閉じ込められてから丸一日は、本当に何も起きなかった。
食事も届けられたし、ベッドも日本で美玲が寝ていた煎餅布団の方が、よっぽど硬かったくらいである。
衝立の向こうにはトイレもあった。
ただし、部屋に窓はなく、ユノが去って以来、誰も来はしなかった。
食事は扉の下の隙間から差し込まれるだけである。顔も合わせないから口もきけない。食事の回数で時間を測ることしかできなかった。
「やれやれ、これで三回目の食事かぁ……」
美玲は以前、リュストレーが食べていたような硬いパンを頬張った。
今日の命の危険はない、しかし明日の命まではわからない。
今の美玲は、ひたすらリュストレーに会いたかった。
わがままで、純粋培養で、融通が効かないくせに、変なところは素直な魔公爵。
不可思議な異能があるが故に、取り返しのつかない過ちを犯したと自分を追い詰めて、自ら王太子の座を下り、引きこもってしまった男。
今頃閣下は何をしているんだろう?
本は出版はできたのかな?
もしかしたらご家族に会って、引き止められているのかも。
ああ、声が聞きたい、顔が見たい!
あの人に──
あ い た い!
『ミレ』
それは彼が呼ぶ自分の名前だ。低く深い美しい声で。
「リュストレー様、来てよ。呼んでよ。ここは嫌だよ、寂しいよぉ」
この時、美玲は自分が、リュストレーのことをちゃんと好きなんだったのだと思い知った。涙が滲むが、美玲はぐっと堪えた。
会いたい。
会いたいのだ。
今まで、そう願って会えた人はいなかったけれど。
リュストレーは、美玲がここにいることを知っているのか、知っていたなら探しにくるのでないか、それとも知らされずに探しているのか、美玲はそれだけが気になった。
そして、二日目の午後──つまり六回目の食事が終わって、しばらくしてからのことだ。
美玲が寝台で体を丸めていると、静かに扉が開いた。
「……え? リュストレー様……じゃない」
そこにはユノと、メイドのような女性が立っていた。
「何しに来たんすか?」
「ある方のご命令だ。出よアオイ・ミレ」
「……」
ユノにぺこぺこするつもりがなかった美玲は、黙って扉をくぐる。
二人について長い廊下を通ってゆくと、浴室のようなところに案内された。当然、召使い用だ。
「入浴のお手伝いをいたします」
ついてきた女性が丁寧に頭を下げる。
地下室は寒くはなかったが、冬なのに湿気ていて、それだけが悩みの種だった美玲は喜んでその指示に従った。
「あんたは入ってきたりしないわよね」
「そこまで悪趣味ではないわ」
「あっそ!」
ユノは浴室の横の部屋に退き、美玲はメイドに手伝ってもらって、ゆっくりと体を温め、髪や身体を洗った。
もちろん、そのメイドは必要ななこと以外、口を聞かなかったが、用意してくれた下着や服は上質なものだった。靴までも。
美玲は履き慣れた運動靴と服を、なんとかして手放さないように頼み込み、油紙に包んで持たせてもらう。
髪も肌も整えてもらって、すっかり気分が良くなる。
ただ、美玲がいくら、リュストレーの姿が見えないか、声が聞こえないか、と神経を尖らせていても、ついぞ何も起きなかった。
このままですまさないから!
ユノに聞きたいことは山ほどあったが、彼は美玲の方を見もせず、質問を受ける気もないようだった。
美玲のいたところは、王宮でも端の方だったようで、そんなに大きな建物ではない。きっと、使用人や職人用の施設なのだろう。
廊下を抜けたところに、馬車が待っていて、有無を言わずに押し込められる。小雪がちらつき、寒さが身を斬るようだ。
意外にもユノは乗り込んでこなかった。
「どこに連れて行かれるの? もしかして、人知れず抹殺されるの?」
「行き先は俺もはっきりとは知らない。だが、殺されることはない。それだけは約束しよう」
「リュストレー様の本は出版されるの?」
「それは閣下のお気持ち次第となるだろう」
その言葉と同時に馬車の扉は閉ざされ、覆いがかけられた。二人乗りくらいの小さな馬車は、快適なスピードで石畳をかけていく。
馬車の中に暖房はなかったが、たっぷりとした毛布が用意されていたので遠慮なく美玲はそれを引っ被る。
雪は少しずつ激しくなっている。
やがて車輪の感覚が、土を踏み固めた感触に置き換わってきた。都を出たのだろう。かなり遠くまで来たようだ。
この分ではもしかしたら、もうリュストレー様に会うこともないのかも知れない。
いやもっと悪くて、リュストレー様がこの一幕に噛んでいるかも……?
