* * *

「あ、これじゃないですか」
 PC画面に現れたファイルのタイトルを確認して、歩が言うと、隣から同じ画面を覗き込んでいた女性弁護士が「え、見つかった?」と声をあげた。
「中身を確認してみてください」
 歩は少し離れて視線を逸らした。
 法律事務所の中で扱っている文書は全て高度な機密事項。守秘義務契約を結んでいるとはいえ、なるべく見ないようにしている。
「あ、これこれ! あーよかったー! 消えちゃってたらどうしようかと思った! ありがとう加藤くん」
 心底安堵した様子で背もたれに身を預ける女性弁護士に歩も胸を撫で下ろした。
 今日の昼前に入った担当クライアントからのヘルプは、ソフト内に保存したはずのファイルが消えてしまったというものだった。
 急ぎで作っている訴状だという話だから、急遽訪問して直接PCを触らせてもらい探したのだ。
「でもなんでこんなところにー?」
「先生保存先くらい覚えててくださいよ。本当にパソコン音痴なんだから」
 事務員の女性がからかった。
「私はちゃんと案件フォルダに入れましたー!」
 そのふたりのやり取りに、歩は声を出して笑ってしまう。
 この事務所はいつもこんな感じだ。少人数で和気あいあいとしている。笑いながら歩は再びPCを触らせてもらう。
 歩はSEではないけれど、ひと通りの知識はある。
「このソフトがうちのソフトと相性が良くないみたいでまれにこういうことが起こるんです」
「えーじゃあ、このソフト消しちゃえばいい? たびたびこういうことが起こったら困るし」
「いえ、少し待ってください。今技術チームが対策を検討中なので、追ってご連絡します」
「了解。やーそれにしても、すぐに来てくれて助かったわ。さすがは加藤くん」
 弁護士が頬杖をついて歩を見る。それに事務員も同意する。
「一事務所に一台、加藤さんがほしいですね、先生」
「ほんとほんと。加藤くんそろそろうちの事務員になってくれる気になった?」
 ここへ来ると必ず出る冗談だ。
 歩は「またまた」と答えた。
「僕なんか、使い物になりませんよ」
「そんなことないよ。PCに強いってだけでありがたい。加藤くんが来てくれたら、サイバー案件も受けられるようになる。わが事務所は君を待っている」
「やー僕は、営業が天職だと思っているので」
「残念。だけどそれはそうね」
 こちらもお決まりのやり取りだが、本心からの言葉だった。
 歩はとにかく人間が好きなのだ。
 世界は広くたくさんの人がいる。そのひとりひとりに人格があり、それぞれ別のことを考えている。こんなに面白い生き物は他にない。
 どんな人にも必ずいいところがあるものだと歩は信じていて、それを見つけるのが好きだった。
 そのためには、一に交流、二に交流、三、四も、五も六も七も交流だ。
 こちらが常にオープンマインドでいれば、どんなに気難しい相手でも、いつかは心を開いてくれる。
 だから公私問わず人との縁を大切にしている。というか、なにもしなくても誰かしらが集まってくる。
 いつもにこにこしていて穏やかな加藤歩。
 フレンドリーな加藤歩。
 べつに意識していい顔をしているわけではない。もともとの性格が周りにそういう印象を与えているのだろう。
 そしてこのコミュニケーションスキルは、幼少期に身につけた。
 小中学生の頃、父の仕事の関係で頻繁に転校を繰り返した。学校が変わるたびに、それまで築いた友人関係がリセットされてひとりになるという状況は、人が好き、すなわち寂しがりでひとりが嫌いな歩にとってとてもつらい経験だった。
