双子とマルコとのお茶会を終えたエメリは、ニグラスを探していた。会ってどうするかも、なにを話せばいいのかもわからない。けれど、無性に会いたかった。いつもみたいに名前を呼んで、目を見つめて、話を聞い欲しかった。ニグラスがどこにいるのかは知らない。けれど、エメリの足は確実に目的を持って歩みを進めている。

「なんでだろ……」

 いつからかはわからないけれど、ニグラスの居場所をなんとなく感じられるようになっていた。具体的な場所がわかるのではなく、こっちにいそう、と言うふわっとしたものだけれど。磁石に吸い寄せられるようにふらふらと歩いていると、目的地に辿り着く。――温室だ。

 ガラスの扉を開ける。湿った土と、濡れた草の匂い。ここ数日ですっかりお気に入りの場所になった温室。守護の力があるエメリは、瘴気に満ちた黒い森でも気分が悪くなることはない。けれど、他の場所よりもずっと呼吸がしやすいのは、単に好きな場所だからというわけではないのだろう。温室の中心に、無性に会いたかった人が立っている。魔法をかけているのか、口元がぶつぶつと動いているのが見えた。ふう、と一息つくのを見届けてから声をかける。

「ニグラス」
「やあ、エメリ」

 来ることがわかっていたのだろうか。たいして驚いた様子も見せずにニグラスは振り向いた。ざくざくと土を踏み締めて歩み寄るエメリを、その場で待ってくれる。目の前で足を止めて見上げると、ニグラスはニコニコと見下ろしていた。エメリの言葉を待っているのか、何も喋らない。

「えっとね……」
「うん」

 ウロウロと視線を彷徨わせながら言葉を探す。会ってどうするかも、何を話せばいいかも、結局道中では決まらなかった。名前を呼ばれて、目を見つめられて、目的の半分以上は果たされている。あとは話を聞いてもらうだけなのに、聞いてもらいたいことはたくさんあるはずなのに何から話せばいいのかわからない。無意識のうちに視界には靴先が映る。ニグラスと結婚したときに、大量の服と一緒にプレゼントされた靴の一つ。温室に来るには向かないとわかりきっていたのに、履き替える考えすら頭に浮かばなかった。

「なんかあった?」
「!」

 見かねたのか、そう尋ねられた。無言で頷くと、エメリの頬を包むように手のひらを添えた。相変わらず温かくて、魔王の手とは思えない。金色の瞳がエメリを見つめる。頬にあたる指輪の感触に、心臓がソワソワする。

「マルコになんか言われた?」
「へっ」
「リリとリムも一緒だから大丈夫かなって思ってたんだけど、どうする? 殴っとく?」
「ぶ、物騒……」

 たまに出るニグラスの魔王っぽいところが存分に出ている。初対面時にニグラスの触手でぶん殴られていたマルコだけれど、このままエメリがゴーサインを出せばまた殴られるのだろうか。それはあまりにも不憫なのでぶんぶんと首を振り、「それはしなくていい」と返した。

「そう? 気が変わったら言ってね」
「変わらないよ……」

 眉間に皺を寄せるニグラスは魔王然としていて、マルコどころか双子までも「舐めた真似をするな」と釘を刺してきた理由がよくわかる。エメリの頬をむにむに弄びながら、「やっぱマルコは油断ならないなー」と呟いているのを見て、はっと疑問が湧いた。

「なんで知ってるの?」
「うん?」
「なんでお茶会にマルコも一緒にいたって知ってるの?」

 双子といたことを知っているのはわかる。お茶会に連れ出すエメリを見送っていただのから。けれど、そのあとマルコが来たことは知らないはずだ。思えば、魔犬に襲われたときも、マルコと初めて会ったときも、ニグラスはエメリの前に颯爽と現れた。タイミングが、少々良すぎるぐらいに。

「あー……」

 じ、と見つめると、ニグラスは罰が悪そうに目を逸らした。後ろめたいことがあるかのように、視線は明後日の方を向いている。「なんて言ったらいいんだろうな……」と呟いているあたり、説明はしてくれるつもりなのだろうけれど、きっとエメリにとってはあまり楽しい話ではない。無言で待っていると、観念したかのように口を開いた。

「魔王になると、他の魔族の場所は探そうと思えば探知できるんだよ」
「魔王特権で?」
「魔王特権で」

 魔族を統べる魔王は、思っているよりずっと魔族に対する影響力が強いらしい。居場所を探知できるほどだとは思わなかった。探そうと思えば、と言っていたあたり、常に居場所が流れてくるわけではなさそうだけれど、それでもできることは幅広い。魔犬やマルコの位置がわかったのは納得した。けれど、それで全て理解したわけではない。

「私の位置もわかってそうなのは、どうして?」
「……」

 エメリの質問に、ニグラスは口を閉ざす。ニグラスが魔王として魔族の位置を把握しているのは理解できた。けれど、それならどうしてエメリのピンチにいつでも駆けつけるのか、お茶会中にマルコの位置を探ろうと思ったのはどうしてか。疑問が一つ解消されると、新たな疑問が生まれる。エメリの両頬を挟んだままのニグラスは、渋面と言うに相応しい表情を浮かべていて、今角に触れたら気まずさが伝わってきそうだ。

