隣の彼はステイができない

「歩くんは会社からの帰り?」
 とりあえずやってきた大通り公園にて、一華はあたりさわりのないことを尋ねる。なんだか変なことになってしまった。
「いや、あっちの居酒屋で石橋たちと飲んだ帰り。通りかかったら一華ちゃんが見えたから」
「そうなんだ」
「……あのさ、永江先生が従兄弟だっていうのはわかったけど、嫌だったら言わなくていいんだけどさ。……どうして泣いてたの?」
 聞きにくそうに歩が言う。疑問に思うのは当然だ。彼が祐一郎のことを誤解したのは一華が泣いていたからだ。
「えっと……それは……」
 とはいえ本当のことを言うわけにはいかない。一華の涙の原因はほかでもない目の前の歩だ。
 どう誤魔化そうかと考えていると、歩が一歩近づいて高い背を屈めて目線を合わせ、伺うように一華を見た。
「仕事のこと? 誰かになにか嫌なことを言われたとか?」
 まるで具体的ななにかを確信しているかのように問いかけられて、戸惑う。
「そ、そんな話じゃなくて」
 とりあえずそれは明確に否定した。会社の人が歩に変な誤解をされるわけにはいかない。
「そう……。ならいいけど」
 そう言う彼は幾分安堵したようだ。それでもまだ気遣わしげな表情だが、仕事が原因でないなら踏み込むべきではないと思ったのか、それ以上はなにも言わなかった。
 一華の胸に、じんわりとあたたかい思いが広がった。
 彼はいつもこうやって心配してくれる。一華の気持ちを考えて踏み込みすぎないように気をつけながら。
 それだけでいいじゃないか、と一華は自分に言い聞かせる。
 彼にとってはその他大勢、誰にでもやっていることでも今この瞬間は一華のことだけを考えてくれている。
 それを一華が特別な気持ちで受け止めれば、それでいい。
 だから、それ以上は期待しない。気持ちを知られて迷惑をかけることにならないように気をつけよう。
「あの、私、こっちだから」
 あまり長くふたりでいると、また期待しそうになってしまう。
 ここはなるべく早く解散するが吉だ。と思ったのだけれど。
「待って、一華ちゃん。ちょっと話があるんだけど」
「話?」
 偶然会ったこのタイミングで、いったいなんだろう。
『ちょっと』と言いつつ彼は視線を彷徨わせ、なにやら深刻そうである。
 大きく深呼吸をしている。
 なにかよくない話なのだろうかと、一華も緊張した時。一華に視線を戻した歩が口を開いた。
「俺、一華ちゃんが、好きなんだ」
 ——一瞬一華は、彼の言葉を自分に都合のいい意味で受け止めそうになってしまう。けれどすぐに、期待してはだめだということを思い出した。
 彼の方は、同僚としていい関係を築いていきたいという意味で言っている。もし悩みがあって泣いていたなら、相談に乗るよという意味だ。
 あやうく都合のいい解釈をしてしまうところだった。胸がちくりと痛むのを感じながら一華はなるべく明るい声を出す。
「あ、ありがとう。私も歩くんのことはいい同僚だと思ってる」
 本当はそれだけではなくそれ以上の気持ちを抱いてしまっている。罪悪感で胸がズキズキと痛み、とても彼の顔を見ていられない。
「本当、ありがとう。じゃあね」と立ち去ろうとするけれど。
「待って待って」と、再び呼び止められる。
「一華ちゃん……わかってないね」
「え?」
「俺の言葉の意味」
 じっと見られて混乱する。
 ちゃんと、わかっている。
 けれど彼から見てそうではないということは、もしかして……一華の気持ちがバレているのだろうか。
 だとしたら恥ずかしいし、申し訳ない。
 わけがわからず、彼を見たまま首を傾げる。
 歩がふっと笑う。
「一華ちゃんって、なんかすごく危なっかしいよね」
 そしてもう一度真剣な眼差しになった。
「俺が言ったのは、一華ちゃんの彼氏になりたいってこと。そういう意味の好きだよ」
「え……。ええ⁉︎」
 思わず大きな声が出る。
 だってそんなこと、絶対にありえないと思っていたし、そもそもまったく考えてもいなかった。
 嬉しい、という気持ちよりも信じられないという思いで頭がいっぱいになる。絶対に彼がそんなことをするわけないとわかっていても、ドッキリかなにかかと思うくらいだ。
