春上さんが去って静かになった店内に、ドアベルの音が大きく響いた。
「涼くん」
カウンターの上で祈るように組まれた手を解いた優香さんが、いつになく真剣な表情で僕の目を見てきた。
「なんですか?」
優香さんが、大人びた赤い唇をなめる。舌が触れたところだけ赤色がとれて素の色が覗いている。
「これ、お父さんの店」
そう言って優香さんが向けたスマホの画面には、筆記体の『Maison le printemps』と、淡い青色の庇を掲げた白い建物の画像があった。
「おしゃれな店…」
中学生男子には、地球と冥王星くらい遠い世界だ。
「あたしが小2の時にお父さんが作ったお店。あたしは好きなんだけど、お母さんは不服だったのかな」
「『優香もまだちっちゃいんだから、不安定な仕事に就かないでよ』って、夜中に喧嘩してた」
まるで遠くの星の昔話を聞いているように、現実味がない。
「色々ごちゃついて、やっと去年離婚成立。」
優香さんが飄々とそう言い放った声が、空虚に店内に響いた。
「そうなんですね…」
俯いた視線の先で、手元のホットサンドが上げる湯気の勢いがだんだん弱まっていくのがわかる。
「なんだかんだ今の生活も嫌いじゃないし。いただきまーす」
切り替えスイッチを押したかのようにへらりと笑った優香さんが、手元のホットサンドを大きくかじる。
【日月光太郎 明日、クラスの…】
スクールバッグの奥底にしまっていたスマホを手に取って、日月とのLINEのトーク画面を開く。
【明日、クラスの男子で打ち上げする予定やけど、お前も来る?】
どこか聞く前に、日月から追加のメッセージが送られてきた。
【駅前のラウワンの予定】
指先でキーボードを立ち上げ、【行く】と打ち込む。
少し迷ってから自転車の絵文字もつけ、送信ボタンをタップする。
僕のシンプルな返事に、日月からリアクションが着く。
「明日卒業って、実感ないよね。卒業式練習でメモリアルムービー見せられたけど、1年の時のあたしたち全体的にちっちゃかった」
早口でつらつらとそう言い放った優香さんが、手元のホットサンドをあっという間に平らげる。
そして彼女は、制服の緑色のチェックのスカートを翻して『Cherry』を出ていった。
ドアベルが1人きりの店内に虚しく反響した。



