海を一望できる丘の上の斜面に座りスケッチブックに筆を走らせる。
斜面を覆う水色の花畑の中で、かつて無邪気に駆け回っていたであろうあの二人に想いを馳せながら。
◇◇◇
僕たちの母上である側妃のシェリルはバーバラ王太子妃殿下の乳姉妹であり親友でもあり、そして最も忠実な家臣でもある。
その為、側妃となった母上の子である僕と弟のチャールズはバーバラ王太子妃殿下のお子であるジョージ兄上とビアンカ姉上とは幼い頃から兄姉弟の間では蟠りなく過ごしていた。
母上は病によってお耳がほとんど聞こえず、言葉も囁くようにしか話せない。
しかし、人の話す言葉はその唇を読んで驚くほど正確に理解する。
僕が第二王子ルイスとして誕生したのは、第一王女ビアンカ姉上が生まれて半年程経った頃だった。
父上は生まれた僕と母上を片時も離さず、大切に慈しんでくれたそうだ。
それは年子として生まれたチャールズも同じで、僕たち二人は静かな離宮で両親の愛を一身に受けて育っていった。
父上はご自身に生き写しの兄上を早くから次期王太子と公言していた。
幼少のころから打てば響くという表現は兄上のためにあるのではと思うほどの優秀さに父上は大変満足している様子で、母上と僕たち兄弟の住む離宮に留め置いて手ずから選んだ教師たちと共に王太子教育を施していた。
愛する妃とその子供たちに自身の分身のような優秀な後継者を加え、父上にとっても僕たちにとっても離宮での生活は幸せに満ち溢れた幸福な場所だった。
あれは父上の誕生祭での出来事だった。
父上が一生懸命に話しかけるビアンカ姉上に背を向け続けていた。
お優しい父上が姉上を故意に無視しているなど微塵も疑っていなかった僕と兄上が父上に声を掛けると、振り向いた父上は兄上と僕だけに優しい笑顔を向けて両手に僕たち二人を抱き上げ、姉上を残して立ち去ったのだった。その時の悲し気に揺れる姉上の宝石のような瑠璃色の瞳が今でも目に焼き付いている。
『王家の色を持たない王女』
家族の中で唯一姉上を冷遇する父上と、父上の周辺に侍るカッセル侯爵とその一門の貴族たちからそんな心ない言葉が漏れる度、母上はビアンカ姉上にそっと寄り添いその耳を両手で柔らかく塞ぎ、たまたま今代に多いだけの事、王家の色など存在しないのですよと囁いて姉上の指飾りの輝く左手の小指にキスを落とし、それは愛し気に抱きしめていた。
その光景がいつの頃からか弟チャールズの嫉妬の対象となっている事に気づいた母上は、チャールズに特に心を砕いていたが、チャールズの姉上への嫉妬心は和らぐ事がなかった。家族の茶会ではチャールズが母上から離れず、母上に見えないように姉上を睨んでいる様子を見る度、父上はチャールズを窘める事すらせずに、僕と母上とチャールズと兄上を一緒にその腕に囲う様に抱きしめ、姉上に背を向けてその存在を無視し続けていたのだった。
そんな中にあってもビアンカ姉上の明るさは失われることなく、父上をも含めて家族皆に朗らかに接していたため、表向きは仲の良い兄姉弟として交流は続いて行った。
しかし、姉上の朗らかな表情はそのままに、瑠璃色の瞳から父上に向ける親愛の光が消えたことに気付いたのはいつ頃のことだっただろうか。
その頃の僕たちは優雅な時間の流れる離宮の家族団欒で増長した井の中のちっぽけな蛙でしかなかった。
国政を担い分刻みのスケジュールで執務と外交をこなし一筋縄ではいかぬ貴族たちを統べる王太子妃バーバラ様率いる大海たる本宮を知らぬ事が国を担うものとしていかに致命的であるか、その頃の僕は知る由もなかった。
◇◇◇
母様に頬を打たれたと理解するまでにずいぶん時間が掛かったように思う。
優しく優雅で常に微笑みを絶やさない穏やかな母様が、蒼白な顔で翡翠色の瞳に燃えるような怒りを宿して僕を見据えていた。
「バーバラ妃殿下とビアンカ殿下を侮辱する事は王家と父上を侮辱する事と同等です。
そのような不敬はこの母が許しません」
