕層でなくなるぐらい、伯爵領の状況は惨憺たるものだった。
そろそろ面倒を見てもらうには心苦しくなる年齢に差し掛かったとき、カイルは大いに悩んだ。孤児院を出たところでろくな働き口はないし、浮浪児に逆戻りする未来しか見えない。孤児院のために働かせてもらうのが賢明だろうか、と考えた時だった。伯爵領に立ち寄った、遍歴商人の一座に出会った。辺境の方からやってきたらしい彼らは、伯爵領が貧しいのを知らなかったらしい。荒廃した状況を見るや、ここでは商売にならないと悟ったのだろう。早々に引き上げようとしていたのだけれど、これを逃す手はない。頭を下げて頼み込んで末に下働きとして雇ってもらうことになり、生まれ育った伯爵領を後にすることとなった。
遍歴商人の下働きになった数年で、得られたものは多かった。伯爵家、孤児院にいたときでは学ぶことのできなかった王国の歴史や一般常識。商売の仕方、舐められない立ち振る舞い。遍歴商人に家族のような繋がりはない。仕事を一緒にするだけの関係で、年若いカイルにも容赦なかったけれど、理不尽ではない厳しさはカイルを成長させる。忙しければ忙しいほど、余計なことを考えずに済んだけれど、それでもクリスティのことは忘れられなかった。
数年働き、独立を考え始めたころ。立ち寄ったのは、辺境に住むクリスティの叔父、レイモンドの領地だった。義兄の家働いていた庭師の息子、という薄い繋がり。会話したことすらないはずなのだけれど、レイモンドはカイルを、というよりカイルの父親のことをよく覚えていたらしい。「常々、兄の家で働くには勿体無い腕だと思っていたんだ」と笑う彼の笑顔は妙に陰っていて、伯爵家への複雑な感情にシンパシーを感じた。独立を考えていることを伝えると、「うちの領地で定住商人になるかい? 家を借りるお金が貯まるまではうちに住み込んだらいいよ」と有り難すぎる提案。そこまでしてもらうわけにはと固辞しようとしたけれど、「そのうち何かで返してくれたらいい」と言われ、最終的には甘えることになる。お世話になった一座との別れは淡々としたものだった。涙の一つも流れない、あっさりした別れ。けれど、一番お世話になった座長からかけられた「しっかりやれよ」との激励の言葉と、肩に乗せられた手は思いの外暖かくて、うっかり泣いてしまいそうだった。
*
辺境での日々は忙しくも穏やかなものだった。辺境を拠点に各地を回って商品を仕入れ、仕入れた先で縁故を作る。うまくいくときもあったけれど、圧倒的にうまくいかないことの方が多い。歳若く、平民であるカイルは足元を見られがちだからだ。レイモンドが後ろ盾になると申し出てくれたけれど、すでに住むところを保証してもらっている上に騎士爵を持つレイモンドは何かと忙しい。国境沿いの紛争に駆り出される彼の手を煩わせるわけにはいかない。
――お嬢様は、どうだったっけ。
商談がうまくまとまらないとき、無意識にクリスティを思い出す。今のカイルよりも、齢一桁のクリスティの所作の方がよっぽど洗練されていた。恋心をとうの昔に散っていったはずなのに、酷いことを言ってしまった後悔しか残っていないはずなのに。気づけばクリスティを思い出し、拠り所にしていた。
「レイモンド様」
「なんだい?」
「その、お嬢様……クリスティ様は元気にされていますか?」
「……」
途端にレイモンドの顔が曇る。聞けば、社交界デビューを果たしたクリスティは、夜な夜なパーティーに参加させられているらしい。本人の意思とは関係なく、高位貴族と縁続きになるために。社交界中に広まる伯爵夫妻の悪評のせいで、実を結んではいないようだけれどそういう問題ではない。俯いて両親の怒声にも教師の叱責にも耐える幼いクリスティの姿を思い出す。どこかへ消えいってしまいそうなほどに儚い彼女が、今も理不尽に耐えさせられていることが不憫でならなかった。
「……クリスティのことが好きかい?」
「は、えっ!?」
確信めいたレイモンドの言葉に、目を見開く。咳き込む勢いで動揺していると、生暖かい目を向けられてなんだか背中のあたりがむず痒い。
