Cherry Boy


「はえー…」

『古都琴子は好きに生きるので、悪しからず』を読みながら謎の声を上げていると、からんころんという丸いドアベルの音とともに猫背のパーカーの女性――井倉が『Cherry』に入ってきた。

「ウィスキー、ロックでひとつちょうだい」

僕の隣にどすっと腰を下ろすと、「聞いてよ、えのちゃんー」と井倉が早々に愚痴を垂らし始めた。

「この前の期末の平均点見てたら、3組の理科だけ低いし長瀬先生に負けてたし。鬱だー」

長瀬は、僕の1年生の時の担任であり、ずっと白衣を着ているパパさん先生だ。体育祭や合唱コンではガチりすぎて生徒よりもはしゃいでいたような気がする。

「3組のやつらはほんとに理科の勉強してるのー?」

数口ウィスキーを飲んだだけで頬をすっかり赤く染めた井倉が蠱惑(こわく)的な瞳でこちらを見てくる。

「え、あ、まあはい。やってはいますけど」

井倉の学校でのクール――と言ったら聞こえはいいけど、少し陰気さが漂う態度とはあまりにもかけ離れすぎていて、混乱してしまう。

人間味のない『先生』という存在は、ちゃんと意思を持っていて愚痴も言うんだな、とぼんやり思いながらノンアル・カシスオレンジを目の高さまで持ち上げると、グラスに閉じ込められた夕焼けが溶け合って茶色っぽい色になっていた。

その色彩を見た僕はそこで我に返り、慌ててスマホを手に取って時間を確認した。

現在時刻は17時46分らしいが、家を出てからあまり時間がたっていないような気がする。

スマホを伏せて置き、ふと『Cherry』をぐるりと見渡すと春上さんはカウンターに突っ伏して眠っていた。

井倉は「やっぱり納得いかないんだよなー」とぶつぶつつぶやきながらなめるようにウィスキーを飲んでいる。

その頬は真っ赤で、お酒を飲み慣れていないのがよくわかる。

「先生、もうちょっとアルコール度数が弱いのを飲んだらいいんじゃないですか?真っ赤ですよ」

そう指摘すると、「ウィスキーのロックを飲めるようになりたいから飲むんだよ」とよくわからない返答が返ってきた。

「そういうものなんですね、あ、へー…」

意味もなくカクテルグラスを揺らしながら適当な相槌を打つと、なんとなく井倉の気持ちがわかったような気がした。

すっかり汚い色になってしまったノンアル・カシスオレンジをぐびっとあおり、僕は席を立った。

「少年、もう帰るのか。まあ、初恋頑張れよ」

カクテルグラスを洗いながら浩さんが鷹揚に笑う。

同級生に恋愛のことをからかわれるのは死ぬほど恥ずかしいし、正直苦手だけど、浩さんだったらあまり恥ずかしいという感情がわいてこない。

またPayPayでモクテル代の660円を支払い、「ありがとうございました!」と丁寧にあいさつして僕は『Cherry』を後にした。