大小さまざまな植物が所狭しと置かれた店内に、ゆるいビートミュージックが流れている。まるで森の中にいるような空間に、座り心地のいいソファが適度な間隔で配置されている。
 深夜二時にもかかわらず、席は八割がた埋まっていて、ほとんどが若いカップルや男女のグループだった。けれど騒がしいということはなく落ち着いた雰囲気である。
 一華には馴染みのない業務形態だが、どうやら深夜喫茶というジャンルの店のようで、夜七時ごろから朝まで営業しているのだという。
 朝までの時間潰しの場所としてファーストフード店ではなくここへ来ようと言ったのは歩だった。
『ご飯食べるなら、いい店知ってるんだけど、よかったらそこにしない?』
 そしてつれてこられたのが、この雰囲気のいい深夜喫茶だったというわけだ。
 いつもの一華なら、いい店を見つけたと喜ぶところだ。
 けれど今はとてもそんな余裕はなく、居心地の悪い気持ちで、歩と向かい合わせに座っている。
 会社の外で会うのははじめてでしかもふたりだけだというのに、歩の方はまったく気まずさを感じていないようで、他の社員といる時と同じようにリラックスしている。
 マスターと思しき男性が、水とおしぼりをテーブルに置いてにっこりと笑った。
「いらっしゃい、歩くん。珍しいね。いつもグループで来るのに」
「残業で終電逃しちゃって。始発が出るまでいさせてください。ごはんも食べてたいのでフードメニューお願いします」
「喜んで」
 マスターはメニューを置いて一華に笑いかけた。
「ゆっくりしていってくださいね」
 その笑顔に少し緊張が緩む。
 けれど、やはり気は重かった。
 心配してもらえるのはありがたい。けれどこんないい店を知っているなら、店だけおしえてくれればよかったのにいうのが本音だった。
 それならば、金曜日の夜に隠れ屋的深夜喫茶でひとり時間を過ごすのも悪くないと思えた。
「加藤さん、なににする? ここフードメニューも美味しいよ。やべっ俺も腹減ってきた。さんざん飲み食いしたあとなのに。これ以上食べるのはまずいかなー」
 歩がメニューを開いて一華が見やすい方向に向けてくれる。
「深夜に食べるものって美味しさ二倍じゃない? でもダメージは十倍なんだよね。ここのマスター特製煮込みハンバーグ絶品だよ。うわー食いてえ。でもやっぱり今日はやめとこ。加藤さんは結構ガッツリいけそう?」
「あー……えーっと」
 一華としてはメニューを選ぶどころではない。普段は側から聞いていてさすがだなと感心している歩の会話術だが、今は自分に向けられているのだ。
 なんと答えるべきかわからなくて戸惑う。
「あ、俺に遠慮しないでね。食べたいものを食べて」
 それにしてもさっきから一華はろくに返事もできていないのに、止まるところを知らないのがすごいというかなんというか。
 とりあえず今はなにを頼むか決めなくては、とメニューに視線を落とした。
 お腹は空いているし、絶品だという煮込みハンバーグ、ぜひ食べてみたいと思うけれど、彼が我慢すると言うなら食べにくい。
 ああ、やっぱりひとりで来たかった。ひとりだったら、誰にも遠慮することなく食べたいものを頼めるのに……。
 あまり親しくない関係で一緒にいる人が食べないのに、ましてや我慢してるのにガッツリは食べにくい。
「じゃあ、この"深夜のわがままプレート"にします」
 結局無難なものにする。
 歩が「おっけー」と、頷いてマスターを呼び、自分はミックスジュースと一華の分をオーダーした。
 煮込みハンバーグ食べてみたいから、今度ひとりで来ようかな。でも彼と鉢合わせしたら気まずいし……。
 お手拭きで手を拭きながらそんなことを考えていた一華は向かいの歩と視線が合ってハッとする。彼はにこーっと笑ってこちらを見ている。
