○一樹の家のリビング
エプロン姿の詩織の顎を一樹が掬い上げる。
どくん、と詩織の心臓が高鳴る。
一樹、真剣な眼差しで詩織を見つめる。
二人は今にもキスをしてしまいそうな近さ。
しかし一樹の手は、詩織から離れていった。
一樹「飲んでみる?」
掲げたグラスを詩織に差し出す。
詩織、強く首を振る。
詩織「だ、大丈夫です!」
一樹「どうして?見てみたいな、お酒を飲んだ姿」
詩織「だ、だめです!勤務中に飲酒なんて。クビになります!」
一樹ふっと笑って、
一樹「きみのことをクビにするなんてありえない。まあもしきみが俺の恋人になってくれるなら、家政婦としてはクビになるけれど」
詩織(な、何を言っているの――!?)
○初出勤の朝
季節は秋。薄い上着を着た詩織が、ボロいアパートから出てくる。
詩織(今日から新しいお宅だ!頑張るぞ)
モノローグ:私、村瀬詩織。21歳、大学三年生。
詩織のスマホに友人からメッセージが届く。
『おはよー!今日飲み会参加しない?』
詩織、顔をしかめながら返事を打つ
「ごめん!今日バイトが立て込んでるんだ。また今度!」
OKのスタンプが返ってくる。
メッセージの履歴は断りの言葉が並んでいる。
詩織(毎回断っても誘ってくれる友だち……神)
モノローグ:大学の授業の合間はひたすらアルバイトに勤しんでいる。なぜなら……私にはお金が必要だからだ。でも人の多いところは夜の店は絶対に嫌。だからこの仕事はちょうど良い。
○幼少期の記憶:詩織の実家(狭いアパート)
言い争う両親の会話が、まだ幼い詩織と兄の元まで聞こえてくる光景。二人は暖房もつけられない家で、布団で身を寄せ合いながら横になっている。パジャマもぼろぼろである。
母「もう、お父さんまた保証人になっちゃったの!?」
父「仕方ないだろう。困ってるっていうんだから」
母「困ってるって……あなた、酔っ払って「わかった」ってサインしただけでしょう!」
父「違う!俺はちゃんと覚えてる!」
母「そういう問題じゃないんですよ!これじゃ働いても働いても追いつきませんよ」
父「うるさい!」
母「もう……!(泣き出す)どうしたらいいの……」
モノローグ:父のようにも母のようにもなりたくない。
○一樹の家
立派な外観のマンションを下から眺めながら
(うわ、大きなマンション……)
詩織玄関のチャイムを押す
一樹「はい」
扉が開き、整った一樹の顔のアップ。
一樹はラフな私服姿。
詩織、思わず(かっこいい人……)と驚く。
詩織「は、はじめまして。今日から家政婦としてお邪魔します村瀬詩織です!よろしくお願いします」
一樹、一瞬惚けたように詩織を見つめて固まる。
一樹「ああ……村瀬さん。よろしくお願いします」
一樹に案内され家の中へ。
広いリビングダイニング、ピカピカのキッチンや洗面所などを案内される。
一樹「村瀬さんには週三日、主に掃除をお願いしたいと思っています」
詩織「は、はい。あの洗濯やお料理は……?ご要望があればと伺っていましたが」
一樹、少し考えて
一樹「そうですね。洗濯はランドリーサービスを使っているので大丈夫です。基本的に外食が多いんですが……せっかくだから作り置きも頼もうかな」
詩織「承知しました」
一樹「楽しみです」
詩織「え……?」
一樹「村瀬さんの料理」
詩織「何か食材で苦手なものはありますか?」
一樹「大丈夫です。なんでも食べます」
