「私のお客さまで一番多いのは、スタンダードプランで次がチョイス5プラン。これに個別プランが追加したものがその次です。更新の際も基本は前年と同じだけど、プランが変わっている場合も多いからそれは私がその都度細かく指示します。ただSEチームの承認が必要で……」
水曜日の午前中、怒涛のようだった先週の業務が落ち着いて、今日は一日外出の予定がない一華はようやく腰を落ち着けて、河西のデスクにてアシスタントに必要な業務内容の説明をしている。
アシスタントの仕事は、アシスタントチームの社員からひと通り教わっているはずだから、一華の担当クライアントに合わせた細かい部分である。
真面目にメモを取る河西の隣の席で夏木がチラチラとこちらを見ているのが気になった。
一華が河西にパワハラをしていないか見張っているのだろうか。
今説明しているのは業務の内容で、なにもやましいことはない。けれどどうにも気になって、早口になってしまう。
「——ここまでで、わかりにくいところはありますか?」
今日中に伝えるべきことを説明しおえて尋ねると、河西はしばらく考えたあと「いえ」と答えた。
「ありません。……大丈夫です」
本当に大丈夫だろうかと不安になるような自信のない声だった。
早口だったせいだろうか。
あるいは、一度にたくさんの内容を詰め込みすぎたか。
ほったらかしにした先週の挽回をしようと思ったのだが、逆効果だったかもしれない。
隣の夏木が向こう隣の社員と目を合わせて肩をすくめた。
「わからないことがあればそのつど聞いてください」
どうするのが正確かまったくわからなくて、そうフォローを入れるのが精一杯だ。
「いつでも大丈夫なので——」
「それ、難しくないですか?」
夏木に遮られて口を閉じた。
「え?」
「加藤さん外出多いし。オフィスにいる時も忙しそうなので、質問しにくいと思います。それなのに、そう言われても困るよね」
最後は河西に向かって言う。河西が困ったように首を傾げてイエスともノーとも言わなかった。
暗に近寄りにくい雰囲気だと言われているのを感じて、一華はどうしたらいいかわからなくなってしまう。忙しいのは事実だが、質問が嫌だとは思っていない。
現に今までも質問には、よほど忙しい時でなければ手を止めてなるべく丁寧に応じるようにしている。けれどそれが相手に嫌な風に伝わっているのだろうか。
「私は、大丈夫なので……」
ごにょごにょ言っていると。
「そこは夏木ちゃんがフォローしてあげてよ。同じアシスタントの先輩なんだからさ」
のんびりとした調子の声が入ってくる。歩だ。近くでやり取りを聞いていたらしい。
「一華ちゃんは外出することも多いし、全部はカバーできないでしょ。一華ちゃんでないとわからないこと以外はできるだけ助けてあげてよ」
フォローをありがたいと思いつつ一華に対する呼び方にドキッとする。
加藤さん呼び回避のために、下の名前で呼び合うことを決めたのが先週の金曜日。でも週明けからお互いに外出続きで、ろくに顔を合わせていなかった。
オフィスで呼ばれるのははじめてだ。一華の方は、脳内ではいつの間にか苗字呼びに戻っているというのに、彼は昔から呼んでいたかのような自然さだ。
とはいえ、いつもと違うのは明白だから河西と夏木が気がつかないはずがない。
どうなってるの?というかのように視線を合わせて首を傾げた。が、この場ではスルーすることにしたようだ。
夏木が、不満そうにした。
「そんなこと言ったって、私にも私の仕事があるんだけど」
「うん、それはわかるよ。でも同じアシスタントなんだから、大抵のことは夏木ちゃん教えられると思うんだよね。しかも外出がなくて隣の席。うん、ぴったり。それで夏木ちゃんの仕事が滞るならさ、遠慮せずに俺に投げて。それは引き受けるから」
そこで一華は名前呼びの衝撃から立ち直り、ハッとする。
