無気力でもお腹は空く。
 お腹が空いたら、何か食べようと思う。これは多分、生存本能だ。

 ということは、どうやら私はまだ生きていたいと思っているらしい。

***
 コンビニに行く道の途中で白いコスモスが一輪だけ咲いていた。
 というより「生えていてた」。

 ご近所で花いっぱいの庭のある家があったので、多分、種が飛んできたのだろう。
 飛び種とか、こぼれ種とかいわれるやつだ。

 細く弱々しく見えるのに、ぴんっと背筋を伸ばして堂々とした茎から、柔らかい針みたいな葉が出て、優し気な顔をした花がてっぺんにちょこんと乗っかっている。

 花屋さんで売っているゴージャスな花とは違う可憐な美しさで、素顔美人ってふぜいだ。
 なぜだか「彼」の白い顔や細い鼻筋、伏し目がちの目を思い出し、連れて帰りたくなった。
(道端に咲いているんだから、誰のものでもない……よね?)

 根の部分にちょっと土を残したので、コンビニ行きは中止して家に戻った。
 どうせ何か甘いものを買おうとしていただけなので、まあいいや。

 とりあえずコップに挿してみたけれど、さすがに貧相で見ていられない。
 だから自転車で100円ショップに行った。
 そういうコーナーはあまり見たことがなかったけれど、多分花瓶とかも売っているだろうと思ったのだ。
 だって100均って店は、予想外のものを売っていて何ぼの店だもん。

***
 行ってみると、200円以上の商品も含め、花瓶や一輪挿しが何種類もあった。
 そこで手に取ったのがネイビーブルーの一輪挿しだった。
 「彼」がよく着ているシャツみたいな色。
 取っ手と注ぎ口がついている、水差しみたいな形が気に入った。

 ぎりぎりバランスを崩さない程度の長さまで茎を切って、ぽんっと挿してみた。
 猫背みたいにしなった茎と白い顔が愛おしい。

***
 バイトを終えて、8時30分に帰ってきた「彼」にご飯を出すとき、コスモスの一輪挿しも一緒に置いてみた。

「これってコスモス?」
「うん、何だかかわいくて(あなたみたいだなって思って)摘んできちゃった」
「へえ、花がある食卓っていいもんだね」

***
 今思い出すと、「彼」はそう言いながら残り物で作ったカレーうどんをすする姿も、育ちがよさそうっていうか、上品っていうか、若い(ヤロー)特有の勢いや「雑さ」がなかった。

 適当に摘んで、適当に水に挿していただけのコスモスは、3日もすると花びらが全部散った。
 でも喜んでくれたことに気をよくした私は、それ以降もその辺に咲いている花を摘んで、その一輪挿しに挿した。

 マーガレットとカモミール《カミツレ》は、花の感じは似ているけれど、大きさとニオイが違う。

 ヤグルマソウは、団地の近くの道端で咲いているのを摘んだことがある。最初はブルー、次の年はピンクだった。
 花としてはブルーが好きだけど、ピンクのほうが一輪挿しから出た表情が魅力的に見えた。

 子供の頃を思い出して、タンポポ、キュウリグサ、シロツメグサ、アカツメグサをたくさん摘んで帰ったこともあった。

 白いコスモスが映えるように選んだ、「彼」のシャツ色の一輪挿しは、意外とどんな花を挿してもしっくりきた。
 私にフラワーアレンジメントのセンスはないから、全部素材勝負だったけど、どの花も優秀だった。

 やっぱり大地から切り離された花は寿命が短いから、花はしょっちゅう入れ替えたけれど、「彼」は何を飾っても「綺麗だね」って喜んでくれた。

 ただし、「綺麗だね」としか言ってくれなかったな……なんて、やっぱり今になって思い出す。
 そういえばあのとき、花をちゃんと見てそう(・・)言っていたかどうか、今となっては確かめようもない。

***

 私と「彼」は、ケンカらしいケンカもせず4年間、生活をともにして、そして別れた。
 私は「彼」が大好きだったけど、「彼」のほうはどうだったか分からない。
 だって、別れ話の場に、「彼」はいなかったから。