「昔、クリスティとガゼボでたまに話していただろう?」
「見たこと、あったんですか?」
「伯爵家の使用人が話してくれてね。君といるときのクリスティはいつもよりずっと楽しそうだと」
知らなかった。伯爵家の使用人との関わりはほとんどない。虐げられているもの同士で特別な絆が生まれるようなことはなく、お互いに無関心を貫いていた。庭師である父親が業務連絡以外で誰かと話している姿は見たことがないし、カイルのことも小間使いの少年ぐらいにしか思っていないのだろうと思っていたのに。
「君が望むなら、クリスティの婚約者に推薦しようか?」
あの子に必要なのは家柄や財産なんかより、あの子自身を見てくれる存在だ。そう言ったレイモンドの瞳に嘘はない。この人の義兄夫婦は伯爵家に平民の血を混ぜることを、決して許さないだろうに。レイモンドが伯爵家とどういう確執を持っているのか、カイルは詳しくは知らない。知らないけれど、彼が姪を大事にしていることだけわかれば十分だった。
「……有難い申し出ですけど、受けるわけにはいきません」
商人としてのカイルはひよっこもいいところで、伯爵夫妻が高位貴族との婚姻を求めていることを差し引いても、クリスティの隣に相応しくない。クリスティのことが不憫だからと、レイモンドのコネを使ってクリスティと婚約したところで、クリスティを幸せにできる自信はなかった。それならいっそ、どこかの高位貴族に見初められてあの家から連れ出してもらった方がよっぽど彼女の幸せにつながるのではないのだろうか。
「お嬢様には幸せになってもらいたいんです。俺じゃあ、幸せになんてできない」
「……」
レイモンドは何か言いたげにカイルを見つめたけれど、結局何も言わなかった。カイルにとってクリスティは「幸せになってほしい人」だ。彼女を幸せにするのはきっと、王子様のような人。カイルではない。
*
そうしてクリスティの幸せをただ願うしかできないまま、数年が過ぎた頃。転機の訪れは唐突だった。
「伯爵夫妻が亡くなった!? 馬車の事故で!?」
「ああ。今から伯爵領へ行く」
現場に向かい、亡骸を引き取ったレイモンドは伯爵領へ向かうべく、慌ただしく準備を進めている。眉間には深い皺が刻まれていて、その反応を意外に思った。彼が伯爵夫妻と仲の良かった印象はないし、なんなら断絶しても構わないとすら思っていそうな印象すらある。けれど、昔の雇用主という関係でしかないカイルと違い、レイモンドにとってはたった一人の肉親なのだ。思うところはあるのだろう。
「お嬢様は、これからどうなるんですか?」
「私の家で引き取ろうかと思うが……」
そこで言葉を切ると、レイモンドはカイルを見る。状況は全く違うというのに、クリスティへの気持ちを聞かれたいつぞやを思い出した。違うのは、見守るような暖かい目ではなく、託すような目をしているということだ。
「クリスティのことを頼んでもいいかい?」
「はい、もちろんです」
以前に聞かれたときと違い、商人としてそれなりに認められるようになってきた。ようやく貴族らしい所作を身につけて、それらしく振る舞えるようにもなった。騎士爵の屋敷を出て自分だけの家を持てるまでになった。クリスティを幸せにする自信は相変わらずなかったけれど、それでも今の自分なら彼女の力になれるかもしれない。考えるまでもなく即答したカイルに、レイモンドは微笑んだ。
*
クリスティに会ったら、謝らなければならないと思っていたのに。十数年ぶりに会うクリスティを見た瞬間、自分が庭師の息子だと明かせなくなってしまった。再会したクリスティは相変わらず天使のようで、相変わらずちょっとした所作が目を奪われるほどに美しい。カイルが伯爵家を追い出されてからもずっと、朝から晩まで授業漬けの日々だったのだろうか。両親の死を告げられて動揺したのか俯いていたけれど、背筋は上から吊り下げられているかのように伸びている。ずっと思い返していた記憶の中より美しい彼女を前に、昔酷いことを言ってしまっただなんて言えるはずもなかった。彼女がカイルのことを忘れていそうなことも、それに拍車をかける。十数年前に酷いことを言ったきり会っていなかったのだから当然だと思いつつ、それでもどこかで覚えていてくれれば良いのにと期待してしまった。積年の後悔を募らせた男の心中は複雑である。
