放課後の音楽室で、先輩の声が響いた。
「最後に、1年生に向けて説明します。新緑学園吹奏楽部は、8月のコンクールで金賞を狙います。2、3年生は全員出場しますが、1年生の『何人か』にもコンクールの出場メンバーになってもらいます。オーディションは1か月後の6月に行います」
わたし、有栖ゆい。中学1年生。
今年の4月からクラリネットを吹き始めた、まだまだ初心者。
初心者だけど、コンクールには出たい。
わたしもその熱気に触れてみたい。チームに貢献してみたい。
1年生たちはみんなお互いを見て、「わたしこそがコンクールに出るんだから!」と言わんばかりに視線を送り合っている。
わたしはクラリネットをぎゅっと握りしめる。頑張るぞ、6月のオーディション!
―――そんなことを考えつつも、わたし、実は他にも夢中になってるものがあるの…。
それは、今日の昼休みにさかのぼる。
わたしは職員室に来ていた。
(琴宮先生、いるかな?)
琴宮先生。琴宮光先生。
わたしの初恋の相手。
新緑学園のOBの大学1年生で、水曜日だけバイトで私たちに勉強を教えに来るんだ。
(あ、いた!)
わたしは心の中で声を上げた。
すぐに琴宮先生に駆け寄っていく。
「琴宮先生、こんにちは!」
わたしは元気に挨拶する。
「有栖さん、こんにちは。今日もわからないところがあるの?」
「はい! ここの方程式がわからないんですけど…」
琴宮先生は振り向いてわたしに優しい笑顔で言った。
わたしは琴宮先生が好きだ。それも完全な一目惚れ。
4月の放課後自習室で数学の問題を解くのに悩んでたら声をかけられて、その佇まいに、話し方に、そしてその顔にすっかり一目惚れしてしまったの。
琴宮先生はすっきりと通った鼻筋と、笑うと無くなってしまうような少し細い目が特徴的だ。そして口元には小さなほくろがある。
わたしはいつも勉強でわからないところを聞くことを口実として、琴宮先生に職員室に会いに行く。
琴宮先生はわたしのことを、きっと勉強に熱心な生徒としか思っていないだろう。
(いつか恋が実ってほしいな…)
今は職員室に会いに行くだけで満足だけど、そのうち満足できなくなっちゃったらどうしよう…!?
この恋を進展させるには、どうしたら良いのかな?
そしてもしこの恋が進展して、琴宮先生とデートができたら?
どこに行くだろう? 水族館? 映画館?
「有栖さん、わかった?」
「あ、わ、わかりました!」
自分で言うのもなんだけど、わたしは妄想癖がある。
琴宮先生が好きになってから、頭の中は大忙しだ。
もう、わたしには吹奏楽のコンクールもあるのに…。
「おーい、ゆい。先輩の話終わったよー」
「はっ!?」
親友の神谷佐紀の声で、わたしは我に返った。
そうだ、わたしは部活で先輩の話を聞いてたんだった。
佐紀はボブの髪をファサ、と手でなびかせた。
「ゆいはいつもぼーっとしてるんだから。もう部活終わったよ。帰ろう」
「う、うん! 帰ろう!」
しっかり者の佐紀の担当楽器はトランペットだ。
佐紀は小学生の時からトランペットを吹いているから、オーディション合格間違い無し。
わたしはあわてて楽器を片付け始めた。
帰り道、わたしと佐紀は琴宮先生の話をしていた。
わたしは佐紀に琴宮先生のことを逐一報告している。
「ねえ、佐紀。琴宮先生との恋って成立すると思う?」
わたしは成立すると思う。
だって、現にわたしは琴宮先生のことが好きなんだもん。
このままアタックしていけば、きっと琴宮先生もわたしのことを好きになってくれるんじゃないかな。
わたしはそう信じていた。
「わたしは成立しないと思うな」
佐紀は残酷にもそんなことを言った。
「ええ!? なんでえ!?」
わたしは驚きにも絶望にも似た声をあげる。
「だって、琴宮先生って大学生でしょ。中学生と大学生の恋なんて成立しないよ」
佐紀はため息をついて、さらに続ける。
「憧れるのは勝手にして良いけど、現実を見た方が良いよ」
わたしは夢見がちすぎるかもしれないけど、佐紀は夢が無さすぎ。
大体、年の差恋愛って、すごいロマンがあるっていうか…。
自分がその立場に置かれているというだけで、胸が高鳴る。
これが恋に恋してるっていう状況なのかな?
「あ、ゆいのことだから、年の差恋愛に燃えちゃったりしてるんでしょ」
図星だった。
私は顔を真っ赤にしていたと思う。
「なんでわかるのー!」
「伊達にゆいの親友やってませんから。琴宮先生って良い人だと思うけど、大学生なんて大人だよ。色々な面があるかもしれないよ」
「もう、佐紀は心配性なんだから…」
琴宮先生はそんな人じゃないんだから。
こうして、わたしたちは中学生と大学生の恋愛について、あれこれ語り尽くして、それぞれの家に帰った。
次の水曜日の朝。わたしは念入りに身だしなみチェックをしていた。
今日も琴宮先生に課題を聞きにいくんだ。身だしなみはきちんとしないといけない。
私は伸びた髪を何度もくしでとかして、寝ぐせを直した。
そして耳元にヘアピンをつける。
(よし、今日も身だしなみばっちり!)