***
 ある日、私の部屋に男女1名ずつのお客様がいらした。

 上等そうな淡い色のシャネルスーツを着た50歳くらいの女性と、ぱりっとしているけどこなれた背広姿の男性がうちに来て、私の前にお金の入った封筒を置いて、「これで息子(・・)と別れてほしい」と女性に言われた。
 スーツ男のほうは、女性よりは若そう。名刺もらったけど、よくよく見ていない。
 何かどっかの社長さんの秘書?みたいな人らしい。

 「彼」は20歳のとき大学を辞めて、それからはバイト生活だった。
 私は「彼」より2歳下で、専門学校に通っていて、「彼」の最初のバイト先で知り合って、恋人になった。
 私の就職後に、タイミングよく?家賃の滞納でアパートを追い出された「彼」に、「うち来る?」とか声かけて、そこから同棲生活が始まった。
 「彼」は自分のことをあまり話してはくれなかったけれど、バイト代からちゃんと生活費を出してくれていたので、私はいろいろ深く追及もしなかった。

 「大分お世話になったと思いますし、これくらいは、ねえ……」という金額らしい。
 よく分かんないけど、こういうのって贈与税とか申告しなくちゃいけないんだっけ?あ、金額的にセーフ……とか?
(後で調べよう)なんて考えていた。
 そんなふうに、まるで他人事(ひとごと)として考えないと、何だかおかしくなりそうだった。

 ちょっと冷静になっても、「こんなのいただけません」と返すのがやっとだったけれど、「お金は邪魔にはならないから、受け取ったほうがいいですよ」と男性に言われた。

 ざっと言うと、「彼」はある企業の社長の息子で、子供の頃から結婚の約束をした女性がいたらしい。
 その人と結婚してお父さんの後継者になる前に、「気が済むまで自由にやらせてほしい」と言って学校を辞め、一人暮らしを始めた。
 「彼」と、彼のご両親の思惑にずれがあったのかどうか、「自由に」の中に、恋愛も含まれていたのかどうかは分からない。

 両親は「彼」の「いずれはきちんとけじめをつけるから」という言葉を信じて、私たちの(こと)をいちおう静観したけれど、「さすがにそろそろ……」と、「彼」が留守のところをねらって、私に直談判に来たのだろう。

 そうか、「彼」ってもう26歳になっていたんだ。

「あなたは息子よりお若いのよね?おいくつ?」
「あ、はい、24歳です」
「そう。まだまだ十分やり直せるわ。何事も経験だったと思って、ね」

 上品で優しそうな話し方で、手前勝手な都合を押し付けるだけのこの人に、私はもっと腹を立てるべきなんだと思う。
 でもね、怒りって結構エネルギーを使うものなのよね。
 腹の底に力が入っていない状態では湧いてもこないというか、ふわふわと、「何言ってんの?」といぶかしがったり、「それはもっともだなあ」と説き伏せられたりがやっと。

「あの、あの人はこのことを……」
「え?ああ……実は息子から頼まれたのよ。あなたを傷つけたくないから、顔を合わせるのが辛いって」
「……そうですか」

 花をろくに見ずに「綺麗だね」と言い、カレーうどんを上品にすする横顔を思い出した。
 これが、そんな「彼」の思いやりで、誠実さなのだろう。
「うそです!「彼」ならはっきり目を見て話してくれるわ!」なんて言葉は、全く頭に浮かばなかった。
 私の「彼」への思いも、その程度だったということかもしれない。

***

 
「彼」はあの日からうちに帰ってこなくなり、特に連絡もなかった。
 その代わり3日後に例の秘書の男性から電話があり、「〇〇日に荷物を撤去するために行きたいが、在宅かどうか」を確認された。
 勝手に入って持ってきゃいいのに、律儀だなあ。

 私は「多分いますけど、時間を教えてもらえれば外しますから、その間に済ませてください」と答えた。
 この状況でも一目「彼」位に会いたい――なんて思われるのはしゃくだ。
 もっとも、在宅確認するくらいだから、「彼」も私には会いたくないのだろう。