 そうだ今はひとりではないのだ。ぼんやりしている暇はない。なにか言わなくてはとお尻をもぞもぞと動かした。
「会社の近くにこんなところがあるんですね」
「ここいいでしょ。終電を逃した時によく来るんだ」
「全然気がつかなかった」
 喫茶店は古いビルの二階にある。昼間に通っても気がつかなかったのは、看板が出ていないからだ。
「ちょっと目立たない場所にあるからね。営業時間も夜だけだから昼間は気がつかないよ。俺はたまたま知り合いにおしえてもらって知ったんだ。ラッキーだったよ。マスターがいい人だから、ゆっくりできるし」
「お、嬉しいこと言ってくれるね〜」
 マスターがミックスジュースと一華のプレートを持ってきた。
「お待たせ。歩くんはいつでも大歓迎。いつもたくさんご新規さんを連れてきてくれるからね。こちらこそラッキーだったよ。いつでも待ってるよ」
 どうやら彼はここでも好かれているらしい。
「あはは、言われなくても来ます」
 目の前で繰り広げられる軽快なやり取りを聞きながら、一華はテーブルに視線を落とす。
 夜のプレートはパンとサラダとチキンのソテー。そしてミネストローネがついている。トマトソースのいい香りに一華のお腹がきゅうっと鳴った。
「美味しそう」
 呟くと、マスターは「ごゆっくり」とにっこり笑ってカウンターに戻っていった。
 ニコニコとこちらを見ている歩が気になりながらも、おずおずと手を合わせる。
「い、いただきます」
 木のスプーンで、ミネストローネをひと口飲む。
「……おいしい!」
 思わず声をあげた。
「美味しいでしょ。マスターのミネストローネ」
 歩の言葉にこくこくと頷いた。
 トマトスープとくたくたの野菜の味がとろとろに絡み合ってあまり酸味を感じない。疲れきった身体にあたたかく染み渡る。
 チキンのソテーは、オレンジソースが絶品でパンも小麦の風味がしっかりある。
 量はそれほど多くはないが、どれもこれも優しい味で、ほとんど一日なにも食べていなかった一華の胃はほかほかと満たされた。
 あっという間に食べ終えて、ごちそうさまと手を合わせると、やはり、ミックスジュースを飲みながら、にこにことこちらを見ている歩が気になった。……気になりすぎる。
 もちろん彼のせいではない。一華が心配だからという親切心で付き添ってくれているのだから。
 だからこそ気が重かった。彼には一華のこの気持ちを勘づかれるわけにいかない。一華を気遣い食事中はあまり話しかけてこなかったが、本来は会話を楽しむタイプだ。ここから朝まで黙っているわけにはいかない。
 今週一週間は、説明お詫び説明お詫びを繰り返し、もうひと言も喋りたくないと思うけれど、そういうわけにはいかないと自分に喝を入れる。
 テーブルに頬杖をついて、こちらを見ている歩は、ご機嫌だ。
 疲れと気まずい気持ちを見せないように意識して口角を上げながら、疑問に思っていた。
 彼はなにがそんなに楽しいのだろう?
 一華の疑問に気がついたのかどうなのか、歩が口を開いた。
「なんか、楽しいね」
「……そうですね……?」
 つい疑問形気味になってしまう。ほかほかご飯のおかげで一華の気分は少し上がった。けれど彼の方は、さして親しくない同僚に付き合って朝まで喫茶店で過ごすことになったというあまり嬉しくない状況のはずだ。
「目が覚めたときはどうなることかと思ったけど、こうなってみるとラッキーだよ。俺、一度加藤さんとマンツーで話してみたかったんだよね」
 その言葉に、一華は反射的に警戒しどういう意味だろうと考えた。
 歩に限ってまさかと思うが、なにか下心があっての提案だったのだろうか?