他のペアにまで迷惑がかかるのは申し訳ない。遠慮しなくてはと口を開きかけるけれど"大丈夫"と言うかのような歩の視線に気がついて口を閉じた。
「えーそれじゃ歩が大変じゃん。ペア制の意味ないよね」
「いやいや、そこは柔軟にいこう。俺には、はじめからしごできアシスタントの夏木ちゃんがついてくれてるからそういう意味では楽させてもらってるし。新人さんのフォローはみんなでやろ。その方が河西さんも安心だよね」
歩がニコッと笑いかけると、河西がおずおずと頷いた。
「……まぁ、ならわかった」
「ありがと、よろしく」
「すみません、よろしくお願いします」
歩に続いて一華も夏木に深々と頭を下げた。
そして、自席に戻ろうとその場を離れる。
「てか、なんで名前呼び?」
「俺から頼んだんだよ。苗字で呼ぶの苦手だからさ、ちゃんと許可もらったよ」
「なにそれ。べつに苗字でいいじゃん」
歩と夏木の会話を背中で聞きながら廊下を出る。中から見えないところまで行き、深いため息をついた。
またうまくいかなかった。情けないのひと言だ。
ペアを組んでもうすぐ一カ月が経つのに全然打ち解けられていない。それどころかそれを同僚たちにフォローしてもらうなんて。
コーヒーでも飲んで一旦気持ちを切り替えてから席に戻ろうと、トボトボと給湯室を目指した。
給湯室は無人だった。
掃除は毎週火曜日。昨日やったばかりだから整然と片付いている。けれど流しの横に水滴が飛び散っていた。
思わず一華はうずっとなる。
落ち込んでいるからこそ、徳積みポイントがほしくなる。ささっと拭いて綺麗にしたら、気分も上がって気持ちが切り替わるはず。
でも先週のことを思い出してぐっと詰まる。歩に給湯室の掃除するのを見られて気をつけようと決めたところだ。
でもようは見られなければいいわけで……と周りを確認しようとした、その時。
「あ、ポイントゲットのチャンスだ」
「ひゃ!」
すぐ後ろから声がして、文字通り一華は飛び上がった。
「"掃除したいな。でも、この前あのうるさい歩くんに見られたところだし、どうしようかな……"って感じ?」
まるで一華の心を読んだかのようにそう言ってにっこりしているのは歩だった。
「びっ……くりした! ……まぁそんな感じですけど」
「ごめんごめん。邪魔するつもりはないんだけどさ、つい。ほらいいよ、向こう向いててあげるからやったら?」
「いえ、そのために来たわけじゃないですし」
「そう? じゃあ、俺がやろうかな。俺、朝駅で落ちてた定期を届けたからすでに1ポイントゲットしてるんだ。2ポイントめ……」
腕まくりをしながら水道に近づこうとする歩に思わず声が漏れる。
「あ、ダメ……!」
すると彼は足を止めて振り返る。ふっと笑って「じゃあ、どうぞ?」と譲ってくれた。
それでも少し躊躇するが、彼にはどうせバレている。開き直って、さささと近づき、備え付けの布巾で飛び散った水滴を綺麗に拭き取る。
「じゃあ、俺はコーヒーでも淹れましょかね。一華ちゃんはブラック? カフェ・オ・レ?」
「ブラックでお願いします」
すべての水滴を拭き取って、布巾を洗い、ピシッと干したらスッキリとした。
1ポイントゲットと心の中で唱えると、ほんの少し気持ちが浮上する。反省も必要だが、次への対策を立てるのに落ち込んでばかりではいい案は浮かばない。
「どうぞ」
ハンカチで手を拭いて、歩が差し出した香ばしい香りを漂わせる紙コップを受け取った。
「ありがとうございます。さっきはすみませんでした」
「さっきって河西さんのこと? なんで謝るの?」
「だって夏木さんと加藤さんに迷惑がかかっちゃって」
「いやいや、この会社で発生する業務は俺と夏木ちゃんの仕事でもあるし、迷惑なんてかかってないよ。それよりも一華ちゃん、呼び方」
歩が咎めるように、こちらを見る。
「あ……。すみません」