 人の輪から離れたところでポツンとしていると、世界のどこにも自分の居場所がないような心細い気持ちになる。
 そんな気持ちを振り切るために、勇気を出して自分から人の輪の中に入っていくようになったのだ。先手必勝、迷っていたらどんどん声をかけにくくなる。
 それを繰り返した経験が今の自分の対人スキルを養った。
 両親は、当時のことを申し訳なく思っているふしがあるが、今となってはむしろ感謝しているくらいだった。どんな相手にも臆することなく関わっていける能力が、今の自分を支えている。
「あーでも、冗談抜きでもうひとりくらいスタッフを増やさないとね。雑務が溜まりすぎてる……」
 弁護士の嘆きに、事務員が頷いた。
「そうですよ先生。早く求人出してください。私が嫌になって辞めたくなる前に」
「でもなー、できれば紹介かスカウトがいいんだよね。一回面接したくらいじゃ、なにもわからん」
「先生、弁護士なのに人を見る目ないですもんね。この前別れた彼氏もくずだったし」
「おい、バラすな。守秘義務違反だぞ」
 ポンポン言い合うふたりのやり取りに笑いながら歩は帰る準備をする。
「加藤くんが無理なら、もうひとりの加藤さんでもいいなー。女性の」
「加藤ですか?」
「うん。この前トラブった時、来てくれたでしょ。加藤くんがお休みだった時」 
 そういえば、そういうことがあったな、と歩は思い出す。
 キュレルは一応営業成績なるものを掲げてはいるが成果主義ではないから営業社員同士もライバルというよりは仲間意識が強く日々助け合う。歩が休みの時に、彼女が対応してくれたのだ。
「あー私、あの人好きですー!」
 事務員が声をあげた。
「めちゃくちゃ頼りになりましたよね。わからないこと全部聞いちゃったー! 説明もわかりやすくて丁寧だったし。私もあの方にきてもらいたいでーす」
「加藤はうちの大事な戦力ですから、いなくなったら僕が会社から恨まれますよ」
 笑いながら歩が答えると、弁護士がうんうんと頷いた。
「確かにあの子は戦力だろうね。愛想ばっか口ばっかの営業とは全然違ってたもん。ソフト関係のことだけじゃなくて、こっちの業務に関しても詳しかったし。真面目で的確な答えが弁護士相手の営業にはぴったりだった」
「ありがとうございます。本人にも伝えておきます。……でもちょっと僕には耳が痛い話だな」
 苦笑しながら答えると、ふたりが笑った。
「加藤さんももちろん頼りになるけどね」
「そうそう、来てくれると事務所の空気が明るくなるし癒されるし。ね、先生。先生が彼氏とお別れしたばかりの頃は殺伐としてましたもんね。あの頃どれだけ加藤さんに癒されたか……」
「おいバラすな。守秘義務違反だ」
 冗談に笑ってから挨拶をし、事務所を出る。廊下をエレベーターホールに向かう。
 この事務所は駅に直結している大きなビルの六階にある。二階から四階までに店舗が入っていて、その上がオフィス階だ。
 エレベーターに乗り込んで『2』のボタンを押す。光る数字を見つめながら、さっきふたりが一華のことを褒めていたのを思い出し、自然と口もとがゆるんだ。彼女の努力をきちんと認めている人がいる、ということが嬉しかった。
 同期入社で同じ営業職の加藤一華は、歩にとって前々から少し気になる存在だった。
 真っ直な姿勢とやや無表情気味の人形のような整った容姿。
よけいなお世辞や冗談の類いはほとんど言わない営業職としては少し珍しいタイプだ。
 入社当初は営業には向かないのではと一部の上司から危惧されていたが、丁寧な説明と常に顧客に誠実であろうとする姿勢が支持されて今や営業成績はトップクラス。社内でも一目置かれている存在だ。
