隣の彼はステイができない

「一華さん、今週の分の請求書すべて経理に回しました。ほかなにかありますか」
 モニターに向かって報告書を打ち込んでいた一華は、河西から声をかけられて振り返る。
「ありがとうございます。今週の分はさっきので終わりです。なにもなければ帰ってください」
 すでに終業時間が回っていることを確認して、一華が答えると、彼女は首を傾げ「一華さんは、大丈夫そうですか?」と尋ねた。
 自分を早く帰らせるために一華が仕事を抱えていないかどうかを確認しているのだ。
 コミュニケーションを取れるようになってからも、ときどきそういうことがあって、それを彼女は心配している。
「私も、これをリーダーに送ったらお終い」
 答えると納得したように頷いた。
「じゃあお疲れさまです。あ、そうだ。この前言ってたビルの一階やっぱりカフェみたいですよ。なんか猫カフェって書いてありました」
「え? 猫カフェ⁉︎」
 少し前から会社の近くで工事をしている場所があって、なにになるのだろうと話をしていたのだ。
 インテリアの様子からカフェっぽいとは思ったけれど、まさか猫カフェだとは思わなかった。
 絶対行きたい絶対行きたい絶対行きたいと、一華の頭はいっぱいになる。今までも猫カフェには興味があったけれど、なんとなくトモがいる身で……と思い躊躇していたのだ。
「一度行ってみたかったんだ。絶対行こう」
 決意して宣言すると、河西がうんうんと頷いた。
「猫カフェ、くせになりますよ」
「河西さん、行ったことあるの?」
「こっちに引っ越してくる前はよく行っていました。だから私もオープンが楽しみです。じゃあお疲れさまです」
「お疲れさまです」
 自席の戻っていく河西の背中を見つめながら、一華はそうか、彼女も行くのかと思う。
 そこで、ふと一華の頭に、一緒に行っても楽しそうという考えが浮かんだ。
 彼女との距離感は一華にとっては心地いいし、なんとなくだけれど、彼女も同じように感じている気がする。
 そうだ、オフ会をしようと言っていたし、誘ってみよう。
 そんなことを考えていると、隣の歩と目が合った。
「予定通り帰れそう?」
「うん、歩くんも?」
「ん、こっちも大丈夫」
 今日はふたりで例のメキシコ料理レストランへ行こうと約束している。
 大通り公園で気持ちを確かめ合ってから、二週間。
 あのあと、キュレルのソフトにやや大きめのバグが見つかり、しばらくはふたりとも対応に追われた。季節外れの忙しさになかなかふたりで会うことができなかったけれど、今日は久しぶりにふたりで会える。
 喜びを噛み締めていると。
「すみません、これよろしくお願いします」
 少し不機嫌な声が歩にかかる。
 夏木が青いファイルを差し出していた。
「それで今週の分は終わりです」
「了解、ありがとう。こっちはもういいから、なにもないなら帰っていいよ」
「……お疲れさまです」
 小さな声で挨拶して、彼女は自席に帰っていく。
 ここのところ、彼女はずっとこんな感じだ。歩に対する態度が、今までと全然違っていてよそよそしい。一華に対する態度もよそよそしいのは相変わらずだが、つっかかってくることはなくなった。
 なにかあったのだろうか?