だというのに、「あなたは両親を亡くしたばかりなんだ。頼れる存在に頼って、任せられることは任せた方がいい」だなんて偉そうにも言ってしまったのはほとんど衝動だった。そんなことを言うつもりはなかったし、そのうちレイモンドが紹介してくれるだろうからその時に挨拶しようと思っていたのに。ぽかんとしてカイルを見上げる彼女は、年齢よりも幼く見える。長いまつ毛に縁取られた瞳に涙は浮かんでいなくて、あんな人たちのためにお嬢様が泣かなくて良かった、と不謹慎なことを思った。
「カイルと婚約するのはどうだい?」
成り行きでの自己紹介を済ませると、レイモンドは唐突に切り出す。出かけるときに言っていた、「クリスティのことを頼む」とは婚約してほしいと言うことだったのか、と今更理解して驚いたけれど顔に出ないよう堪える。商談の場では表情を読み取られることが不利に働く。ここ数年で身につけたのは貴族社会でも通用する所作だけではないのだ。クリスティに対する淡い初恋はどこかへ消えてしまったけれど、クリスティの幸せを願っているのは今も同じ。昔より少しだけ財力も権力もある今、クリスティの力になれるのであれば婚約でもなんでもしようと思った。
戸惑ったようなクリスティに対して、レイモンドはそれ以上何かを告げることはしない。もっと落ち着いた頃に再度話を切り出そうと思ったのだろう。それなら最初から、葬式等が終わってからにしても良かったのにとは思ったけれど、そうなるとレイモンドがカイルを連れてきた理由があまりに不明瞭なままだ。いくら目をかけているとはいえ、親族の喪中に商人を連れて行くような貴族はそういない。クリスティにそこまで伝わっているかはわからないけれど。
そういうわけで、カイルはクリスティの婚約者候補として伯爵家に滞在することになった。十数年ぶりの伯爵家には懐かしさのかけらもない。昔のような狭い使用人部屋ではなく広い客室を借りて寝起きし、カイルがいた頃に雇われていた使用人が一人も残っていないのだ。父親が手塩にかけた庭も、管理している人が違うからか昔とは違って見える。それでも、相変わらず趣味の悪い絵画や壺でゴテゴテと飾りつけられた屋敷の内装よりはいくらかマシだけれど。
――ガゼボは残ってるのか。
幼少期、伯爵夫妻の目を盗んで二人で過ごしたガゼボ。昔と変わらない形で残っているのも、今の季節は昔と変わらず霞荘が咲き誇っているのも、胸を締め付けるほどに懐かしい。喪服に身を包んだクリスティがガゼボで過ごしているところに初めて話しかけたのは、伯爵家に滞在して一ヶ月が経つ頃だった。
この一ヶ月クリスティを間近で見ていて思ったことは、「社交界で放っておかれたことが信じられない」ということだ。抑圧されて育ったせいか自己肯定感の極端に低い彼女は、何をするにも及び腰だけれど所作は美しいし頭の回転だって悪くない。この年まで貰い手がつかなかったのは、亡くなった両親のせいなのだろうとしか思えなかった。そうでないとカイルのような平民が婚約できるはずもないし、とっくの昔にどこぞの王子様が連れ去っている。
カイルは相変わらず謝ることができないままだった。昔遊んだことも、別れ際に酷いことを言ってしまって後悔していることも。一緒に過ごす時間が長くなればなるほど話せなくなる。何か話したいことがあったらいつでも言ってください、だなんてどの口で言っているんだろう。本当に話したいことがあるのは自分の方なのに。
「……昔も、誰かとこうやってカスミソウを見ました」
