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 金曜日の午後八時。
 歩は夏木、石橋を含む社員たち十数人とよく行く居酒屋に来ている。つつがなく出張を終えて帰ってきた歩のお疲れさま会として誘われた。
 本当のところあまり気は進まなかった。それよりも一華の様子が気になっていたからだ。
 彼女からは、福岡から戻ってきてはじめて出勤した日、もうふたりでは会わないと言外に告げられた。もちろんショックを受けているのはそうだけれど、それだけではなく、違和感を抱いてもいた。
 あの時彼女の笑顔がどこかぎこちなく思えたからだ。彼女がひとり好きなのはわかっている。歩と会っているのは、あくまでもトモを失った悲しみから立ち直るためだということも。
 それでもあんなふうに、突然関係を断ち切るようなことを彼女がするとは思えない。自分の出張中になにかあったのでは、と心配だった。
 落ち着いて話をしたいと思っているが一週間福岡にいた影響で、他のクライアントの仕事が山積みで今週はほとんど会社にいられなかった。
 今日も七時ごろに帰社したら、すでに彼女は帰った後だった。
「おう、歩。向こうでもつ鍋食べた? ラーメンは? 馬刺しは?」
 考え込む歩に石橋が身体をぶつけてくる。
 ビールグラスがこぼれそうになるのを、テーブルに置いて答えた。
「仕事で行ってるのに、そんな全部は食べられないよ。一日だけ、馬刺しのうまい店に言ったけど」
「福岡支社の人と?」
「いや、昔の友達。俺小学生の頃、向こうに住んでたから」
 あの日貴文とは、遅くなるまで語り合い、また必ず会おうと約束して別れた。ふたりともが好きなバスケットボールチームの試合を観ようという話になり、シーズンに合わせて、今度は貴文がこちらに遊びにくることになっている。
「へーでも、支社の人とも食べに行ったんだろ?」
「いや、行ってない」
「マジかよ」
 石橋が大袈裟に声をあげる。
「じゃあ、写真もなし? 俺福岡支店に可愛い子がいるかどうか知りたかったのに」
「なんでだよ。飲みに行っても写真は撮らないだろ」
 ややうんざとして歩は答えた。
 微妙な歩の反応に気づいたのかどうなのか、石橋はただ嘆いている。
「俺の担当クライアントも今度福岡に進出するって話があるんだよ。そしたら俺も福岡に出張だから知りたかったのにー。これからの俺のモチベーションがかかってたのにー。可愛い子がいるかいないかはマジ大切だったのに」
 女性の容姿に関する冗談を軽率に口にする石橋に、歩の胸はもやっとする。
 この場に福岡支店の社員がいるいないにかかわらず口にするべきではないと思う。
 歩が口を開きかけた時。
「え⁉︎ まじで? それってやばくない?」
 隣のテーブルで話していた女性社員が声をあげた。
 夏木と親しいアシスタント社員だ。
「リーダーは知ってるのかな」
 リーダーという言葉が出るということは、仕事の話なのだろうか。
 歩は石橋と目を合わせて首を傾げ、隣のテーブルに注目する。
「見間違いじゃなくて?」
 歩たちが聞いていることはわかっているだろうが、彼女たち構わずに夏木に向かって問いかけた。どうやら話の発端は夏木のようだ。
「見間違いじゃないよ。あれは絶対に加藤さんだった。昼間のスーツと同じだったもん」
 一華の名前が出て、歩は眉を寄せる。
 夏木がちらりとこちらを見た。
「え、なになに加藤さんがどうしたの?」
 石橋が話に食いついた。
「クライアントの弁護士さんと個人的に会ってるのを夏木さんが見たんだって」
 夏木とは別の社員が答えた。
「え、まじ? それってもしかして……男?」
「男、男!」
 あまりにも意外な内容に、歩は驚き、同時にギリっと嫌な風に胸が痛んだ。
 クライアントへからの個人的な誘いに応じることは原則禁止されている。トラブルに発展しかねないからだ。主に社員を守るための規定であるが、一華がそれを破るとは思えない。だから歩も見間違いではないかと思うが、夏木は自信満々だった。
「スーツの胸元に光る金色のバッチは見逃さないよ。私、気になってその場で加藤さんのクライアントのHPを片っ端から見てみたの。そしたらビンゴ! あさがお法律事務所の永江先生だった」
「まじでー‼︎」
 女性陣が声をあげて早速、ネットで検索している。そしてまたぎゃーと声をあげた。
「ぐあ、めっちゃイケメンじゃん」
 隣で石橋も検索して頼んでもないのに見せてくる。
「この人俺知ってるかも。前に情報番組のコメンテーターやってたよな」
 三十前後の誠実そうな弁護士には歩も見覚えがあった。以前一華が休みの時に緊急で対応した際に会ったことがある。
 胸がぎりぎりと痛んだ。
 夏木が一華を快く思っていないのは確かだが、ここまで具体的に言うのだからさすがに嘘ではないのだろう。
 だとしたら、一華はどうしてこの弁護士と会っていたのだろう?