わたしは今日も琴宮先生に会えるという喜びを噛みしめる。
「行ってきまーす!」
家を出ると、既に佐紀がわたしの家まで迎えに来ていた。
佐紀とわたしは家が近いから、いつも一緒に登下校をしているんだ。
「おはよー」
「おはよう、佐紀!」
わたしたちは学校に向かって歩き始めた。
「ねえねえ、最近の1年生のバチバチ具合、やばくない?」
「あーわかる。1年生のオーディションのせいだよね…」
まったく、琴宮先生にオーディションにと本当に忙しい。
しかし楽器の練習の手を抜く訳にはいかない。
でも楽器は音が響くから夜に家で練習するわけにもいかないし、普段の部活での練習で差をつけていかないと…。
「でも佐紀はいいじゃん。小学校からやってるんだから、高見の見物でしょ」
「まあね。でも、ゆいと一緒にコンクールの舞台に立ちたいな」
そう言われると、やる気がわいてくる。
わたしも佐紀と一緒にコンクールの舞台に立ちたい。一緒に金賞を獲りたい。
「わたし、頑張るよ! 絶対にコンクール出場メンバーになる!」
「おっ! その意気だよ! お互いがんばろ!」
わたしは佐紀とハイタッチをした。
もうすぐ学校に着く。今日も1日が始まる。
昼休み、わたしは早速琴宮先生に会いに職員室にやって来た。
琴宮先生の席の方を見ると、琴宮先生は丁度昼食を食べているところだった。
食べているのは手作りのお弁当だ。曲げわっぱのお弁当箱にお米とおかずが丁寧に入れられている。
まさか彼女作…!? わたしは背筋が凍る。
「琴宮先生、お食事中すみませーん!」
わたしは琴宮先生に聞いてみることにした。琴宮先生の彼女事情、絶対に気になる。
「ああ、有栖さん。ごめんね、食事中で」
「こちらこそすみません! 先生、お料理されるんですか?」
わたしは「彼女」という単語を出さず、さりげなく聞いてみることにした。
「お弁当は毎日自分で作るかな。節約にもなるし」
「へー! そうなんですね!」
ほっ。一安心。
彼女なんていたら、コンクールどころではない。一生枕を濡らしているところだった。
せっかくお弁当の話題になったし、好きな食べ物を聞いてみることにした。
「先生、好きな食べ物は何ですか?」
「僕の好きな食べ物? そうだなー、ラーメンかな」
「ラーメン!」
ちょっと意外。もっとおしゃれなものが好きかと思ってた。同じ麺類でも、パスタとか。
しかしわたしの妄想センサーは早速作動する。
夜、琴宮先生と一緒に先生おすすめのラーメン屋さんに行くの。そこでおすすめのトッピングを教えてもらって、それで…。
「有栖さんは好きな食べ物、何?」
わたしの好きな食べ物に興味を持ってくれた!
それだけで気分が上がってしまう。
「わたしはだし巻き卵です!」
「えーっ、渋っ!」
「よく言われます!」
「何でだし巻き卵が好きなの?」
「渋っ!」なんてリアクションする琴宮先生、初めて見た。
なんだか距離が縮められているようで、嬉しい気持ちになる。
しかも、好きな理由まで聞いてくれた。
「調理実習でうまく作れたからです。家でも作ったら、大好評だったんですよ!」
「あー、なるほどね」
わたしは琴宮先生にもだし巻き卵を作ってあげる光景を妄想した。
琴宮先生も調理実習の班の子や家族みたいに、「おいしい」って笑ってくれるの。
…なーんて。
今日は琴宮先生とすごく仲良くなれた、気がする。
「それで、ごめんね。今日も課題の質問だった?」
「いえ、急いでないので大丈夫です。お食事中失礼しました!」
職員室に長く居座り過ぎない。これも琴宮先生から好かれるためのポイント。…たぶん。
わたしは「ありがとうございましたー!」とだけ言って職員室を出た。
琴宮先生は不思議そうに会釈をしてくれた。
その日の部活の個人練の時間、わたしはコンクールの曲を練習していた。
しかしなかなかうまく吹けない。
当たり前と言えば当たり前だよね。だって先月から吹き始めたばかりなんだから。
きっとオーディションだって、6月から8月までの伸びしろも加味して判断してくれると思う。
そうは言っても、不安になる。わたし、このまま来月のオーディション、合格できるのかな?
特に吹けないのはここ。連符という音符にスラーという繋げて吹くことを指示する記号がついていて、つまり複数の音を繋げて吹くところ。
音の数が2つや3つならまだ良いんだけど、6つや7つになって、しかも速いテンポとなると、まったく指が追いつかない。
「先輩、連符がまったく吹けません…。どうしたら良いですか?」
「うーん、初心者にはまだ難しいから吹けなくてもしょうがないけど…。ゆっくり吹いてみるところから練習したらどう?」
横で練習していた先輩に聞いてみると、そんな答えが返ってきた。
ゆっくり。確かにその通りだ。気持ちも吹くテンポも、すっかり速くなってしまっていた。
「はい! やってみます!」
先輩はぐっと親指を立てた。
みんなが個人練をしている音楽室はすごくうるさいから、会話するのも一苦労なんだ。
その時、ふとトランペットを吹いている佐紀が目に入った。
佐紀のトランペットの音は、すぐにわかる。ゆったりしていて、伸びが良い。
正直、先輩たちよりも上手だと思う。
トランペットパートの先輩たちは、佐紀が入部して焦ってるんじゃないかな。
佐紀はコンクールの曲を軽やかに吹いていく。
わたしは練習の手を止めて、佐紀のトランペットの音に聞き入った。
すごく上手だ。わたしも佐紀みたいに吹ける日が来るのかな。
(…いけない! わたしも練習しないと!)
わたしはあわてて練習を再開した。
その日の夜。
わたしは家で、明日提出の理科の課題をやろうとしていた。
…のだが。
(ない! プリントがない!)