にっこりと笑顔を向けられて、ドキッとする詩織。
一樹「では書斎で仕事をしていますので、何かありましたら呼んでください」
詩織「承知しました」
詩織、室内の掃除(掃除機かけ、床拭き、水回りなど)を開始する。
モノローグ:今回の依頼主は三嶋一樹さん。二十八歳。独身。まだ若いのにいくつものお店を経営している会社の社長……らしい。確かにこれだけのお家に住んでらっしゃるから、お金持ちで間違いないんだろう。私とは別世界の方だ……。
詩織、知らずため息をついてしまうが、掃除を続ける。
そんな詩織の様子を、そっと書斎から出てきた一樹が熱い瞳で見つめていた。
作り置きの詰まったタッパーを冷蔵庫に詰めていると、一樹がやってくる。
一樹「美味しそうですね」
詩織「あ、ありがとうございます。お好みに合うと良いのですが。とりあえず次回までの三日分を作っておきました」
一樹「ありがとうございます。楽しみです。村瀬さんは学生さんなんでしたっけ?」
詩織「そうです」
一樹「そうですか。もし出来たら授業に支障が出ない範囲で、もう少し日にちを増やしたいんですが」
詩織「え?」
一樹「使っていない部屋の整理も頼みたくて」
詩織「希望日を言って頂ければ、私が無理でも誰か派遣できるスタッフがいると思いますので」
一樹「いえ。村瀬さんにお願いしたいので」
詩織「……え?」
一樹「でもわかりました。それでは担当の方に相談してみますね」
一樹、含みのある笑みを浮かべる。
◯帰り道
詩織(なんだったんだろう……。仕事を気に入っていただけたなら嬉しいけど)
◯次の担当日 (授業を終えた)夕方
詩織「お邪魔します」
詩織が玄関に上がると、スーツ姿の一樹。
前回と違い前髪が上がっていて、かっちりした印象を受ける。
一樹「お疲れさまです。すみません、呼び出されてしまって出かけることになりました。これ、鍵です」
詩織の手に鍵を握らせる。
一樹「終わったらコンシェルジュに返しておいてください。事情は説明してありますので」
詩織「は、はい」
一樹「持って帰ってもらってもいいんですけどね」
詩織、ぎょっとする。
一樹はそれをみて笑い、
一樹「まあその話は追々。では行ってきます」
詩織「はい。いってらっしゃいませ」
詩織の言葉に靴を履こうとしていた一樹の動きが一瞬止まり、口元が綻ぶ。
一樹「あ、料理とても美味しかったです。今日もよろしくお願いします。ではいってきます」
一樹、鞄を持って玄関を出ていく。
お辞儀をしながら見送る詩織。
詩織(お料理、口にあったみたい。よかった……)
詩織、ほっと息を吐く。
詩織(だって、あのミシマグループの社長さんだったなんて!)
モノローグ:ミシマグループは有名な飲食点を経営している会社だ。そんなプロに「料理しましょうか?」など、大それたことを言ってしまうなんて……!
詩織、自分の発言を思い出して頭を抱える。
黙々と仕事をこなしているうちに夜になる。
詩織「よし、今日はこんなものかな」
時計を確認すると十九時半。ちょうど上がりの時間だ。
帰りの準備をしていると、玄関の開く音。
一樹「村瀬さん!?」
一樹がリビングに飛び込んでくる。
詩織「お、おかえりなさいませ」
一樹「ただいま。よかった間に合った」
詩織「お疲れさまです。どうしたんですか?」
一樹「ううん。村瀬さんがいるうちに帰ってこようと思っただけ」
詩織(な、なんで……?)
