「手痛った…」
放課後、誰もいなくなった教室でシステム英単語を開き、英単語をルーズリーフに写す。一応高校3年生で受験生なので、勉強はしておかないといけない。
シャー芯が折れてしまい、小さくため息をつくと「あれ、井原さん?」と誰かが私を呼んだ。
「まだいたんだ。」
声の主の方に振り向くと、腕を組んだ雪ノ瀬さんが無造作なレイヤーが入った長い髪をどかしながらそう言った。
「勉強してて」
「えら」
同級生たちが使う薄っぺらい『えら』とはちがう『えら』を発した雪ノ瀬さんは、席の主不在の私の前の席に勝手に腰を下ろし、本を読み始めた。
勉強そっちのけで、文庫本を一定のペースでめくる雪ノ瀬さんの指に見とれていると「なに?」と素直な瞳で雪ノ瀬さんがそう問うてきた。
「あーいや。何読んでるの?」
無難なことを質問すると、「汐見夏衛さんの『雨上がり、君が映す空はきっと美しい』ってやつ。超面白い」と不愛想な返事が返ってきた。
過去の経験から、人の反応には過剰に反応してしまう私だったけど、今の雪ノ瀬さんの返事は『彼女のファッション』としてとらえることができた。
「貸そうか?」
「まじ?やった」
素の喜び方で『まじ?』と言ってしまい、耳がわずかに熱くなる。急に授業で指名されて、答えられなくて「えー、あー」とか言ってるときのあの感覚。
けど、雪ノ瀬さんからは何も言われずに「はい」とだけ言って本を手渡された。
シャーペンをペンケースに戻してから本を開く。
普段あまり本を読まない――というか、本に苦手意識がある私だが、この本は特に拒否反応を示すこともなくするすると読める。
常に小雨が降っているけど、でもどこか希望を感じるような、小説の世界に浸っていると、雪ノ瀬さんが「一緒に帰ろ」と小さな声でこそっと囁いた。
耳にわずかにかかった彼女の甘い息で、先ほどの耳の熱が再燃する。
「あ、うん…」
平静を装ってそう言った――つもりだったけど、少し声がかすれてしまった。
「よかったー。絆は最寄りどこ?」
雪ノ瀬さんが、教室で取っている排他的な態度とは違う、柔らかな声にわずかに心拍数が上がる。
彼女が呼んだ『絆』の3文字。それだけで、私の全身が湯上がりのようにぽっと暖かくなる。
ペンケースと教材類を片付けないと、と思っているのに、雪ノ瀬さんに『絆』と呼ばれたという、その小さな喜びで動けなくなってしまう。
「絆?早くしないと最終下校時刻になるよ?」
何も反応できずにいると、紺色のラインが2本入った純白のジャケットの上に、真っ黒なピーコートを羽織った雪ノ瀬さんがきょとんとした表情を浮かべて私を見下ろしていた。
「あ、そうだそうだ。急いで片付ける!」
私は急いでペンケースと教材類をスクールバッグにしまい、「じゃあいこっか」と微笑んだ雪ノ瀬さんを追いかけた。



