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 午後八時、会社近くのオープンカフェにて、一華は祐一郎とテラス席にいる。
 今日の終業後会社を出たところで久しぶりに食事でもどうかという連絡が入ったのだ。一華はそれをふたつ返事で受けた。
 先週に続いて週末の夜をひとりで過ごす気持ちになれなかったからだ。
 前回誘われた時は、歩との約束があり断ったから、祐一郎と会うのは久しぶり。彼の話はいつも通り興味深く、少し気が紛れる。
「そういえばこの前、うちの先輩から一華になにかあったのかって聞かれたんよ」
 食事を終えて、食器を片付けてもらったあと、祐一郎が思い出したように口を開いた。
 あさがお事務所の面々は一華と祐一郎が親戚だということは知っている。一華の方もリーダーには伝えてある。あさがお事務所との契約に祐一郎は関わっていないけれど、念のためである。
「え? なにかって?」
 どきりとして一華は首を傾げた。彼の言う『先輩』とは、打ち合わせに同席していた女性弁護士だ。
「なんか生き生きとしてるように見えるって。前も対応は丁寧だったから、まったく問題ないんだけど、先週の訪問の際は明るくなって笑顔も見られたって言ってたな」
 自分では意識していなかったけれど心あたりがないこともない。河西や同僚との関係が改善したことで外回りにより一層力を入れられるようになったのだ。そしてそれがすごく楽しい。
 河西との連携がうまく取れていて時間的な余裕もできたから、心のゆとりをもってクライアントと向き合えるようになった。
「今日は、なにがあったんだって聞こうと思ってたんだけど、逆にちょっと元気がない気がするな。なんかあった?」
 さすがは兄妹のような間柄、実の兄よりも兄らしい。見抜かれている。
 一華としても取り繕う必要のない相手だから、「うん、ちょっとね」と正直に認めた。
「それって前に言ってた同僚に関係あることか?」
 祐一郎が眉を寄せた。
 さすがは弁護士。適格に原因を言い当てる。
 でも考えてみれば、おひとりさまを貫いていた一華にとって、この前のようなことは珍しいのだ。繋げて考えるのが自然かもしれない。
「うん……関係、あるかも」
 素直に認めると祐一郎がさらに厳しい表情になる。
「トラブルになりそうなら言えって言っただろ?」
「そ、そうじゃないの」
 慌てて一華は首を横に振った。
 祐一郎が想像しているのは、今まで解決してもらった付きまといの類いだろう。
「えーっと……私が一方的に好きになっちゃったけど、望みはない……みたいな感じ、なの」
 家族のような存在の祐一郎に、恋愛話をするなんて、恥ずかしい。けれど祐一郎は親戚であると同時にクライアントでもある。
 社内で男女トラブルがあったと誤解されるわけにはいかない。会社の信用問題に関わる。
 祐一郎が驚いたように目を見開いた。
「へえ、一華の方が? ……珍しいな」
「う、うん……。まぁ……」
 確かに、これまで解決してもらったトラブルは、すべて逆だった。
「だけど、望みがないっていうのは本当か? 一華をフルなんて、ちょっと信じられないんだけど」
 不満げに顔をしかめる祐一郎に一華は思わずふふっと笑う。
 兄バカならぬ、従兄弟バカ炸裂だ。
「なんでよ、普通でしょ」
「いや、あり得ない。許せないな」
 大袈裟に言うのは、一華を元気づけようとしているのだろう。
「そいつの目は節穴だな」
 その優しさに鼻の奥がツンと痛んだ。
 慌てて咳払いをして誤魔化そうとするけれど、あっという間に視界がにじむ。
「ご、ごめ……」
「いいよ。好きなだけ泣きな。その方が早く元気になれる」
 祐一郎が優しく笑った。
「俺は経験者だからわかる。一華はいい子だから、きっとまたいい人が現れるよ」
 その言葉に、ポロポロと涙が溢れる。
「よし、今日はちょっと高いBARに連れていってあげよう。好きなだけ飲んでいいよ。通りの向こうに美味しいカクテルを出す店が——」
「失礼します」
 突然遮られて、祐一郎は口を閉じる。ふたりして声のする方を見るとテーブルのそばに歩が立っていた。
 仕事の帰りだろうか、スーツ姿だ。まるで急いでここに来たかのように息が乱れている。
「永江先生、ですよね。どういうことか、説明してもらえますでしょうか」
 いつもにこやかな彼からは想像できないほど厳しい表情で、聞いたこともないような硬い声を出す。あまりにも唐突な登場に、一華は啞然とする。