一樹「あ、そうだ。お土産に……」
一樹は持って帰ってきた紙袋を差し出す。
一樹「店で出そうかと思ってるワイン。何種類か試飲したんだけど、これが1番美味しかったから持って帰ってきたんです。良かったら……」
ワインだと知った段階で、顔を強張らせる詩織。
詩織「すみません、お気持ちだけで」
一樹「ワイン、嫌いだった?」
詩織「……(ワインというか、お酒全般が……)」
曖昧な笑みを浮かべながら、小さく頷く。
一樹「そっか」
詩織「すみません」
一樹「いえ。あ、でも良かったらご家族に差し上げる、とか」
詩織「結構です!」
思わず大きな声を出してしまい、慌てて口を押さえる詩織。
一瞬、驚いた顔をした一樹だが
一樹「ごめん。無理強いすることじゃなかったね」
詩織「申し訳ありません。お気持ちはありがたく頂戴します」
一樹「ううん。村瀬さんはお酒は苦手?」
詩織「そう、ですね……。飲めないわけではないんですけど」
一樹「へえ」
詩織「飲まないようにしている、と言いますか」
じっと見つめられ、気まずい詩織は目を逸らす。
一樹「すごい酒癖が悪いとか?」
和ませるように冗談っぽく言う一樹。
詩織「ち、違います!」
一樹「あはは。冗談だよ」
詩織「もう……!」
○さらに次の担当日。夕方。
詩織、ちらりとリビングを見る。
ソファに座った一樹がタブレットを真剣な表情で見ている。
詩織(うう……なんで今日は書斎じゃないんだろ。仕事しにくい……)
そっと音を立てないように掃除をする詩織。
しかしちらっと一樹が詩織を見て、目があってしまう。その瞬間、微笑まれて、とっさに視線をそらす詩織。
心配になって目線を戻すが、一樹はすでにタブレットに集中している。
詩織(だめだめ。ささっと手際よく終わらせなきゃ)
詩織がキッチンで料理をしていると、一樹がやってくる。
一樹「いい匂いですね」
詩織「お疲れさまです。(一樹がコーヒーを淹れようとしているのに気づいて)あ、私、やりますよ!」
一樹「大丈夫ですよ。村瀬さんはお手伝いさんじゃないんですから」
詩織「でも……」
一樹「あ、じゃあ一緒に休憩しますか?それならお願いしようかな」
詩織「いえ!勤務時間ですから」
詩織がそう言うと、一樹はふむ、と考えて
一樹「村瀬さんの会社は時給制なんでしたっけ?」
詩織「は、はい……」
一樹「じゃあお願いすれば残業も可能?」
詩織「まあ……。(時間内に終わらせるのが規則だけど、急遽頼まれごとがあって超えちゃうこともあるし……)」
一樹はスマホで契約書を確認しながら、
一樹「なるほど。延長した場合は、俺から会社に報告すればちゃんと村瀬さんのお給料になるんですね……。ということで、もしもう少し大丈夫だったら、残業してもらえませんか?」
詩織「はあ……」
一樹「ちょっと気分転換したくて」
一樹、冷蔵庫を開けて箱を取り出す。
一樹「このケーキ、季節限定商品の試作なんですけどひとりでは食べきれなくて。一緒に食べて感想を教えてもらえたら嬉しいです」
詩織「え……」
一樹「なので。コーヒーお願いします」
詩織「は、はい!」
コーヒーとケーキをテーブルに置き、リビングで向かい合って座る二人。
詩織はカーペットの上に座っている。
一樹「ソファに座ればいいのに」
詩織「ここで大丈夫です(三嶋さんと並んでは座れないよ……)」
一樹「はい、どうぞ」
ケーキの乗った皿を目の前に置かれる。一樹はじっと詩織の様子を見ている。
食べないわけにはいかなそうだ。
詩織「い、いただきます……」
一口食べる詩織。
詩織「ん!美味しい……!クリームが甘すぎなくて、酸味の効いたソースと合っていてとても美味しいです!」
じっと見ている一樹に気づいて
詩織「すみません。うるさくて……」
一樹「ううん。良かった」
詩織「限定なんてもったいないくらいです」
一樹「ありがとう。担当者に伝えますね」
二人はにこやかに会話をしながらコーヒーを飲む。
詩織(ゆっくりお茶したから時間オーバーしてしまった……)
時計は二十時をすぎている。
一樹のいるキッチンを覗き、
詩織「本日はこれで失礼します。すみません、ケーキまでご馳走になってしまって」