僕の前に立ち上がった母様の声が静まり返った部屋に響き渡り、その場にいた父様とカッセル侯爵と兄上、僕と一緒にビアンカ姉様とバーバラ王太子妃殿下を揶揄した侍女二人が驚きと共に一斉に母様を見上げた。
「このような不心得者に育ててしまった責任を取り、私は領地に下がります。
ルイス、チャールズ、すぐに発つので準備なさい。ガレリア侯爵家からの支援で成り立っているこの離宮の物は一切持ち出す事を許しません。あなたたちはフォルン領にて分を弁えるよう教育しなおします」
そして侍女二人を見下ろして告げた。
「追って解雇と処罰について記した文書をあなた方の御父上宛てに送ります。すぐにこの場から立ち去り直ちに王宮を去るように」
そう言い終わると、むせるような咳に口を覆った母様の白く細い指の間から血が滴り落ちた。
弾かれたように駆け寄った父様を目線だけで制して深く礼を執ると、足早に隣室に下がってしまった。扉の前で父様がどんなに呼びかけようと返事はなく、残されたルイス兄様と僕は呆然と座り込んだまま、蒼白になった侍女たちはカッセル侯爵に連れられて退出して行った。
そうこうしているうちにどこから知らされたのか、お祖父様のフォルン伯爵と伯父様のフォルン小伯爵クロード卿が侍女を引き連れて離宮に到着し、あっという間に母様と僕たちの出立の準備を整えてしまった。
治療と療養のための宿下りと説明するフォルン伯爵を制し、王宮での治療を押し通そうとする父様は、シェリルを逝かせるつもりなのかと詰め寄ったクロード伯父様の言葉で動きを止めた。
その日のうちに兄様と僕はフォルン伯爵家の用意した質素な衣装に着替えさせられ、身一つで馬車に乗せられてフォルン領へ向かった。
道中の母様とは別の馬車の中でフォルン領はガレリア侯爵家から拝領した土地であり、フォルン伯爵家はガレリア侯爵家の寄り子である事を改めて説明され、フォルン領へ入るには一度ガレリア侯爵領を通らなければならないため、必ずガレリア侯爵家へ立ち寄り通行のための挨拶を行うと聞かされた。ガレリア侯爵は隣国の商談相手の出迎えで留守のため、小侯爵のアラン卿が僕たちの饗応に当たるとの事だった。
目の前に広がるガレリア侯爵家のカントリーハウスは、僕たちの住まう離宮よりもはるかに広大で、馬車寄せからエントランスまでの両サイドにずらりと控えた使用人一同の一糸乱れぬ礼を受けてホールに足を踏み入れた僕たちはその壮麗さに息を呑み、そこで領主代理として出迎えたガレリア小侯爵アラン卿の次期侯爵としての威厳に満ちた姿に圧倒された。
母様の容態を心配したアラン卿からは侯爵邸での療養を勧められたが、クロード伯父様は丁寧に辞退し、到着したフォルン伯爵邸はガレリア侯爵邸からはずいぶんと見劣りして見えた。
ガレリア小侯爵のアラン卿と対面してからずっと押し黙ったままの兄様を尻目に、僕は傲慢にもお祖父様とクロード伯父様を前に王子をもてなすには質素に過ぎる屋敷だと不満を口にし、誰も咎めないのを良いことに伯爵邸の皆に酷く不遜な態度を取った。
しかし、その態度を後悔するまでにそう時間はかからなかった。
数日後には自分の立場と現実を突きつけられることになったからだ。
興奮が回復を遅らせるとの事で、僕たちは母様の容態が安定するまで面会は禁じられてしまった。ただでさえ母様が心配で塞いでいるというのに、地味な屋敷の質素な部屋での滞在が不満で仕方なく、ガレリア侯爵邸での滞在を断ったクロード伯父様に腹を立てていた。
しかも朝からそのクロード伯父様のお説教が始まってうんざりだった。
曰く、王家から支給される側妃の予算では離宮の維持は難しく、本来なら側妃の実家、つまりフォルン伯爵家が支えるべきところを、寄親であるガレリア侯爵家が肩代わりしてくれているとの事。体が弱く姉妹同然の乳姉妹を支えたいというバーバラ王太子妃殿下の強い意向だそうだ。
そして、僕たちには王家の用意できる爵位がない事も告げられた。王家が唯一準備できるのは一代限りと宣言しているホーエン公爵位だけだったが、長男のドミニク卿が隣国公爵家へ婿入りの際に領地の大半が持参金として割譲されている事、残りの資産はトビアス閣下が相続する事になっていて、収入源となる領地も資産もない名のみの公爵位だという。
