名無し

ふと、婚約者さんがこちらを見た。


パチッと目が合って、反射的に逸らしてしまった。


けれども、婚約者さんは微笑んだまま静かに立ち上がり、私の方へと歩み寄ってきた。


畳を踏む音が少しづつ大きくなって、花の香りが近づく。


こんなに綺麗な人が私なんかに用があるはずない。と思っていた。


すると、婚約者さんは微笑んで「こんにちは。お邪魔してます。」と礼儀正しく頭を下げた。


完璧な所作


その綺麗な姿に見とれていた。


反応がない私にこてっと頭を傾げた婚約者さんに気づいて、慌てて頭を下げた。


こんなにも綺麗な人とは立場が違うと痛感した。


後ろにいる彗を見ると、静かにこちらを見ていた。


何も言わないが、ほんの少しだけ視線が鋭い気がした。


感情が読めない。


もしかして、変なことしたかも...


婚約者さんに視線を戻すと、私をじっと見つめていた。


なんだろう。


そう思って 、「なにか顔についてますか...?」と聞いた。


「あぁ、ごめんなさい!!昔、一緒にいたこと顔が似ていて。お名前なんて言うの?」


「黒田 澪です。」


すると、婚約者さんは驚いたように目を見開いた。


どうしたんだろう?


「昔、同じ名前の子がいて。」


そう言って、私の目の前に座ると「少しお箸を聞いて貰えないかしら。」


婚約者さんは静かにぽつりぽつりと話し始めた。


ーーー
ーー


幼い頃、私は何でも持っていた。


大きな家も、整えられた未来も、決められた婚約も。


でも――


自由だけは、なかった。


あの日、庭の隅でうずくまっていた小さな女の子を見つけたとき。


どうしてか、目が離せなかった。


誰もいないのに、泣くこともできずに、ただ黙って空を見ていた。


「ねえ、一緒に遊ばない?」


そう声をかけたのは、きっと私の方が寂しかったからだ。


彼女はあまり笑わなかった。


でも、たまに見せる小さな笑顔が、宝物みたいだった。


私が知っている世界とは違う話をしてくれた。


つらいことも、怖いことも、何も隠さず。


それでも彼女は、誰よりも優しかった。


私は、あの子が好きだった。


守ってあげたいと思った。


けれど――


ある日、父に呼ばれた。


「あの子とはもう会うな」


理由は聞かなかった。


聞いても無駄だと知っていたから。


家と家。

立場と立場。


私の世界では、それがすべてだった。


それでも、こっそり会いに行こうとした。


でも、もう彼女はいなかった。


いなくなっていた。


謝ることも、さよならも言えないまま。


私はその日、初めて知った。


守れないものがあるということを。


そして――


私には選べない未来があるということを。


それからずっと、心のどこかに引っかかっていた。


あの子は、ちゃんと生きているだろうか。


幸せになれているだろうか。


もしもう一度会えたなら。


今度こそ、ちゃんと向き合えるだろうか。


けれど。


再会した彼女は、私が望んだ形では、そこにいなかった。


ーー
ーーー