「……怒らない?」
「場合による」
「えー……」

 そこは嘘でも怒らないって言ってよ、と弱々しく告げるニグラスは観念したように息を吐いた。

「エメリには僕の魔力を注ぎ込んでるから、居場所と近くにいる魔族が誰かはなんとなくわかるんだ」
「い、いつの間に!?」

 思わず叫んでしまう。魔王の魔力なんてものを、一体いつの間に注がれていたのだろうか。というかどうやって、と目を剥いているとニグラスはほんの少し顔を赤くして呟いた。

「夜の間に」

 右手だけ頬から離して、エメリの下腹部をとん、と指差す。その短い言葉と仕草だけで、魔力をどう受け取っているのかを察してしまった。「あと指輪にも僕の魔力込めてるし」と言っているけれど、時間が止まったかのようにフリーズしているエメリの頭にはあまり入ってこない。お茶会でのやり取りから芽生えた悩みのようなものは吹き飛んでしまった。ニグラスとのこれまでの日々が脳内を駆け抜け、言いたいことと聞きたいことが山のように生まれる。けれど、結局口から出たのは一言だけだった。

「き、きも……」

 ぽろりとこぼれ落ちてしまった言葉に、「ええ!?」と今度はニグラスが目を剥いた。「あ、ごめん、思わず」と返すと、「思わずって何!? 思わず本音が出たってこと!?」と叫んでいる。冷静さを欠いた人が目の前にいると、途端に自分の方は冷静になって行くのはどうしてなのだろうか。
 
「や、えーと……ごめん」
「謝られると逆に傷つく!」

 なぜエメリが謝り、ニグラスが傷ついているのかよくわからない。普通逆じゃないのか、と今や顔を真っ赤にしてわあわあ騒いでいるニグラスを見ながら思う。前々から、ニグラスとの行為後になんとなくお腹の辺りが熱くなるのは感じていた。性的な知識に乏しいエメリは、「そういうものなんだな」と勝手に納得していたのだけれど、どうやらそういうわけではないらしい。魔族の、それも魔王の魔力を胎に注がれているからだったのだ。こんな情報はどこの国の書物にも書いていないだろう。そもそも誰が知っているというのか。

「エメリ」

 ひとしきり騒いでようやく落ち着きを取り戻したのか、ニグラスは赤い顔のまま名前を呼ぶ。なんだろう、と思わず緊張して、「な、何?」と返すと、左手を握られて角へと誘導された。触れた手のひらはいつだったかと同じぐらい熱くて、エメリに対する申し訳なさと気恥ずかしさのようなものが伝わる。

「わかる?」
「え?」
「前よりも、ちょっと細かく伝わるようになったのわかる?」

 ニグラスの言葉に、言われてみればと思い至った。以前もごちゃ混ぜになった感情は伝わってきたけれど、今ほども細かい機微はわからなかった気もする。「だいぶ僕の魔力が馴染んできてるからだと思う」と補足したニグラスに、なるほどと納得した。いつの間にかエメリの体には魔王の魔力が注ぎ込まれ、魔力の源である角に触れれば細かい感情まで伝わるようになっていたらしい。一方のニグラスは、注ぎ込んだ魔力を媒介にエメリの居場所を特定して、魔王特権で他の魔族の居場所まで把握してエメリの安全を確保してくれていた。全て納得したけれど、それはそれとして、だ。

「気持ち悪い」
「今度はそんなはっきりと!?」

 わかりやすく衝撃を受けるニグラス。瞳にはうっすら涙が浮かんでいる。やっぱり魔王らしくないなこの人、と思った。魔力を注ぐのなら、ずっと黙っていればよかったのに。エメリの場所がわかるのはどうしてと聞かれても、シラを切り通せばよかったのに。そうしないあたり、変なところで魔王らしくなくて、エメリに嘘がつけないからなのだろう。

「ご、ごめん本当に。エメリが嫌ならもうどこにいるのか探知しないし、中に出すのもやめるから……」
「……いいよ」
「え?」

 魔族による魔力の注ぎ方も、それを使ってエメリの居場所を頻繁に確認していることも、もっとやりようはなかったのだろうか。避妊しないのは魔族と人間が子作りしても実らないからなのかな、とぼんやり自己完結する前に理由を尋ねれば良かったのかもしれない。けれど、「だいぶ馴染んできてる」とまで言われてしまったのだ。今更考えたところで仕方のないことだろう。それに。

「気持ち悪いけど、嫌じゃないからいいよ」
「……人質だから逆らわない、じゃなくて?」
「うん」

 正直本当に気持ち悪いと思ったし、心の底から引いたけれど、嫌ではなかった。嫌いにはなれなかったし、ニグラスのことを好きになると宣言した気持ちにも変わりはない。どうしてか、と聞かれれば説明に困るけれど。確かなことは一つ。ニグラスだからだ。

 ――じゃあ例えば、俺がお前のこと好きつったら俺のこと好きになんのか?

 つい数十分前、エメリを大いに悩ませた質問に、今なら即答できる。否だ。例えばマルコが魔王だったとして、エメリに結婚を持ち掛けたとして、ニグラスと同じことをしたとして。マルコのことを好きになろうなんて思わなかっただろうし、仕方ないと許すこともできなかっただろう。根拠も理由もないけれど、ニグラスがニグラスだからエメリは好きになろうと思えるのだ。

「角、触ってもいい?」
「えっ!? あ、うん、いいよ」

 顔を赤くしてドギマギしているニグラスの角に触れる。手のひらから伝わる温度はやはり暖かくて、エメリの言動に期待したい気持ちが伝わった。手のひらに触れる暖かさも、伝わる感情も嫌ではない。きっとそれが答えだ。