 就業中、皆が適度に息抜きをしながら仕事をする中、彼女は毎日ひたすら真面目に業務に取り組んでいて、休憩中と思しき時間もなにかしらの資料を読み込んでいる。
 同じ営業職の歩としては、見習うべきところばかりだが、一部にはやっかむ声もある。
『優秀だけど他人に冷たい』
『お高くとまっていて、他の人をバカにしてる』
 主に女性社員の間で囁かれている陰口が本人の耳に届いているかは不明だが、夏木をはじめとする一部のアシスタントのあたりのきつさには気づいているはず。
 それでも大きく取り乱す様子もなく、彼女はひたすら業務に打ち込んでいる。
 若い社員が多く和気あいあいとしている社内ではやや浮いているのは確かだった。
 とはいえ、社内にそういう社員がいるという状況はそれほど珍しいことではないはずだ。
 会社は仲良しグループではないし友だち作りの場でもない。いわゆる"浮いている"社員などたいていひとりくらいはいる。
 だからそれほど珍しい話ではないのだが、それでも歩はその状況がどうにも苦手だった。
 そういう人を見ていると、遠い昔、まだ強靭なコミュニケーションスキルを身につける前の自分を思い出す。
 はじめて入る教室。
 楽しそうに集まって話す見知らぬクラスメイトたち。
 それを所在なく見ているしかなかった自分。
 あの時のなんとも言えない寂しい気持ちを思い出し、どうにも落ち着かない気持ちになってしまうのだ。
 学生時代やサークル活動など、今まで所属していた場でもポツンとしている人を見つけるとどうしても放っておけなくて積極的に話しかけた。
 たいていはできれば人の輪に入っていきたいと思っている人がほとんどで、きっかけさえ作れれば、案外すんなり入っていける。
 一華がそれを望んでいるかどうかはわからないが、彼女を見るとどうにも気にかかってなんとかじっくり話をする機会をもてないかと考えていた。
 もし彼女がこの状況を望んでおらず皆の輪に入っていきたいと思うならば手助けしたいと考えていた。
 その思いが強くなったのは、彼女が噂通りの『お高くとまって人を見下している人物』ではことに歩が気がついたからだ。
 それは、偶然見かけた彼女のある行動がきっかけだ。
 確かあれは、一年前。
 昼休みあらかたの社員がランチへ出ていて社内が閑散としている時だった。
 外回りから帰社した歩は、廊下にてキョロキョロと周りを見回す一華が目に入り思わず一歩下がり様子を伺う。
 なぜ声をかけずに覗き見のようなことをしたかというと、普段の彼女らしくない行動のように思えたからだ。彼女はどんな時も凛としていて、人目を気にする様子はない。一瞬なにかよからぬこと起こるのかという考えが頭をよぎったほど、挙動がおかしい。
 視線の先で彼女は廊下のすみに置いてある観葉植物に歩み寄り、茶色くなった葉を丁寧に取り除きはじめた。さらには鉢の中に転がっている栄養剤のボトルをしっかり根本に差し直し、とても嬉しそうに笑みを浮かべて小さくガッツポーズをしたのだ。
 驚いた。
 同期入社してからその時まで、毎日のように顔を合わせていたけれど、彼女のここまで自然な笑みを見たのははじめだったからだ。
 しかもそれがやや荒れていた観葉植物を整えたという行動の後。営業成績優秀者として朝礼で表彰されていた時も戸惑い遠慮がちな笑みを浮かべていただけだったのに。
 わからなかったのはそれだけではない。
 なぜ挙動不審に見えるほど人目を気にしていたのだろうか?