私を見捨てるつもりで。まさか……でも。
見通しの持てない不安は、次の不安と猜疑を呼ぶものである。
あんなに、親しみを持てたリュストレーの美麗な顔でさえ、今では冷たいお面のように思えてくるのだ。
いけない!
美玲はぶるぶると首を振った。
現実を見つめないで、何を見るっていうの?
私を密かに殺す気ならとっくにやっているわよ。
こんなところにまで連れてきてから、殺す意味なんてないわ!
「生かしておく価値もないかもだけど……」
乱れた思いを立て直そうとしていると、道はふたたび石畳になって、すぐに馬車は止まった。門の中へと入ったようだ。
御者がすぐに扉を上げる。
いつの間にか雪は止んで、馬車に乗る前には低かった月がずっと高くに昇っている。
そこは小けれど、瀟洒な白い屋敷の前だった。闇の中の白い世界だ。
出迎えはなく、御者が黙ったまま美玲の手をとって案内してくれる。庇の下まで来た時、薄く扉が開いた。
御者はその隙間に美玲を押し込み、慌てて帰っていった。
「え? え?」
雪あかりの中から、急に温かい光のなかへ連れ込まれ、美玲は一瞬目が眩む。
そして、目が慣れた時、目の前にすらりとした女性が立っていることがわかった。
「す、すみません。私、何も知らずに連れてこられて……」
「ええ、存じておりますよ」
貴婦人というのはこのような人を言うのだろうと美玲は思った。
背が高く、銀色の髪を高く結い上げ、優雅な微笑みを浮かべて美玲を見ている。
「あ……あなたはどなたですか? 私は蒼井美玲と言います」
「アオイ・ミレ? そう……あなたがそうなのね? 私は、アヴェーラ・オルタナ。リュストレーの母です」
食事も届けられたし、ベッドも日本で美玲が寝ていた煎餅布団の方が、よっぽど硬かったくらいである。
衝立の向こうにはトイレもあった。
ただし、部屋に窓はなく、ユノが去って以来、誰も来はしなかった。
食事は扉の下の隙間から差し込まれるだけである。顔も合わせないから口もきけない。食事の回数で時間を測ることしかできなかった。
「やれやれ、これで三回目の食事かぁ……」
美玲は以前、リュストレーが食べていたような硬いパンを頬張った。
今日の命の危険はない、しかし明日の命まではわからない。
今の美玲は、ひたすらリュストレーに会いたかった。
わがままで、純粋培養で、融通が効かないくせに、変なところは素直な魔公爵。
不可思議な異能があるが故に、取り返しのつかない過ちを犯したと自分を追い詰めて、自ら王太子の座を下り、引きこもってしまった男。
今頃閣下は何をしているんだろう?
本は出版はできたのかな?
もしかしたらご家族に会って、引き止められているのかも。
ああ、声が聞きたい、顔が見たい!
あの人に──
あ い た い!