何故プリントがないか、わたしはすぐにわかった。
部活が始まる前、音楽室で佐紀とプリントを見ながら課題の話をしていた。
きっと席に置きっ放しにしてしまったんだ。
時計を見ると、時刻は午後7時。
まだ学校に残っている先生は…いるかもしれない。
わたしは藁にも縋る思いで学校に電話をかけた。
電話は繋がった。
「すいませんっ! 1年2組の有栖ゆいです! 学校に忘れ物をしちゃって、どうしても取りに行きたくて…!」
「えー!? 何を忘れたんですか?」
電話に出た先生は呆れたように答えた。
完全にわたしのうっかりのせいだ。何も言えない。
「明日提出の課題のプリントです! たぶん音楽室に忘れたんだと思います!」
「明日提出…。しょうがないですね、すぐ学校に来れますか? 今回だけ認めます」
「はい! ありがとうございます! 本当にすみません! すぐに学校に行きます!」
わたしはあわてて脱ぎかけていた制服を整えて、学校へ向かった。
夜の学校って怖い話の定番だけど、本当に怖い雰囲気がある。
わたしは忘れ物を取りに来た身分で、そんなことを呑気に考えていた。
職員室や、他にもぽつぽつと光が見える。まだ先生は残っているみたいだ。
わたしは昇降口から学校に入り、まず職員室に向かった。
「すいません! 忘れ物を取りに来た1年2組の有栖です! 音楽室の鍵を貸してください!」
「はい、さっき電話に出た佐藤です」
佐藤先生は、音楽室の鍵を取るために職員室の端にある鍵の入っている棚の扉を開けた。
しかし、首をかしげている。
「おかしいな…。音楽室の鍵がない。音楽の先生がまだいるのかも。音楽室に直接向かってもらえますか?」
「わかりました!」
わたしは職員室を出て、階段を昇った。
音楽室は4階。一番上の階にある。
(それにしても、まだ仕事してるなんて、先生って大変だなあ…)
そんなことを考えながら、わたしは4階まで階段を昇った。
音楽室は目の前だ。
わたしは音楽室の扉のドアノブに手をかける。扉は開いた。やはり中に先生はいるみたいだ。
…なんて考えていた瞬間。
わたしは弦が響く音を聞いた。
この音は―――バイオリンだ。
誰かが音楽室でバイオリンを弾いている。わたしは誰が弾いているのか見てみたくて、音楽室にそーっと入り込んだ。
(―――琴宮先生だ)
琴宮先生が、バイオリンを弾いていた。
少ししか電気をつけず、月明かりに照らされて。今晩は満月だったみたいだ。
琴宮先生はバイオリンの音でわたしが入って来る音には気が付かなかったのか、それとも演奏に集中しているのか、わたしにはまったく気が付いていないようだった。
わたしは声をかけるなんてもちろんできなかった。ただ、バイオリンの音に聞き入っていた。
琴宮先生のバイオリンの音はとても優しくて繊細で、それでいて力強かった。
しばらくして、琴宮先生は演奏をやめて、バイオリンの弓を持つ右手を下ろした。
そして私と目が合った。
「あれ!? 有栖さん!?」
「こんばんは…」
琴宮先生はびっくりするようにわたしの名前を呼んだ。
わたしはただ挨拶することしかできなかった。
「ちょっと、課題のプリントを忘れちゃって…」
本当はもっと琴宮先生の演奏を聞いていたいけれど、なんだかそれはためらわれた。
今の琴宮先生は、とても神聖な存在のような気がした。
「ああ、これのこと?」
琴宮先生はバイオリンを首に挟むと、近くにある譜面台に置かれているプリントを手に取った。
「そうです!」
「有栖さん、吹奏楽部だったんだね。何の楽器やってるの?」
「クラリネットです。まだまだ初心者ですけど…」
「そうだよね、まだ5月だもんね。何か困ってることはない?」
琴宮先生にそう聞かれて、わたしはびっくりして、嬉しくなった。
琴宮先生からわたしに歩み寄ってくれるなんて。
「来月にコンクールのオーディションがあるんです。絶対合格したいんですけど、なかなかコンクールの曲が吹けなくて…」
すると、琴宮先生はちょっと考えたような素振りをして、こう答えた。
「なぜできないか、どうしたらできるようになるか考えること、かな。練習あるのみだよ」
そう言って琴宮先生は微笑んだ。
わたしは琴宮先生に微笑んでもらったことは嬉しかったけれど、言葉の意味はよくわかっていなかった。
(なぜできないか、どうしたらできるようになるか…? わかるようで、わからない…)
わたしはよっぽど難しそうな顔をしていたのか、琴宮先生はわたしの顔を見て笑った。
「あはは、そんなに難しく考えなくて大丈夫だよ。いつも勉強を頑張ってる有栖さんなら、きっと合格できるよ」
はい、と琴宮先生はわたしにプリントを手渡した。
いつも勉強を頑張ってるのは、完全に下心なんだけど。
「じゃあ、僕はもう少しバイオリンを練習するから。有栖さんは気を付けて帰ってね」
(こんなに上手なのに、まだ練習するんだ…)
「はい! 気を付けて帰ります!」
わたしは名残惜しく感じながらも、プリントを鞄にしまい、音楽室を出た。
音楽室を出てからも、琴宮先生がバイオリンを弾く姿が目に浮かぶ。
このままわたしが爆発的にクラリネットが上手くなって、一緒にアンサンブルしちゃったりして!?
早速わたしの妄想が始まった。
わたしと琴宮先生は、アンサンブルの練習をしている。
場所は音楽室だ。
『有栖さん、ここはもっと思いっきり吹いて。僕は伴奏で支えるから』
なーんて、言われちゃったり!?
