初めて温室に案内された日の翌日。

 魔王の腕の中で泣きじゃくるという、父親に見られたら殺されそうなことをしでかしたせいだろうか。何かが吹っ切れてしまったエメリは、ニグラスに対する警戒がすっかり緩んでしまった。足掻いたところで魔王との結婚が覆るわけではないし、エメリの実力で魔王討伐は難しい。エメリが家族になるのなら王国に手を出さないと言う約束を、どうやら本気で守ってくれるらしいことはなんとなくわかった。それなら勇者として王国の平和を守るためには、魔王城での生活に順応した方が早いだろう。

 そういうわけで、王国に魔王と結婚することになった旨を認めた手紙をニグラスの魔法経由で送ったエメリは、改めて魔王城を案内してもらうことにした。ウキウキでエメリの手を引くニグラスに連れられて、魔王城を隅々まで回る。魔王の執務室、厨房、洗濯室、客間――。魔王城の構造も内装も、実家の屋敷や王国の王城とは異なって興味深い。その中でも、温室と調合小屋以外にエメリが一際強く興味を惹かれたのは、図書室だった。

「す、すごい……!」
「ここにある本は全部読んでいいよ。いろんな国があるから読めないのもあるかもしれないけど」
「どうしてこんなにたくさんの本があるの?」
「何代か前の魔王が変わり者だったらしくてさ。人間の書いた書物が好きで、魔王権力で魔族総出で集めさせたらしいよ」
「す、すごい……」

 勇者と家族になりたがる魔王もいれば、人間の書いた書物をここまで集めさせる魔王もいる。想像していたよりずっと、魔族にも魔王にも違いや個性はあるらしい。なんとなく、視線の先にあった一冊の書物を手に取る。もう何十年も開かれていないのか、上部には分厚い埃が積もっていた。ハンカチで拭ってから開くと、見慣れない文字が踊っている。

「それどこのだっけ……海の向こうの国かな?」
「そんなところまで本を集めに行ったの?」
「らしいよ。だから瘴気を広げる範囲も桁違いに広かったみたいでさあ」
「そ、そうなんだ……」

 魔族は瘴気のある場所でしか存在できないのでは、というのは王国では長年実しやかに囁かれてきた。魔族がどこででも活動できるのならば、魔王の誕生を待たずとも王国に攻め入ることができるからだ。そうしないのは、しないのではなくできないからなのではと王城で喧々諤々たる議論が交わされてきたのだけれど。まさかこんなところで答えをあっさり聞けるとは思いもしなかった。おまけにニグラスの口ぶりから察するに。じっと横顔を見ていると、視線に気付いたのか、「なあに?」と首を傾げる。少しだけ迷った末に、駄目元で聞いてみることにした。

「瘴気を広げることができるのは魔王だけ? 瘴気がなかったら、魔族は動けなくなるの?」
「そうだよ」
「そ、そんなあっさり」

 ニグラスの即答ぶりにドン引きするエメリ。聞いたのは自分だけれど、そんなに簡単に教えても良いのだろうか。ニグラスは、「瘴気の外でも活動する方法はあるけど、誰も選ばないんだよね」と続ける。

「どうして?」
「人間と契約することだから」
「え」

 脳裏に浮かんだのは、人間と悪魔の契約。名前をつけ、血を飲ませることで契約を結んだ悪魔は、大切な何かを捧げることと引き換えに願いを叶えてくれる。実家で見つけた古い書物に書かれた記載の、「大切な何か」が何なのか、エメリは知らない。

「人間と契約したら瘴気の外でも生きていける。けど、その代わり人間に従わないといけない」
「願いを叶える、じゃなくて?」
「物は言い様だよね。僕らからすれば、主従契約みたいなものだ」

 なるべくならそんなの結びたくないってやつがほとんどだよ、と呟くニグラス。その目は珍しくエメリを映していない。いつも真っ直ぐエメリの目を見て言葉を紡ぐのに。何か物思いに耽るような、遠くを見ているような視線に疑問を覚えた。

「……誰かと、契約したことがあるの?」
「どうして?」
「なんとなく」

 金色の瞳がようやくエメリを映す。その目は後悔と悲壮に満ちていて、昔会ったことがあるとエメリに教えてくれた日のことを思い出した。ニグラスは躊躇うように口を開いては閉じを繰り返し、やがて俯いてエメリの手を取る。にぎにぎと握りながら、「あるよ」と呟いた。

「不可抗力でだけど」
「破棄することはできないの?」
「……できない」
「どうして?」

 尋ねると、握る手に力がこもった気がした。俯いたままのニグラスの表情は窺えない。ニグラスが人間の誰かと契約関係にある。エメリには関係ないはずなのに、どうしてか他人事だとは思えなかった。

