夜九時を過ぎた会社の休憩室で一華はソファに腰を下ろす。野菜ジュースをひと口飲んでふーっと深いため息を吐いた。もう他の社員は誰もおらずフロアは静まり返っている。
壁にもたれかかり目を閉じると、一気に疲労が押し寄せる。
限界だと、身体が悲鳴をあげている。
スプリングフェスタでひとり打ち上げをしたのが先週末。あれから一週間、今日も金曜日だから、本当ならささやかにでも一週間のプチ打ち上げをしたいところだ。でも今は全然そんな気力は湧かなかった。
今週はとにかくトラブルが多かった。
営業社員は新規開拓の他に、既存クライアントの保守管理対応の一部も担当している。
ソフトの不具合はまずクライアントからコールセンターへ連絡が入りオペレーターが対応する。けれどそこでの説明やリモート操作で解決しない場合、担当の営業が現地へ向かいトラブルを解決するという手順になっている。
今週はどうしてか一華が担当するクライアントからの不具合連絡が頻発した。その中にはコールセンターで対応可能なものも多数あったが、弁護士の中にはパソコンに弱い世代の者もいる。そうなると現地対応が求められる。
そもそもコールセンターをすっ飛ばして、一華の携帯に連絡が入ることも多く、そうなると訪問対応一択だ。
自席につく暇もなく出ずっぱりだった一週間がようやく終わろうとしている。
早く帰宅したいのはやまやまだがその前にひと息つかなくては、帰りの電車で倒れてしまいそうだった。
ただこれくらいの忙しさはそこまで珍しいことではない。慣れているとまでは言わないが、ここまでにはならないはず。
今週はそれにプラスして、ふたつのことに悩まされていて、それにダメージを受けている。
一トンはあるだろう重い瞼をどうにか開けて、一華は手にしている単行本に視線を落とす。深い深いため息が溢れた。
『部下ができたら一番に読む本』というタイトルのビジネス書は今日の外回り中、駅ナカの書店にてたまたま目につき買ったものだ。『春の新生活応援フェア!』というコーナーに、いくつかの書籍と一緒に並んでいた。
思わず手を伸ばしたのは、今週水曜日に起こったある出来事のせいだった。
その日の午後、外回りの途中で一旦会社に戻った一華は、フロアへ行く前に寄ったトイレで、数名のアシスタントが話をしている場面に遭遇した。
気づかれないように足を止め息をひそめたのは『それってパワハラじゃない?』という不穏な言葉が聞こえたからだ。
しかもその声はアシスタントの夏木。そしてそれに答えたのは、河西だった。
『パ、パワハラではないです。叱られるとかではないので。むしろ丁寧に対応してもらっていると……思います』
彼女は自分のアシスタント……ということは、自分にも関わるかもしれない内容だ。盗み聞きはよくないと思いつつ耳を澄ませた。
『丁寧にって無表情で"つめたーく"でしょう? で、今週はなにもさせてくれない。そういうパワハラもあるって見たことあるよ』
『な、なにもってわけじゃ、トラブル事案の報告書の作成をしていました』
『そればっかなんでしょ。そんな初歩的なことばっかさせるなんて完全にバカにしてるよ。アシスタントの仕事ってもっといろいろあるのに。加藤さんって全然アシスタントを育てる気ないよね』
それにべつの女性社員が同意した。
『まぁ、できる自分にアシスタントなんて必要ないって思ってそうではあるね』
自分に関わる話どころか、まんま自分の話だったという衝撃に、一華の心臓がバクバクと鳴り出した。
パワハラなんてしたつもりは微塵もない。でも彼女たちが言っている内容には身に覚えがあった。
ここ一週間、あまりに仕事が立て込んでいて、ろくにオフィスにいられなかった。異動してきたばかりの河西に仕事を教えることができなかったのだ。そもそも誰が彼女に基本的なレクチャーをするのかは決められているわけではないけれど、ペアを組むのは一華なのだから、一華がやるべきなのだろう。それはわかっていたけれど、とにかく今週は余裕がなかったのだ。
もちろんだからといってなにも仕事を振らなかったわけではない。先々週におしえたものの中から、できそうな見積書の作成とトラブル案件の記録の作成を依頼していた。量的に少なかったのは、経験値を考慮してだ。
さらにいうと、トラブル案件の報告書は、事案の精査が必要だから、不明箇所を調べつつやれば自社製品への理解が深まる。彼女のためになると思ったのだ。
パワハラをしたつもりなどまったくない。けれどこういうのは相手がどう感じるかが大事だ。そんなつもりはないけれど、河西がわからするとそうなのだろうか。
『そんな加藤さんはそんなことはないと思います……』