そこまで考えて、わたしは我に返った。
そうだ、わたしはこのプリントを家まで持って帰って、夕食を食べて、課題を解いて提出できる状態にしないといけないんだった。
職員室に戻って佐藤先生にお礼も言わないと。
琴宮先生にあんなこと言われちゃったら、絶対オーディションも合格しないと。
わたしは急に現実に引き戻されて、階段を降りて行った。
それからというもの、わたしは部活の個人練の度に、「なぜできないか。どうしたらできるようになるか」を考えるようになった。
連符以外にも出来ないところはたくさんある。
例えばここ。ゆったりとした美しいクラリネットのメロディーの場面。
なかなか雰囲気が出ないんだよね。無理やり音出してるって感じ。
(…そうだ! 音と音の移り変わりが綺麗に出来ていないんだ。音と音がぷつって切れちゃってる感じ。そこをうまく吹けるように、その部分だけ練習してみよう!)
わたしは音と音が変わる場所だけを繰り返し練習した。
クラリネットは音によって指使いが変わる。だから、指の動きの練習だ。
また、音によって適切な息の入れ方も変わる。その練習でもある。
するとどうだろう。少しだけ、マシになった気がする。
(そうか! 琴宮先生が言ってたのはこういうことかも! これの積み重ねが、大事ってことだね!)
以前苦労していた連符の練習もした。
連符もゆっくり吹いてみれば、音と音の移り変わりだ。
わたしはさっきの練習を連符にも取り入れてみることにした。
そうすると、連符もさっきよりは速くインテンポに近く…つまり指定されたテンポに近いテンポで吹けるようになった。
わたしは少しずつ、オーディションに向けて歩き出せているような気がした。
「最近、ちょっとうまくなったんじゃない?」
5月の終わりの部活後、佐紀にそう言われ、わたしは嬉しくて飛び上がりそうになった。
「わかる!?」
「うん。音の伸びも良くなったし、連符も少しずつ速く吹けるようになってる。よくわかるよ」
オーディションまであと1週間。
元々上手い佐紀は置いておくにしても、仕上がってきているのは、他の1年生も同じだ。
それに、1年生内のバチバチ具合がすごい。
実は今日、クラリネットの先輩に褒められたんだけど、そしたら他の1年生にすごい目でにらまれた。
あと1週間、まだオーディションの日が来て欲しくないような、このバチバチが続くくらいだったら早く来て欲しいような、複雑な気持ちになる。
でもこんな風に佐紀に褒めてもらえるのは、間違いなく琴宮先生のおかげだ。
「これが例の、琴宮先生のアドバイスのおかげってやつ? それにしてもびっくりだよね、琴宮先生がバイオリン弾くなんて」
「そうなの! オーディション合格したら、琴宮先生に報告するんだ!」
「琴宮先生のバイオリン、ちょっと聞いてみたいかも…」
「すっごく上手なんだから! でもわたしと先生だけの秘密だからなあ~」
「はいはい」
佐紀は琴宮先生に興味を持ったかと思えば、呆れたように言った。
そしてあっという間に1週間が経った。オーディション当日。しかも今日は水曜日だ。
オーディションは、会場となった教室で1人ずつコンクールの曲を吹いていく。
個人の感情が入ってしまうといけないので、審査する先輩と1年生の間にはカーテンがひかれていた。
そして遂にわたしの番になった。
「次の1年生、どうぞ」
声で誰かわかるといけないので、返事はしない。
わたしは椅子に浅く腰かけて、床をしっかり踏んで、ゆっくり息を吸って、吹き始める。
まずはあのゆったりした美しいメロディーのところ。
練習のおかげか、わたしにしては雰囲気のある、艶めかしい感じの音で吹けたと思う。
そしてしばらく吹いていくと、次は連符。
少し転んで…つまりテンポが崩れたりしてしまったけれど、わたしの中ではうまくいった方だ。
「はい、ありがとうございました」
演奏が終わった。
わたしは無言でオーディション会場を去る。
手ごたえとしては、今のわたしの実力を出し切れたような気がする。
これでオーディションに落ちてしまっても、それはわたしの実力不足だと、言い切れる。
そんな晴れやかな気持ちだった。
「ゆい、どうだった?」
音楽室に戻ると、早速佐紀に声をかけられた。
「実力、出し切れたと思う」
わたしは答えた。おそらくやり切ったぞ、という顔をしていると思う。
「良かった! それじゃあ絶対受かるよ!」
珍しく佐紀はテンション高く私の肩を叩いた。
「最近のゆい、すごい良い感じだったもん。実力出せたなら、絶対受かるよ」
佐紀は自信たっぷりの笑みで頷いて言った。
そしてしばらく経って、オーディションの結果発表の時間になった。
パートごとに合格者を発表していく流れだ。
「クラリネットパートの合格者を発表します」
わたしはクラリネットを祈るように握りしめる。
他の1年生も同じだ。
「クラリネットパートは、有栖ゆいさん。1名です」
その瞬間、わたしはほっとして、クラリネットを落としそうになった。
あわてて両手に力を入れなおす。
他の1年生が、複雑そうな顔で手を叩いてくれる。
みんな悔しいだろうな。それでも手を叩いてくれるんだ。
わたしは頭を小さく下げた。
「トランペットパートは、神谷佐紀さん。1名です」
もちろん佐紀も合格だ。
これは当たり前過ぎて、他の1年生も「そうだろうな」という顔をしている。
佐紀も小さく頭を下げた。
部活が終わり、わたしは職員室に来ていた。
オーディションの結果を琴宮先生に報告するためだ。
「琴宮先生!」
わたしの様子で、すぐに察したのだろう。琴宮先生は笑顔で駆け寄ってきた。
「今日、オーディションだったんだね?」
「そうなんです! 合格でした!」
「おめでとう!」
琴宮先生は満面の笑みでわたしを祝福した。あの、目が無くなる笑顔だ。
「琴宮先生のアドバイスのおかげです! 本当にありがとうございました!」
「それはアドバイスを実践できた有栖さんの力だよ。本当によく頑張ったね」
そんな風に褒められて、わたしは舞い上がってそのまま空を飛んでしまいそう。
よーし、このまま、琴宮先生との恋も、コンクールも、頑張るぞ!