クリスティがそう切り出したとき、心臓が止まるかと思った。予想はしていたけれど、やっぱりクリスティはカイルのことは覚えていないらしい。ほっとしたような、がっかりしたような。クリスティの幸せを願っておきながら何もできず、謝ることもできない自分が覚えるにはあまりに傲慢な感情。どれだけ辛い環境にあっても背筋を伸ばして生きていたクリスティとは正反対だ。婚約者候補という立場も、自分の力ではなくレイモンドの口添えで手にしている。「自分に酷いことを言ってきたやつを忘れても仕方ありませんよ」と言ったのは自分に向けて言い捨てた言葉だった。それを言ったのは自分だと懺悔する勇気もないカイルは、遠回しな断罪を求めた。
けれど。
「でも、私にとって大切な人だったのは確か、です」
その瞬間、周りの音が一切聞こえなくなったのかと思った。俯くクリスティの声は静かだけれど、カイルの耳に真っ直ぐ届く。商談の場ではポーカーフェイスが基本なのに、真顔を取り繕える気がしない。熱でもあるかのように、ぶわりと顔が熱くなる。俯いた視界にちらつくカスミソウは今を盛りとばかりに咲き誇っていて、全部かき集めた花束を作ってクリスティに捧げたい衝動に駆られた。庭師にとんでもなく怒られるのは目に見えているのでしないけれど。
顔を上げると、クリスティが不思議そうにカイルを見つめている。翡翠色の瞳と視線がかちあったとき、ストンと何かが心臓のあたりに転がり落ちた。形のいい唇がカイルの名前を呼び、「婚約の話、なんですけど」と緊張したように口火を切る。自信なさそうに、申し訳なさそうに言葉を紡ぐクリスティに覚えたのは、どうしようもない愛おしさだった。
――俺は王子様じゃないけれど。
「私と、婚約してもらえませんか?」
それでも、どこぞの王子様に任せるのではなく自分の手で彼女を幸せにしたい。他の誰にも渡したくない。握り返された小さな手の感触に、カイルは初めて明確にそう思った。
伯爵領は領主の経営手腕が酷いのもさることながら、そもそも勢いのある産業も豊かな土地もない。舗装もされていない道路には浮浪児やホームレスが転がっている。孤児院に拾われて面倒を見てもらえた自分は相当運のいい方らしい、と思ったことは一度や二度じゃない。教会が運営する孤児院は数少ない富裕層の市民からの寄付で成り立っていたけれど、それももう厳しい状況らしい。富裕層が富裕層でなくなるぐらい、伯爵領の状況は惨憺たるものだった。
そろそろ面倒を見てもらうには心苦しくなる年齢に差し掛かったとき、カイルは大いに悩んだ。孤児院を出たところでろくな働き口はないし、浮浪児に逆戻りする未来しか見えない。孤児院のために働かせてもらうのが賢明だろうか、と考えた時だった。伯爵領に立ち寄った、遍歴商人の一座に出会った。辺境の方からやってきたらしい彼らは、伯爵領が貧しいのを知らなかったらしい。荒廃した状況を見るや、ここでは商売にならないと悟ったのだろう。早々に引き上げようとしていたのだけれど、これを逃す手はない。頭を下げて頼み込んで末に下働きとして雇ってもらうことになり、生まれ育った伯爵領を後にすることとなった。
遍歴商人の下働きになった数年で、得られたものは多かった。伯爵家、孤児院にいたときでは学ぶことのできなかった王国の歴史や一般常識。商売の仕方、舐められない立ち振る舞い。遍歴商人に家族のような繋がりはない。仕事を一緒にするだけの関係で、年若いカイルにも容赦なかったけれど、理不尽ではない厳しさはカイルを成長させる。忙しければ忙しいほど、余計なことを考えずに済んだけれど、それでもクリスティのことは忘れられなかった。
数年働き、独立を考え始めたころ。立ち寄ったのは、辺境に住むクリスティの叔父、レイモンドの領地だった。義兄の家働いていた庭師の息子、という薄い繋がり。会話したことすらないはずなのだけれど、レイモンドはカイルを、というよりカイルの父親のことをよく覚えていたらしい。「常々、兄の家で働くには勿体無い腕だと思っていたんだ」と笑う彼の笑顔は妙に陰っていて、伯爵家への複雑な感情にシンパシーを感じた。独立を考えていることを伝えると、「うちの領地で定住商人になるかい? 家を借りるお金が貯まるまではうちに住み込んだらいいよ」と有り難すぎる提案。そこまでしてもらうわけにはと固辞しようとしたけれど、「そのうち何かで返してくれたらいい」と言われ、最終的には甘えることになる。お世話になった一座との別れは淡々としたものだった。涙の一つも流れない、あっさりした別れ。けれど、一番お世話になった座長からかけられた「しっかりやれよ」との激励の言葉と、肩に乗せられた手は思いの外暖かくて、うっかり泣いてしまいそうだった。