 とはいえ、歩はそれほど前とは変わらずに、にこやかに丁寧に接しているので仕事にはそれほど支障はないようだけれど。
「一華さん」
 考えごとをしていた一華は名前を呼ばれて顔を上げる。
 石橋が外回りから帰ってきたようだ。
「今日の山田先生の件ありがとう。助かった。俺、出先で対応できなかったので」
 今日の午後一で、一華が石橋の代わりに対応した件だ。
「いえ、大丈夫です。報告書、フォルダに入れておきました」
「うん、ありがとう」
 その会話を終えて、報告書を送付し、パソコンを落としていると、歩がこちらを見ている。
 その表情が微妙な気がして、どうかした?という意味を込めて首を傾げると、彼は取り繕うように笑みを浮かべた。
「そろそろ出ようか」
 そして彼もPCの電源を落とした。
 途端に一華は落ち着かない気持ちになる。この後はふたりで予定があるのだから、一緒のタイミングで出るのが効率的ではある。
 けれど、なんだかやましいことをしているような気持ちになった。当然だけれど、ふたりが付き合うことになった話は社内の誰にも言っていない。
「お疲れさまです」
 微妙な気持ちで挨拶をして会社を出ると、すぐに歩が追いかけてきた。
「お疲れ!」
「オツカレサマデス」
 自然な感じで隣に並ぼうとする歩に、ギクシャクと挨拶をする。一華の方は無意識のうちに身体がすすすと離れた。
 この時間のこの場所は会社の人だらけだ。誰に見られているとも限らない。
「なに、どうかした?」
 それなのに歩の方はまったく気にする様子もなく、近づいてくる。一華は周りを見回した。
「なにも……だけど」
 その動きで一華がなにを気にしているか、彼には伝わったようだ。
「べつに大丈夫だよ。同僚と帰りが一緒になるなんてよくあることだし」
「それは、そうだけど」
 それはべつの同僚の場合じゃないかと一華は思う。一華の場合はあまりない。
 万が一にでもふたりのことが会社の皆に知られてしまい歩が働きにくくなったりしたら申し訳ない。
「……俺としては、噂が広まる方がいいんだけど」
 ぼそりと歩がなにかを呟くのが聞こえて、一華は首を傾げる。よく聞き取れなかった。
「歩くん?」
 すると彼はにっこりと笑う。
「いや、なんでもない。急ごうか。あそこ七時を回ると混むって聞いたから」
 どこか釈然としないながらも頷いて、一華も彼に合わせて歩き出した。
 メキシカンレストランは、河西から聞いていた通り料理が本格的で美味しいが、なにより店内の内装が素敵だった。博物館で見たようなお面や土偶のレプリカがあちらこちらに置かれていて、まるでメキシコの街角のレストランに立ち寄ったみたいだ。
 けれどウキウキするのはそれだけでなく、歩と一緒にいるからだろう。
「いやーそれにしても今週は忙しかったね。お詫び説明お詫び説明の繰り返しでぐったりだよ」
 歩ががっくりとして言う。
 一華も頷いた。
「だね。こういう時は、営業の対応がソフトの信用にかかわるから、気が抜けなかったよね」
 以前にもこういうことがあった。けれど前とは違うのは、自分はひとりで対応しているのではないと思えたことだ。
 今回は、自分がオフィスにいられない分『事務作業は任せてください』と河西が言ってくれたし、同じ営業の歩や石橋とは『つらいけどがんばろう』と言い合えた。
 そんなことを思い一華はふふっと笑った。
「私、今が一番仕事が楽しい」
 すると歩が目を丸くする。
「え、一華ちゃん、トラブル案件好きなの?」
「そうじゃなくて……」
 一華は持っていたグラスを置いて店内を照らすカラフルなモザイクランプに視線を送った。
「前もね、仕事は楽しかったけど、ひとりで戦ってる気分だったの。それでも問題はないって思っていたけど、……今は、周りの人と一緒に頑張るのが楽しいって思える。それが、なんか嬉しい。おひとりさまが自分に合ってるのは変わらないけど、私、仕事はチームでやる方が合ってるのかも」
 歩がにっこりと笑った。
「周りの皆もそうだと思うよ。一華ちゃんと働くのが楽しいって思ってる」
「そうかな? ……そうだといいんだけど」
「隣の席で一番近くにいる同僚の俺が言うんだから間違いない」
 けれどそこで、彼はなにかを思い出したように眉を寄せる。そして少し遠慮がちに口を開いた。
「そういえば、皆、いつから一華ちゃんのこと下の名前で呼ぶようになったの?」
「え?」
「いや、河西さんはいいんだよ。ペアだし、うん。……でも石橋ちゃんは?」
 そこで一華は考えて、そうなった経緯を口にする。
「えーっと。先週だったかな? まず河西さんに下の名前を呼んでいいか聞かれて……今週になって石橋さんがいつの間にか呼んでるって感じかな」
 以前の一華ならば、違和感を覚えたかもしれない。
 けれど前から歩に呼ばれていたことで免疫ができていたのだろう。今はなんと呼ばれようと気にならない。