河西はそう言ってくれているが、今ひとつ自信がないようで声が小さくなっていく。
申し訳ない、と肩を落とし一華はその場を離れた。
言葉足らずだったかな、と思いながら手にしている本をパラパラとめくった。
……けれど読み進めるうちに、また瞼が重くなってくる。
思考がうまく働かないのは、眠いからだ……。
ここ一週間、よく眠れない日が続いている。先週の土曜日、小さい頃からずっと一緒にいた愛犬のトモが亡くなったのが原因だ。
トモは穏やかな性格のゴールデンリトリバーで、一華の親友とも兄弟とも言える存在だった。
ひとり暮らしをはじめてからは、毎日会えなくなったけれど、マンションから実家まで約二時間の距離を顔を見るためだけにちょくちょく帰っていた。
二十歳とは思えない元気さだとかかりつけの獣医に驚かれていたくらい元気だったが、土曜日の朝、急に餌を食べなくなり、その後眠るように亡くなった。
朝の時点で連絡を受けて、急いで駆けつけたから最期を看取れたのが救いだった。
そもそもいつどうなってもおかしくない年齢だったし老衰だし、幸せな一生だったよと家族は言うけれど、それでも彼を失った喪失感は予想以上だった。
記憶にある限り一華の人生にはいつもトモがそばにいた。つらい時は慰めるようにじっとそばにいてくれて、嬉しかったことを報告すれば、舌を出して喜んでくれた。少々口下手なところがある一華が気を張ることなく話せるのがトモだった。
もはや自分の一部のような存在だった彼が、もうこの世のどこにもいないのだと思うと、大切な部分をもがれたような心地がする。
昼間はまだいい、忙しさに紛れて、トモがいない寂しさを無理やり頭から追い出すことができるから。けれど一日が終わり、ベッドに入るともうダメだった。
実家にいた頃は、毎日一緒に寝ていたトモのことが頭に浮かび気持ちが沈む。
つらくて悲しくて寝られずに、泣いてばかりだった。
結局、少しだけうつらうつらするだけでそのまま朝を迎えてしまい、昼間の疲労が一ミリも回復しないどころか、さらにひどくなるしまつだった。
それでもどうにか、ミスをしないでこの一週間乗り切ったけれど……。
さすがに身体が寝ることを要求している。その反動が今押し寄せているのをひしひしと感じた。
こんなところで寝るわけにいかないのにと思いながらも、閉じたいという瞼からの要求と、鉛のように重い身体の要求に抗えず、一華はゆっくりと目を閉じた。
壁にもたれかかり目を閉じると、一気に疲労が押し寄せる。
限界だと、身体が悲鳴をあげている。
スプリングフェスタでひとり打ち上げをしたのが先週末。あれから一週間、今日も金曜日だから、本当ならささやかにでも一週間のプチ打ち上げをしたいところだ。でも今は全然そんな気力は湧かなかった。
今週はとにかくトラブルが多かった。
営業社員は新規開拓の他に、既存クライアントの保守管理対応の一部も担当している。
ソフトの不具合はまずクライアントからコールセンターへ連絡が入りオペレーターが対応する。けれどそこでの説明やリモート操作で解決しない場合、担当の営業が現地へ向かいトラブルを解決するという手順になっている。
今週はどうしてか一華が担当するクライアントからの不具合連絡が頻発した。その中にはコールセンターで対応可能なものも多数あったが、弁護士の中にはパソコンに弱い世代の者もいる。そうなると現地対応が求められる。
そもそもコールセンターをすっ飛ばして、一華の携帯に連絡が入ることも多く、そうなると訪問対応一択だ。
自席につく暇もなく出ずっぱりだった一週間がようやく終わろうとしている。
早く帰宅したいのはやまやまだがその前にひと息つかなくては、帰りの電車で倒れてしまいそうだった。
ただこれくらいの忙しさはそこまで珍しいことではない。慣れているとまでは言わないが、ここまでにはならないはず。
今週はそれにプラスして、ふたつのことに悩まされていて、それにダメージを受けている。
一トンはあるだろう重い瞼をどうにか開けて、一華は手にしている単行本に視線を落とす。深い深いため息が溢れた。
『部下ができたら一番に読む本』というタイトルのビジネス書は今日の外回り中、駅ナカの書店にてたまたま目につき買ったものだ。『春の新生活応援フェア!』というコーナーに、いくつかの書籍と一緒に並んでいた。
思わず手を伸ばしたのは、今週水曜日に起こったある出来事のせいだった。
その日の午後、外回りの途中で一旦会社に戻った一華は、フロアへ行く前に寄ったトイレで、数名のアシスタントが話をしている場面に遭遇した。
気づかれないように足を止め息をひそめたのは『それってパワハラじゃない?』という不穏な言葉が聞こえたからだ。