 目を見開いたまま沈黙する一華に、歩が申し訳なさそうな表情になった。
「仲良くなりはじめた時に、変な意味はないって言ったのに、本当ごめん。嘘をついたわけじゃなくて、あの時は誓ってそんな意図はなかったんだ。でも一華ちゃんのことを知れば知るほど、特別に思うようになっていって」
 彼の言葉を聞くうちに、まさかそんなことあるわけない、という気持ちが和らいで、本当にそうなのだと思えてくる。
 なぜなら一華の気持ちも、彼とまったく同じ道を辿ったから。はじめはまったくそんな気はなかったのに、彼のことを知れば知るほど、好きになっていた。
 ——彼と自分は同じ気持ちだったんだ。
 そう思うと、嬉しいのと安心したのと、それからなんともいえない想いが込み上げて、また視界がじわりと滲む。
 ここのところ泣いてばかり。
 歩と話すようになってから、自分の涙腺は壊れてしまった。
 今までは、大人なんだから人前で泣いちゃだめ、しっかりしなきゃとぐっと我慢してきた。けれど彼の前だと、あるいは彼のこととなるとどうにも感情が揺さぶられてしまう。
 ぽろりと涙がこぼれ落ちると、歩がさらに慌てた。
「つっ、ごめん! 今さらこんなこと言い出したら嫌だよね。本当にごめ……」
「違うの!」
 逆の方向に解釈されそうになり、一華は被りを振る。
「そ、そうじゃなくて……その……私も、一緒だったから!」
 濡れた目で彼を見つめてそう言うと、歩が目を見開いた。
「……本当に?」
「うん。私も全然そんなつもりなかったのに、あ、歩が優しくしてくれて、悩みを聞いてくれて、いつのまにか好きになってた。でも……歩くんにはたくさんの友だちがいるし、親切にしてもらえるのは、自分だけじゃない。好きになったら困らせるだけ、これ以上好きにならないようにしなきゃって思って……だから私……」
「だから、もう会わないって言ったの?」
 その問いかけにこくんと頷くと、さらに涙が溢れた。
「さっきカフェで泣いてたのは、ゆうくんにこの話をしてたからなの。絶対に望みはないし、迷惑に思われると思ってたから」
「まじか」
 歩が口もとを手で覆った。顔が赤いように見えるのは気のせいではないだろう。
 彼はしばらく目を閉じてなにかを噛み締めるように、沈黙する。
 そして突然破顔した。
「うわー! めちゃくちゃ嬉しい! 本当に? やった!」
 夜の公園に人気がないのをいいことに、喜びを爆発させている。
 歩らしい喜び方に一華はふふっと笑って涙を拭いた。
 彼のこの素直なリアクションが好きだなと改めて思う。
 ——見てると、もっと嬉しくなるんだよね。
 ガッツポーズを決めている歩に、くすくすと笑っていると、彼が一歩近づいてくる。
 そして長い両腕を広げた。
「一華ちゃん、抱きしめてもいい?」
「え⁉︎」
 一華の胸がドキンと跳ねた。
「えーっと……」
 べつにハグぐらい、世の恋人たちにとっては大したことではないはずだ。なんなら付き合っていなくてもハグするシチュエーションくらいある。なのにすぐに頷けないのは一華が経験不足だから。
 今までの彼氏とは手を繋ぐこともなくお別れした。
 けれどそれを知られるわけにいかないと思う。さすがにこの歳になってそれはない。
 目を伏せて、心の中でえいやと唱えて頷くが、歩が何かを察したようだ。
「もしかして、一華ちゃん。彼氏ができるのはじめて……とか?」
「そ、それはない!」
 一華は即座に否定した。あまりに経験不足では、面倒くさがられてしまうだろうと心配になったからだ。歩の方はきっとそれなりに経験豊富なはず。
 そうではないときっぱりと否定する。
「だから大丈夫抱きしめてください」
 早口で、謎に敬語でしかもカタコト。
 それでもなんとか伝えられた。
 とはいえ彼の顔を見ることはできなくてギュッと目を閉じた次の瞬間、温かくて大きな腕の中に抱き込まれた。
「つっっ……⁉︎」
 勝手に身体がびくりと跳ねる。
 心臓がありえないほどどくどくと鳴っていて、火が出てると思うくらい顔が熱い。もう今起こっていることが現実とは思えない。
「一華ちゃん……大丈夫?」
 あまりに過剰な反応に、歩が少し身を離して心配そうに一華を覗き込んだ。