 自意識過剰だというのはわかっている。けれどそうなってしまうくらい、これまでの一華と異性との相性はよくなかった。
 昔から異性にアプローチされることはよくあった。けれどそのほとんどがよく知らない相手で、つまり向こうは一華の中身はよく知らないまま、外見に惹かれているということになる。
 それでいい関係が築けるはずがない。
 すべての好意を無下するが申し訳なくて、誠実そうな人と二度ほど付き合ったことがあるが相手は一華の中身、つまり愛想のなさとあまり続かない会話にがっかりして、早々に気持ちが離れていく。
 一華としては、せっかくならいい関係を築こうと、そうならないように頑張るが、あまりうまくいかなかった。結局二回とも恋人らしいことはなにひとつないままにお別れした。
 おひとりさま女子を楽しむ今は、もう一生ひとりでいいかなと思っていて好意を寄せられないように最大限警戒している。だから普段なら業務外で異性とふたりで食事に行くなんてことはしないのだ。
 今日ふたりが終電を逃したのは一華のせいだし、彼の方は純粋に一華を心配しくれてのことだと思っていたけれど……。
 困惑してフリーズする一華に、歩が苦笑した。
「や、この言い方は気持ち悪いよね。ごめんごめん、変な意味じゃなくてさ」
 全然ごめんと思っていなさそうだが、他に含むところもなさそうでとりあえずホッとする。
「俺、人と仲良くなるのが好きで、だからあまりよく知らない人と話す機会があるとわくわくするんだよ。加藤さんとはなかなか業務外で話す機会がなかったから」
 そんな人いるのか。
 おひとりさま女子の一華にとっては驚きだが、歩なら納得だ。やはり彼は自分とは真逆のタイプだ。でもだからこそ、彼の周りにはいつも人がいるのだろう。
「変な反応してごめんなさい。自意識過剰ですよね」
「いやいや、そのくらいの方がいいと思うよ。でも安心して、下心はまったくないから……ってこれは逆に失礼か?」
「いえ、その方が私もすごく安心です……って自意識過剰かも」
 目を合わせて口元を緩ませると肩の力が少し抜ける。
 さすがはキュレルの人間磁石、皆のゴールデンリトリバー。一華のような相手でも、気まずくなく会話が続く。
 感心しながらアイスティーを飲んでいると、歩がこちらに乗り出した。
「ただ他の人より興味があったのは本当。加藤さんってさ、時々給湯室の掃除をこっそりやってるよね」
 歩からの切り込みに、ドキッとしてストローを咥えたまま瞬きをする。
「夜にコピー機の用紙補充をしてることもない?」
 どちらも一華がときどきやっている徳積み行為だ。
 一華の胸がひやりとした。
 給湯室の掃除はオフィスの滞在時間が長いコールセンターの社員とアシスタント社員の当番だが週に一度なので、汚れていることも多い。なので、一華はチャンスを見つけて掃除するようにしていた。
 綺麗になると気持ちがいい。
 コピー機の用紙補充は、なくなったタイミングで気がついた人が補充することになっている。がこれもチャンスがあれば補充している。
 すべて徳積みポイントゲットのためだ。
 コピー機はともかくとして、給湯室の掃除は担当した社員からしてみると嫌味に思うかもしれないから、慎重にやっていたつもりなのに、まさかそれを見られているとは。
 これまで加点される一方だった徳積みポイント、ここにきてまさかの減点? いや問題はそこではなくて……。
「よけいなことしてすみません」
 肩を落としてそう言うと、歩が、ん?と首を傾げた。
「いやいやなんで謝るの。いいことをしてるのに。むしろお礼を言われる立場でしょ」
「いいことだからって、やればいいってものでもないと思います。コピー機はともかく給湯室は、当番の人は嫌な気分になるかもしれないし……。他の方は自分もやらないといけないのかな?ってプレッシャーに感じることもあるだろうし」
 営業社員が給湯室の掃除をしないのは偉いからではなく単にあまり使わないから。さらには営業社員だけの役割があり重い責任を負っているからでもある。
 それで皆納得しているのに、それを乱すことにもなりかねない。
「あー、まぁそうか、そう感じる人もいるかもね」
 だからこそ会社での徳積み行為は十分気をつけていたのに。
 これは大減点、反省だ。
「あの、黙っていてもらえますか……?」
 悪意を持って噂を広めるような人には思えないが、念のため尋ねると、彼は大きな目を開いてフリーズする。そして一瞬の間の後、笑い出した。
 唐突な反応に、一華が首を傾げていると、歩が笑いながら口を開いた。
「加藤さんって面白いね」
「え?」
「だって……! そんな、悪事がバレたみたいにお願いしなくても……!」
「だって」
「心配しなくても誰にも言ってないし、これからも言わないよ」
「ありがとうございます。以後、気をつけます」
 ホッとしながら神妙に言うと、また歩は笑い出した。
「本当に面白いな。こんな人だと思わなかった。加藤さんっていい子だね」
