◯街・大桑ボクシングジム付近・歩道(八月某日深夜、午前一時近く)

杏、疲労の滲む顔、Tシャツにデニム、焦茶色のミディアムヘアをひとつにまとめている。大きなリュックを背負って歩道を歩く。前方にベンチを見つけて腰を下ろす。

杏「……はぁ」※溜息をつく

杏ナ⦅小山内杏(おさないあんず)、二十歳。大学ニ年生。先日のゲリラ豪雨のせいでアパートが雨漏り&浸水した(部屋は一階)⦆
杏ナ⦅修繕に時間がかかるので、退去を迫られる⦆
杏(しかも、テスト期間中に……)
杏、空を見上げる。
杏ナ⦅現在の所持金は数万円。頼りの火災保険は未だ返答なし⦆
杏、くわっとあくびをする。
杏ナ⦅今日まで友人の家に泊めてもらっていたけど、テストが終わり夏休みが始まった。今夜はどの子も捕まらず……⦆
杏(乃莉ちゃんは彼氏とお泊まり、奈々ちゃんは旅行)※乃莉・奈々とは友人
杏ナ⦅そんなわたしは二徹明けのバイト終わり⦆
杏、客で込み入った居酒屋で駆け回ったことを思い出しながら目を閉じる
杏(今日は疲れたな……)
杏、リュックに寄りかかり、寝てしまう。


◯大桑ボクシングジム(八月某日深夜、午前一時近く)

麻緒、上半身裸・ハーフパンツ姿。手にグローブ、汗をかき、黒髪を乱しスパークリング。鋭い音が響く
コーチ、ガタイがよく、ムキムキ筋肉、スキンヘッド。ボクシングミットをつけてスパークリングを受ける。

コーチ「うっし、これでラスト!」※ニヤリと笑う
麻緒、歯を食いしばりミットに蹴りを打ち込む。いい音が響く。
麻緒「……シッ!」

麻緒、荒い息を吐き出してマスクを取る。ペットボトルの水を飲む。
コーチ、窓の外を見る。何かに気づいて扉を開ける。
コーチ「あらやだ! 女の子がうちのベンチで寝ているわ」※振り返りながら
麻緒、ペットボトルを口元で止める。顔を顰める。
コーチ「なにかあったら……うちの責任よね?」※不安そうな顔
麻緒、嘆息する。服を着て外に出る。

麻緒、ベンチで寝ている杏に近づく。
麻緒(……まだ若いな。学生か?)
麻緒「おい、こんなところで寝るな。風邪引くぞ」
杏、ぐーぐー寝てる
麻緒「……おいって」※杏の肩を揺らす。
杏、びっくりして目を開ける。
杏「……いらっしゃいませ、てんないはきんえんですが、よろしいでしょうか?」
麻緒「はぁ?」
杏「かうんたーいちめいさまでーす」
麻緒「お、おい!寝るな!」
杏、ぐっすり寝る。


◯麻緒のマンション、客室(翌日・午後三時)

杏、Tシャツ・デニムのまま。ふかふかのベッドで寝ている。知らない天井を見て驚く。
杏(……え?)
杏「……ここは?」※身体を起こしてあたりを見回す
麻緒「俺ん家だ。ねぼすけ」
杏「ゔぇっ?!」
麻緒、Tシャツにリラックスズボン。腕を組んで、開いた扉にもたれかかっている。
杏、驚いてシーツで身体を隠す。

杏「ど、ど、どちら様で!?」
麻緒「それはこっちのセリフだ」※溜息を付きながら近づいてくる
麻緒「獅子原麻緒(ししはらまお)だ。変な誤解はするな。女に不自由はしていない」
杏、麻緒を見上げる。
杏ナ⦅整った顔、長身、モデルのように手脚が長くて顔が小さい……⦆
杏(た、たしかに不自由はしなさそう……)