 観葉植物の管理は会社が依頼している業者の仕事だが、手を出したからといって咎められることはないだろうに。
 それから歩は気になって彼女を目で追うようになった。
 よくよく見ていると、彼女は忙しい業務の合間を縫って、人目を避けていろいろしている。
 給湯室の水場の掃除や、皆がめんどくさがってやりたがらないシュレッダーのゴミ箱交換、コピー機の用紙補充。
 そしてやり終えた後の小さいガッツポーズと嬉しそうな笑み。
 のちに話をするようになって徳積みポイント集めだと知った時は、宝物を見つけたような気分になった。
 ほらやっぱり。
 誰にだっていいところはある。
 彼女はお高くとまってなんていないし、他人をバカになんてしていない。自分のためだと本人は言うが、誰かのためになることをして喜びを感じる心を持った人間がいい人でないはずがない。
 整った顔立ちとやや無表情気味なところ、会話に置いてワンクッション挟まずに結論からスパッと言うくせが、周りに冷たいという誤解を与えてしまうのだ。
 本当の彼女を周りに知ってもらえれば、きっと彼女を好きになるはず。そしたらもう社内でポツンとすることはなくなるはず。
 あとはちょっとしたきっかけだけだと、歩はやや強引に彼女との距離を詰めたのだ……。
 ポーンと音が鳴り、エレベーターが二階に到着する。降りて、雑貨屋や書店が並ぶ商業階を駅に向かって歩き出した。
 途中、ぬいぐるみが置いてあるショップの前を通りかかる。
 女性が抱くのにちょうどいい大きさのゴールデンリトリバーのぬいぐるみが目に入り足を止めた。
 歩が、ゴールデン男子とかワンコ系だとか言われはじめたのは、身長が百八十を越えた高校生の頃からだ。大きな身体と人懐っこい性格を組み合わせるとそうなるのだという。
 おもに女子中心に歩のキャラとして広まった。
 好意的な意味で言われているのがわかっているから、悪い気はしない。むしろそれを自分からネタにする時もあるくらいだ。
 もはやゴールデンリトリバーを見ると親近感を覚えるくらいだけれど、今思い出すのは一華の相棒のトモだった。
 一華は、話をしてみるとお高く留まっているどころか、意外なほど人に気を遣うところがあった。徳積み行為を人に見られたくないという理由もそれによって周りの人に居心地の悪い思いをさせたくないという気遣いからだ。
 そこを周囲にうまく知ってもらえれば彼女も皆とうまくやっていけるはずと思ったそのすぐ後に意外なことが判明した。
 彼女は本当にひとりでいるのが好きで、人の輪に入っていくのを望んでいないのだということだ。
 面と向かって告げられても、すぐには腑に落ちなかった。強がって無理をしているのではと疑った。
 もちろん歩だっておひとりさま女子なる人たちが存在するのは知っている。それでも今まで実際に知り合ったことはなかったし、なにより"ひとりを楽しむ"と感覚が自分にはないからだ。
 けれど楽しそうに語る一華の目がいつもより輝いていて、本心からの言葉なのだと納得した。
 そして同時に不思議な気持ちになっていた。
 彼女の話を聞くうちに、自分にとって、異文化ともいえる"ひとり時間を楽しむ"ということに心惹かれるのを感じたからだ。
 そしてブックカフェの窓辺の席で雨音を聞いている一華の凛とした姿が目に浮かび、憧れのような気持ちを抱いた……。
「ママー! みくちゃん、あのワンちゃんがほしい〜!」
「ダメよ、みく。今日はなにも買わないって約束したでしょ」
「えー!」
 親子連れが歩の傍を通り過ぎていく。
 歩は店の中に入り、リトリバーのぬいぐるみを手に取った。
 ポツンとしている人が皆のところへ行くことを望まないならそれでいい。いつもの歩なら納得してそっとしておくことを選ぶ。
 本人が望まないなら、これ以上はただのエゴだ。歩としては彼女の本心を知れればそれで安心なのだから。
 それでもまだ一華と会う約束を取り付けたのは、愛犬を亡くし弱っている彼女の力になりたいと思ったからだ。
 女子社員からの好意的でない言葉にも凛としている彼女が、肩を振るわせて泣く姿には胸が痛んだ。寂しいという感情が、どれほどつらいか歩はよく知っている。
 ひとり時間を楽しめるはずの彼女があそこまで泣くのだから、トモは大切な存在だったのだ。
 できることがあるならば、したいと思うのは人として当然だ……。
 手を伸ばしぬいぐるみに触れると、さらふわの感触が指をくすぐる。
 と、同時に、深夜喫茶で彼女が見せたあの笑顔が胸に浮かび、歩はなぜか落ち着かない気持ちになった。
 思えばあれが、彼女から義理でも義務でもない自分に向けられたはじめての自然な笑顔だった。あの時にどうしてか歩はもう少し彼女を知りたいと思ったのだ。
 彼女のペットロス解消に協力したいと言ったのは、百パーセント親切心。下心はないと言った言葉に嘘はない。
 だからこれはボランティア、あるいは徳積みポイントゲットのための行為だ。
 それなのになぜこんなにもそわそわするのだろう?
 自分自身の気持ちを不思議に思いながらも、歩はそのぬいぐるみを手にレジへ向かった。