しかもその声はアシスタントの夏木。そしてそれに答えたのは、河西だった。
『パ、パワハラではないです。叱られるとかではないので。むしろ丁寧に対応してもらっていると……思います』
彼女は自分のアシスタント……ということは、自分にも関わるかもしれない内容だ。盗み聞きはよくないと思いつつ耳を澄ませた。
『丁寧にって無表情で"つめたーく"でしょう? で、今週はなにもさせてくれない。そういうパワハラもあるって見たことあるよ』
『な、なにもってわけじゃ、トラブル事案の報告書の作成をしていました』
『そればっかなんでしょ。そんな初歩的なことばっかさせるなんて完全にバカにしてるよ。アシスタントの仕事ってもっといろいろあるのに。加藤さんって全然アシスタントを育てる気ないよね』
それにべつの女性社員が同意した。
『まぁ、できる自分にアシスタントなんて必要ないって思ってそうではあるね』
自分に関わる話どころか、まんま自分の話だったという衝撃に、一華の心臓がバクバクと鳴り出した。
パワハラなんてしたつもりは微塵もない。でも彼女たちが言っている内容には身に覚えがあった。
ここ一週間、あまりに仕事が立て込んでいて、ろくにオフィスにいられなかった。異動してきたばかりの河西に仕事を教えることができなかったのだ。そもそも誰が彼女に基本的なレクチャーをするのかは決められているわけではないけれど、ペアを組むのは一華なのだから、一華がやるべきなのだろう。それはわかっていたけれど、とにかく今週は余裕がなかったのだ。
もちろんだからといってなにも仕事を振らなかったわけではない。先々週におしえたものの中から、できそうな見積書の作成とトラブル案件の記録の作成を依頼していた。量的に少なかったのは、経験値を考慮してだ。
さらにいうと、トラブル案件の報告書は、事案の精査が必要だから、不明箇所を調べつつやれば自社製品への理解が深まる。彼女のためになると思ったのだ。
パワハラをしたつもりなどまったくない。けれどこういうのは相手がどう感じるかが大事だ。そんなつもりはないけれど、河西がわからするとそうなのだろうか。
『そんな加藤さんはそんなことはないと思います……』
河西はそう言ってくれているが、今ひとつ自信がないようで声が小さくなっていく。
申し訳ない、と肩を落とし一華はその場を離れた。
言葉足らずだったかな、と思いながら手にしている本をパラパラとめくった。
……けれど読み進めるうちに、また瞼が重くなってくる。
思考がうまく働かないのは、眠いからだ……。
ここ一週間、よく眠れない日が続いている。先週の土曜日、小さい頃からずっと一緒にいた愛犬のトモが亡くなったのが原因だ。
トモは穏やかな性格のゴールデンリトリバーで、一華の親友とも兄弟とも言える存在だった。
ひとり暮らしをはじめてからは、毎日会えなくなったけれど、マンションから実家まで約二時間の距離を顔を見るためだけにちょくちょく帰っていた。
二十歳とは思えない元気さだとかかりつけの獣医に驚かれていたくらい元気だったが、土曜日の朝、急に餌を食べなくなり、その後眠るように亡くなった。
朝の時点で連絡を受けて、急いで駆けつけたから最期を看取れたのが救いだった。
そもそもいつどうなってもおかしくない年齢だったし老衰だし、幸せな一生だったよと家族は言うけれど、それでも彼を失った喪失感は予想以上だった。
記憶にある限り一華の人生にはいつもトモがそばにいた。つらい時は慰めるようにじっとそばにいてくれて、嬉しかったことを報告すれば、舌を出して喜んでくれた。少々口下手なところがある一華が気を張ることなく話せるのがトモだった。
もはや自分の一部のような存在だった彼が、もうこの世のどこにもいないのだと思うと、大切な部分をもがれたような心地がする。
昼間はまだいい、忙しさに紛れて、トモがいない寂しさを無理やり頭から追い出すことができるから。けれど一日が終わり、ベッドに入るともうダメだった。
実家にいた頃は、毎日一緒に寝ていたトモのことが頭に浮かび気持ちが沈む。
つらくて悲しくて寝られずに、泣いてばかりだった。
結局、少しだけうつらうつらするだけでそのまま朝を迎えてしまい、昼間の疲労が一ミリも回復しないどころか、さらにひどくなるしまつだった。
それでもどうにか、ミスをしないでこの一週間乗り切ったけれど……。
さすがに身体が寝ることを要求している。その反動が今押し寄せているのをひしひしと感じた。
こんなところで寝るわけにいかないのにと思いながらも、閉じたいという瞼からの要求と、鉛のように重い身体の要求に抗えず、一華はゆっくりと目を閉じた。