杏「お、小山内杏です」※訝しげに麻緒を窺いながら会釈する
麻緒「あんず、な。年は? どこの学生?」
杏「は、はい。東智大理工学部の2年生です」
麻緒、微かに瞠目する
麻緒「……で、昨日のことどこまで覚えてる?」
杏、首を傾げる
麻緒、溜息をつく。しゃがんで杏と目の高さを合わせる

麻緒「昨日杏は俺の通っているジムの前にあるベンチで寝ていた。何回起こしても全然起きないから仕方なく連れて帰ったきた」※圧のある笑み
麻緒「あのベンチは、ジムのオーナーが善意で置いたものだ。なのに、そんなところで寝て、なにかあったら後味悪いだろーが。営業停止とかくらったらどうすんだ」
杏、正座して頭を下げる。
杏「す、すみません!」
麻緒「まぁいい。よく眠れたようだし」
麻緒、自分の目の下を指してクスッと笑う
麻緒「隈、ちょっとマシになったんじゃね」
杏、ドキッとする。
杏「あ、あの」
杏、「ぐぅううう」とお腹の音が鳴る。
杏、麻緒と目が合う。顔を真っ赤にする。
麻緒、顔を背けて笑う
麻緒「お前、本当に欲望に忠実だな。寝たら全然起きねえし、今度は腹かよ」
杏、麻緒の笑顔に見惚れてしまう
麻緒「いいよ。たいしたもんないけど、飯食わしてやる。その代わりちゃんと話せよ」
麻緒、立ち上がり、部屋を出て行こうとする。その途中、振り返る。
麻緒「あ、その前に風呂入りたいなら使えよ。バスタオル置いとくから」



◯麻緒の自宅、ダイニング(夕方)

麻緒、ダイニングテーブルの椅子に脚を組んで座ってスマホを触っている。
杏、Tシャツ、リラックスズボン。肩にバスタオルをかけてリビングに来る。
杏「お、お風呂ありがとうございました」
麻緒「おー、じゃあ座って食え」※杏の方を見ながら
杏、麻緒と向き合って椅子に座る。テーブルにはパスタセット(ナポリタン、サラダ、スープ)。
杏「お、美味しそう……!」※目を輝かせる
杏「あ、お金」
麻緒「学生は気にしなくていい」
杏、麻緒を窺いながら手を合わせる
杏(ほ、本当にいいのかな。タダより怖いものはないって言うし……)
麻緒、頬杖ついてこっちを見ている
杏(やっぱり後でお金払った方がいいよね……)
杏「い、いただきます」※フォークでパスタをくるくる巻いて口に入れる
杏「お、美味しい……!」※目を丸くする
麻緒「なら、よかった」※微笑む

杏、パスタセットを食べ終わる。水を飲む。
麻緒、杏が食べ終わったタイミングを見計らって尋ねる。
麻緒「で、杏はどうしてあのベンチで寝ていたわけ? 荷物も結構重たかったし」
杏「じ、実は……」

杏、麻緒に状況を説明する。
麻緒、説明を聞き終えて溜息をつく。
杏、俯く

麻緒「なるほどね。補償費用とかいつ入ってくんの?」
杏「えっと、それは……」
麻緒「もしかして、ないとか?」※眉根を寄せる
杏「今月の家賃と敷金は返金してもらえるみたいです……。ただ、自然災害によるものなのでそれ以上の請求は難しい、と」
麻緒「火災保険は?」
杏「今、問い合わせ中で……」※しょんぼりする。
麻緒、杏の顔をじっと見つめる。
麻緒「……親には?」
杏「……伝えていません。無理言って通わせてもらっているので……」※申し訳なさそうに

杏ナ⦅わたしは四人きょうだいの三番目。兄は地元の国立大学を卒業し公務員に、姉は専門学校を卒業後、名古屋で美容師として働いている。双子の弟は県立の看護大学へ。わたしだけが都内の私立大学に進学し高い学費を払ってもらっていた⦆
杏(しかも一人暮らしまで……)