その他に残されるホーエン公爵家の資産としては隣国から嫁いだフリーデリケ公爵夫人の持参金としての隣国の領地と個人資産だが、それらは事業の後継ぎとして指名され既にいくつかの関連事業所を任されて運営しているビアンカ姉上が相続する事が決まっているとの事。
僕たちに残された道は、どこかの貴族家へ婿養子に入るか、フォルン伯爵家の所有する男爵位を相続するかどちらかだと聞かされた。
婿養子に入るには相手側の爵位に合わせた相応の持参金が必要になるが、側妃である母様の資産とフォルン伯爵家の用意できる金額には限りがあり、高位貴族家への婿入りを望むなら、よほど勉強をして周囲の目に留まるほどの実績を積んだうえで先様の当主に望まれなければ難しいだろう事。
もう一つの道としてはフォルン伯爵家の持つ男爵位を継ぐ事だが、男爵領は土地が少なくそれだけでは男爵としての体面を維持する収入が見込めないため、ホーエン公爵家とガレリア侯爵家の展開する出版事業の一部を請け負う事で報酬を得、今はそれが主な収入源になっている。
男爵位を継ぐつもりがあるならば、今から経営に携わりしっかり勉強する必要があると告げられた。ビアンカ姉上はずいぶん幼い頃から伯母上のグレイ公爵夫人から淑女教育を叩きこまれる傍ら、バーバラ王太子妃殿下とトビアス閣下監修の厳しい王族教育受けながらホーエン公爵夫人からは経営学と語学を学んでおり、ホーエン公爵夫人の持つ事業の一部を既に任されているという。
お説教にうんざりしていたところに、ビアンカ姉様と比べてまるでルイス兄様と僕が劣っているような言い草にもう我慢ならなかった。
「父様だっていつも言っているんだ!王家の色も持たない姉様にそんなことが出来る能力があるわけがないじゃないか。ホーエン公爵夫人の資産や事業を引き継ぐのは能力のある者が選ばれるべきだ。ルイス兄様と僕の方が絶対能力が上のはずだし相応しいはずだ。ホーエン公爵夫人が間違っているんだ!」
興奮が抑えられず叫ぶように詰め寄る僕を、クロード伯父様はゆったりと足を組んでじっと見つめていた。そして一呼吸おいて僕の目を見据えながら告げた。
「二日後にビアンカ殿下とホーエン公爵夫妻が出版事業の視察と新規事業の打合せのためにガレリア領に入られる予定だ。その目でビアンカ殿下の能力を確かめると良い」
そして、僕が不遜な態度を取っているフォルン伯爵家の使用人たちは、ガレリア侯爵家一門の人間であり、次子以下であっても子爵家以上の人々だと聞かされた。
だから何だよ、たかが使用人じゃないかと憤然と吐き捨てた僕は、それまで黙っていたルイス兄様の言葉に頭を殴られたような衝撃を受けた。
「つまり、もしも将来男爵位を継いだ場合、彼らは自分よりも上の立場になる人々という事だよ」
◇◇◇
壮麗なガレリア侯爵家本邸と威風堂々たるアラン卿を目の前にし、普段臣下として何気なく接していた上位貴族たちの本拠地での姿を垣間見、彼らを従え統べる事がどういう事かを思い知らされた。
ビアンカ姉上と呼んではいるが、僕とは半年しか生まれが変わらない事もあり王族教育のスタートは同じだった。
教師陣から優秀と太鼓判を押される兄上に憧れ、僕も兄上を目指して教えを請いながら一生懸命努力を重ねていた。
その日は教師たちから報告を受けた父上に褒められ、有頂天で母上に知らせに行こうとしていた廊下で、聞き覚えのある教師たちの話し声に足を止めた。
「ビアンカ殿下は姿形だけでなく能力も御母堂の王太子妃殿下に生き写しのようですな」
「初めに王太子妃殿下から学園に入学までの二年以内に王族教育を終わらせるようにと渡された過酷なカリキュラムには驚愕しましたが、涼しいお顔で熟すばかりか、不意にこちらが舌を巻くほどの質問をなさる。初めての議論ではお答えするのに精いっぱいで冷や汗をかきましたよ」
「私はこちらが緊張する生徒に初めて出会いましたが、なんと遣り甲斐のある事か!」