 それどころか河西からの申し出は嬉しかったくらいだ。
「ふーん、石橋ちゃんは無許可なんだ」
「うん。でも前に歩くんが言ったみたいに区別するなら下の名前の方がいいかなって思って。間違いも減らせるし……」
 けれど、歩は、なにやらぶつぶつと言っている。
「あいつ、一華ちゃんが優しいからって、調子に乗って」
「え? 調子に?ってなんの話?」
 下の名前で呼ぶ方がいいんじゃないかと言っていた彼の意外な反応に、一華は首を傾げた。
「いやまあ、その通りなんだけど、それでも一華ちゃんを皆が下の名前で呼ぶのは俺的に面白くないっていうか……」
「……どういうこと? なにか不都合でも?」
 わけがわからなくて問いかけると、すると彼はふわふわの髪をくしゃっとして大きな目の上の眉を下げた。
「いや、まったく不都合はありません。ただのやきもちです」
「やきもち……って、え? ええ⁉︎」
「いや、河西さんはいいんだよ。ふたりが仲良くなるのは俺も見てて嬉しいし。でも石橋は……あいつが一華ちゃんのこと話してるのを見ると、ブラックな気持ちになるっていうか。めっちゃカッコ悪いけど」
 しゅんとする歩に、一華は唖然としてしまう。
 彼が、やきもちを焼くというのが信じられない。いつもにこやかでなにがあっても動じない彼の意外な告白だ。
「こういうの嫌だよね、ごめん」
 申し訳なさそうに言う彼に一華は驚きから抜けきれないままに首を横に振る。
「嫌じゃなくて、意外っていうか。歩くんてそういうの気にしなさそうって思ってたから。勝手な想像なんだけど」
 なんとなくだが、恋人がいても皆で仲良くやるタイプのように思っていた。
「うん、俺も自分で自分にびっくりなんだよ。こういう気持ちになったことなかったから。どっちかっていうと心が広い方だと思ってたからね。全然知らなかったけど、俺一華ちゃんのことになると、めちゃくちゃ心が狭いのかも」
 熱っぽい視線でこちらを見られて、一華の頬が熱くなる。嬉しい気持ちがじわじわと胸に広がった。
「こんな俺は、嫌?」
「……嫌じゃない。むしろちょっと嬉しいかも。私も皆に囲まれてる歩くんを見て寂しいって思ったことが……あったから」
 本当の気持ちだった。
 彼も自分と同じ気持ちでいてくれるならとても嬉しい。
 目を伏せてドキドキしながらそう言うと、歩が「ぐう」と唸り、テーブルに突っ伏した。置いた手が拳を作っている。
「歩くん?」
 問いかけると、がばっと顔を上げて真剣な目でこちらを見る。
「一華ちゃん、俺らいい関係を築いていこう。絶対絶対、大切にするからね」
「う、うん、よろしく」
「考え方が違う部分は話し合って決めていこう。どっちかが我慢するとかがないように。俺はできるだけ一緒にいたいタイプだけど、一華ちゃんはひとり時間が必要だろうから、その辺りも遠慮なく言って」
 ひとりさま女子の自分を尊重してくれる言葉が嬉しかった。
 タイプの違う彼と付き合うことに不安がないわけではないけれど、彼となら話し合っていい関係を築いていける。そう信じられる。
「うん、ありがとう」
「ちなみに一華ちゃんは、彼氏とはどのくらいまで一緒にいられそう? デートの頻度に希望はある? 前に付き合った人とはどうだった?」
 尋ねられて首を捻る。
 考えてみるがよくわからなかった。
「……今までは、正直、そんなにたくさん会うのは疲れるなって思ってた。けど、それはあんまり参考にならないかも。私、好きな人と付き合うのははじめてだから……歩くんと一緒にいるのはすごく好きだし、むしろもっと一緒にいたいと思うし……」
 思っていることをそのまま口にすると、歩がまた「ぐう」と唸る。
 そして、テーブルに置いた一華の手に自分の手を重ねた。
「えーっと、じゃあ、試しに聞いてみるんだけど、今日はね、俺、週末だし食事の後は一華ちゃんをひとりにしなきゃって思ってたけど、もう少し一緒にいたいって言っても……いい感じ? 変な意味じゃないよ。でも俺はもう少し一華ちゃんと一緒にいたい」
 熱っぽい眼差しで問いかけられて、一華の身体が熱くなった。
 おひとりさまを尊重してくれる彼らしい優しさとストレートな想いが伝わって、胸があたたかい思いでいっぱいになっていく。
 彼のこのペースに巻き込まれるようにして、ここまできた。はじめは戸惑うばかりだったけれど、今はこれがとてもとても幸せだ。
「あ、でも無理にとは言わないから。また来週がいいならそれはそれで大丈夫。俺、ちゃんとステイできるからね」
 冗談を交えて、一華が断りやすくしてくれるのもいつものこと。おかしくて、一華はくすくす笑ってしまう。
 そしてそんな彼を前にしたら、一華の方は、普段よりほんの少し勇気が出るのもいつものこと。
 テーブルの上の彼の手を両手でぎゅっと握って、胸にある素直な想いを口にした。
「私も、歩くんともう少し一緒にいたい」