 とりあえず黙っててもらえることには安心した。けれどその言葉にはドキッとする。徳積みをすることをいい子だと言われることには苦手意識がある。反射的に否定する。
「いい子だからやってるわけじゃないんです」
「え? だってみんなのためにこっそり掃除してるんでしょ? いい子じゃん」
「私がいいことをするのは、みんなのためじゃなくて、すべては自分のためなんです」
 突然の自己中発言に、歩が目を丸くする。
「いいことをすれば、自分が嬉しいっていうか。気分が上がるっていうか」
「それってスピリチュアル的な感じ?」
「それとも違っていて、あのおばあちゃんが……」
「え、おばあちゃん?」
 話せば話すほど意味不明になっていく。これでは"いい子"を否定するあまり、あやしい人になってしまう。
 一旦心を落ち着けて、一華は祖母からのおしえられたことからはじまった自分の趣味を話した。
「——だから、いいことをしてるってわけじゃなくて、自分の中の楽しみなんです」
「なるほど。ちょっと違うかもだけど俺も昔やってたな。線を踏まないでどれだけ長いこと過ごせるか、みたいなチャレンジ。ちなみに最長記録は一週間」
 理解してもらえるだろうかと思ったが、正確に伝わったようだ。
「そんな感じです。みんなでやりましょう的な気持ちもないので、気づかれたら私的にはマイナスです」
「え、じゃあもしかして、俺のせいで減点になった? あーなんかごめんね?」
「それは、私のミスですので仕方ないです」
 首を横に振ると、歩はふふふと笑った。
「これからは見て見ぬふりをするね」
「いえ、それじゃ意味がないので。これからは見られないようにします」
 普段から気をつけてはいるけれど、掃除はついつい夢中になってしまい警戒心がゆるむのだろう。心のメモに書き留めていると、歩が目を輝かせた。
「ほんと面白いよね、加藤さん。なんか会社と全然違う」
「そうですか……?」
 疑問形で答えるが、よく言われる言葉だった。
『見た目と違って、つまらないよね』
『ここまで真面目な子だとはは思わなかったな』
 元彼たちに言われた言葉が頭に浮かぶ。が、彼は真逆の反応だ。
「うん。すごくしっかりしてると思ってたから……いやしっかりしてるんだろうけど、中身もきっちりかと思ってたから、こんなに面白いと思わなかった。ほんと今日はラッキーだ」
 これまでのやり取りのなにが面白かったのか、そしてなにがラッキーなのかわからないけれどとりあえず、徳積みを好意的に受け止めてくれたのはありがたい。見られたのが歩でよかった。
「しっかりしてるからこそ、今日すっごいびっくりしたんだよね。休憩室で寝てるの。俺、事件現場に遭遇したのかと思ったもん。あれが石橋ちゃんだったら居眠りだなーってすぐわかるんだけど」
 確かに夜の休憩室で人が倒れていたらそう思うかもしれない。
「お騒がせしました」
「や、でもわかるよ。疲れてたんでしょ? 今週すごい忙しそうだったから。オーバーワークなんじゃない?」
 そこで歩はさっきとは打って変わって心配そうな表情になった。
「きついなら、まわりに振り分けたらいいんだよ。うちの会社ノルマがあるわけじゃないしさ、ひとりだけ忙しいなんておかしいじゃん。俺もやるし、俺からリーダーに言おうか?」
「大丈夫です」
 一華は首を横に振るが彼は納得しなかった。
「でもさー休憩室で寝ちゃうなんてよっぽどでしょ」
「確かに今週は忙しかったですけどそれで寝てたわけじゃなくて、単に寝不足だったんです。最近寝れてなくて」
 リーダーに報告されては困ると思い仕事が原因ではないと説明するが、歩はますます怪訝な表情になった。
「寝れていない? ……って大丈夫?」
 深刻そうに言われては、適当に誤魔化すこともできない。社会人の不眠の理由の原因が仕事にあるという話はよくあること。これではますますリーダー案件だ。
「その……先週、愛犬が死んじゃって……」
「愛犬って、さっき言ってたゴールデンリトリバーのトモ?」
 頷くと「そうなんだ」と呟いて沈黙する。いきなり重い話をして申し訳ないがこれで納得してくれるだろう。
「だからさっきも、泣いてたの?」
「はい……。あ、でも二十歳で長生きだったし、覚悟はしてたんですけど」
 深刻になった空気を取り繕うように言う。
 彼からしてみればいきなり重い話をぶち込まれて反応に困るだろうと思いそう言ったのだが。
「でもその分長く一緒にいたってことでしょ。それは……つらかったね」
 しんみりと歩が言う。普段とは少し違う言葉が、一華の胸に響いた。
「夢の中で会えた?」
「はい、生きてる時と変わらない元気な姿で……。出てきてくれたのは今日がはじめてでした」
 じわっと視界が涙で滲み、慌てて堪える。咳払いをしてごまかすと、歩がにっこりと笑った。
「また、出てきてくれるといいね」
「はい……」
「……あ、そうだ!」
 いきなり声を上げる歩に、一華の肩がビクッと震える。
 いちいち反応が大袈裟で予測不能でドキドキする。