「あれこそまさに天才の器でしょう。どこまで成長されるか将来が楽しみで仕方がありませんよ」
「そうそう、語学の教師が居ないと聞いて不思議に思っていましたが、ホーエン公爵夫人の手ほどきで既に3ヶ国語は商談や議会に同席できる程に堪能だそうですよ」
「近々ホーエン公爵夫人の事業と領地経営の一部を任されて実践に移ると聞きました。軽々しく言える事ではありませんが、ホーエン公爵位はビアンカ殿下が引き継ぐ事になるのでしょうか」
「ビアンカ殿下が女公爵となって御父上や御兄上を支えて下さるのならば国は安泰でしょう。いやしかし、婿選びは熾烈な争いになりそうですな」
和やかに談笑する声と内容に衝撃のあまりしばらく動く事が出来なかった。
兄上も僕も王族教育は五年かけて行うと聞いていた。学園に入る前に二年、在学中三年をかけて完成するそのカリキュラムは学園の授業やマナーその他の教育を合わせると余裕のあるものではなかったと記憶している。
語学を除いたとしてもそれをたった二年で終わらせるなど。
それ以前に既に3ヶ国語を習得済という事にも衝撃を受けた。
それに、よく思い出してみれば普段のマナーや所作、大人たちに交じっての会話術やダンスなども王太子妃殿下や母上と比べて見劣りすると感じたことはなかった。
とすれば、マナーや教養などの淑女教育もほぼ終わっているという事だ。
それまで有頂天だった僕は一気に冷や水を浴びせられたような気がして、その日の事は誰にも話していない。
明後日、ビアンカ姉上とホーエン公爵夫妻は、隣国の商談相手を迎えに行ったガレリア侯爵と合流し共にガレリア領入りするそうだ。
あの日以来、記憶の奥深くしまい込んでいた感情を激しく揺らす思い出。
言葉だけで理解していた格の違いを、今度は事実として目の前に突き付けられる。
その時、僕はビアンカ姉上に冷静に相対する事が出来るだろうか。
クロード伯父上の話の後は何も考えられず、誰にも会いたくなくて、その日は眠ったふりを通して夕飯も取らずに部屋に引きこもった。
斜面を覆う水色の花畑の中で、かつて無邪気に駆け回っていたであろうあの二人に想いを馳せながら。
◇◇◇
僕たちの母上である側妃のシェリルはバーバラ王太子妃殿下の乳姉妹であり親友でもあり、そして最も忠実な家臣でもある。
その為、側妃となった母上の子である僕と弟のチャールズはバーバラ王太子妃殿下のお子であるジョージ兄上とビアンカ姉上とは幼い頃から兄姉弟の間では蟠りなく過ごしていた。
母上は病によってお耳がほとんど聞こえず、言葉も囁くようにしか話せない。
しかし、人の話す言葉はその唇を読んで驚くほど正確に理解する。
僕が第二王子ルイスとして誕生したのは、第一王女ビアンカ姉上が生まれて半年程経った頃だった。
父上は生まれた僕と母上を片時も離さず、大切に慈しんでくれたそうだ。
それは年子として生まれたチャールズも同じで、僕たち二人は静かな離宮で両親の愛を一身に受けて育っていった。
父上はご自身に生き写しの兄上を早くから次期王太子と公言していた。
幼少のころから打てば響くという表現は兄上のためにあるのではと思うほどの優秀さに父上は大変満足している様子で、母上と僕たち兄弟の住む離宮に留め置いて手ずから選んだ教師たちと共に王太子教育を施していた。
愛する妃とその子供たちに自身の分身のような優秀な後継者を加え、父上にとっても僕たちにとっても離宮での生活は幸せに満ち溢れた幸福な場所だった。
あれは父上の誕生祭での出来事だった。
父上が一生懸命に話しかけるビアンカ姉上に背を向け続けていた。
お優しい父上が姉上を故意に無視しているなど微塵も疑っていなかった僕と兄上が父上に声を掛けると、振り向いた父上は兄上と僕だけに優しい笑顔を向けて両手に僕たち二人を抱き上げ、姉上を残して立ち去ったのだった。その時の悲し気に揺れる姉上の宝石のような瑠璃色の瞳が今でも目に焼き付いている。
『王家の色を持たない王女』
