「——ご意見ありがとうございました。ではいただいたものをもとに検討いたしまして、プランを作り直してまいります」
 午後六時、あるビルの会議室にて開かれた会議で、一華はそう会を締め括った。
「よろしくお願いします」
 胸元に弁護士バッヂをつけた白髪の男性がにこやかに答える。
 彼はここ『あさがお法律事務所』の代表弁護士、浅井だ。
 あさがお法律事務所はキュレルのシステムを導入している一華の担当クライアントで今日は定例の訪問日。システムの不具合や使いにくいところ、新しく増やしてほしい機能などのヒアリングをした。より長く快適に使ってもらうために、とても大切な時間だ。
「うちの事務所、要望が多いでしょう? わがままでごめんなさいね」
 浅井の隣の女性弁護士が、申し訳なさそうに眉を寄せた。
「いえ、ご意見とてもありがたいです。開発にも役立ちますから」
 法律事務所は専門分野を設けているところもあるが、ここは弁護士が多いため多岐にわたる。だからこそ要望が多いのだ。
 今日の会の出席者の最後のひとり、五十がらみの事務所長が、にっこりと笑った。
「いつも丁寧なサポートありがとうございます。パラリーガルたちもコールセンターがすぐに対応してくれるのが助かると言っています」
「ほんとにサポートが手厚いから助かるねえ。とくに私のような年寄りには」
 浅井がうんうんと頷いた。
 年配の弁護士といえば、気難しい人も少なくないが浅井はまったくそうではなく、一華のような若輩者にも気さくに話をしてくれる。
 パソコンに弱くシステムと関係ないところの不具合で一華のスマホに連絡が入ることもあるけれど、その質問から思いがけず品質向上のアイディアに繋がることもある。
「先生、質問はコールセンターですよ。加藤さんに直接電話しないでくださいね」
 女性弁護士が小言を言う。浅井が眉を寄せた。
「いいじゃないか。加藤さんの説明が一番わかりやすいんだから」
「加藤さんは営業さんなんだから忙しいんですよ」
「私が電話するのも急ぎの時だけだ。それに誰かわからん相手に聞くのはどうも私は抵抗がある」
「だからといってルールは——」
「大丈夫です」
 一華は思わず割って入る。
 多忙な弁護士業務は、少しだが知っているつもりだ。その助けに少しでもなれるなら、嬉しい。
「私でお答えできることであれば、その方が早いですから」
 女性弁護士が"困ったわね"というように肩をすくめて笑った。
「ごめんなさいね。でもあまりひどいようなら私から言いますからね」
「ひどい言い草だな」
 目の前で繰り広げられる気安いやり取りに、一華は思わずふふふと笑う。
 この仕事をはじめるまでは、弁護士という職業の人たちは、真面目で堅苦しい人たちなのだと思っていた。外回りをはじめた頃はびくびくしていたけれど、実際は冗談好きの優しい人が多かった。
 ビルを出ると、もう六時半を回っている。本当は五時頃に終了する予定だったのに、もらった要望が想定より多く、また中には現状のシステムでできる機能もあったため説明していて想定より時間がかかった。
 会社に戻るには中途半端な時間だから、今日は直帰にしようかな、と考えていると。
「いっちゃん」と声をかけられる。
 振り返ると、さっき出てきたビルから背の高いスーツ姿の男性が、こちらに向かって歩いてくる。一華は足を止めて彼を待った。
「祐くん」
 彼、永江祐一郎は、さっきまで一華がいた法律事務所に勤める弁護士である。そして一華の従兄でもある。
「今、帰り?」
「うん。祐くんは?」
「俺もだ」
「早い、珍しくない?」
「まぁたまにはね。週末だし。駅まで一緒に行こう」
 連れ立って歩き出す。
「今日は定例のヒアリングだったよね。うちの事務所はあれこれ仕様が細かいのでやりにくいだろ」
「ううん、たくさん意見をもらえて嬉しい。開発の参考になるし」
 クライアントの要望を正確に聞き取って反映させるのは一華の好きな作業のひとつだ。弁護士の役に立ちたくてこの仕事を選んだのだから。
 昔から、誰かのためになることが好きだった。困っている人の力になる弁護士は憧れの職業ナンバーワンで、兄のように慕う祐一郎が司法試験に通った時は飛び上がって喜んだ。
 肝心の自分はどうも理系だと気づいていたから尚更だ。
 就職活動の際、法律事務所向けのソフト開発の会社があると知り、絶対にこの仕事がしたいと思ってエントリーしたのだ。内定をもらってからは、祐一郎にもらったパラリーガル向けの本を読み準備をした。
 就職したことで、おひとりさま女子になるほど私生活が犠牲になっているということに気がついても、転職という文字は一度も過らなかった。
「大先生からの電話もあまりに多いようなら、俺からも言っておくからな」
 女性弁護士と同じようなことを言う彼に、一華はくすくすと笑った。
 弁護士の世界は上下関係が厳しいと聞くがあさがお事務所はそんなことはなく、和気あいあいとしている。
 とくに祐一郎は、息子のいない浅井に息子のように可愛がられていて、後を継ぐのでは?と目されている。
「いっちゃん、よかったら夜ごはんでもどう? 車だから帰りは送ってあげられるよ」
 とても魅力的な話だ。