一樹は、詩織の作った料理をつまみ食いしているところだった。
一樹「行儀の悪いところ見られてしまいましたね」
詩織「いえ。(むしろ食べてもらえて嬉しい……)」
一樹「このピクルスが美味しくて。あいそうな白ワインを開けてしまいました」
一樹はグラスを掲げて見せる。
一樹「村瀬さん、飲めないことはないって言ってましたよね……?」
詩織「え……」
詩織思わず後ずさる。
一樹「ひと口、飲んでみませんか?」
お酒を見て、詩織の記憶がフラッシュバックする。
○高校生の頃の記憶:近所の公園
コートを着た男性が、公園の水道で水をがぶ飲みしている。
通りかかった詩織、思わず「大丈夫ですか?」と声をかける。
顔を上げた男性は顔色が悪いが、とても整った顔立ちをしていた。
「大丈夫です……」と掠れた声で言うと、ベンチに移動し、そこで横になってしまった。
詩織、おずおずとそれを見送るが、気になってベンチの男を覗き込む。
詩織「飲み過ぎでしょ……」
近寄ったときにお酒の匂いに気付き、嫌そうな顔で男を見下ろす。
しかし寒そうにしているのを見て、詩織、意を決して自分のマフラーを男にかける。
詩織は自分の行動に驚き、後ずさるとそのまま駆け出す。
その拍子に定期入れが落ちる。
モノローグ:あの時だって酔っ払いにかかわったせいで嫌な目に遭ったし!お気に入りのマフラーは返ってこなかったし……!でも、綺麗な顔をした人だったな。あんな人でもお酒に逃げたくなることがあるんだろうか……。
冒頭のシーンに戻る。
過去を思い出してぼうっとしていた詩織の顎を一樹が掬い上げる。
どくん、と詩織の心臓が高鳴る。
一樹、真剣な眼差しで詩織を見つめる。
二人は今にもキスをしてしまいそうな近さ。
しかし一樹の手は、詩織から離れていった。
一樹「飲んでみる?」
掲げたグラスを詩織に差し出す。
詩織、強く首を振る。
詩織「だ、大丈夫です!」
一樹「どうして?見てみたいな、お酒を飲んだ姿」
詩織「だ、だめです!勤務中に飲酒なんて。クビになります!」
一樹ふっと笑って、
一樹「きみのことをクビにするなんてありえない。まあもしきみが俺の恋人になってくれるなら、家政婦としてはクビになるけれど」
詩織(な、何を言っているの――!?)
エプロン姿の詩織の顎を一樹が掬い上げる。
どくん、と詩織の心臓が高鳴る。
一樹、真剣な眼差しで詩織を見つめる。
二人は今にもキスをしてしまいそうな近さ。
しかし一樹の手は、詩織から離れていった。
一樹「飲んでみる?」
掲げたグラスを詩織に差し出す。
詩織、強く首を振る。
詩織「だ、大丈夫です!」
一樹「どうして?見てみたいな、お酒を飲んだ姿」
詩織「だ、だめです!勤務中に飲酒なんて。クビになります!」
一樹ふっと笑って、
一樹「きみのことをクビにするなんてありえない。まあもしきみが俺の恋人になってくれるなら、家政婦としてはクビになるけれど」
詩織(な、何を言っているの――!?)
○初出勤の朝
季節は秋。薄い上着を着た詩織が、ボロいアパートから出てくる。
詩織(今日から新しいお宅だ!頑張るぞ)
モノローグ:私、村瀬詩織。21歳、大学三年生。
詩織のスマホに友人からメッセージが届く。
『おはよー!今日飲み会参加しない?』
詩織、顔をしかめながら返事を打つ
「ごめん!今日バイトが立て込んでるんだ。また今度!」
OKのスタンプが返ってくる。
メッセージの履歴は断りの言葉が並んでいる。
詩織(毎回断っても誘ってくれる友だち……神)
モノローグ:大学の授業の合間はひたすらアルバイトに勤しんでいる。なぜなら……私にはお金が必要だからだ。でも人の多いところは夜の店は絶対に嫌。だからこの仕事はちょうど良い。
○幼少期の記憶:詩織の実家(狭いアパート)
言い争う両親の会話が、まだ幼い詩織と兄の元まで聞こえてくる光景。二人は暖房もつけられない家で、布団で身を寄せ合いながら横になっている。パジャマもぼろぼろである。
母「もう、お父さんまた保証人になっちゃったの!?」
父「仕方ないだろう。困ってるっていうんだから」
母「困ってるって……あなた、酔っ払って「わかった」ってサインしただけでしょう!」