「いいけど。やり直してくれる?」
河西のことは軽く流して、呼び方にこだわるなんてちぐはぐだなと思いながら、言う通りにする。
「えっと……歩くん」
「はい」
歩がニコッと笑って頷いた。そして、真面目な表情になる。
「一華ちゃんはもっと周りに頼っていいと思う。一応はペア制になったけど、絶対じゃないし、河西さんがまだ難しいなら他のアシに頼めばいいんだよ。リーダーもそう言ってたでしょ」
歩の言うことは正しくて、今月からはじまったペア制は目安ではあるけれど絶対ではないとなっている。しかもやってみて不都合があればまたもとの体制に戻すかもしれないという暫定的なものでもある。
「気をつけます」
一応はそう言うが、それができたら苦労はしないと暗澹る気持ちになる。
周りに頼る、すなわち誰かに自分の仕事を振り分けるのが、一華の苦手とするところだ。
ついつい抱え込んでしまいオーバーワーク気味になっているのは歩からだけでなくリーダーからもときどき指摘を受けている。
もちろん定型のことならば、振り分けられる。けれどちょっとイレギュラーだったり、負荷がかかりそうなものはどうしても躊躇してしまうのだ。
それで相手が残業にでもなったら申し訳ない。それならば、自分が残業する方がよほど気が楽だ。
少し不自然な沈黙が落ちる。
『気をつける』と言ったところで、すぐにできそうにないのを歩もわかっているのだろう。これまでもできなかったのだから。重ねてなにか言われるだろうかと身構えるが、彼はそれ以上はなにも言わなかった。代わりに空気を変えるように明るい声を出した。
「そういや、例のあれだけど、どうする? 今やる?」
そして大きな身体を屈めて一華の方に頭を傾ける。
唐突な問いかけと行動の意味がわからずに、一華は瞬きをした。
「なんですか? 例のあれ……って?」
「やだなー忘れたの? 俺の頭をちょくちょくなでるって話だよ」
「ええ⁉︎ あれ本気だったんですか?」
睡眠不足解消のため、歩の髪を触らせてもらうという突拍子もない提案だ。あの話が出たあと、すぐに別の話題に移ったし、そもそもちょっと変な話だったから、てっきり冗談だったと思っていた。そもそも一華は、お願いしますと言った記憶はない。
「本気に決まってるじゃん。酔っ払ってないって言ったでしょ。てかあれからどう? 眠れてる?」
「あー……えーっとまぁまぁです……。なので大丈夫です」
正確に言うと寝れているとは言えなかった。
ただ土日は、泥のように眠った。ほぼ一週間徹夜だったというのもあるが、なにより疲れていたからだ。身体の疲れプラス気疲れのダブルパンチで丸二日家から出られなかったくらいだ。
あの夜歩はあれからも始発が出る時間まで話し続けた。
会話のイニシアティブは常に歩がとっていて、話題はあっちへ行ったりこっちへ来たりと忙しい。一華はちぐはぐな受け答えをしながら、ついていくのが精一杯。終始、気が抜けなかったのでカフェにいる間は眠たくならなかったけれど、帰宅した途端バタンキューというわけだ。夢も見なかった。
おかげで月曜日は、頭がすっきりしていたが、その夜からはまただめで、ここ二日はあまりよく寝られていない。
「本当に?」
同じ高さになった目線で、じっと見られては気まずい。耐えきれなくて目を逸らした。
「……ちょっと、まだ……でも大丈夫です。触りません」
「ええー! なんで〜! 俺このために、今週ヘアワックスつけてないのに〜!」
「え、そうなんですか?」
「そうだよ。いつ一華ちゃんが触りたくなってもいいように。ボサボサに耐えてたのに」
ガクッと肩を落として残念そうにする彼に、一華は慌てる。
まさかそこまでしてくれているとは思わなかった。目の前にある少し茶色い彼の髪はいつもと変わらないように見えるけれど、そう言われれば若干、ふわっとしているような……?