***
 「彼」が部屋から荷物を撤去する間、私は近くのカフェで本を読んでいた。
 ここは時間制なので、90分経ったらもう一品何か注文しなくちゃ……と考えていたら、入店から1時間弱で、例の秘書の人が私の向かいの席に「失礼します」と言いながら腰を下ろした。

「荷物の運び出しが終わりましたので……こちらを」
「あ、はい」

 私は努めて興味がなさそうな声を出した。
 目の前には白い封筒が置かれ、うっすらと盛り上がっているのが分かる。合いカギが入っているらしい。

「では、私はこれで……」
「はい、どーもです」

 社長秘書がこんなパシリをいちいちさせられるというのは、実は大した会社でもないのかな?
 それとも、家族ぐるみのオツキアイ的なのがあるのかな。
 ま、どうでもいいや。

 男性が立ち去った後、封印を破ると、中に入っていたのは鍵だけではなかった。
 1万円札と、何か細長い紙――どうやら一筆箋らしい。

 1万円は、多分「お茶代」だろう。金持ちの感覚はヒトケタ違うらしい。

 一筆箋には「彼」の文字で、こう書かれていた。
「生涯で一番愛したのは君です。今までありがとう」

 少し前にお母様がご挨拶にみえたとき、「息子たち(・・・・)」は昔から仲良しで」的な要らん話も、私はちょっとだけ聞いていた。
 私は「はあ、そうですか」しか反応しなかったので、お母様のお顔には、「愚鈍そうだし、大したきれいでもないし、こんな子のどこがよかったんだろう」としっかり書いてあるのが分かった。

(こらこら、婚約者ちゃんに悪いでしょ)なんて少し思ったけど、こんなの誰の目から見ても、リップサービスであることが丸わかり。

 主語もないし、これからも人生が続く26歳が言う「生涯で一番」なんて――一瞬で更新されるに決まっている。

「はっ……ざけんなよ」

 そう大きな声ではなかったが、つい声に出てしまったので、たまたまテーブルの近くにいた女性の従業員さんがぎょっとして、「あの、何かありましたか?」と声をかけてきた。

「あ、あ、あのっ、えーと……追加注文いいですか?」

 まだ6時前だけど、冬のこの時間はどっぷり暗い。
 せっかくお金もあることだし、ちょっと早目のディナーを食べて帰ることにした。
 
 もちろん(・・・・)この店で一番高いビーフシチューににした。

***
 私は「彼」と別れた実感がまるで湧かないまま、無気力に、だけど粛々と日々を過ごしていた。
 ちゃんと仕事にも行っているし、そのためには身ぎれいにしなきゃいけないし、ごはんも食べなきゃ力が入らないから、いつものように炊事もする。

 合いカギを返されたあの日から1週間目、お腹が空いて目が覚めた。
 朝ごはんになりそうなものの用意が何もない。
 もそもそ起きて、洗顔と着替えだけして、コンビニに買いにいくことにした。

***
 少し暑さが残っていた9月のあの日、白いコスモスが咲いていたあの場所――からは少しずれていたけれど、薄紅色(ピンク)のコスモスが、ひとりで咲いていた。
 放射冷却のせいで寒々とした朝、少し震えているように見える。
 一輪挿しの周りに落ちた花びらたちを思い出し、今度はやり過ごした。

 食パンとゆで卵を買って折り返したとき、気になってもう一度コスモスの前に立ち、上からじっくり見た。

 「かわいくて、きれいで、けなげな姿に感動する自分」に、少しだけ安心した。
 ああ、私にはまだ、人の心的なものが残っていたらしい。
 「彼」とお別れしてから初めての涙がこみ上げてきた。

 小学生の集団登校が通りかかったとき、心なしかじろじろ見られた気がして、ちょっと恥ずかしい。

 でも、ぴんと背筋を伸ばして立っているためには、そんな自意識も大事だったりするのだ。


【了】