——ワン!
 元気な鳴き声とともに、大きなふわふわが飛びついてくる。
『トモ!』
 呼びかけて金色の体をギュッと抱くと嬉しそうにハッハッと舌を出す。トモは『こんなに気持ちがしっかり表情に出る子も珍しいね』とよく言われる犬だった。
 嬉しい、楽しい、悲しい、嫌だ、困っている。
 つぶらな目と全身から溢れる感情は、取り繕うということをしない分、ともすれば人相手よりもよくわかる。それはトモの方も同じで、ふたりはいつも通じ合っていた。
『トモ、よかった。元気だったんだね』
 指に感じるさらふわの毛、腕の中の大きな温もり、言葉はなくても分かり合える唯一無二の存在が今確かに腕の中にいる。
 でもどこかでこれを夢だと知っている自分もいて、わしゃわしゃとなでると、涙が溢れた。
『トモ、どこへも行かないで。私、トモがいないと寂しいよ』
 ずっとずっとそばにいて——。
「ん、トモ……」
 そこで自分の口から出た声に違和感を覚え意識が一気に浮上する。
 目を開くと、無機質な白い天井と蛍光灯が飛び込んできた。一瞬自分がどこにいるのかわからなかった。
 ……会社の休憩室?
 でもなぜ自分がここにいるのわからない。だってさっきまでトモと一緒にいたはずだ。腕の中にはトモの温もりが……。
「っっっ⁉︎」
 そこで一華は自分が抱きしめている物体がトモではないという事実に気がついて、声にならない声をあげる。
 人間の……男性⁉︎
 慌てて放して、壁際に避ける。驚きすぎて相手を気遣う余裕がない。乱暴にソファに投げたされた人物がうーんと唸って身じろぎをした。
「……なに? え、俺、寝てたのか」
 顔を上げたその人の顔を見て、今度こそ本当に声をあげる。
「か、加藤さん⁉︎」
 歩だ。
「あ、起きた? おはよう」
 まるで出勤したてのようなさわやかな笑顔で挨拶される。けれどここは休憩室で、窓の外は夜の町。まったく状況が飲み込めない。
「な、な……なんで……」
 歩が、眠気を振り切るように頭を振りソファに座り直した。
「飲み会の終わりにさ、忘れ物取りに来たんだよ。十時くらいだったかな? 休憩室の電気がついてたから覗いたら、加藤さんがここで寝てるから」
 そこで一華は、そういえばジュースを飲んだ後少しだけと思って目を閉じたのを思い出す。
 あのまま寝てしまったのか。
 けれどなぜ歩まで寝ていたのかまではわからない。しかも、抱き合って。
 動揺しすぎて言葉にならない一華の疑問は彼に伝わる。
「うんうんそうだよね、だったら起こせって感じだよね」とのたまった。
「や、俺も起こそうと思ったんだよ。でも加藤さん呼び掛けても起きなくて、申し訳ないと思ったんだけど、仕方なくこう……肩を揺さぶらせてもらったんだよ。そしたら、こうガバッと抱き寄せられて……」
 ジェスチャーつきの歩の話に、一華は眉を寄せる。
「トモ? ……だったかな? 俺のことトモって呼んで、こうやって頭をなでてたよ。はじめは嬉しそうだったんだけど途中から泣きはじめたんで、なんか起こすのが忍びなくて……どうしようかなって考えてたら、いつの間にか俺も寝てた。ごめんね。飲んでたし俺も疲れてたからさ。今週忙しかったよね」
 あっけらかんとそう言って、歩はふわぁとあくびをした。
「そ、それは……ご……ご迷惑をおかけしました」
 やっと状況が把握できた。
 彼の話には、身に覚えがありすぎる。
 夢の中でトモだと思って抱いていたのは歩だったのか。
「いや、俺はべつに。てか、加藤さん大丈夫? すごい泣いてたけど」 
 伺うように見られて顔から火が出そうな心地がする。
 寝ぼけて同僚を愛犬と間違えただけでも恥ずかしいのに、号泣するなんて。人生初と言っても過言ではないくらいの大失態だ。
「実家で飼ってた犬の夢を見てて……」
「犬? そうなんだ。だけどそう言われればなで方がちょっと乱暴だったな。こう、わしゃわしゃーって」
 自分の頭にくしゃっと指を入れ、彼はニカッと笑った。
 ああ、穴があったら入りたい。
 夢の中では、久しぶりにトモに会えたのが嬉しくて思い切りなでた。そのくらいの力加減がトモは好きだったから。
 確かに彼の髪はふわりとしていて柔らかそうだけれど、間違えるなんてあり得ない、恥ずかしすぎるし、失礼すぎる。
「ご、ごめんなさいっ!」