*
辺境での日々は忙しくも穏やかなものだった。辺境を拠点に各地を回って商品を仕入れ、仕入れた先で縁故を作る。うまくいくときもあったけれど、圧倒的にうまくいかないことの方が多い。歳若く、平民であるカイルは足元を見られがちだからだ。レイモンドが後ろ盾になると申し出てくれたけれど、すでに住むところを保証してもらっている上に騎士爵を持つレイモンドは何かと忙しい。国境沿いの紛争に駆り出される彼の手を煩わせるわけにはいかない。
――お嬢様は、どうだったっけ。
商談がうまくまとまらないとき、無意識にクリスティを思い出す。今のカイルよりも、齢一桁のクリスティの所作の方がよっぽど洗練されていた。恋心をとうの昔に散っていったはずなのに、酷いことを言ってしまった後悔しか残っていないはずなのに。気づけばクリスティを思い出し、拠り所にしていた。
「レイモンド様」
「なんだい?」
「その、お嬢様……クリスティ様は元気にされていますか?」
「……」
途端にレイモンドの顔が曇る。聞けば、社交界デビューを果たしたクリスティは、夜な夜なパーティーに参加させられているらしい。本人の意思とは関係なく、高位貴族と縁続きになるために。社交界中に広まる伯爵夫妻の悪評のせいで、実を結んではいないようだけれどそういう問題ではない。俯いて両親の怒声にも教師の叱責にも耐える幼いクリスティの姿を思い出す。どこかへ消えいってしまいそうなほどに儚い彼女が、今も理不尽に耐えさせられていることが不憫でならなかった。
「……クリスティのことが好きかい?」
「は、えっ!?」
確信めいたレイモンドの言葉に、目を見開く。咳き込む勢いで動揺していると、生暖かい目を向けられてなんだか背中のあたりがむず痒い。
「昔、クリスティとガゼボでたまに話していただろう?」
「見たこと、あったんですか?」
「伯爵家の使用人が話してくれてね。君といるときのクリスティはいつもよりずっと楽しそうだと」
知らなかった。伯爵家の使用人との関わりはほとんどない。虐げられているもの同士で特別な絆が生まれるようなことはなく、お互いに無関心を貫いていた。庭師である父親が業務連絡以外で誰かと話している姿は見たことがないし、カイルのことも小間使いの少年ぐらいにしか思っていないのだろうと思っていたのに。
「君が望むなら、クリスティの婚約者に推薦しようか?」
あの子に必要なのは家柄や財産なんかより、あの子自身を見てくれる存在だ。そう言ったレイモンドの瞳に嘘はない。この人の義兄夫婦は伯爵家に平民の血を混ぜることを、決して許さないだろうに。レイモンドが伯爵家とどういう確執を持っているのか、カイルは詳しくは知らない。知らないけれど、彼が姪を大事にしていることだけわかれば十分だった。
「……有難い申し出ですけど、受けるわけにはいきません」
商人としてのカイルはひよっこもいいところで、伯爵夫妻が高位貴族との婚姻を求めていることを差し引いても、クリスティの隣に相応しくない。クリスティのことが不憫だからと、レイモンドのコネを使ってクリスティと婚約したところで、クリスティを幸せにできる自信はなかった。それならいっそ、どこかの高位貴族に見初められてあの家から連れ出してもらった方がよっぽど彼女の幸せにつながるのではないのだろうか。
「お嬢様には幸せになってもらいたいんです。俺じゃあ、幸せになんてできない」
「……」