考える一華に、歩が眉を下げた。
「いやでも、無理やりはよくないよね。変な提案してごめんね」
しゅんとしているのを見るとなにやら申し訳ない気持ちになる。そもそも提案されたその時に、キチンと断っておかなかったのがよくなかった。
彼の方はやる気満々で準備万端でいてくれたのに、それを無下にはできない。
「ごめん、じゃあこの話はな……」
「触ります」
勢い込んでそう言うと、歩が目をパチパチとさせた。
「そう? 無理してない?」
「してないです。触りたいです」
彼の優しさを無駄にしないように、一度触らせてもらう。そしてもう満足したからと言って断ればいいのだ。
「じゃあどうぞ」
再び差し出すように身を屈めた彼の髪に、一華は恐る恐る手を伸ばす。触れると指先がさらふわの感触に包まれた。
思わず一華は目を閉じる。
——うう、ふわふわ。
あの日、夢の中で間違えたのも納得だ。彼の髪はトモの耳、少し毛足の長いあたりを彷彿とさせる。
トモはここを撫でられるのが大好きで一華が撫でるといつも気持ちよさそうにじっとしてしていた。
大きな身体が撫でられている間じっとしているのも重なる部分がある。
「やっぱり似てる?」
問いかけられて、一華は気まずい思いで目を開いた。
「…………はい」
「癒された?」
「はい」
義理として触るつもりが、しっかり癒されてしまったのが恥ずかしい。
目を逸らしながら手を引くと、彼は「よかった。またいつでもどうぞ」とまるでカフェの店員さんかなにかのようににっこりと笑った。
魅力的なお誘いだけど、でもそれじゃ意味がない。
「も、もういいです。充分癒されたので……。明日からはワックスもつけてきて下さい」
「そんな遠慮しないで」
「遠慮じゃなくて、こういうの誰かに見られたら気まずいし」
お互いにそんなつもりはまったくなくても、同僚の髪を触っていたら、確実に誤解される。ましてや歩は人気者で、注目を集めやすいタイプなのだから。
「あ、確かにそうか」
歩が納得してくれたことにホッとしていると、なぜかスマホを差し出される。
「んじゃこれからは会社の外で会うことにしようか。これ、俺のプライベートの連絡先」
画面にはメッセージアプリのQRコードが表示されている。
「え⁉︎ でも」
「お互いに外出が多いし、連絡くれたらいつでも都合つけるけど、社内チャットはまずいでしょ」
「そうですけど、そうじゃなくて」
あたふたと首を振っていると、画面を覗き込んだ歩が声をあげた。
「あ、まずい。俺この次外出なんだった。ごめん、早く読み込んで」
「え⁉︎ は、はい」
一華は急いでポケットからスマホを出す。同じ営業社員としては、外出前の忙しい時にあれこれ言って時間を取らせたくないと思ってしまう。QRコードを読み込むと、「ありがと。じゃほんとにいつでもいいからねー」と、スマホをひらひらと振って、彼は給湯室を出ていった。
取り残された一華が唖然としていると、ピョコンとスマホが鳴る。確認するとさっそく彼からのメッセージ、というかスタンプだ。
にこにこしながら、「よろしく!」と足を振っているタコを見つめて、困ったなあと思っていた。
水曜日の午前中、怒涛のようだった先週の業務が落ち着いて、今日は一日外出の予定がない一華はようやく腰を落ち着けて、河西のデスクにてアシスタントに必要な業務内容の説明をしている。
アシスタントの仕事は、アシスタントチームの社員からひと通り教わっているはずだから、一華の担当クライアントに合わせた細かい部分である。
真面目にメモを取る河西の隣の席で夏木がチラチラとこちらを見ているのが気になった。
一華が河西にパワハラをしていないか見張っているのだろうか。
今説明しているのは業務の内容で、なにもやましいことはない。けれどどうにも気になって、早口になってしまう。
「——ここまでで、わかりにくいところはありますか?」
今日中に伝えるべきことを説明しおえて尋ねると、河西はしばらく考えたあと「いえ」と答えた。
「ありません。……大丈夫です」
本当に大丈夫だろうかと不安になるような自信のない声だった。
早口だったせいだろうか。
あるいは、一度にたくさんの内容を詰め込みすぎたか。
ほったらかしにした先週の挽回をしようと思ったのだが、逆効果だったかもしれない。
隣の夏木が向こう隣の社員と目を合わせて肩をすくめた。
「わからないことがあればそのつど聞いてください」
どうするのが正確かまったくわからなくて、そうフォローを入れるのが精一杯だ。
「いつでも大丈夫なので——」
「それ、難しくないですか?」
夏木に遮られて口を閉じた。
「え?」
「加藤さん外出多いし。オフィスにいる時も忙しそうなので、質問しにくいと思います。それなのに、そう言われても困るよね」