「ニグラス?」
「人間と契約したら、その人間の寿命が尽きるまで破棄できない」
「え」
「殺して破棄することはできない。契約主が寿命以外で死にかけたら、僕の生命力を渡すことになってる」

 代わりに寿命が尽きたら魂を貰えるけどね、と静かに告げるニグラス。その顔をどう形容したらいいのか、エメリにはわからなかった。

「……そう、なんだ」

 ようやく絞り出せたのはたったそれだけ。たった一言だけ。ようやく顔を上げたニグラスが、「温室、行こっか」と呟くまで二人とも何も言わなかった。

 *

 温室に着く頃には、ニグラスはいつもの調子を取り戻していた。エメリのために作ったという温室を紹介できることが、よほど嬉しいのだろうか。魔王城のどこを案内するときよりもウキウキしているように見える。

「これ、本当にニグラスが作ったの? どうやって? 魔法?」
「魔法だよ。僕は土地を耕す魔法が得意だからね」

 なんだか意外な特技に目を丸くする。魔族の本分は破壊だとすら思っていたのだけれど、土地を豊かにすることを得意とする魔族もいるらしい。それなら、と思い浮かんだことをそのまま口にする。

「じゃあ、ニグラスの魔法なら黒い森の範囲を広げることもできるの?」
「できるけど……どうして?」
「瘴気がないと魔族は活動できないから、瘴気を発する黒い森の中でしか生きていけないんでしょ?」
「うん、そうだよ」
「魔王は瘴気を広げることはできるけど、いつまでも生きているわけじゃない」
「うん、そうだね」
「それなら、黒い森を広げることができるうちに、活動領域を広げられるように他の魔族から言われるんじゃないかなって思ったんだけど」

 違う? と尋ねると、ニグラスは複雑そうな顔をした。もにょ、といじけたように口を尖らせている。

「違わない、けど」
「けど?」
「僕の言ったこと忘れたの?」
「え? ……わっ」

 ニグラスはエメリの両頬を両手で挟むと、ぐい、と上を向かせる。ほんの少し怒っているようだ。

「エメリが家族になってくれるのなら王国には手を出さない、って言ったでしょ? それは、瘴気を広げることも、黒い森の範囲を広げることもしないってことだよ」

 わかった? と言い聞かせるように告げるニグラスに、「わ、わかった」と頷くとそのまま唇を塞がれた。触れるだけだったけれど、勢いが強かったのか歯が当たってカツンと音が鳴る。ほんの少し痛い。慌てて体を離したニグラスが、「ご、ごめん。痛くない?」と謝るニグラスにぼんやりと頷いた。初夜以降そこまで時間は経っていないけれど、キスぐらいはなんでもないかと慣れてしまったあたり勇者の順応性は高い。それよりも、「瘴気を広げることはしない」という言葉が頭の中で回った。わかっていたことだけれど、魔王はやっぱり約束をきちんと守ってくれるつもりらしい。ほっと胸を撫で下ろすと同時に、あることが気になった。

「黒い雲が王国を覆ってたけど、あれはどうなったの?」
「あれは……魔王が誕生したよっていうお知らせみたいなものだから、瘴気とは関係ないよ」
「お知らせ!?」

 王国の人々は怯えていたというのに、あれは魔王誕生通知だったのか。「魔王の誕生と一緒に生まれる雲だから、そのうち消えるよ」と言われ、息を吐く。暗雲が立ち込めているせいで、連日王国には日が差さなかった。胸の塞がるような、暗く沈んだ気持ちはもうすぐ晴れるのだろうか。そうだと嬉しい。「よかった……」と呟いていると、ニグラスはニコニコと微笑む。

「……エメリは、すごいね」
「な、何が?」

 唐突に何を褒められたのか分からず首を傾げるエメリ。ニグラスは微笑むと、エメリの左手を取った。初夜直前に双子の侍女がクリームを塗りこんでくれたけれど、それだけでどうにかなるものではない。相変わらず、手のひらはマメだらけでカサついている。キラキラと薬ゆびで輝く指輪が、変に浮いてしまっているようだ。まじまじと見つめられるのが居心地悪くて引っ込めようとするけれど、離されることはなかった。

「この手のひらは、やりたくなくても、向いてなくても、それでも勇者になろうとして頑張ってきたことの証だ」

 そっと手のひらを撫でると、そのまま口付ける。昨日もされたことのはずなのに、昨日よりも頬が熱い。頬だけでなく目の奥も熱くて、わけもなく大声で泣き出したくなった。

「エメリは立派な勇者だよ。魔王の僕が認める」
「なに、それ」

 魔王お墨付きの勇者だなんて聞いたことがない。変なの、と笑い飛ばそうとしたけれど声が震えてできなかった。