家族の中で唯一姉上を冷遇する父上と、父上の周辺に侍るカッセル侯爵とその一門の貴族たちからそんな心ない言葉が漏れる度、母上はビアンカ姉上にそっと寄り添いその耳を両手で柔らかく塞ぎ、たまたま今代に多いだけの事、王家の色など存在しないのですよと囁いて姉上の指飾りの輝く左手の小指にキスを落とし、それは愛し気に抱きしめていた。
その光景がいつの頃からか弟チャールズの嫉妬の対象となっている事に気づいた母上は、チャールズに特に心を砕いていたが、チャールズの姉上への嫉妬心は和らぐ事がなかった。家族の茶会ではチャールズが母上から離れず、母上に見えないように姉上を睨んでいる様子を見る度、父上はチャールズを窘める事すらせずに、僕と母上とチャールズと兄上を一緒にその腕に囲う様に抱きしめ、姉上に背を向けてその存在を無視し続けていたのだった。
そんな中にあってもビアンカ姉上の明るさは失われることなく、父上をも含めて家族皆に朗らかに接していたため、表向きは仲の良い兄姉弟として交流は続いて行った。
しかし、姉上の朗らかな表情はそのままに、瑠璃色の瞳から父上に向ける親愛の光が消えたことに気付いたのはいつ頃のことだっただろうか。
その頃の僕たちは優雅な時間の流れる離宮の家族団欒で増長した井の中のちっぽけな蛙でしかなかった。
国政を担い分刻みのスケジュールで執務と外交をこなし一筋縄ではいかぬ貴族たちを統べる王太子妃バーバラ様率いる大海たる本宮を知らぬ事が国を担うものとしていかに致命的であるか、その頃の僕は知る由もなかった。
◇◇◇
母様に頬を打たれたと理解するまでにずいぶん時間が掛かったように思う。
優しく優雅で常に微笑みを絶やさない穏やかな母様が、蒼白な顔で翡翠色の瞳に燃えるような怒りを宿して僕を見据えていた。
「バーバラ妃殿下とビアンカ殿下を侮辱する事は王家と父上を侮辱する事と同等です。
そのような不敬はこの母が許しません」
僕の前に立ち上がった母様の声が静まり返った部屋に響き渡り、その場にいた父様とカッセル侯爵と兄上、僕と一緒にビアンカ姉様とバーバラ王太子妃殿下を揶揄した侍女二人が驚きと共に一斉に母様を見上げた。
「このような不心得者に育ててしまった責任を取り、私は領地に下がります。
ルイス、チャールズ、すぐに発つので準備なさい。ガレリア侯爵家からの支援で成り立っているこの離宮の物は一切持ち出す事を許しません。あなたたちはフォルン領にて分を弁えるよう教育しなおします」
そして侍女二人を見下ろして告げた。
「追って解雇と処罰について記した文書をあなた方の御父上宛てに送ります。すぐにこの場から立ち去り直ちに王宮を去るように」
そう言い終わると、むせるような咳に口を覆った母様の白く細い指の間から血が滴り落ちた。
弾かれたように駆け寄った父様を目線だけで制して深く礼を執ると、足早に隣室に下がってしまった。扉の前で父様がどんなに呼びかけようと返事はなく、残されたルイス兄様と僕は呆然と座り込んだまま、蒼白になった侍女たちはカッセル侯爵に連れられて退出して行った。
そうこうしているうちにどこから知らされたのか、お祖父様のフォルン伯爵と伯父様のフォルン小伯爵クロード卿が侍女を引き連れて離宮に到着し、あっという間に母様と僕たちの出立の準備を整えてしまった。
治療と療養のための宿下りと説明するフォルン伯爵を制し、王宮での治療を押し通そうとする父様は、シェリルを逝かせるつもりなのかと詰め寄ったクロード伯父様の言葉で動きを止めた。
その日のうちに兄様と僕はフォルン伯爵家の用意した質素な衣装に着替えさせられ、身一つで馬車に乗せられてフォルン領へ向かった。
道中の母様とは別の馬車の中でフォルン領はガレリア侯爵家から拝領した土地であり、フォルン伯爵家はガレリア侯爵家の寄り子である事を改めて説明され、フォルン領へ入るには一度ガレリア侯爵領を通らなければならないため、必ずガレリア侯爵家へ立ち寄り通行のための挨拶を行うと聞かされた。ガレリア侯爵は隣国の商談相手の出迎えで留守のため、小侯爵のアラン卿が僕たちの饗応に当たるとの事だった。