最後は河西に向かって言う。河西が困ったように首を傾げてイエスともノーとも言わなかった。
暗に近寄りにくい雰囲気だと言われているのを感じて、一華はどうしたらいいかわからなくなってしまう。忙しいのは事実だが、質問が嫌だとは思っていない。
現に今までも質問には、よほど忙しい時でなければ手を止めてなるべく丁寧に応じるようにしている。けれどそれが相手に嫌な風に伝わっているのだろうか。
「私は、大丈夫なので……」
ごにょごにょ言っていると。
「そこは夏木ちゃんがフォローしてあげてよ。同じアシスタントの先輩なんだからさ」
のんびりとした調子の声が入ってくる。歩だ。近くでやり取りを聞いていたらしい。
「一華ちゃんは外出することも多いし、全部はカバーできないでしょ。一華ちゃんでないとわからないこと以外はできるだけ助けてあげてよ」
フォローをありがたいと思いつつ一華に対する呼び方にドキッとする。
加藤さん呼び回避のために、下の名前で呼び合うことを決めたのが先週の金曜日。でも週明けからお互いに外出続きで、ろくに顔を合わせていなかった。
オフィスで呼ばれるのははじめてだ。一華の方は、脳内ではいつの間にか苗字呼びに戻っているというのに、彼は昔から呼んでいたかのような自然さだ。
とはいえ、いつもと違うのは明白だから河西と夏木が気がつかないはずがない。
どうなってるの?というかのように視線を合わせて首を傾げた。が、この場ではスルーすることにしたようだ。
夏木が、不満そうにした。
「そんなこと言ったって、私にも私の仕事があるんだけど」
「うん、それはわかるよ。でも同じアシスタントなんだから、大抵のことは夏木ちゃん教えられると思うんだよね。しかも外出がなくて隣の席。うん、ぴったり。それで夏木ちゃんの仕事が滞るならさ、遠慮せずに俺に投げて。それは引き受けるから」
そこで一華は名前呼びの衝撃から立ち直り、ハッとする。
他のペアにまで迷惑がかかるのは申し訳ない。遠慮しなくてはと口を開きかけるけれど"大丈夫"と言うかのような歩の視線に気がついて口を閉じた。
「えーそれじゃ歩が大変じゃん。ペア制の意味ないよね」
「いやいや、そこは柔軟にいこう。俺には、はじめからしごできアシスタントの夏木ちゃんがついてくれてるからそういう意味では楽させてもらってるし。新人さんのフォローはみんなでやろ。その方が河西さんも安心だよね」
歩がニコッと笑いかけると、河西がおずおずと頷いた。
「……まぁ、ならわかった」
「ありがと、よろしく」
「すみません、よろしくお願いします」
歩に続いて一華も夏木に深々と頭を下げた。
そして、自席に戻ろうとその場を離れる。
「てか、なんで名前呼び?」
「俺から頼んだんだよ。苗字で呼ぶの苦手だからさ、ちゃんと許可もらったよ」
「なにそれ。べつに苗字でいいじゃん」
歩と夏木の会話を背中で聞きながら廊下を出る。中から見えないところまで行き、深いため息をついた。
またうまくいかなかった。情けないのひと言だ。
ペアを組んでもうすぐ一カ月が経つのに全然打ち解けられていない。それどころかそれを同僚たちにフォローしてもらうなんて。
コーヒーでも飲んで一旦気持ちを切り替えてから席に戻ろうと、トボトボと給湯室を目指した。
給湯室は無人だった。
掃除は毎週火曜日。昨日やったばかりだから整然と片付いている。けれど流しの横に水滴が飛び散っていた。
思わず一華はうずっとなる。
落ち込んでいるからこそ、徳積みポイントがほしくなる。ささっと拭いて綺麗にしたら、気分も上がって気持ちが切り替わるはず。
でも先週のことを思い出してぐっと詰まる。歩に給湯室の掃除するのを見られて気をつけようと決めたところだ。
でもようは見られなければいいわけで……と周りを確認しようとした、その時。
「あ、ポイントゲットのチャンスだ」
「ひゃ!」
すぐ後ろから声がして、文字通り一華は飛び上がった。
「"掃除したいな。でも、この前あのうるさい歩くんに見られたところだし、どうしようかな……"って感じ?」
まるで一華の心を読んだかのようにそう言ってにっこりしているのは歩だった。
「びっ……くりした! ……まぁそんな感じですけど」
「ごめんごめん。邪魔するつもりはないんだけどさ、つい。ほらいいよ、向こう向いててあげるからやったら?」
「いえ、そのために来たわけじゃないですし」
「そう? じゃあ、俺がやろうかな。俺、朝駅で落ちてた定期を届けたからすでに1ポイントゲットしてるんだ。2ポイントめ……」
腕まくりをしながら水道に近づこうとする歩に思わず声が漏れる。
「あ、ダメ……!」
すると彼は足を止めて振り返る。ふっと笑って「じゃあ、どうぞ?」と譲ってくれた。
それでも少し躊躇するが、彼にはどうせバレている。開き直って、さささと近づき、備え付けの布巾で飛び散った水滴を綺麗に拭き取る。