「や、べつにそんなに謝らなくても」
「でも」
「俺よくワンコ男子って言われるしね。もしかしてトモって、リトリバーだったりして」
 その言葉に一華がこくこく頷くと「まじで⁉︎」と笑った。
「俺リトリバーの血が流れてんのかな? ペットとして飼いたいって言われたこともあるよ。存在が癒し枠らしい。俺二十六の成人男性なんですけど、みたいな」
 はははと笑う歩に、一華は「そ、そうじゃなくて」と、あわあわとして首を横に振る。
 自分は彼をペットとして見ていたわけではない。
「そういう意味じゃなくて、毛並みが似てるっていうか、その触り心地が……」
「え、毛並み? ああ、髪がか。そう言えばふわふわしてるって言われるかな」
 けれど言ってしまったあと、失礼だったと後悔する。人に対して毛並みなんて言葉をつかうなんて。『存在が』より失礼だ。
「地毛なんだけど、こんな柔らかいのは珍しいって美容師さんに言われる。でも量が多いからそのままだとやばいよ。だからカットに時間がかかるんだよね。しょっちゅう切りにいかないと爆発するし」
 なにを言えばこの失態を回復できるだろうと、ぐるぐると考える一華の内心など、おかまいなしで、彼はあれこれと話している。
「触らせてーって言われることも多いけど、リトリバーと似てるから触りたいって言われたのははじめてかな」
「さ、触りたいなんて言ってません」
 まるで一華が常日頃から触る機会を伺っていたみたいな言い方に思わずそれは違うと遮ってしまう。そんな同僚が隣の席だなんて彼が気持ち悪いだろう。
 けれど歩がフリーズしたのを見て、さらに墓穴を掘ったと気がついた。
 事実と違うと指摘しただけだが、これでは触りたくなかったみたいに取られてしまう。いや、触りたかったわけではないけれど、実際に触っておいて失礼すぎる。
 と思い、慌てる一華をよそに、歩がはははと笑った。
「だね、言ってない。変態みたいに言ってごめん。加藤さんは寝てたんだから、俺が止めろって話だよね。むしろ被害者だ」
 あっけらかんとしたその態度に、一華は一緒ぽかんとして、やっぱりさすがだと感心した。
 いつものパターンなら、このあたりで相手との間に微妙な空気が流れはじめる。そして早々に会話を切り上げるしかなくなるのだ。
 この会話の流れで、笑っていられるなんてさすがだ。
 感心している間に、少し心の余裕ができる。
 どう言うべきかが、わかって一華はぺこりと頭を下げた。
「変なことばっかり言ってすみません。夢の中とはいえ頭を触ったのは私なので、加藤さんは気にしないでください。えーっと触りたいとは言ってませんが、触りたくなかったわけでもない……ので嫌なふうに聞こえたらすみません」
「嫌な気持ちになっていないから安心して。てか、加藤さん」
 そこで彼は言葉を切り、にこーっと笑ってこちらを見る。
「な、なんですか?」
「いや、意外な反応が面白いなと思って。加藤さんがそんなふうに慌ててるの俺はじめて見るかも。めっちゃ新鮮。仕事では結構トラブッてても、涼しい顔して解決しちゃうじゃん?」
「え? そうですか……?」
 べつに涼しい顔をしているつもりはないけれど言われてみればそうかもしれない。
 仕事中のトラブルはもちろん焦ることはあるけれどこんなふうに取り乱すことはない。
 ソフトウェアが起こすトラブルは、たいていはっきりとした原因があり、解決方法も決まっている。
 だからそれほど焦らないし、むしろ冷静であればあるほど、原因究明は早くなるのを知っているからだ。
 けれど、人相手だとそうはいかない。
 原因がはっきりしないこともあるし、相手がなにを望んでいるのか正解はひとつではない。だからこそ、わからなくて混乱する。
「うん、なんかそういう加藤さん、珍しいから、見れてラッキーって感じ」
 珍しいのはともかくとして、見られたことのいったいなにがラッキーなのか、一華にはさっぱりわからない。けれどとにかく気まずい空気にならなかったのはありがたい。
「本当にすみませんでした」
「いやいや大丈夫大丈夫。……あれ? これって加藤さんの本?」
 そこで歩が、ソファの下に本が落ちているのに気がついて、拾い上げる。
「あ……! はい。そうです」
 慌てて受け取った一華は、思わず彼からタイトルを隠すように裏返した。けれど見られたのは確実だ。