「最後に、1年生に向けて説明します。新緑学園吹奏楽部は、8月のコンクールで金賞を狙います。2、3年生は全員出場しますが、1年生の『何人か』にもコンクールの出場メンバーになってもらいます。オーディションは1か月後の6月に行います」
わたし、有栖ゆい。中学1年生。
今年の4月からクラリネットを吹き始めた、まだまだ初心者。
初心者だけど、コンクールには出たい。
わたしもその熱気に触れてみたい。チームに貢献してみたい。
1年生たちはみんなお互いを見て、「わたしこそがコンクールに出るんだから!」と言わんばかりに視線を送り合っている。
わたしはクラリネットをぎゅっと握りしめる。頑張るぞ、6月のオーディション!
―――そんなことを考えつつも、わたし、実は他にも夢中になってるものがあるの…。
それは、今日の昼休みにさかのぼる。
わたしは職員室に来ていた。
(琴宮先生、いるかな?)
琴宮先生。琴宮光先生。
わたしの初恋の相手。
新緑学園のOBの大学1年生で、水曜日だけバイトで私たちに勉強を教えに来るんだ。
(あ、いた!)
わたしは心の中で声を上げた。
すぐに琴宮先生に駆け寄っていく。
「琴宮先生、こんにちは!」
わたしは元気に挨拶する。
「有栖さん、こんにちは。今日もわからないところがあるの?」
「はい! ここの方程式がわからないんですけど…」
琴宮先生は振り向いてわたしに優しい笑顔で言った。
わたしは琴宮先生が好きだ。それも完全な一目惚れ。
4月の放課後自習室で数学の問題を解くのに悩んでたら声をかけられて、その佇まいに、話し方に、そしてその顔にすっかり一目惚れしてしまったの。
琴宮先生はすっきりと通った鼻筋と、笑うと無くなってしまうような少し細い目が特徴的だ。そして口元には小さなほくろがある。
わたしはいつも勉強でわからないところを聞くことを口実として、琴宮先生に職員室に会いに行く。
琴宮先生はわたしのことを、きっと勉強に熱心な生徒としか思っていないだろう。
(いつか恋が実ってほしいな…)
今は職員室に会いに行くだけで満足だけど、そのうち満足できなくなっちゃったらどうしよう…!?
この恋を進展させるには、どうしたら良いのかな?
そしてもしこの恋が進展して、琴宮先生とデートができたら?
どこに行くだろう? 水族館? 映画館?
「有栖さん、わかった?」
「あ、わ、わかりました!」
自分で言うのもなんだけど、わたしは妄想癖がある。
琴宮先生が好きになってから、頭の中は大忙しだ。
もう、わたしには吹奏楽のコンクールもあるのに…。
「おーい、ゆい。先輩の話終わったよー」
「はっ!?」
親友の神谷佐紀の声で、わたしは我に返った。
そうだ、わたしは部活で先輩の話を聞いてたんだった。
佐紀はボブの髪をファサ、と手でなびかせた。
「ゆいはいつもぼーっとしてるんだから。もう部活終わったよ。帰ろう」
「う、うん! 帰ろう!」
しっかり者の佐紀の担当楽器はトランペットだ。
佐紀は小学生の時からトランペットを吹いているから、オーディション合格間違い無し。
わたしはあわてて楽器を片付け始めた。
帰り道、わたしと佐紀は琴宮先生の話をしていた。
わたしは佐紀に琴宮先生のことを逐一報告している。
「ねえ、佐紀。琴宮先生との恋って成立すると思う?」
わたしは成立すると思う。
だって、現にわたしは琴宮先生のことが好きなんだもん。
このままアタックしていけば、きっと琴宮先生もわたしのことを好きになってくれるんじゃないかな。
わたしはそう信じていた。
「わたしは成立しないと思うな」
佐紀は残酷にもそんなことを言った。
「ええ!? なんでえ!?」
わたしは驚きにも絶望にも似た声をあげる。
「だって、琴宮先生って大学生でしょ。中学生と大学生の恋なんて成立しないよ」
佐紀はため息をついて、さらに続ける。
「憧れるのは勝手にして良いけど、現実を見た方が良いよ」
わたしは夢見がちすぎるかもしれないけど、佐紀は夢が無さすぎ。
大体、年の差恋愛って、すごいロマンがあるっていうか…。
自分がその立場に置かれているというだけで、胸が高鳴る。
これが恋に恋してるっていう状況なのかな?
「あ、ゆいのことだから、年の差恋愛に燃えちゃったりしてるんでしょ」
図星だった。
私は顔を真っ赤にしていたと思う。
「なんでわかるのー!」
「伊達にゆいの親友やってませんから。琴宮先生って良い人だと思うけど、大学生なんて大人だよ。色々な面があるかもしれないよ」
「もう、佐紀は心配性なんだから…」
琴宮先生はそんな人じゃないんだから。
こうして、わたしたちは中学生と大学生の恋愛について、あれこれ語り尽くして、それぞれの家に帰った。
次の水曜日の朝。わたしは念入りに身だしなみチェックをしていた。
今日も琴宮先生に課題を聞きにいくんだ。身だしなみはきちんとしないといけない。
私は伸びた髪を何度もくしでとかして、寝ぐせを直した。
そして耳元にヘアピンをつける。
(よし、今日も身だしなみばっちり!)