「じゃあ、俺はコーヒーでも淹れましょかね。一華ちゃんはブラック? カフェ・オ・レ?」
「ブラックでお願いします」
すべての水滴を拭き取って、布巾を洗い、ピシッと干したらスッキリとした。
1ポイントゲットと心の中で唱えると、ほんの少し気持ちが浮上する。反省も必要だが、次への対策を立てるのに落ち込んでばかりではいい案は浮かばない。
「どうぞ」
ハンカチで手を拭いて、歩が差し出した香ばしい香りを漂わせる紙コップを受け取った。
「ありがとうございます。さっきはすみませんでした」
「さっきって河西さんのこと? なんで謝るの?」
「だって夏木さんと加藤さんに迷惑がかかっちゃって」
「いやいや、この会社で発生する業務は俺と夏木ちゃんの仕事でもあるし、迷惑なんてかかってないよ。それよりも一華ちゃん、呼び方」
歩が咎めるように、こちらを見る。
「あ……。すみません」
「いいけど。やり直してくれる?」
河西のことは軽く流して、呼び方にこだわるなんてちぐはぐだなと思いながら、言う通りにする。
「えっと……歩くん」
「はい」
歩がニコッと笑って頷いた。そして、真面目な表情になる。
「一華ちゃんはもっと周りに頼っていいと思う。一応はペア制になったけど、絶対じゃないし、河西さんがまだ難しいなら他のアシに頼めばいいんだよ。リーダーもそう言ってたでしょ」
歩の言うことは正しくて、今月からはじまったペア制は目安ではあるけれど絶対ではないとなっている。しかもやってみて不都合があればまたもとの体制に戻すかもしれないという暫定的なものでもある。
「気をつけます」
一応はそう言うが、それができたら苦労はしないと暗澹る気持ちになる。
周りに頼る、すなわち誰かに自分の仕事を振り分けるのが、一華の苦手とするところだ。
ついつい抱え込んでしまいオーバーワーク気味になっているのは歩からだけでなくリーダーからもときどき指摘を受けている。
もちろん定型のことならば、振り分けられる。けれどちょっとイレギュラーだったり、負荷がかかりそうなものはどうしても躊躇してしまうのだ。
それで相手が残業にでもなったら申し訳ない。それならば、自分が残業する方がよほど気が楽だ。
少し不自然な沈黙が落ちる。
『気をつける』と言ったところで、すぐにできそうにないのを歩もわかっているのだろう。これまでもできなかったのだから。重ねてなにか言われるだろうかと身構えるが、彼はそれ以上はなにも言わなかった。代わりに空気を変えるように明るい声を出した。
「そういや、例のあれだけど、どうする? 今やる?」
そして大きな身体を屈めて一華の方に頭を傾ける。
唐突な問いかけと行動の意味がわからずに、一華は瞬きをした。
「なんですか? 例のあれ……って?」
「やだなー忘れたの? 俺の頭をちょくちょくなでるって話だよ」
「ええ⁉︎ あれ本気だったんですか?」
睡眠不足解消のため、歩の髪を触らせてもらうという突拍子もない提案だ。あの話が出たあと、すぐに別の話題に移ったし、そもそもちょっと変な話だったから、てっきり冗談だったと思っていた。そもそも一華は、お願いしますと言った記憶はない。
「本気に決まってるじゃん。酔っ払ってないって言ったでしょ。てかあれからどう? 眠れてる?」
「あー……えーっとまぁまぁです……。なので大丈夫です」
正確に言うと寝れているとは言えなかった。
ただ土日は、泥のように眠った。ほぼ一週間徹夜だったというのもあるが、なにより疲れていたからだ。身体の疲れプラス気疲れのダブルパンチで丸二日家から出られなかったくらいだ。
あの夜歩はあれからも始発が出る時間まで話し続けた。
会話のイニシアティブは常に歩がとっていて、話題はあっちへ行ったりこっちへ来たりと忙しい。一華はちぐはぐな受け答えをしながら、ついていくのが精一杯。終始、気が抜けなかったのでカフェにいる間は眠たくならなかったけれど、帰宅した途端バタンキューというわけだ。夢も見なかった。
おかげで月曜日は、頭がすっきりしていたが、その夜からはまただめで、ここ二日はあまりよく寝られていない。
「本当に?」
同じ高さになった目線で、じっと見られては気まずい。耐えきれなくて目を逸らした。
「……ちょっと、まだ……でも大丈夫です。触りません」
「ええー! なんで〜! 俺このために、今週ヘアワックスつけてないのに〜!」
「え、そうなんですか?」
「そうだよ。いつ一華ちゃんが触りたくなってもいいように。ボサボサに耐えてたのに」
ガクッと肩を落として残念そうにする彼に、一華は慌てる。
まさかそこまでしてくれているとは思わなかった。目の前にある少し茶色い彼の髪はいつもと変わらないように見えるけれど、そう言われれば若干、ふわっとしているような……?