父「違う!俺はちゃんと覚えてる!」
母「そういう問題じゃないんですよ!これじゃ働いても働いても追いつきませんよ」
父「うるさい!」
母「もう……!(泣き出す)どうしたらいいの……」
モノローグ:父のようにも母のようにもなりたくない。
○一樹の家
立派な外観のマンションを下から眺めながら
(うわ、大きなマンション……)
詩織玄関のチャイムを押す
一樹「はい」
扉が開き、整った一樹の顔のアップ。
一樹はラフな私服姿。
詩織、思わず(かっこいい人……)と驚く。
詩織「は、はじめまして。今日から家政婦としてお邪魔します村瀬詩織です!よろしくお願いします」
一樹、一瞬惚けたように詩織を見つめて固まる。
一樹「ああ……村瀬さん。よろしくお願いします」
一樹に案内され家の中へ。
広いリビングダイニング、ピカピカのキッチンや洗面所などを案内される。
一樹「村瀬さんには週三日、主に掃除をお願いしたいと思っています」
詩織「は、はい。あの洗濯やお料理は……?ご要望があればと伺っていましたが」
一樹、少し考えて
一樹「そうですね。洗濯はランドリーサービスを使っているので大丈夫です。基本的に外食が多いんですが……せっかくだから作り置きも頼もうかな」
詩織「承知しました」
一樹「楽しみです」
詩織「え……?」
一樹「村瀬さんの料理」
詩織「何か食材で苦手なものはありますか?」
一樹「大丈夫です。なんでも食べます」
にっこりと笑顔を向けられて、ドキッとする詩織。
一樹「では書斎で仕事をしていますので、何かありましたら呼んでください」
詩織「承知しました」
詩織、室内の掃除(掃除機かけ、床拭き、水回りなど)を開始する。
モノローグ:今回の依頼主は三嶋一樹さん。二十八歳。独身。まだ若いのにいくつものお店を経営している会社の社長……らしい。確かにこれだけのお家に住んでらっしゃるから、お金持ちで間違いないんだろう。私とは別世界の方だ……。
詩織、知らずため息をついてしまうが、掃除を続ける。
そんな詩織の様子を、そっと書斎から出てきた一樹が熱い瞳で見つめていた。
作り置きの詰まったタッパーを冷蔵庫に詰めていると、一樹がやってくる。
一樹「美味しそうですね」
詩織「あ、ありがとうございます。お好みに合うと良いのですが。とりあえず次回までの三日分を作っておきました」
一樹「ありがとうございます。楽しみです。村瀬さんは学生さんなんでしたっけ?」
詩織「そうです」
一樹「そうですか。もし出来たら授業に支障が出ない範囲で、もう少し日にちを増やしたいんですが」
詩織「え?」
一樹「使っていない部屋の整理も頼みたくて」
詩織「希望日を言って頂ければ、私が無理でも誰か派遣できるスタッフがいると思いますので」
一樹「いえ。村瀬さんにお願いしたいので」
詩織「……え?」
一樹「でもわかりました。それでは担当の方に相談してみますね」
一樹、含みのある笑みを浮かべる。
◯帰り道
詩織(なんだったんだろう……。仕事を気に入っていただけたなら嬉しいけど)
◯次の担当日 (授業を終えた)夕方
詩織「お邪魔します」
詩織が玄関に上がると、スーツ姿の一樹。
前回と違い前髪が上がっていて、かっちりした印象を受ける。
一樹「お疲れさまです。すみません、呼び出されてしまって出かけることになりました。これ、鍵です」
詩織の手に鍵を握らせる。
一樹「終わったらコンシェルジュに返しておいてください。事情は説明してありますので」
詩織「は、はい」
一樹「持って帰ってもらってもいいんですけどね」
詩織、ぎょっとする。
一樹はそれをみて笑い、
一樹「まあその話は追々。では行ってきます」
詩織「はい。いってらっしゃいませ」
詩織の言葉に靴を履こうとしていた一樹の動きが一瞬止まり、口元が綻ぶ。
一樹「あ、料理とても美味しかったです。今日もよろしくお願いします。ではいってきます」
一樹、鞄を持って玄関を出ていく。
お辞儀をしながら見送る詩織。
詩織(お料理、口にあったみたい。よかった……)
詩織、ほっと息を吐く。
詩織(だって、あのミシマグループの社長さんだったなんて!)