麻緒「それ、バレたら連れ戻される系?」
杏「そ、そこまでではないと、思います、けど……」
杏、手を握りしめる。覚悟を決めた顔で麻緒を見つめる。
杏「わ、わたし、気象予報士になりたくて」
麻緒「気象予報士?」
杏「はい。小さい頃、お天気キャスターに憧れて、それで上京して……」

〈過去回想〉

⚪︎杏実家(十四年前・朝)
七歳の杏、朝食を食べながら天気予報を見る。
杏「お母さん、今日二時頃に通り雨だって」
母「へえ、そうなの」

⚪︎杏実家(午後ニ時)

杏、雨が降ってきたことに気づく。時計を確認すると二時過ぎ。

杏「おかーさん、雨降ってきた!」※笑顔で振り返る。
母「あら、本当ね。洗濯物早く取り込んでおいてよかったわ」※微笑む
杏「すごいね! あたったね!」
杏、雨が上がり、晴れ間の差し込んだ空に虹がかかる様子を見て目を輝かせる
杏ナ⦅ーー魔法使いみたい、と思った⦆


〈過去回想終了〉

杏ナ⦅上京しなくても、気象予報士になる方法はある⦆
杏ナ⦅ただ、就職(その先)を考えるとやっぱり都内の方が便利だ⦆
杏(家族にはあまり応援されていないけど……)
杏、僅かに表情が翳る

麻緒、感心した顔
麻緒「……へぇ、すごいじゃん」
杏、驚く
杏「ば、馬鹿にしないんですか?」
麻緒「どうして?」
杏「ど、どうしてって。……」※困惑
杏「じ、実は気象予報士の講座に申し込んだばかりで。その後アパートがダメになっちゃったんです。せめて分割にしておけば、引っ越しできたかもしれないのにって、思って……」
麻緒、呆れる
麻緒「どのみち払うなら一緒だろ」
杏「そ、それにわたし、人見知りで、その、話すのもあまり得意じゃなくて……」
杏、表情が曇る
杏「なのにテレビ出て話す……なんて、無理だってみんなに笑われて」
杏、夢を語ると家族に「なれるわけないよ」と笑われたことを思い出す
麻緒、黙って耳を澄ませる
杏「でも、わたしでもなれるって、見返したくて……!」※目に力を宿す
麻緒「できるよ、杏なら」
杏「……え?」
麻緒「夢のために頑張ってんだろ? バイト代貯めて講座まで申し込んで」
麻緒、優しい顔になる
麻緒「だったら、なれるよ。杏ならなれる」
杏、涙で目が潤む
杏「は、はい」
杏(初めて応援してくれる人がいた……。嬉しい)


◯麻緒自宅・玄関(夕方)

杏、Tシャツにデニム姿。リュックを背負い、靴を履く。
麻緒、玄関まで見送る。

麻緒「本当に大丈夫なのか?」
杏「はい。話を聞いてもらってありがとうございました。スッキリしました」※晴れやかな笑み
麻緒「ちがって、家だよ」※呆れる
杏「はい、今夜は友人の家に泊めてもらいます。それで両親にも相談します」

麻緒、杏を疑いの眼差しで見る
杏、頬を引き攣らせながらにこりと笑う

杏、思い出したように鞄から財布を取りだす。
杏「あの、やっぱり食事代だけでも」※申し訳なさそうに
麻緒「いいから」
麻緒、手のひらを見せて杏の手を制する
杏、お金ではなくバイト先の割引券を差し出す

杏「なら、今度お店に来てください。お酒奢りますから」※笑みを浮かべて
麻緒「店?」
麻緒、割引券を受け取る
杏「はい! ここでバイトをしていて」
杏(あ、でも。安い居酒屋チェーン店なんて行かないかも……)
杏「む、無理とは言わないんで、その、よかったらお友達とか誘ってもらってもいいので!」※あわあわしながら
麻緒、割引券をじっと見る
麻緒「ふーん。何時までいんの?」
杏「クローズ(十二時)までいます。 あ、そろそろ出ないと」
杏、スマホを見て、頭を下げる
杏「お世話になりました!」
杏、笑顔で玄関の扉を開ける
麻緒、無言で見送る。
麻緒「ふーん、十二時ね」※扉が閉まった後に割引券を見つめながら