「じゃあ、これからもちょくちょく俺をなでたらいいんじゃない?」
「は?」
 しかも内容も支離滅裂だった。
「なでるって……なんで?」
「俺の髪がトモの毛並みに似てるんでしょ? きっとなでてから夢に出てきてくれたんだよ。だから、また出てきてくれますように〜!って、願掛け? 本当は触りながら寝たらいいんだろうけど、さすがに一緒に寝てあげるわけにはいかないし」
「そんな……! あ、当たり前です!」
「だからさ、暇を見つけてちょいちょい触ったらいいんだよ。そしたら指が覚えててて、また夢に出てきてくれるかも。加藤さんの不眠解消になるんじゃない?」
 名案!とでも言いたげに、彼はこちらを見ているが、まったく意味がわからない。
 確かに、彼の髪はトモが亡くなる前からリトリバーっぽいなと思っていた。
 けれど当たり前だけれどトモではないし、撫でたからといって癒されるわけじゃない。……たぶん。
 夢の中では癒されたけど、それはトモだと思っていたからだ。そのために、同僚の頭を撫でさせてもらうのも意味がわからない。
「大丈夫です……!」
「でも、さっきの俺の頭を撫でてた時の加藤さん、本当嬉しそうだった。そして泣きだしてからはつらそうで、見てる俺もつらかったもん」
 そう言う彼は、べつに冗談を言っている風でもなく本当に一華を心配している。いい人だ。けれどやっぱり意味がわからない。
 こんな突拍子もないことを真剣に言うなんて、酔っ払っているのだろうか?
「あ、今、酔っ払いめ、って思ったでしょ。もう酔いは覚めてるから。そもそも俺、酒は強い方だし、これくらいで自分の言ってることわからなくならないし」
 歩が口を尖らせた。
「そんなことは……てかそもそもなんでそんな心配……。私が眠れなくても加藤さんにはなんの関係もないのに」
「あ、ひどっ、冷たいっ! 関係ないってことないじゃん。一緒に働いてるんだから」
「でも、そこまでしてもらう理由は……」
 たいして親しくない同僚の不眠解消のために、自分の頭をちょくちょく撫でさせるなんて過度なボランティア精神は、いったいどこから来るのだろう?
「んー……。なんていうかな、さっきの加藤さんの話、徳積みっていうの? それに俺も興味でちゃって。やってみようかなーって。ポイントほしくなっちゃった」
「え? 徳積みを……?」
「うんそう、ポイントって俺ももらえる? あ、もしかして入会資格がいるとか」
「そ、そんなことは……誰でも自由にやっていいです。ポイントももらえます」
 というか、一華が決めることではない。
「よかったー。じゃあぜひ協力させてよ」
「でも」
「それにこれは、加藤さんにとっての徳積みにもなるんだよ?」
「え? 私にとっても……?」
「そう、加藤さんが俺の頭を撫でてくれたら、俺は徳積みできて嬉しい。すなわち加藤さんは俺にとっていいことをしている。徳積みポイントそれぞれ1ポイント獲得でWINWIN」
 歩が生み出す謎なぞ理論に、一華の頭は?でいっぱいになる。大きな渦巻きにぐるぐると巻き込まれていくようだった。正常な判断ができない。
「でも加藤さんが……」
 それでもまた言いかけた時、歩がぷっと噴き出した。そのまま顔を背けて笑っている。
 もう何度目かわからない唐突なウケにあっけに取られていると、彼は「や、ごめんごめん」と口を開いた。
「なんか俺ら面白くない? 『加藤さん』『加藤さん』言い合ってさ。周りからどう見えるんだろって思ったらひとりでウケてしまった」
 一華は周りを見回した。席と席が離れているから自分たちの会話を聞いている人はいないけれど、そう言われればそうかもしれない。とはいえなにも変なことをしているわけじゃない。お互いに名前を呼び合っているだけなのだから。
「でもふたりとも加藤だから仕方がないし」
「まぁそうなんだけど」
 言いながらも、歩はまだ笑っている。本当に感情表情が豊かな人だ。大袈裟に思えるくらいなのもそうだけど、心の中がそのまま表情に出ているようでくるくると変わる。そこに一切の躊躇がない。
 なんだか変な気分だった。彼のこの感じ、既視感があるような……。
「自分の苗字をさ、"さん"付けで呼ぶのってむずがゆくない? 俺、苦手なんだよね。珍しくない名前だから仕方ないけど。加藤さんも俺のこと皆みたいに下の名前で呼んでいいよ。んで俺は加藤さんを下の名前で呼んでいい?」
「え⁉︎」
 思いがけない提案だった。そんなことを言われるとは思ってなかったのでどう答えればいいかわからない。
 正直言って微妙だった。加藤は珍しい苗字じゃないし一華としては慣れている。下の名前で呼び合う方がやりにくい。
「で、でも……」
 躊躇して口籠もると歩が不満そうにする。
「なにその微妙な反応、傷つくな〜嫌?」
 全然傷ついているふうでもなくそう言って彼は机の上に乗り出した。そして一華を覗き込むようにこちらを見る。その目は楽しそうに輝いている。
 一華はまた謎の既視感に襲われる。
 この感じ、なんだろう?