目の前に広がるガレリア侯爵家のカントリーハウスは、僕たちの住まう離宮よりもはるかに広大で、馬車寄せからエントランスまでの両サイドにずらりと控えた使用人一同の一糸乱れぬ礼を受けてホールに足を踏み入れた僕たちはその壮麗さに息を呑み、そこで領主代理として出迎えたガレリア小侯爵アラン卿の次期侯爵としての威厳に満ちた姿に圧倒された。
母様の容態を心配したアラン卿からは侯爵邸での療養を勧められたが、クロード伯父様は丁寧に辞退し、到着したフォルン伯爵邸はガレリア侯爵邸からはずいぶんと見劣りして見えた。
ガレリア小侯爵のアラン卿と対面してからずっと押し黙ったままの兄様を尻目に、僕は傲慢にもお祖父様とクロード伯父様を前に王子をもてなすには質素に過ぎる屋敷だと不満を口にし、誰も咎めないのを良いことに伯爵邸の皆に酷く不遜な態度を取った。
しかし、その態度を後悔するまでにそう時間はかからなかった。
数日後には自分の立場と現実を突きつけられることになったからだ。
興奮が回復を遅らせるとの事で、僕たちは母様の容態が安定するまで面会は禁じられてしまった。ただでさえ母様が心配で塞いでいるというのに、地味な屋敷の質素な部屋での滞在が不満で仕方なく、ガレリア侯爵邸での滞在を断ったクロード伯父様に腹を立てていた。
しかも朝からそのクロード伯父様のお説教が始まってうんざりだった。
曰く、王家から支給される側妃の予算では離宮の維持は難しく、本来なら側妃の実家、つまりフォルン伯爵家が支えるべきところを、寄親であるガレリア侯爵家が肩代わりしてくれているとの事。体が弱く姉妹同然の乳姉妹を支えたいというバーバラ王太子妃殿下の強い意向だそうだ。
そして、僕たちには王家の用意できる爵位がない事も告げられた。王家が唯一準備できるのは一代限りと宣言しているホーエン公爵位だけだったが、長男のドミニク卿が隣国公爵家へ婿入りの際に領地の大半が持参金として割譲されている事、残りの資産はトビアス閣下が相続する事になっていて、収入源となる領地も資産もない名のみの公爵位だという。
その他に残されるホーエン公爵家の資産としては隣国から嫁いだフリーデリケ公爵夫人の持参金としての隣国の領地と個人資産だが、それらは事業の後継ぎとして指名され既にいくつかの関連事業所を任されて運営しているビアンカ姉上が相続する事が決まっているとの事。
僕たちに残された道は、どこかの貴族家へ婿養子に入るか、フォルン伯爵家の所有する男爵位を相続するかどちらかだと聞かされた。
婿養子に入るには相手側の爵位に合わせた相応の持参金が必要になるが、側妃である母様の資産とフォルン伯爵家の用意できる金額には限りがあり、高位貴族家への婿入りを望むなら、よほど勉強をして周囲の目に留まるほどの実績を積んだうえで先様の当主に望まれなければ難しいだろう事。
もう一つの道としてはフォルン伯爵家の持つ男爵位を継ぐ事だが、男爵領は土地が少なくそれだけでは男爵としての体面を維持する収入が見込めないため、ホーエン公爵家とガレリア侯爵家の展開する出版事業の一部を請け負う事で報酬を得、今はそれが主な収入源になっている。
男爵位を継ぐつもりがあるならば、今から経営に携わりしっかり勉強する必要があると告げられた。ビアンカ姉上はずいぶん幼い頃から伯母上のグレイ公爵夫人から淑女教育を叩きこまれる傍ら、バーバラ王太子妃殿下とトビアス閣下監修の厳しい王族教育受けながらホーエン公爵夫人からは経営学と語学を学んでおり、ホーエン公爵夫人の持つ事業の一部を既に任されているという。
お説教にうんざりしていたところに、ビアンカ姉様と比べてまるでルイス兄様と僕が劣っているような言い草にもう我慢ならなかった。
「父様だっていつも言っているんだ!王家の色も持たない姉様にそんなことが出来る能力があるわけがないじゃないか。ホーエン公爵夫人の資産や事業を引き継ぐのは能力のある者が選ばれるべきだ。ルイス兄様と僕の方が絶対能力が上のはずだし相応しいはずだ。ホーエン公爵夫人が間違っているんだ!」