◯杏バイト先居酒屋・フロア(深夜・十二時過ぎ)

店の正面玄関に「本日営業終了」の札が貼られている
そのドアが開き、最後のお客さんが出ていく
スタッフ一同「ありがとうございましたー!」

三山、拭いた椅子をテーブルに乗せながら驚いた様子で
三山「えぇ、家が浸水って……」
寺川、床をモップで拭きながら驚いた様子で
寺川「それ、大丈夫なん?」
杏「あはは……なんとか」※苦笑い
杏ナ⦅大きなリュックを背負ってバイトに来たら、先輩たちに訊かれた⦆
杏ナ⦅ざっくり説明するとすごく驚かれてしまう⦆

三山「今夜はどこに泊まんの?」
杏「あー、今夜は……漫喫でも行こうかなと」
杏(週末だし、少し高いけど……、ホテルよりマシ)
寺川「だったらさ、俺たちと朝まで飲まない? 今日この後三山と飲むかって話していて。な?」※三山を見つつ
三山「うん、そう。よかったら」
杏「え、いいんですか?」
寺川「いいよ。三山の部屋すげー汚いけど」
三山「ちょ、それお前が言う?!」
杏、笑いながら二人のやり取りを見守る
杏(よかった……。今夜は無事凌そう)※ホッとする


◯杏バイト先居酒屋・外(深夜・十二時半過ぎ)

杏、寺川・三山と共に裏口から外に出る。
寺川・三山「「お疲れっしたー」」
杏「お疲れ様でーす」

麻緒、車に寄りかかりながら杏を待っている
杏、店の前に一台の高級車が停車していることに気づく

麻緒「杏」
杏、麻緒がいることに驚く
杏(し、獅子原さん……!)
杏、三山と寺崎に会釈して、麻緒の元に向かう
杏「ど、どうしたんですか?」
麻緒「今から友達ん家行くんだろ? 乗れよ。送る」
杏「え?……あ」
杏、別れ際の会話を思い出す
杏(あの時、あんなこと言ったから……)
杏「……実は先輩たちと飲むことになって」
麻緒、三山と寺川を見る
杏「なので」
麻緒、三山と寺川を見ながら杏の言葉を遮る
麻緒「悪いんだけど、今夜は俺に譲ってもらえるかな?」※にっこり笑顔で杏の肩を抱き寄せる
杏(えっ……?!)※ドキッとする
三山「えっ、あ、はい」
寺川「どうぞ、どうぞ。俺たちいつでも話せるので」
麻緒「ありがとう。二人とも気をつけて」
三山「は、はい! 失礼しますっ」
寺川「オズ、またな」
杏「は、はい……!」

杏、肩を抱き寄せられる手が気になる。ドキドキする
麻緒、三山と寺川が見えなくなって手を離す
麻緒「……杏さ」
麻緒、腕を組んで車に寄りかかる。杏を覗きこむ。
麻緒「男と朝まで過ごすってどういう意味かわかってる?」
杏、麻緒の真剣な目にたじろぐ
杏「せ、先輩たちとはそんなんじゃ」
麻緒「そんなんじゃなくても、そうなってもいいって覚悟はあんのかって聞いてんの」
麻緒「だいたい酒入った男二人と朝までいて、なにもない方が奇跡に近いから」※溜息を吐きながら
杏、黙り込む
麻緒「で、朝まで飲み会して、その後どこで過ごすわけ?」
杏「それは……」
麻緒「大学はホテルじゃねえぞ?」
杏、俯いてリュックの紐を持つ手を強く握る
麻緒「はぁ。とりあえず、俺ん家に住め」
杏(ーーえ?)※驚いて顔をあげる
麻緒「お前危なっかしいんだわ。目の届く範囲にいろ。ーーいいな?」