ミシンの音だけが、アトリエの空気を縫っていた。

東京・表参道の裏通りにある、小さなビルの三階。

看板も出していないこの場所で、柚希は今日もひとり、布と向き合っていた。


「…袖のライン、もう少し細くした方がいいかな。」

独り言が、静かな部屋にぽつりと落ちる。

机の上には、描きかけのスケッチブックと、ほどいたばかりの布地。

次のコレクションまで、あと一ヶ月。

だけど、まだ一着も完成していない。

有名なブランドでもなければ、チームもいない。 SNSで少しだけ話題になったことはあるけれど、それも一瞬のこと。

それでも、柚希は服を作り続けていた。

誰かの心に、そっと寄り添えるような服を。

そのとき、机の端に置いていたスマートフォンが震えた。

画面に表示された名前に、柚希は思わず眉をひそめる。


「…また、蒼?」

通話ボタンを押すと、すぐに低くて無愛想な声が響いた。


「撮影で使う衣装、探してる。派手じゃなくて、でも、目を引けるやつ。」


「は?こっちは忙しいんだけど。」


「だから頼んでるんだろ。」

いつも通りの、ぶっきらぼうなやりとり。

礼のひとつも言わないし、こっちの都合なんてお構いなし。

本当に、むかつく。

でも——

(今、私の服を見てくれるの、あの人くらいだし…)

蒼は、フリーのカメラマン。 ファッション誌や広告の撮影を請け負っていて、たまに柚希の服を使ってくれる。

最初は、共通の知人の紹介だった。

「ちょっと変わった服を撮りたいって言ってる人がいるよ」

そう言われて、半信半疑で会ったのが始まりだった。

それから、ぽつぽつと連絡が来るようになった。

いつも突然で、いつも無愛想で、でも—— 彼の撮る写真には、どこか温かくて、真っ直ぐな視線があった。

「この服、すごくいい。着てる人が、ちゃんと主役になる。」

その一言が、どれだけ柚希の支えになっているか、彼は知らない。

「…わかった。明日までに一着、仕上げとく。」

「助かる。」

通話が切れる。

相変わらず、ありがとうの一言もない。

「ほんと、感じ悪い。」

そう言いながらも、柚希の手は、もう次の布を選び始めていた。