考える一華に、歩が眉を下げた。
「いやでも、無理やりはよくないよね。変な提案してごめんね」
しゅんとしているのを見るとなにやら申し訳ない気持ちになる。そもそも提案されたその時に、キチンと断っておかなかったのがよくなかった。
彼の方はやる気満々で準備万端でいてくれたのに、それを無下にはできない。
「ごめん、じゃあこの話はな……」
「触ります」
勢い込んでそう言うと、歩が目をパチパチとさせた。
「そう? 無理してない?」
「してないです。触りたいです」
彼の優しさを無駄にしないように、一度触らせてもらう。そしてもう満足したからと言って断ればいいのだ。
「じゃあどうぞ」
再び差し出すように身を屈めた彼の髪に、一華は恐る恐る手を伸ばす。触れると指先がさらふわの感触に包まれた。
思わず一華は目を閉じる。
——うう、ふわふわ。
あの日、夢の中で間違えたのも納得だ。彼の髪はトモの耳、少し毛足の長いあたりを彷彿とさせる。
トモはここを撫でられるのが大好きで一華が撫でるといつも気持ちよさそうにじっとしてしていた。
大きな身体が撫でられている間じっとしているのも重なる部分がある。
「やっぱり似てる?」
問いかけられて、一華は気まずい思いで目を開いた。
「…………はい」
「癒された?」
「はい」
義理として触るつもりが、しっかり癒されてしまったのが恥ずかしい。
目を逸らしながら手を引くと、彼は「よかった。またいつでもどうぞ」とまるでカフェの店員さんかなにかのようににっこりと笑った。
魅力的なお誘いだけど、でもそれじゃ意味がない。
「も、もういいです。充分癒されたので……。明日からはワックスもつけてきて下さい」
「そんな遠慮しないで」
「遠慮じゃなくて、こういうの誰かに見られたら気まずいし」
お互いにそんなつもりはまったくなくても、同僚の髪を触っていたら、確実に誤解される。ましてや歩は人気者で、注目を集めやすいタイプなのだから。
「あ、確かにそうか」
歩が納得してくれたことにホッとしていると、なぜかスマホを差し出される。
「んじゃこれからは会社の外で会うことにしようか。これ、俺のプライベートの連絡先」
画面にはメッセージアプリのQRコードが表示されている。
「え⁉︎ でも」
「お互いに外出が多いし、連絡くれたらいつでも都合つけるけど、社内チャットはまずいでしょ」
「そうですけど、そうじゃなくて」
あたふたと首を振っていると、画面を覗き込んだ歩が声をあげた。
「あ、まずい。俺この次外出なんだった。ごめん、早く読み込んで」
「え⁉︎ は、はい」
一華は急いでポケットからスマホを出す。同じ営業社員としては、外出前の忙しい時にあれこれ言って時間を取らせたくないと思ってしまう。QRコードを読み込むと、「ありがと。じゃほんとにいつでもいいからねー」と、スマホをひらひらと振って、彼は給湯室を出ていった。
取り残された一華が唖然としていると、ピョコンとスマホが鳴る。確認するとさっそく彼からのメッセージ、というかスタンプだ。
にこにこしながら、「よろしく!」と足を振っているタコを見つめて、困ったなあと思っていた。