興奮が抑えられず叫ぶように詰め寄る僕を、クロード伯父様はゆったりと足を組んでじっと見つめていた。そして一呼吸おいて僕の目を見据えながら告げた。
「二日後にビアンカ殿下とホーエン公爵夫妻が出版事業の視察と新規事業の打合せのためにガレリア領に入られる予定だ。その目でビアンカ殿下の能力を確かめると良い」
そして、僕が不遜な態度を取っているフォルン伯爵家の使用人たちは、ガレリア侯爵家一門の人間であり、次子以下であっても子爵家以上の人々だと聞かされた。
だから何だよ、たかが使用人じゃないかと憤然と吐き捨てた僕は、それまで黙っていたルイス兄様の言葉に頭を殴られたような衝撃を受けた。
「つまり、もしも将来男爵位を継いだ場合、彼らは自分よりも上の立場になる人々という事だよ」
◇◇◇
壮麗なガレリア侯爵家本邸と威風堂々たるアラン卿を目の前にし、普段臣下として何気なく接していた上位貴族たちの本拠地での姿を垣間見、彼らを従え統べる事がどういう事かを思い知らされた。
ビアンカ姉上と呼んではいるが、僕とは半年しか生まれが変わらない事もあり王族教育のスタートは同じだった。
教師陣から優秀と太鼓判を押される兄上に憧れ、僕も兄上を目指して教えを請いながら一生懸命努力を重ねていた。
その日は教師たちから報告を受けた父上に褒められ、有頂天で母上に知らせに行こうとしていた廊下で、聞き覚えのある教師たちの話し声に足を止めた。
「ビアンカ殿下は姿形だけでなく能力も御母堂の王太子妃殿下に生き写しのようですな」
「初めに王太子妃殿下から学園に入学までの二年以内に王族教育を終わらせるようにと渡された過酷なカリキュラムには驚愕しましたが、涼しいお顔で熟すばかりか、不意にこちらが舌を巻くほどの質問をなさる。初めての議論ではお答えするのに精いっぱいで冷や汗をかきましたよ」
「私はこちらが緊張する生徒に初めて出会いましたが、なんと遣り甲斐のある事か!」
「あれこそまさに天才の器でしょう。どこまで成長されるか将来が楽しみで仕方がありませんよ」
「そうそう、語学の教師が居ないと聞いて不思議に思っていましたが、ホーエン公爵夫人の手ほどきで既に3ヶ国語は商談や議会に同席できる程に堪能だそうですよ」
「近々ホーエン公爵夫人の事業と領地経営の一部を任されて実践に移ると聞きました。軽々しく言える事ではありませんが、ホーエン公爵位はビアンカ殿下が引き継ぐ事になるのでしょうか」
「ビアンカ殿下が女公爵となって御父上や御兄上を支えて下さるのならば国は安泰でしょう。いやしかし、婿選びは熾烈な争いになりそうですな」
和やかに談笑する声と内容に衝撃のあまりしばらく動く事が出来なかった。
兄上も僕も王族教育は五年かけて行うと聞いていた。学園に入る前に二年、在学中三年をかけて完成するそのカリキュラムは学園の授業やマナーその他の教育を合わせると余裕のあるものではなかったと記憶している。
語学を除いたとしてもそれをたった二年で終わらせるなど。
それ以前に既に3ヶ国語を習得済という事にも衝撃を受けた。
それに、よく思い出してみれば普段のマナーや所作、大人たちに交じっての会話術やダンスなども王太子妃殿下や母上と比べて見劣りすると感じたことはなかった。
とすれば、マナーや教養などの淑女教育もほぼ終わっているという事だ。
それまで有頂天だった僕は一気に冷や水を浴びせられたような気がして、その日の事は誰にも話していない。
明後日、ビアンカ姉上とホーエン公爵夫妻は、隣国の商談相手を迎えに行ったガレリア侯爵と合流し共にガレリア領入りするそうだ。
あの日以来、記憶の奥深くしまい込んでいた感情を激しく揺らす思い出。
言葉だけで理解していた格の違いを、今度は事実として目の前に突き付けられる。
その時、僕はビアンカ姉上に冷静に相対する事が出来るだろうか。
クロード伯父上の話の後は何も考えられず、誰にも会いたくなくて、その日は眠ったふりを通して夕飯も取らずに部屋に引きこもった。