モノローグ:ミシマグループは有名な飲食点を経営している会社だ。そんなプロに「料理しましょうか?」など、大それたことを言ってしまうなんて……!
詩織、自分の発言を思い出して頭を抱える。
黙々と仕事をこなしているうちに夜になる。
詩織「よし、今日はこんなものかな」
時計を確認すると十九時半。ちょうど上がりの時間だ。
帰りの準備をしていると、玄関の開く音。
一樹「村瀬さん!?」
一樹がリビングに飛び込んでくる。
詩織「お、おかえりなさいませ」
一樹「ただいま。よかった間に合った」
詩織「お疲れさまです。どうしたんですか?」
一樹「ううん。村瀬さんがいるうちに帰ってこようと思っただけ」
詩織(な、なんで……?)
一樹「あ、そうだ。お土産に……」
一樹は持って帰ってきた紙袋を差し出す。
一樹「店で出そうかと思ってるワイン。何種類か試飲したんだけど、これが1番美味しかったから持って帰ってきたんです。良かったら……」
ワインだと知った段階で、顔を強張らせる詩織。
詩織「すみません、お気持ちだけで」
一樹「ワイン、嫌いだった?」
詩織「……(ワインというか、お酒全般が……)」
曖昧な笑みを浮かべながら、小さく頷く。
一樹「そっか」
詩織「すみません」
一樹「いえ。あ、でも良かったらご家族に差し上げる、とか」
詩織「結構です!」
思わず大きな声を出してしまい、慌てて口を押さえる詩織。
一瞬、驚いた顔をした一樹だが
一樹「ごめん。無理強いすることじゃなかったね」
詩織「申し訳ありません。お気持ちはありがたく頂戴します」
一樹「ううん。村瀬さんはお酒は苦手?」
詩織「そう、ですね……。飲めないわけではないんですけど」
一樹「へえ」
詩織「飲まないようにしている、と言いますか」
じっと見つめられ、気まずい詩織は目を逸らす。
一樹「すごい酒癖が悪いとか?」
和ませるように冗談っぽく言う一樹。
詩織「ち、違います!」
一樹「あはは。冗談だよ」
詩織「もう……!」
○さらに次の担当日。夕方。
詩織、ちらりとリビングを見る。
ソファに座った一樹がタブレットを真剣な表情で見ている。
詩織(うう……なんで今日は書斎じゃないんだろ。仕事しにくい……)
そっと音を立てないように掃除をする詩織。
しかしちらっと一樹が詩織を見て、目があってしまう。その瞬間、微笑まれて、とっさに視線をそらす詩織。
心配になって目線を戻すが、一樹はすでにタブレットに集中している。
詩織(だめだめ。ささっと手際よく終わらせなきゃ)
詩織がキッチンで料理をしていると、一樹がやってくる。
一樹「いい匂いですね」
詩織「お疲れさまです。(一樹がコーヒーを淹れようとしているのに気づいて)あ、私、やりますよ!」
一樹「大丈夫ですよ。村瀬さんはお手伝いさんじゃないんですから」
詩織「でも……」
一樹「あ、じゃあ一緒に休憩しますか?それならお願いしようかな」
詩織「いえ!勤務時間ですから」
詩織がそう言うと、一樹はふむ、と考えて
一樹「村瀬さんの会社は時給制なんでしたっけ?」
詩織「は、はい……」
一樹「じゃあお願いすれば残業も可能?」
詩織「まあ……。(時間内に終わらせるのが規則だけど、急遽頼まれごとがあって超えちゃうこともあるし……)」
一樹はスマホで契約書を確認しながら、
一樹「なるほど。延長した場合は、俺から会社に報告すればちゃんと村瀬さんのお給料になるんですね……。ということで、もしもう少し大丈夫だったら、残業してもらえませんか?」
詩織「はあ……」
一樹「ちょっと気分転換したくて」
一樹、冷蔵庫を開けて箱を取り出す。