 一方で祐一郎も驚いてはいるものの、相手が誰かということはわかったようだ。
「説明って、君、いったい……あ、確か加藤くん……だったかな。彼女と同じ会社の。一度うちの事務所に来てくれたことがあるよね」
 冷静を取り戻しつつ答えている。
「はい、彼女の同僚の加藤です。その節はお世話になりました。先生、これはいったいどういうことですか? 場合によっては社の方に報告させていただきます」
 やはり彼らしくない剣呑な物言いだ。
 祐一郎をクライアントだと認識しながら、どういうことだろうと疑問に思い、次の瞬間、一華は彼が誤解していることに気がついた。
 さっきの会話を聞いていて一華と祐一郎が親戚だと知らなかったら、一華がよからぬ誘いを受けているように思える。
 そうではないと言わなくてはと思い口を開きかけた時、祐一郎と目が合った。
「もしかして、彼が例の同僚?」
 問いかけられて、混乱するままに一華はこくこくと頷いた。
 すると彼は「なるほどね」と呟いて歩に視線を戻した。
「報告というのは穏やかじゃないね。僕はただ彼女を飲みに誘ってるだけだけど?」
 その言葉に、一華は目を剥く。
 ふたりは親戚だからなんの問題もないと言ってくれるのだと思ったのに、いったいなんのつもりだろう。
 再び口を開きかけるがそれより先に歩が答える。
「ではなぜ彼女は泣いているのですか? 先生、我が社では営業が個人的な誘いに応じるのは禁止しております」
「そんな社内規定、僕は知らなかったな。それ必要?」
「営業は先生からのお誘いをお断りしにくい立場にありますので」
 あくまでも強固な姿勢を崩さない歩に、祐一郎が肩をすくめた。
「彼女は嫌そうじゃなかったけど?」
「それは先生の主観ですよね」
「だけどそれが君になんの関係が? ただの同僚が口出しする問題かな?」
 挑発するような祐一郎に、歩がぐっと言葉に詰まる。
 一華はますます混乱する。いったい祐一郎はなぜこんなことを言うのだろう。
「ただの……同僚ですが、彼女が泣いているのを見逃すわけには……」
 苦し気な歩に、今度こそ事情を話さなくてはと思った時、祐一郎が噴き出した。顔を背けて肩を揺らす。
「失礼、失礼……! 加藤くん、申し訳ない」
「……は?」
 歩がぽかんとして、祐一郎を見る。そこでようやく祐一郎は種明かしをした。
「僕と彼女は、従兄弟なんだよ。親戚。彼女の両親にも様子を見てくれって頼まれてるから、ときどきこうやって食事をしているんだ。もちろん会社の方にも報告済みだよ」
「え⁉︎ そ、そう、なんですか?」
 歩がここではじめて一華を見る。
 目で問いかけられて一華は慌てて頷いた。
「い、言うのが遅れてごめんなさい。なんか展開についていけなくて」
 すると歩は、即座に祐一郎に向かって頭を下げた。
「知らなくて、申し訳ありませんでした」
「いやいや、知らなかったら誤解するのも無理ないし」
「でも」
「僕もわざと誤解させるように悪ノリしたしね。こちらこそ申し訳ない。それで痛み分けにしてくれるかな?」
 歩が頷くと、祐一郎は立ち上がり、歩の肩をポンと叩いた。
「ありがとう。いっちゃんを守ろうとする姿……なんか番犬みたいだったな」
 そして今後は一華に向かって、ニヤッと笑った。
「べつに全然望みがないってわけじゃなさそうだけどね」
「……え?」
「用事を思い出したので、僕はここで失礼させてもらう。いっちゃんBARはまた今度ね」
 軽やかに言って、伝票を掴み帰っていった。
 残された一華は、なにがなにやらわからない。
 相変わらず混乱から立ち直れていないけれど、とにかく勘違いさせてしまったことを謝らなくてはと思い立ち上がって頭を下げた。
「ごめんなさい。言い出すのが遅くなって」
 歩が首を横に振る。
「いや、俺が勘違いしたのが悪いんだよ。いきなり話しかけたりして、失礼だったよね。あーもう、なんで一華ちゃんのことになるとこんなに冷静でいられないんだ。一華ちゃんのクライアントでもあるのに本当にごめん」
「それは絶対に大丈夫。ゆうくんはお兄ちゃんみたいなもんだし。てか、ゆうくんも、わざと誤解させるような言い方してたから……なんでかな? いつもはあんまり冗談とか言わないのに」
 酔っ払っていたのだろうか?
 首を傾げる一華に、歩は口もとを手で覆っている。
「やっちゃったかもしれないな。バレたかも」
「え……?」
 どうしてか顔が赤いような気がして、それをさらに不思議に思う。
 とはいえ、これ以上ここで話し続けるわけにもいかない。
「とりあえず、俺らも出ようか」
 歩の言葉に頷いた。