母親には塾に行けと言われてしまったけど、はたから行く気はない。
目的地はたった一つ、『ナイトバー・Cherry』だ。マスターの浩さんに『いつでもおいで』と言われたのでお言葉に甘えて行くことにする。
途中までは塾に行くのと同じ道で、塾の近くの横断歩道付近にある細い路地裏に入る。
小さな罪悪感で胸をばくばく鳴らしながら、僕は『ナイトバー・Cherry』の扉を開けた。
「いらっしゃーい。あれ、浩、新しいがきんちょかい?」
カウンターの奥から聞こえてきた声は、昨日初めてここに来た時とは違う、低くてぶっきらぼうな声だった。
その声といっしょに、食欲をくすぐる香ばしい匂いと何かが焼けるような音もする。
「そうそう。中3の男の子」
「へー。あ、申し遅れました。僕、料理人の春上俊也です。ミシュラン一つ星取ったことあるっす」
男性にしては長めの髪を無造作に束ね、アイボリー色のエプロンをつけた40代くらいのおじさんがふざけたように敬礼する。
「あ、どうも…」
「僕も自己紹介があんまりできてなかったな。改めて、榎野瀬浩です。元精神科医の50代のおっさんです」
へー、浩さんって元精神科医だったんだ、かっこいいなー、と思っていた僕だったけど、『50代』というところでびっくりしてしまった。
「本当にそうなんですか?めっちゃ若い…」
肌つやがよく、シワやシミも少なくて髪も豊かに茂っているので、てっきり30代くらいかと思っていた。
「ははっ、若く見られるのはうれしいなぁ」
すっかりご機嫌な浩さんが、好きなとこ座ってくれよー、とカウンターを手で指し示していく。
僕はカウンターのど真ん中に座って荷物を膝に置き、手を組み合わせて俯いていると「おーい、がきんちょ」と春上さんが僕の顔の前で手を振った。
「おなかすいてるんだったら、オニオングラタンスープとかいるか?」
答えられずに俯くと、「ほい」という声とともに僕の前に小さな器が差し出された。
チーズとパセリが載った、こんがり焼けたバゲットの隙間から琥珀色に透き通ったスープがのぞいている。
「がきんちょ、なんかあったろ」
がきんちょ呼びを変えるつもりはないらしい。春上さんが食器類を洗いながら心配そうにこちらをのぞいてくる。
「親に怒られて、『塾で勉強してこい』って…」
幼稚な自分が恥ずかしすぎて、もごもごと口ごもっていると「いやー、青いね」とカクテルグラスを拭いていた浩さんが笑った。