わたしは今日も琴宮先生に会えるという喜びを噛みしめる。
「行ってきまーす!」
家を出ると、既に佐紀がわたしの家まで迎えに来ていた。
佐紀とわたしは家が近いから、いつも一緒に登下校をしているんだ。
「おはよー」
「おはよう、佐紀!」
わたしたちは学校に向かって歩き始めた。
「ねえねえ、最近の1年生のバチバチ具合、やばくない?」
「あーわかる。1年生のオーディションのせいだよね…」
まったく、琴宮先生にオーディションにと本当に忙しい。
しかし楽器の練習の手を抜く訳にはいかない。
でも楽器は音が響くから夜に家で練習するわけにもいかないし、普段の部活での練習で差をつけていかないと…。
「でも佐紀はいいじゃん。小学校からやってるんだから、高見の見物でしょ」
「まあね。でも、ゆいと一緒にコンクールの舞台に立ちたいな」
そう言われると、やる気がわいてくる。
わたしも佐紀と一緒にコンクールの舞台に立ちたい。一緒に金賞を獲りたい。
「わたし、頑張るよ! 絶対にコンクール出場メンバーになる!」
「おっ! その意気だよ! お互いがんばろ!」
わたしは佐紀とハイタッチをした。
もうすぐ学校に着く。今日も1日が始まる。
昼休み、わたしは早速琴宮先生に会いに職員室にやって来た。
琴宮先生の席の方を見ると、琴宮先生は丁度昼食を食べているところだった。
食べているのは手作りのお弁当だ。曲げわっぱのお弁当箱にお米とおかずが丁寧に入れられている。
まさか彼女作…!? わたしは背筋が凍る。
「琴宮先生、お食事中すみませーん!」
わたしは琴宮先生に聞いてみることにした。琴宮先生の彼女事情、絶対に気になる。
「ああ、有栖さん。ごめんね、食事中で」
「こちらこそすみません! 先生、お料理されるんですか?」
わたしは「彼女」という単語を出さず、さりげなく聞いてみることにした。
「お弁当は毎日自分で作るかな。節約にもなるし」
「へー! そうなんですね!」
ほっ。一安心。
彼女なんていたら、コンクールどころではない。一生枕を濡らしているところだった。
せっかくお弁当の話題になったし、好きな食べ物を聞いてみることにした。
「先生、好きな食べ物は何ですか?」
「僕の好きな食べ物? そうだなー、ラーメンかな」
「ラーメン!」
ちょっと意外。もっとおしゃれなものが好きかと思ってた。同じ麺類でも、パスタとか。
しかしわたしの妄想センサーは早速作動する。
夜、琴宮先生と一緒に先生おすすめのラーメン屋さんに行くの。そこでおすすめのトッピングを教えてもらって、それで…。
「有栖さんは好きな食べ物、何?」
わたしの好きな食べ物に興味を持ってくれた!
それだけで気分が上がってしまう。
「わたしはだし巻き卵です!」
「えーっ、渋っ!」
「よく言われます!」
「何でだし巻き卵が好きなの?」
「渋っ!」なんてリアクションする琴宮先生、初めて見た。
なんだか距離が縮められているようで、嬉しい気持ちになる。
しかも、好きな理由まで聞いてくれた。
「調理実習でうまく作れたからです。家でも作ったら、大好評だったんですよ!」
「あー、なるほどね」
わたしは琴宮先生にもだし巻き卵を作ってあげる光景を妄想した。
琴宮先生も調理実習の班の子や家族みたいに、「おいしい」って笑ってくれるの。
…なーんて。
今日は琴宮先生とすごく仲良くなれた、気がする。
「それで、ごめんね。今日も課題の質問だった?」
「いえ、急いでないので大丈夫です。お食事中失礼しました!」
職員室に長く居座り過ぎない。これも琴宮先生から好かれるためのポイント。…たぶん。
わたしは「ありがとうございましたー!」とだけ言って職員室を出た。
琴宮先生は不思議そうに会釈をしてくれた。
その日の部活の個人練の時間、わたしはコンクールの曲を練習していた。
しかしなかなかうまく吹けない。
当たり前と言えば当たり前だよね。だって先月から吹き始めたばかりなんだから。
きっとオーディションだって、6月から8月までの伸びしろも加味して判断してくれると思う。
そうは言っても、不安になる。わたし、このまま来月のオーディション、合格できるのかな?
特に吹けないのはここ。連符という音符にスラーという繋げて吹くことを指示する記号がついていて、つまり複数の音を繋げて吹くところ。
音の数が2つや3つならまだ良いんだけど、6つや7つになって、しかも速いテンポとなると、まったく指が追いつかない。
「先輩、連符がまったく吹けません…。どうしたら良いですか?」
「うーん、初心者にはまだ難しいから吹けなくてもしょうがないけど…。ゆっくり吹いてみるところから練習したらどう?」
横で練習していた先輩に聞いてみると、そんな答えが返ってきた。
ゆっくり。確かにその通りだ。気持ちも吹くテンポも、すっかり速くなってしまっていた。
「はい! やってみます!」
先輩はぐっと親指を立てた。
みんなが個人練をしている音楽室はすごくうるさいから、会話するのも一苦労なんだ。
その時、ふとトランペットを吹いている佐紀が目に入った。
佐紀のトランペットの音は、すぐにわかる。ゆったりしていて、伸びが良い。
正直、先輩たちよりも上手だと思う。
トランペットパートの先輩たちは、佐紀が入部して焦ってるんじゃないかな。
佐紀はコンクールの曲を軽やかに吹いていく。
わたしは練習の手を止めて、佐紀のトランペットの音に聞き入った。
すごく上手だ。わたしも佐紀みたいに吹ける日が来るのかな。
(…いけない! わたしも練習しないと!)
わたしはあわてて練習を再開した。
その日の夜。
わたしは家で、明日提出の理科の課題をやろうとしていた。
…のだが。
(ない! プリントがない!)