 頬がかぁっと熱くなる。
『部下ができたら一番に読む本』というタイトルの本を読んでいたのを知られてしまったのが恥ずかしかった。
 自分がペアを組んでいる河西とお世辞にもうまくやれていないのは、おそらく彼も気がついている。
 それに引き換え彼の方は、夏木とうまくいっていて、まったくなんの問題もない。おそらく、意識しなくても良好な関係を築けている。そもそも彼はアシスタントどころか全社員とうまくやれるタイプだ。
 それなのに自分は、たったひとりのアシスタントともギクシャクして悩み、隠れてコソコソハウツー本を読んでいる。
 もしかしたら、なにか言われるだろうかと身構えるが、とくにそんな素振りはなく、彼はスマートウォッチに目をやって「げ、もうこんな時間?」と声をあげる。
 ほっとしながら、つられて自分のスマホを出し時間を確認した一華はギョッとした。午前一時を回っている。この時間ではもう終電がない。
「マジか〜。一時間以上寝てたんだ。ごめんね。俺がしっかり起こさなかったから」
「い、いえ、そもそもこんなところで寝てたのが悪いんですし」
 歩が来ていなかったら、朝まで寝ていたかもしれない。
「終電ないけど、加藤さんどうする? 帰れる? 俺の家は二駅だから歩ける距離なんだけど」
「私は……ちょっと無理ですね」
 とりあえず彼が帰れるということに安堵する。
 一華のマンションは地下鉄を乗り換えて五十分ほどの場所にある。
 タクシーを使うか迷うところだ。かなり痛い出費だから、始発が出るまでネカフェにしようかと考える。さいわい明日は休みだし。
「っていうか加藤さん、タクシーを使ってください。私出しますから」
「いやいいよ。トレーニングがてら走って帰ることもあるくらいだからさ。ロッカーにシューズとウエア置いてあるんだ。それより加藤さんはどうするの? タクシー? このあたりこの時間つかまりにくくない?」
「そうですね……。それに私のマンションちょっと遠くてタクシーだとかなり……高くなるので、ネカフェかどこかで始発まで時間を潰します」
 おそらくその方が圧倒的に安上がりだ。大きな交差点の角のビルに看板が出ていた。行ったことはないけれど。
 歩が「え」と眉を寄せた。
「それはちょっと心配だな。あの角のところ満喫でしょ? あそこあんまり客層がよくないよ。ただでさえ女性ひとりの利用は微妙なのに、この時間だし」
「え、そうなんですか。じゃあ……その下の『キングハンバーガー』にします」
 同じビルの一階に入っている二十四時間営業のファーストフード店に変更する。
 けれど歩は難しい表情のままだった。そして意外なことを言う。
「んじゃ俺も付き合うよ。んで一緒に始発で帰る」
「え⁉︎ そんな大丈夫です。キングバンバーガーは、よく行きますし」
 キングハンバーガーはチェーン店でリーズナブルなのでこの店舗に限らず外回り中の時間潰しにランチにと、よく利用する。明るいし問題ないと思ったのだが。
「いやそれ昼間でしょ。あそこの店舗も夜中は酔っ払いが来るからさ。女性が声をかけられてるの見たことあるし。俺も一緒に行く」
「でも……」
 終電を逃してしまったのは一華のせいなのに、朝まで付き添ってもらうなんて申し訳ない。それならやっぱりタクシーで帰ると言いかけたとき、一華のお腹がくーっと鳴った。
「あ」
 慌ててお腹を押さえて目を逸らす。心の中で、なんなの今日はと嘆いた。さっきから"恥ずかしい"のオンパレード。今年一年分の"恥ずかしい"を使い果たしたような気がする。
 歩がにこっと笑った。
「もしかしなくても夜ごはんまだだよね」
「う……はい」
 今の今まで忘れていたけれど今日は忙しかったから夕食どころかランチも食べそこねた。でも疲れすぎて空腹を感じなかったのに、なぜ今になって主張する?
「よし!」
 歩が言って立ち上がる。
 ビクッと肩を揺らして見上げると、彼はにっこり微笑んでいる。
「ちょうどいいね。じゃ、何か食べに行こ」
 そして一華の答えを待たずに、休憩室の照明を落として、出口へ向かう。
「閉めるよ」
「え、あ、はい」
 いったいどこが『よし』なのか、そしてなにが『ちょうどいい』のかさっぱりわからない。
 わからないけれど、彼は出ていってしまったから、慌てて一華は後を追った。