『ミレ』
それは彼が呼ぶ自分の名前だ。低く深い美しい声で。
「リュストレー様、来てよ。呼んでよ。ここは嫌だよ、寂しいよぉ」
この時、美玲は自分が、リュストレーのことをちゃんと好きなんだったのだと思い知った。涙が滲むが、美玲はぐっと堪えた。
会いたい。
会いたいのだ。
今まで、そう願って会えた人はいなかったけれど。
リュストレーは、美玲がここにいることを知っているのか、知っていたなら探しにくるのでないか、それとも知らされずに探しているのか、美玲はそれだけが気になった。
そして、二日目の午後──つまり六回目の食事が終わって、しばらくしてからのことだ。
美玲が寝台で体を丸めていると、静かに扉が開いた。
「……え? リュストレー様……じゃない」
そこにはユノと、メイドのような女性が立っていた。
「何しに来たんすか?」
「ある方のご命令だ。出よアオイ・ミレ」
「……」
ユノにぺこぺこするつもりがなかった美玲は、黙って扉をくぐる。
二人について長い廊下を通ってゆくと、浴室のようなところに案内された。当然、召使い用だ。
「入浴のお手伝いをいたします」
ついてきた女性が丁寧に頭を下げる。
地下室は寒くはなかったが、冬なのに湿気ていて、それだけが悩みの種だった美玲は喜んでその指示に従った。
「あんたは入ってきたりしないわよね」
「そこまで悪趣味ではないわ」
「あっそ!」
ユノは浴室の横の部屋に退き、美玲はメイドに手伝ってもらって、ゆっくりと体を温め、髪や身体を洗った。
もちろん、そのメイドは必要ななこと以外、口を聞かなかったが、用意してくれた下着や服は上質なものだった。靴までも。
美玲は履き慣れた運動靴と服を、なんとかして手放さないように頼み込み、油紙に包んで持たせてもらう。
髪も肌も整えてもらって、すっかり気分が良くなる。
ただ、美玲がいくら、リュストレーの姿が見えないか、声が聞こえないか、と神経を尖らせていても、ついぞ何も起きなかった。
このままですまさないから!
ユノに聞きたいことは山ほどあったが、彼は美玲の方を見もせず、質問を受ける気もないようだった。
美玲のいたところは、王宮でも端の方だったようで、そんなに大きな建物ではない。きっと、使用人や職人用の施設なのだろう。
廊下を抜けたところに、馬車が待っていて、有無を言わずに押し込められる。小雪がちらつき、寒さが身を斬るようだ。
意外にもユノは乗り込んでこなかった。
「どこに連れて行かれるの? もしかして、人知れず抹殺されるの?」
「行き先は俺もはっきりとは知らない。だが、殺されることはない。それだけは約束しよう」
「リュストレー様の本は出版されるの?」
「それは閣下のお気持ち次第となるだろう」
その言葉と同時に馬車の扉は閉ざされ、覆いがかけられた。二人乗りくらいの小さな馬車は、快適なスピードで石畳をかけていく。
馬車の中に暖房はなかったが、たっぷりとした毛布が用意されていたので遠慮なく美玲はそれを引っ被る。
雪は少しずつ激しくなっている。
やがて車輪の感覚が、土を踏み固めた感触に置き換わってきた。都を出たのだろう。かなり遠くまで来たようだ。
この分ではもしかしたら、もうリュストレー様に会うこともないのかも知れない。
いやもっと悪くて、リュストレー様がこの一幕に噛んでいるかも……?
私を見捨てるつもりで。まさか……でも。
見通しの持てない不安は、次の不安と猜疑を呼ぶものである。
あんなに、親しみを持てたリュストレーの美麗な顔でさえ、今では冷たいお面のように思えてくるのだ。
いけない!
美玲はぶるぶると首を振った。
現実を見つめないで、何を見るっていうの?
私を密かに殺す気ならとっくにやっているわよ。
こんなところにまで連れてきてから、殺す意味なんてないわ!
「生かしておく価値もないかもだけど……」
乱れた思いを立て直そうとしていると、道はふたたび石畳になって、すぐに馬車は止まった。門の中へと入ったようだ。
御者がすぐに扉を上げる。
いつの間にか雪は止んで、馬車に乗る前には低かった月がずっと高くに昇っている。
そこは小けれど、瀟洒な白い屋敷の前だった。闇の中の白い世界だ。
出迎えはなく、御者が黙ったまま美玲の手をとって案内してくれる。庇の下まで来た時、薄く扉が開いた。
御者はその隙間に美玲を押し込み、慌てて帰っていった。
「え? え?」
雪あかりの中から、急に温かい光のなかへ連れ込まれ、美玲は一瞬目が眩む。
そして、目が慣れた時、目の前にすらりとした女性が立っていることがわかった。
「す、すみません。私、何も知らずに連れてこられて……」
「ええ、存じておりますよ」
貴婦人というのはこのような人を言うのだろうと美玲は思った。
背が高く、銀色の髪を高く結い上げ、優雅な微笑みを浮かべて美玲を見ている。
「あ……あなたはどなたですか? 私は蒼井美玲と言います」
「アオイ・ミレ? そう……あなたがそうなのね? 私は、アヴェーラ・オルタナ。リュストレーの母です」


