「水溶液中で電離して水素イオンを生じる物質を酸といい…」
理科の教科担任である井倉の話を右から左に聞き流しながら、僕は左隣に座る花宮桜羽の横顔をこっそり眺めていた。
細いフレームの丸メガネに、奥二重のあどけない瞳を彩る長いまつげ。なぞりたくなるほど美しいフェイスラインに、ダークブラウンのストレートヘア。そして、ぶかぶかの白い不織布のマスク。
ひとしきり花宮さんの横顔を眺めると、次は隣の席に広げられたプリントに目線を移す。
僕の乱雑なプリントとは正反対に、彼女のプリントは硬筆のお手本のような字で丁寧にまとめられていた。
合唱コンクールで担任から配布された楽譜を彷彿とさせるその文字を見ていると、僕はふと彼女が合唱コンクールの吹奏楽部の発表でトランペットを吹いていたことを思い出した。
あのまっすぐな背筋と、音をまっすぐに飛ばす姿が、僕の脳内の中でなんとなく重なる。
彼女の硬筆のお手本のように整ったプリントを見ていると、教室の前方から「おいお前ふざけんなよ!」と声が聞こえてきた。
顔を上げると、窓から3列目の最前列に座っている矢島海晴が、日月光太郎の肩を小突いているところが見えた。
「えー、チェリーボーイってそんな意味なん?」
矢島の後ろに座る女子生徒――本宮陽葵がそう言った。
後れ毛一つなくきっちりと束ねられたポニーテールを揺らしながら、興味津々という様子で矢島のPCをのぞき込んでいる。
「授業中じゃなくて、休み時間に調べなさい」
教壇から降りてきた井倉が、前から矢島のPCをのぞき込んでにこにこと笑った。
その笑顔は、まるで何も知らないふりをしているように見えたけど、僕には確信犯にしか思えなかった。
「いや、マジでやばいねんけど…」
矢島が苦笑いしながらおにぎりのような坊主頭をかく。教室のあちこちから、くすくすと笑い声が漏れた。
僕もそちらの方に向くと、ベージュのセーターに包まれた花宮さんの肩がわずかに震えているのがわかった。
口元を抑えて笑いをこらえているのだろうけど、マスクの下の顔がほころびているのがなんとなく想像できる。
「授業追いつかないから、戻るよー」
教卓に手を置いて、井倉が声を飛ばす。
みんなは普通にノートをとって、律儀に前を向いている。
でも僕は、花宮さんの静かな笑みを見てしまったせいで鼓動がいつまでも落ち着いてくれなかった。