「それって、それってつまりはどういうこと? 付き合ってるのかな」
 女性社員の問いかけに、夏木が首を横に振った。
「個人的な誘いに応じるのは禁止でしょ。リーダーへ報告すれば許可は下りるけど、報告している様子はないし、つまりは報告できないような関係なのよ」
 断定的な物言いに、歩は苛立ちを覚える。
 確かに一華の行動はよくわからないところがある。
 けれど許可の有無は定かではないし、そもそも普段の彼女を知っていれば、そんな言い方にはならないはずだ。
「ひゃー! 報告できない関係ってそれはつまり?」
 女性社員がわくわくしながら夏木に問いかける。夏木が意味深に笑った。
「……だってあさがお事務所ってさ、加藤さんが新規契約取ってきたところでしょ? あそこの繋がりで契約に至った事務所が何件かあるし。つまりは……」
 最後まで言わなくとも夏木の言いたいことは明白で、その場が一気に邪な好奇心でいっぱいになる。
「やばーい!」
「やっぱ、美人は得だね」
 皆が口ぐちに言い出した。
 歩はテーブルの上に置いた拳を握りしめた。
 飲み会での話題がその場にいない者の噂話になるのはよくあることで、たいていはあまり好意的なものではない。あたりまえだ。本人の前でできない話をしているのだから。
 歩自身は嫌いだけれど、すべてを否定する気持ちはない。普通に働いていれば愚痴りたくなる時もある。
 それによって次の日はまた頑張れるという場合もあるだろう。
 アルコールの場での言葉に、目くじらを立てるほどのことではない。ましてや今日は、皆自分のために集まってくれたのだ。この空気を壊すのは勇気がいる。
 ……それでも、この発言は見過ごせない。
「あー。これはめっちゃガッカリだな〜。でもあれだけの成績を残すんだから、ある意味納得かもな。歩もそう思うだろ?」
 石橋がこちらに話を振ってくるのに、歩は低い声で答えた。
「思うわけないだろ」
 自分で思ったよりも冷たい響きになってしまったのはわかるけれど、怒りで止めることができない。
「一華ちゃんが、そんな方法で契約を取ってるなんて、本気で思ってるのかよ?」
 向かいの石橋を睨むと、彼は「え」と声をもらして、笑顔のまま固まる。
 皆もそれに気がついてその場が凍りついた。かまわずに歩は彼を追求する。
「彼女がどれだけ努力してるか、同じ営業なら知ってるだろ? それでもそんなこと言えるのかよ」
「や……それは、まあ……」
 口ごもる石橋を一瞥して、歩は夏木に視線を移した。
 彼女も信じられないものを見るような目で、こちらを見ている。普段怒ることはおろか不機嫌になることすらなかった歩が怒りをあらわにしていることが信じれないようだ。
 そしてそれは他の社員も同じだった。
 飲み会の席での冗談に、本気で気分を害するなんて、イメージダウンといったところだろうか。
 かまうものかと歩は思った。
 例え今の話が、一華にかかわることでなくても、自分は同じことをしただろう。
 同じ職場で一緒に働く同僚の名誉を証拠もないのに貶める話を見過ごすなんて自分にできない。
 それで壊れる人間関係なんか、くそ喰らえだ。
「夏木さんも、証拠もないのに不名誉な話を広めるのはやめた方がいいよ。場合によっては、君がペナルティを食らうことになる」
 それでも冷静に言葉を選んで言えた自分を褒めたいくらいだった。本当は、ふざけるなと声をあげたいくらいだ。
「な……なによ、ちょっとした冗談じゃん。加藤さんが規則を破って弁護士と会ってたのは本当なんだから」
「リーダーに確認したの?」
「それは……。でも私は断定したわけじゃないし。そう思うって想像したことを言っただけで……」
「その想像が、彼女の名誉を貶めることになるのはわかるだろ? 根も葉もない噂を立てられる身にもなってみろよ」