 おひとりさま好きの一華だが、祐一郎と過ごす時間は別だった。
 そもそも家族のような関係で気を遣わなくていいというのもあるが、話すこと自体が楽しいからだ。
 なんといっても彼は一華の憧れの職業、弁護士だ。守秘義務に反することは聞けないが、今世間で話題になっている社会問題、実際の事件についての彼の意見は興味深い。仕事の上でもためになるから、誘われれば喜んで応じるようにしている。
 祐一郎の方は、一華の両親から気にかけてやってくれと言われているのだろう。忙しい業務の合間を縫ってときどきこうやって声をかけてくれる。
 だからいつもなら、すぐに頷くところだ。
 けれど今は、そうはいかない。
「えーっと……今日は予定があって」
「え、珍しいな」
 祐一郎が首を傾げた。おひとりさま生活を貫く一華だから、いつもはほぼ百パーセントの確率で応じられる。
「うん、これから同僚とご飯を食べに行くかもしれなくて……」
 曖昧な表現に祐一郎がふっと笑った。
「かもしれないって、なにそれ」
「決まってるわけじゃないんだけど、断れそうにないというか」
 今一華の頭の中に浮かんでいるのは、昨日の夜にメッセージアプリで交わした歩とのやり取りだ。
 それは「およびですか?」という文字入りのゴールデンリトリバーのスタンプからはじまった。
《そろそろ、指がトモの感触ほしがってない?》
《大丈夫です。まだ覚えてます》
《ほんとにー? 一華ちゃん、奥ゆかしいからなー遠慮してない?》
《してないです》
《ほんとかなー》
 この後は、?に囲まれたリトリバーのスタンプ。
 後から見返すと、ポンポンとやり取りしているように見えるが、実際はそうではない。ポンポンと送ってくるのは歩だけで一華は来たメッセージを読み、なんて返そうかとしばらく考えてから送っている。
 顔を合わせて会話している時とまるで同じだ。
《ちなみに最近業務はどう? 残業多い?》
《先週よりは少なくなりました》
《よかった。ちなみに明日は残業になりそう?》
《明日は定時で帰れそうです》
《よかった、そのあと予定ある?》
《とくにないです》
《じゃあ、明日会おうか。この前の店でいい? 思う存分癒されて》
 そこで日付が変わっている。
 思いがけない展開に、一華の方がなんて返せばいいかわからなくて迷っているうちに日をまたいでしまったからだ。
 そして今日は、お互いに朝から外出続きで顔を合わせてはいない中、彼からメッセージが来た。
《おはよー今日もがんばろうね》
《おはようございます。がんばりましょう》
《今日俺、出ずっぱりで直帰になりそう。会うのって前の店でいい? お互い仕事が終わったら集合ってことで》
 そこでやり取りは途切れている。またもやなんて返せばいいかわからないからだ。
 断りたいと思うのに、どう伝えればいいかわからない。
 一華だって異性からの誘いを断ったことくらいある。けれどそれはなんとなく含むところがあっての誘いだったから、むしろ断りやすかった。
 その気もないのに応じる方が失礼だ。
 けれど歩の場合は百パーセント善意だからかえって断りにくかった。
 考え込む一華に、祐一郎が心配そうな表情になった。
「なに、断れないって微妙な表現。大丈夫か?」
 従兄というより、もはや実の兄のような祐一郎は、一華に対して過保護だ。そうなったのも無理なくて、昔から痴漢に遭ったり付き纏われたりするのを助けてもらっていて、それが一度や二度ではない。
「えーと、そうじゃなくて」
 歩はその類でない。
 同じ会社なら、クライアントとして顔を合わせないとも限らないので、しっかりと否定しなくては。
「言い方が悪かったかな。どちらかというと私が迷惑かけてて……」
 向こうは単なるボランティアだ。
 自分から言い出したわけではないけれど、それは間違いない。
「ただもう大丈夫だから断ろうと思ってるんだけど、断れるかな?って、とにかく大丈夫」
「……ならいいけど。ややこしそうなら必ず相談しろよ」
「ありがとう」
 弁護士である彼の言葉は心強い。これ以上頼りになる人はいない。実際、大学の時、しつこくデートに誘ってきた先輩は祐一郎が一度話をしただけでぱたりと連絡が途絶えた。
「本当に気をつけろよ。いっちゃんはしっかりしてるけど、そっち方面はちょっと抜けてるから。いい人が見つかったら、一度俺に会わせるように」
「えー子供じゃないんだから」
 そこで地下鉄の入口に着く。
 祐一郎が借りているパーキングはもう少し向こうだ。
「じゃ、また」
 手を振って別れて改札へ続く階段を下りる。
 右手が会社方面、左手が自宅方面だ。
 人から避けて隅っこに立ち、会社の勤怠報告アプリを立ち上げる。直帰の報告と退勤の打刻を打つと今度はプライベートのスマホを出した。
 メッセージアプリの歩とのやり取りの画面を開いてため息をついた。
 時刻は午後六時四十分、歩からメッセージが来ている。
《こっちはもうすぐ終わりそう。待ってるねー》
 ワン!と鳴いているリトリバーのスタンプ付きだ。
 さすがに今から断ることはできなかった。
 ——今日会って、直接お断りしよう。
《今終わりました。今から店に向かいます》
 やや気が重いながら、そうメッセージを送って、右に向かって歩き出した。