何故プリントがないか、わたしはすぐにわかった。
部活が始まる前、音楽室で佐紀とプリントを見ながら課題の話をしていた。
きっと席に置きっ放しにしてしまったんだ。
時計を見ると、時刻は午後7時。
まだ学校に残っている先生は…いるかもしれない。
わたしは藁にも縋る思いで学校に電話をかけた。
電話は繋がった。
「すいませんっ! 1年2組の有栖ゆいです! 学校に忘れ物をしちゃって、どうしても取りに行きたくて…!」
「えー!? 何を忘れたんですか?」
電話に出た先生は呆れたように答えた。
完全にわたしのうっかりのせいだ。何も言えない。
「明日提出の課題のプリントです! たぶん音楽室に忘れたんだと思います!」
「明日提出…。しょうがないですね、すぐ学校に来れますか? 今回だけ認めます」
「はい! ありがとうございます! 本当にすみません! すぐに学校に行きます!」
わたしはあわてて脱ぎかけていた制服を整えて、学校へ向かった。
夜の学校って怖い話の定番だけど、本当に怖い雰囲気がある。
わたしは忘れ物を取りに来た身分で、そんなことを呑気に考えていた。
職員室や、他にもぽつぽつと光が見える。まだ先生は残っているみたいだ。
わたしは昇降口から学校に入り、まず職員室に向かった。
「すいません! 忘れ物を取りに来た1年2組の有栖です! 音楽室の鍵を貸してください!」
「はい、さっき電話に出た佐藤です」
佐藤先生は、音楽室の鍵を取るために職員室の端にある鍵の入っている棚の扉を開けた。
しかし、首をかしげている。
「おかしいな…。音楽室の鍵がない。音楽の先生がまだいるのかも。音楽室に直接向かってもらえますか?」
「わかりました!」
わたしは職員室を出て、階段を昇った。
音楽室は4階。一番上の階にある。
(それにしても、まだ仕事してるなんて、先生って大変だなあ…)
そんなことを考えながら、わたしは4階まで階段を昇った。
音楽室は目の前だ。
わたしは音楽室の扉のドアノブに手をかける。扉は開いた。やはり中に先生はいるみたいだ。
…なんて考えていた瞬間。
わたしは弦が響く音を聞いた。
この音は―――バイオリンだ。
誰かが音楽室でバイオリンを弾いている。わたしは誰が弾いているのか見てみたくて、音楽室にそーっと入り込んだ。
(―――琴宮先生だ)
琴宮先生が、バイオリンを弾いていた。
少ししか電気をつけず、月明かりに照らされて。今晩は満月だったみたいだ。
琴宮先生はバイオリンの音でわたしが入って来る音には気が付かなかったのか、それとも演奏に集中しているのか、わたしにはまったく気が付いていないようだった。
わたしは声をかけるなんてもちろんできなかった。ただ、バイオリンの音に聞き入っていた。
琴宮先生のバイオリンの音はとても優しくて繊細で、それでいて力強かった。
しばらくして、琴宮先生は演奏をやめて、バイオリンの弓を持つ右手を下ろした。
そして私と目が合った。
「あれ!? 有栖さん!?」
「こんばんは…」
琴宮先生はびっくりするようにわたしの名前を呼んだ。
わたしはただ挨拶することしかできなかった。
「ちょっと、課題のプリントを忘れちゃって…」
本当はもっと琴宮先生の演奏を聞いていたいけれど、なんだかそれはためらわれた。
今の琴宮先生は、とても神聖な存在のような気がした。
「ああ、これのこと?」
琴宮先生はバイオリンを首に挟むと、近くにある譜面台に置かれているプリントを手に取った。
「そうです!」
「有栖さん、吹奏楽部だったんだね。何の楽器やってるの?」
「クラリネットです。まだまだ初心者ですけど…」
「そうだよね、まだ5月だもんね。何か困ってることはない?」
琴宮先生にそう聞かれて、わたしはびっくりして、嬉しくなった。
琴宮先生からわたしに歩み寄ってくれるなんて。
「来月にコンクールのオーディションがあるんです。絶対合格したいんですけど、なかなかコンクールの曲が吹けなくて…」
すると、琴宮先生はちょっと考えたような素振りをして、こう答えた。
「なぜできないか、どうしたらできるようになるか考えること、かな。練習あるのみだよ」
そう言って琴宮先生は微笑んだ。
わたしは琴宮先生に微笑んでもらったことは嬉しかったけれど、言葉の意味はよくわかっていなかった。
(なぜできないか、どうしたらできるようになるか…? わかるようで、わからない…)
わたしはよっぽど難しそうな顔をしていたのか、琴宮先生はわたしの顔を見て笑った。
「あはは、そんなに難しく考えなくて大丈夫だよ。いつも勉強を頑張ってる有栖さんなら、きっと合格できるよ」
はい、と琴宮先生はわたしにプリントを手渡した。
いつも勉強を頑張ってるのは、完全に下心なんだけど。
「じゃあ、僕はもう少しバイオリンを練習するから。有栖さんは気を付けて帰ってね」
(こんなに上手なのに、まだ練習するんだ…)
「はい! 気を付けて帰ります!」
わたしは名残惜しく感じながらも、プリントを鞄にしまい、音楽室を出た。
音楽室を出てからも、琴宮先生がバイオリンを弾く姿が目に浮かぶ。
このままわたしが爆発的にクラリネットが上手くなって、一緒にアンサンブルしちゃったりして!?
早速わたしの妄想が始まった。
わたしと琴宮先生は、アンサンブルの練習をしている。
場所は音楽室だ。
『有栖さん、ここはもっと思いっきり吹いて。僕は伴奏で支えるから』
なーんて、言われちゃったり!?