「で、でも……」
 そこで彼女は黙り込み、沈黙が落ちる。誰もが驚きどうすればいいかわからないという空気だ。
「なによ、歩。冗談じゃん冗談! 誰も本気で言ってるわけじゃ」
「そういう冗談、俺好きじゃない。明らかに誰かが傷つくのがわかってるのに笑えないだろ」
 そう言って歩は立ち上がる。
「この際だから言っとくけど、石橋、お前はいいやつだと思うけど、飲んだ時の話題には気をつけた方がいいよ。あの人が可愛いとか可愛いとモチベーションが上がるとか女性の見た目を、大勢の人がいる場であれこれ言うのやめた方がいいと俺は思う。冗談のつもりでも聞く人によっては不快な気分になるから」
 歩はさっき石橋に言おうとしていたことを口にする。
「少なくとも、俺は、その手の冗談は嫌い。そういう話を聞いてほしいなら、これからはほか探して」
 鞄から財布を出して現金を置いた。
「俺帰るわ。せっかく集まってくれたのに、ごめん」
「え⁉︎ 歩? まじで?」
 石橋が慌てたように止めるけれど、無視して店の外へ出た。
 むわっとした夜の空気に包まれる。むしゃくしゃする気持ちをなんとかしたくて、頭をぐしゃぐしゃとかいた。大きくひとつ深呼吸をして大通り公園に向かって歩き出した。
 とはいえせいせいしてもいた。
 間違ったことを間違っていると、伝えられたし、不快なことはやめてくれとはっきり言えたのだ。
 一華がなぜ担当クライアントの弁護士と会っていたかはわからない。けれど、彼女は彼らの言うようなことは絶対にしていない。それだけは信じられる。
 改めて自分が築いていた人間関係がどれだけくだらなかったかを痛感する。ここまで酷い噂話ははじめてだが、これまでも噂の類はよくあった。
 それを言い合う関係のなにがいいんだと以前の自分に吐き気がする。これを機にもう飲み会には誘われないだろう。
 けれどそれがなんだという気分だった。意味のない集まりに行くのはやめて、もっと自分の気持ちに正直に、やりたいことをやればいい。
「歩、歩……!」
 考え事をしながら歩いていて、名前を呼ばれていることに気がつくのが一歩遅れる。
 足を止めて振り返ると、石橋が追いかけてきている。この状況で話をするのは気が進まないが、仕方なくそのまま彼が追いついてくるのを待った。
「空気を壊して悪いけど、冗談だっていう言い訳は受け付けられないから。あの話は一線を越えてると思う」
 どうせ皆に頼まれて連れ戻しにきただけだろう。にべもなくそう言うと、石橋が肩で息をしながら首を横に振った。
「……いや、言い訳をしにきたわけじゃなくて」
 けれど、息が整わずに膝に手をついて沈黙する。そしてしばらく考えたあと、思い切ったように顔を上げた。
「歩の言うことは正しいと思う」
「え……?」
「俺もあれは言い過ぎだと思った」
 あまりにも都合のいい言葉に、歩は膝から崩れ落ちそうになってしまう。石橋らしいといえばそうだけれど。
「いや、どの口が?って感じだよな。悪ノリした俺が悪いのはわかってるから言い訳しにきたわけじゃないんだけど、歩が空気壊したみたいな感じになるのは違うよなと思って、それだけ言いにきたんだ」
「石橋ちゃん……?」
「考えてみれば歩ってああいう話の時、いつも自分からはなにも言わないなと思って。ちょい無理やり話そらしてる時もあるし。本当は嫌だったのかもしれないなと思ってさ」
 一瞬歩は言葉を失う。
 本当のところを言いあてられたことに驚いた。
「それは……まぁ、うん、そう」
「だよな。だとしたら、なんかごめんって思ったんだよ。俺さ、こんな感じだから後先考えずになんでもその場のノリで適当に答えちゃうんだよな。それで何回か失敗してるけどなかなか直らなくて。歩が同じ営業として許せないのはわかるよ」
