ほんの数分だけの出会いだったのに、どうしてあの人のことがこんなに気になるんだろう。
胸の奥がざわつき、それを打ち消すように咳払いして、平静を装って答える。

「顔はそこまでじっくり見ていないから……普通のサラリーマンで、三十代ぐらいかな」
「へぇ、それでその人とは連絡先とか交換したの?」

直美は目を輝かせ、口元に笑みを浮かべながら聞いてくる。
そんな期待を込めた感じで見つめられても困るんだけど。
名前も年齢も何も知らない相手に傘を渡しただけだ。

「するわけないでしょ。名前すら知らないし、たった五分ぐらいの出来事だったから」
「じゃあ、サラリーマンに傘を渡してバイバイってこと?」
「そうだよ。だから、二度と会うことはないと思うよ」

あの人について、なにひとつ手掛かりはないから当然だ。
でも、頭では理解しているのに、あの人の顔や声、仕草が目に焼き付いて離れない。

「なんだ、つまんない。サラリーマンがフリーだったらそこから恋に発展、なんてあったかもしれないのに。傘を渡しただけで損じゃない」

直美は口を尖らせながら言う。

「別に傘はまた買えばいいし。ほら、こういうのも一期一会みたいでいいと思うけど」

そう言いながらも、心の奥では、あの人にもう一度会えたら――という、小さな願望が静かに膨らんでいることに気づく。
私は首を軽く振って弁当を食べ進めていたが、胸のざわつきはまだ消えていなかった。