そこまで考えて、わたしは我に返った。
そうだ、わたしはこのプリントを家まで持って帰って、夕食を食べて、課題を解いて提出できる状態にしないといけないんだった。
職員室に戻って佐藤先生にお礼も言わないと。
琴宮先生にあんなこと言われちゃったら、絶対オーディションも合格しないと。
わたしは急に現実に引き戻されて、階段を降りて行った。
それからというもの、わたしは部活の個人練の度に、「なぜできないか。どうしたらできるようになるか」を考えるようになった。
連符以外にも出来ないところはたくさんある。
例えばここ。ゆったりとした美しいクラリネットのメロディーの場面。
なかなか雰囲気が出ないんだよね。無理やり音出してるって感じ。
(…そうだ! 音と音の移り変わりが綺麗に出来ていないんだ。音と音がぷつって切れちゃってる感じ。そこをうまく吹けるように、その部分だけ練習してみよう!)
わたしは音と音が変わる場所だけを繰り返し練習した。
クラリネットは音によって指使いが変わる。だから、指の動きの練習だ。
また、音によって適切な息の入れ方も変わる。その練習でもある。
するとどうだろう。少しだけ、マシになった気がする。
(そうか! 琴宮先生が言ってたのはこういうことかも! これの積み重ねが、大事ってことだね!)
以前苦労していた連符の練習もした。
連符もゆっくり吹いてみれば、音と音の移り変わりだ。
わたしはさっきの練習を連符にも取り入れてみることにした。
そうすると、連符もさっきよりは速くインテンポに近く…つまり指定されたテンポに近いテンポで吹けるようになった。
わたしは少しずつ、オーディションに向けて歩き出せているような気がした。
「最近、ちょっとうまくなったんじゃない?」
5月の終わりの部活後、佐紀にそう言われ、わたしは嬉しくて飛び上がりそうになった。
「わかる!?」
「うん。音の伸びも良くなったし、連符も少しずつ速く吹けるようになってる。よくわかるよ」
オーディションまであと1週間。
元々上手い佐紀は置いておくにしても、仕上がってきているのは、他の1年生も同じだ。
それに、1年生内のバチバチ具合がすごい。
実は今日、クラリネットの先輩に褒められたんだけど、そしたら他の1年生にすごい目でにらまれた。
あと1週間、まだオーディションの日が来て欲しくないような、このバチバチが続くくらいだったら早く来て欲しいような、複雑な気持ちになる。
でもこんな風に佐紀に褒めてもらえるのは、間違いなく琴宮先生のおかげだ。
「これが例の、琴宮先生のアドバイスのおかげってやつ? それにしてもびっくりだよね、琴宮先生がバイオリン弾くなんて」
「そうなの! オーディション合格したら、琴宮先生に報告するんだ!」
「琴宮先生のバイオリン、ちょっと聞いてみたいかも…」
「すっごく上手なんだから! でもわたしと先生だけの秘密だからなあ~」
「はいはい」
佐紀は琴宮先生に興味を持ったかと思えば、呆れたように言った。
そしてあっという間に1週間が経った。オーディション当日。しかも今日は水曜日だ。
オーディションは、会場となった教室で1人ずつコンクールの曲を吹いていく。
個人の感情が入ってしまうといけないので、審査する先輩と1年生の間にはカーテンがひかれていた。
そして遂にわたしの番になった。
「次の1年生、どうぞ」
声で誰かわかるといけないので、返事はしない。
わたしは椅子に浅く腰かけて、床をしっかり踏んで、ゆっくり息を吸って、吹き始める。
まずはあのゆったりした美しいメロディーのところ。
練習のおかげか、わたしにしては雰囲気のある、艶めかしい感じの音で吹けたと思う。
そしてしばらく吹いていくと、次は連符。
少し転んで…つまりテンポが崩れたりしてしまったけれど、わたしの中ではうまくいった方だ。
「はい、ありがとうございました」
演奏が終わった。
わたしは無言でオーディション会場を去る。
手ごたえとしては、今のわたしの実力を出し切れたような気がする。
これでオーディションに落ちてしまっても、それはわたしの実力不足だと、言い切れる。
そんな晴れやかな気持ちだった。
「ゆい、どうだった?」
音楽室に戻ると、早速佐紀に声をかけられた。
「実力、出し切れたと思う」
わたしは答えた。おそらくやり切ったぞ、という顔をしていると思う。
「良かった! それじゃあ絶対受かるよ!」
珍しく佐紀はテンション高く私の肩を叩いた。
「最近のゆい、すごい良い感じだったもん。実力出せたなら、絶対受かるよ」
佐紀は自信たっぷりの笑みで頷いて言った。
そしてしばらく経って、オーディションの結果発表の時間になった。
パートごとに合格者を発表していく流れだ。
「クラリネットパートの合格者を発表します」
わたしはクラリネットを祈るように握りしめる。
他の1年生も同じだ。
「クラリネットパートは、有栖ゆいさん。1名です」
その瞬間、わたしはほっとして、クラリネットを落としそうになった。
あわてて両手に力を入れなおす。
他の1年生が、複雑そうな顔で手を叩いてくれる。
みんな悔しいだろうな。それでも手を叩いてくれるんだ。
わたしは頭を小さく下げた。
「トランペットパートは、神谷佐紀さん。1名です」
もちろん佐紀も合格だ。
これは当たり前過ぎて、他の1年生も「そうだろうな」という顔をしている。
佐紀も小さく頭を下げた。
部活が終わり、わたしは職員室に来ていた。
オーディションの結果を琴宮先生に報告するためだ。
「琴宮先生!」
わたしの様子で、すぐに察したのだろう。琴宮先生は笑顔で駆け寄ってきた。
「今日、オーディションだったんだね?」
「そうなんです! 合格でした!」
「おめでとう!」
琴宮先生は満面の笑みでわたしを祝福した。あの、目が無くなる笑顔だ。
「琴宮先生のアドバイスのおかげです! 本当にありがとうございました!」
「それはアドバイスを実践できた有栖さんの力だよ。本当によく頑張ったね」
そんな風に褒められて、わたしは舞い上がってそのまま空を飛んでしまいそう。
よーし、このまま、琴宮先生との恋も、コンクールも、頑張るぞ!