レイモンドは何か言いたげにカイルを見つめたけれど、結局何も言わなかった。カイルにとってクリスティは「幸せになってほしい人」だ。彼女を幸せにするのはきっと、王子様のような人。カイルではない。
*
そうしてクリスティの幸せをただ願うしかできないまま、数年が過ぎた頃。転機の訪れは唐突だった。
「伯爵夫妻が亡くなった!? 馬車の事故で!?」
「ああ。今から伯爵領へ行く」
現場に向かい、亡骸を引き取ったレイモンドは伯爵領へ向かうべく、慌ただしく準備を進めている。眉間には深い皺が刻まれていて、その反応を意外に思った。彼が伯爵夫妻と仲の良かった印象はないし、なんなら断絶しても構わないとすら思っていそうな印象すらある。けれど、昔の雇用主という関係でしかないカイルと違い、レイモンドにとってはたった一人の肉親なのだ。思うところはあるのだろう。
「お嬢様は、これからどうなるんですか?」
「私の家で引き取ろうかと思うが……」
そこで言葉を切ると、レイモンドはカイルを見る。状況は全く違うというのに、クリスティへの気持ちを聞かれたいつぞやを思い出した。違うのは、見守るような暖かい目ではなく、託すような目をしているということだ。
「クリスティのことを頼んでもいいかい?」
「はい、もちろんです」
以前に聞かれたときと違い、商人としてそれなりに認められるようになってきた。ようやく貴族らしい所作を身につけて、それらしく振る舞えるようにもなった。騎士爵の屋敷を出て自分だけの家を持てるまでになった。クリスティを幸せにする自信は相変わらずなかったけれど、それでも今の自分なら彼女の力になれるかもしれない。考えるまでもなく即答したカイルに、レイモンドは微笑んだ。
*
クリスティに会ったら、謝らなければならないと思っていたのに。十数年ぶりに会うクリスティを見た瞬間、自分が庭師の息子だと明かせなくなってしまった。再会したクリスティは相変わらず天使のようで、相変わらずちょっとした所作が目を奪われるほどに美しい。カイルが伯爵家を追い出されてからもずっと、朝から晩まで授業漬けの日々だったのだろうか。両親の死を告げられて動揺したのか俯いていたけれど、背筋は上から吊り下げられているかのように伸びている。ずっと思い返していた記憶の中より美しい彼女を前に、昔酷いことを言ってしまっただなんて言えるはずもなかった。彼女がカイルのことを忘れていそうなことも、それに拍車をかける。十数年前に酷いことを言ったきり会っていなかったのだから当然だと思いつつ、それでもどこかで覚えていてくれれば良いのにと期待してしまった。積年の後悔を募らせた男の心中は複雑である。
だというのに、「あなたは両親を亡くしたばかりなんだ。頼れる存在に頼って、任せられることは任せた方がいい」だなんて偉そうにも言ってしまったのはほとんど衝動だった。そんなことを言うつもりはなかったし、そのうちレイモンドが紹介してくれるだろうからその時に挨拶しようと思っていたのに。ぽかんとしてカイルを見上げる彼女は、年齢よりも幼く見える。長いまつ毛に縁取られた瞳に涙は浮かんでいなくて、あんな人たちのためにお嬢様が泣かなくて良かった、と不謹慎なことを思った。
「カイルと婚約するのはどうだい?」
成り行きでの自己紹介を済ませると、レイモンドは唐突に切り出す。出かけるときに言っていた、「クリスティのことを頼む」とは婚約してほしいと言うことだったのか、と今更理解して驚いたけれど顔に出ないよう堪える。商談の場では表情を読み取られることが不利に働く。ここ数年で身につけたのは貴族社会でも通用する所作だけではないのだ。クリスティに対する淡い初恋はどこかへ消えてしまったけれど、クリスティの幸せを願っているのは今も同じ。昔より少しだけ財力も権力もある今、クリスティの力になれるのであれば婚約でもなんでもしようと思った。