 心の中で首を傾げつつ考えるけれど、やっぱりなにかはわからない。
「い、嫌ではないですけど……。会社の人を下の名前で呼ぶのは私の中では違和感あるっていうか」
「いや、皆呼んでるよ」
「み、みなさんは加藤さんと仲良しですし」
「あ、またそんなひどいこと言って〜俺らだってもう仲良しじゃん。こうやっておしゃれ喫茶でふたりで過ごしてるんだからさ。仲良しでしょ」
 この短時間で……?と、一華は驚きを隠せないが、彼からしたらそうなのかもしれない。どうも彼とは人と人の距離感に関する感覚が大きく違う気がする。
 固まる一華の反応はあまりよろしくないはずなのに、さして気にする様子もなく彼はくすりと笑った。
「苗字が重なったら下の名前呼びがいいと俺は思う。友だちの会社は体育会系でさ『早川女』とか『佐藤男』とか、雑に区別されてるみたいだけど、俺そういうのは抵抗ある。記号で管理されてるみたいで。コールセンターチームのリーダーも綾子さんって呼ばれてるじゃん」
 彼女には別の部署に夫がいて、苗字が同じなので区別するためにそう呼ばれている。一華も彼女はそう呼んでいる。
 それを思うと敬意を込めて呼べば失礼にもならないし、合理的。加藤姓に関しては、歩が下の名前で呼ばれていることで一応区別はできているが、当事者ふたりの間では区別できていなくて……。
「確か加藤さんの名前って一華だよね」
「え、……はい」
「一華さん、一華ちゃん、一華……?は、さすがにダメか」
「いっ……! ちゃん、でお願いしますっ」
 練習するように何度も呼ばれて不覚にもドキドキしてしまう。
「りょーかい。俺は呼び捨てでもなんでもいいよ」
 ニコニコとしてこちらを見ている。
「えーっと、あ、歩……さん」
「あはっ、ごめんやっぱ"くん"で。同期で"さん"は変な感じ。それか呼び捨て」
「よ、呼び捨てはちょっと……。じゃ、じゃあ、歩くん」
「はーい!」
 選択肢として口にしただけなのに、彼はニコニコ笑って返事をした。
「なんか、嬉しいなぁ。呼び方が変わると、もっと仲良しになれた感じがするね」
「そ、そうですね……」
 さすがの一華も距離がぐんと近くなったと思う。違うのは一華の方は、嬉しいとは思えなくて、ただただ戸惑っているということだ。
 普段一華は、人の間に半透明のカーテンを引いている。カーテンよりこちら側は自分ひとりだけの快適な空間だ。
 それなのに、彼はそのカーテンをシャッと開けて『おじゃましまーす!』と元気に言って入ってきた。
 一華としては、早々にお帰り願いたい。彼の訪問を一華は全然望んでいないし、中にいられると居心地が悪い。
 けれどニコニコと楽しそうにされては『出ていってください』とは言えそうにないのだ。
「一華ちゃん、一華ちゃん、一華ちゃん。よし慣れた」
 嬉しそうに言う歩に合わせて、口角を上げて見せながら、一華は心の中でため息をついた。