「本当に嫌じゃなかった?」
 熱い眼差しは、同僚のそれとはまったく違う。至近距離から聞こえる、熱がこもった低い声も、はじめて聞く響きだ。
 そして一華は観念した。
 今自分は恋人としての入口に立ったばかり。それでこんな過剰な反応。取り繕ったところですぐにバレてしまう。
「あの、あのね」
「うん」
「私、彼氏がいたことはあるけど、こういうことははじめてというか。……て、手も繋いだことがなくて」
 歩の目が大きく見開かれた。
 うう、二十六にもなって恥ずかしい……とは思うけれど、彼なら受け止めてくれると信じて告白する。
「なので、慣れなくて、全部に変な反応しちゃうかも。そしたらごめんなさ……⁉︎」
 いきなり強く抱きしめられる。目を白黒させていると、髪に歩の吐息が触れる。
「変な反応大歓迎! てかめっちゃ大事にするっ! 一華ちゃんが無理しなくていいように、一華ちゃんのペースで付き合っていこうね」
 優しい言葉に、一華はホッと息を吐いた。心の中をさらけ出し心配事がなくなると、本当に彼と恋人同士になったのだと実感する。
「うん、よろしくね」
 背の高い彼の背中に腕を回してギュッと力を込めた。
「私も早く慣れるように頑張るから」
 歩が「ぐう」と謎の唸り声をあげた。
 まるでなにかからダメージを受けたかのような反応だ。しかも一華を包む腕の力はますます強くなり、耳元ではーっとため息をついている。
「……歩くん?」
 首を傾げて顔を見ようとするけれど彼は一華の肩に顔を伏せたまま動こうとしない。それを不思議に思いつつ、誘惑に負けて頬に触れるサラフワの髪に指を通す。
 指に感じるふわふわに、胸を甘く締め付けられて、愛おしいという思いでいっぱいになる。
 はじめに触らせてもらった時はあくまでトモの代わりだった。けれど今は少し違う。似ているけれどそうじゃない。でもトモと同じくらい彼のことが大切だ。
 ひょっとしてこれからは、この髪を触り放題なのでは?と思うと嬉しくて触る手が止まらない。
 好き放題触っていると。
「……あのー、一華ちゃん?」
 ようやく歩が顔を上げた。
「あ、ごめん」
「いや、いいんだけど。俺の髪気持ちいい? 触ってると緊張がマシになるみたいな?」
「うん、それもあるけど、これからは、いつでも触れるんだと思ったら嬉しくて。あ、トモの代わりじゃないよ! 歩くんとして触ってる。歩くんがトモと同じくらい大切でそれが嬉しいって意味。本当、私、歩くんの髪好きだな」
 手を止めてそう言うと、再び歩が「ぐう」っと唸る。そしてまた腕に力がこもった。
「……俺、今めっちゃ試されてる気分」
「え?」
「いや、こっちの話。うん、好きなだけ触っていいからね。それでさ、代わりってわけではないんだけど」
 歩はそこで言葉を切って、一瞬迷う。けれど思い切ったように口を開いた。
「もしよかったらほっぺにキスさせてもらっていい?」
「え!」
 唐突なお願いに、またもや一華は真っ赤になる。
 すぐ近くにある歩の目がそれをつぶさに見ているのも恥ずかしくてたまらない。
「ペース合わせるって言ったのにごめん。でもさっきから一華ちゃん可愛すぎて、ちょっとつらい。もちろん無理にとは言わないから。まだ難しいなら、ちゃんとステイします。俺、できるからね」
 一華が断りやすいように冗談を交えて言う彼に、思わずふふっと笑ってしまう。
 自分の気持ちに正直で、ときどきちょっと強引だけど、ちゃんとこちらの気持ちを考えてくれる彼のことが大好きだ。
 彼と付き合っていくならば、一華も彼を見習いたい。
 それはとても恥ずかしいけれど……。
 彼のシャツをギュッと掴み、胸に顔を埋める。そして今胸の中にある素直な想いを口にする。
「無理じゃないよ。私も、して……ほしい。だけどその……。あのね、ほっぺじゃなくて……」
 けれどその言葉は、身を離してかがみ込んだ歩の唇に塞がれて全部言わせてもらえなかった。
 唇に感じるはじめての温もりに、一華はとうとう限界を超える。
 ふにゃふにゃになった一華の身体を危なげなく抱いたまま、額と額をくっつけて、至近距離で歩が笑った。
「一華ちゃん、大好きだ」