戸惑ったようなクリスティに対して、レイモンドはそれ以上何かを告げることはしない。もっと落ち着いた頃に再度話を切り出そうと思ったのだろう。それなら最初から、葬式等が終わってからにしても良かったのにとは思ったけれど、そうなるとレイモンドがカイルを連れてきた理由があまりに不明瞭なままだ。いくら目をかけているとはいえ、親族の喪中に商人を連れて行くような貴族はそういない。クリスティにそこまで伝わっているかはわからないけれど。
そういうわけで、カイルはクリスティの婚約者候補として伯爵家に滞在することになった。十数年ぶりの伯爵家には懐かしさのかけらもない。昔のような狭い使用人部屋ではなく広い客室を借りて寝起きし、カイルがいた頃に雇われていた使用人が一人も残っていないのだ。父親が手塩にかけた庭も、管理している人が違うからか昔とは違って見える。それでも、相変わらず趣味の悪い絵画や壺でゴテゴテと飾りつけられた屋敷の内装よりはいくらかマシだけれど。
――ガゼボは残ってるのか。
幼少期、伯爵夫妻の目を盗んで二人で過ごしたガゼボ。昔と変わらない形で残っているのも、今の季節は昔と変わらず霞荘が咲き誇っているのも、胸を締め付けるほどに懐かしい。喪服に身を包んだクリスティがガゼボで過ごしているところに初めて話しかけたのは、伯爵家に滞在して一ヶ月が経つ頃だった。
この一ヶ月クリスティを間近で見ていて思ったことは、「社交界で放っておかれたことが信じられない」ということだ。抑圧されて育ったせいか自己肯定感の極端に低い彼女は、何をするにも及び腰だけれど所作は美しいし頭の回転だって悪くない。この年まで貰い手がつかなかったのは、亡くなった両親のせいなのだろうとしか思えなかった。そうでないとカイルのような平民が婚約できるはずもないし、とっくの昔にどこぞの王子様が連れ去っている。
カイルは相変わらず謝ることができないままだった。昔遊んだことも、別れ際に酷いことを言ってしまって後悔していることも。一緒に過ごす時間が長くなればなるほど話せなくなる。何か話したいことがあったらいつでも言ってください、だなんてどの口で言っているんだろう。本当に話したいことがあるのは自分の方なのに。
「……昔も、誰かとこうやってカスミソウを見ました」
クリスティがそう切り出したとき、心臓が止まるかと思った。予想はしていたけれど、やっぱりクリスティはカイルのことは覚えていないらしい。ほっとしたような、がっかりしたような。クリスティの幸せを願っておきながら何もできず、謝ることもできない自分が覚えるにはあまりに傲慢な感情。どれだけ辛い環境にあっても背筋を伸ばして生きていたクリスティとは正反対だ。婚約者候補という立場も、自分の力ではなくレイモンドの口添えで手にしている。「自分に酷いことを言ってきたやつを忘れても仕方ありませんよ」と言ったのは自分に向けて言い捨てた言葉だった。それを言ったのは自分だと懺悔する勇気もないカイルは、遠回しな断罪を求めた。
けれど。
「でも、私にとって大切な人だったのは確か、です」
その瞬間、周りの音が一切聞こえなくなったのかと思った。俯くクリスティの声は静かだけれど、カイルの耳に真っ直ぐ届く。商談の場ではポーカーフェイスが基本なのに、真顔を取り繕える気がしない。熱でもあるかのように、ぶわりと顔が熱くなる。俯いた視界にちらつくカスミソウは今を盛りとばかりに咲き誇っていて、全部かき集めた花束を作ってクリスティに捧げたい衝動に駆られた。庭師にとんでもなく怒られるのは目に見えているのでしないけれど。
顔を上げると、クリスティが不思議そうにカイルを見つめている。翡翠色の瞳と視線がかちあったとき、ストンと何かが心臓のあたりに転がり落ちた。形のいい唇がカイルの名前を呼び、「婚約の話、なんですけど」と緊張したように口火を切る。自信なさそうに、申し訳なさそうに言葉を紡ぐクリスティに覚えたのは、どうしようもない愛おしさだった。
――俺は王子様じゃないけれど。
「私と、婚約してもらえませんか?」
それでも、どこぞの王子様に任せるのではなく自分の手で彼女を幸せにしたい。他の誰にも渡したくない。握り返された小さな手の感触に、カイルは初めて明確にそう思った。