一樹「このケーキ、季節限定商品の試作なんですけどひとりでは食べきれなくて。一緒に食べて感想を教えてもらえたら嬉しいです」
詩織「え……」
一樹「なので。コーヒーお願いします」
詩織「は、はい!」
コーヒーとケーキをテーブルに置き、リビングで向かい合って座る二人。
詩織はカーペットの上に座っている。
一樹「ソファに座ればいいのに」
詩織「ここで大丈夫です(三嶋さんと並んでは座れないよ……)」
一樹「はい、どうぞ」
ケーキの乗った皿を目の前に置かれる。一樹はじっと詩織の様子を見ている。
食べないわけにはいかなそうだ。
詩織「い、いただきます……」
一口食べる詩織。
詩織「ん!美味しい……!クリームが甘すぎなくて、酸味の効いたソースと合っていてとても美味しいです!」
じっと見ている一樹に気づいて
詩織「すみません。うるさくて……」
一樹「ううん。良かった」
詩織「限定なんてもったいないくらいです」
一樹「ありがとう。担当者に伝えますね」
二人はにこやかに会話をしながらコーヒーを飲む。
詩織(ゆっくりお茶したから時間オーバーしてしまった……)
時計は二十時をすぎている。
一樹のいるキッチンを覗き、
詩織「本日はこれで失礼します。すみません、ケーキまでご馳走になってしまって」
一樹は、詩織の作った料理をつまみ食いしているところだった。
一樹「行儀の悪いところ見られてしまいましたね」
詩織「いえ。(むしろ食べてもらえて嬉しい……)」
一樹「このピクルスが美味しくて。あいそうな白ワインを開けてしまいました」
一樹はグラスを掲げて見せる。
一樹「村瀬さん、飲めないことはないって言ってましたよね……?」
詩織「え……」
詩織思わず後ずさる。
一樹「ひと口、飲んでみませんか?」
お酒を見て、詩織の記憶がフラッシュバックする。
○高校生の頃の記憶:近所の公園
コートを着た男性が、公園の水道で水をがぶ飲みしている。
通りかかった詩織、思わず「大丈夫ですか?」と声をかける。
顔を上げた男性は顔色が悪いが、とても整った顔立ちをしていた。
「大丈夫です……」と掠れた声で言うと、ベンチに移動し、そこで横になってしまった。
詩織、おずおずとそれを見送るが、気になってベンチの男を覗き込む。
詩織「飲み過ぎでしょ……」
近寄ったときにお酒の匂いに気付き、嫌そうな顔で男を見下ろす。
しかし寒そうにしているのを見て、詩織、意を決して自分のマフラーを男にかける。
詩織は自分の行動に驚き、後ずさるとそのまま駆け出す。
その拍子に定期入れが落ちる。
モノローグ:あの時だって酔っ払いにかかわったせいで嫌な目に遭ったし!お気に入りのマフラーは返ってこなかったし……!でも、綺麗な顔をした人だったな。あんな人でもお酒に逃げたくなることがあるんだろうか……。
冒頭のシーンに戻る。
過去を思い出してぼうっとしていた詩織の顎を一樹が掬い上げる。
どくん、と詩織の心臓が高鳴る。
一樹、真剣な眼差しで詩織を見つめる。
二人は今にもキスをしてしまいそうな近さ。
しかし一樹の手は、詩織から離れていった。
一樹「飲んでみる?」
掲げたグラスを詩織に差し出す。
詩織、強く首を振る。
詩織「だ、大丈夫です!」
一樹「どうして?見てみたいな、お酒を飲んだ姿」
詩織「だ、だめです!勤務中に飲酒なんて。クビになります!」
一樹ふっと笑って、
一樹「きみのことをクビにするなんてありえない。まあもしきみが俺の恋人になってくれるなら、家政婦としてはクビになるけれど」
詩織(な、何を言っているの――!?)