 そう言って石橋は頭をかいた。
「……いや、俺もえらそうだった」
 歩は少し申し訳ない気持ちになった。彼のそういうところに歩は気がついていたが、あえて見て見ぬふりをしていたのだ。
 それなのに今ごろいきなり言い出したのだから。
「歩は間違ってないでしょ。俺が完全に悪い。でもさ、ちょっと嬉しかった」
「……え?」
 意外な言葉に歩は首を傾げた。
「そういうとこダメだぞって歩が言ってくれたの。俺のために言ってくれたんだろ? 愛を感じた」
 あっけらかんとして言う石橋に、歩は思わず噴き出した。
「いや……! ポジティブすぎだろ!」
「えー! 違うのかよ」
「いや、まぁそういう部分もあるけど……!」
 ひとしきり笑う。そして彼を真正面から見る。
「俺、石橋ちゃんのそういうところは好きだな、うん。フットワーク軽いし、仕事の上でも頼りにしてる」
「よかったー! 嫌われたのかと思ったよ。これからはなるべく気をつけるからさ、またえ?って思うことあったら言って?」
「ん、そうする。逆に石橋ちゃんからも言いたいことあるなら言って」
 自然とそういう言葉が口から出る。
 少し前は、無意識のうちに避けていたことだ。相手の深いところに手を伸ばせば嫌ところを見てしまい、逆に自分も嫌ところを見られることになる。
 けれど今は怖くない。
 本音をぶつけ合ったとしても、いい関係を築けることもあると歩はもう知っている。
 もしかしたらそれによって、離れる人もいるかもしれない。けれど、大丈夫。
 自分が求めているのはそれではない。
「歩は百点だからなー。嫌なところはない。あ、でも聞きたいことはある!」
「なに?」
 尋ねると、石橋がすすすとこちらにやってきて、ニヤリと笑い口を開いた。
「加藤さんと、どういう関係なんだよ?」
「…………石橋ちゃん」
 ジロリと睨むと声をあげる。
「ええー‼︎ 恋バナもダメぇ?」
「いや恋バナっていうか……え? 俺そんなにわかりやすかった?」
「うん、この間昴で加藤さんの話をしてた時も、なんか機嫌悪かったし」
「……」
 目を合わせて沈黙する。そしてふたり同時に噴き出した。
「石橋ちゃんって意外と俺のこと見てんだね……!」
「意外とってなんだよ……!」
 ひとしきり笑うと、心は晴れる。今まで築いてきた関係も悪いものばかりじゃなかったのだ。
「でもべつに一華ちゃんとはどんな関係でもないよ。ただの俺の片想い」
「うおっ! マジか! わかった! じゃあ応援するからな。なんでも言ってくれ」
「いやありがたいけど……てか石橋ちゃんも気になってるんじゃないの? 一華ちゃんのこと」
「俺はそこまでではないよ。歩の方が好きだし」
 そう言って石橋は歩の肩をバシバシ叩いた。
「また昴で語ろうぜ。とりあえず今日のやつらには、うまく言っといてやるよ。んじゃ、お疲れ」
 陽気に手を振ってもと来た方向へ戻っていった。
 すぐに帰る気にはなれず歩はそのままそばにあるベンチに腰を下ろし、夜空を見上げた。
 ビルの間から見える空はあまり星は見えないけれど、綺麗だなと思う。
 視界がクリアになったようだった。
 無意識のうちに自分に課していたルールや決まりをとりはらうと、綺麗な世界が広がっていた。
 思い返してみれば、一華が他人を悪く言うのを聞いたことがない。
 彼女は自分に対する好意的でない視線や噂話は把握していたはずなのに、それに対する不満も言っている人物に対する悪口も一切口にしなかった。
 彼女に惹かれたことで、自分にいい変化が起きたのは、必然だったのかもしれない。
 ——やっぱり彼女が好きだ。
 はっきりとそう思う。
 はじめて彼女と深夜喫茶に行ったあの夜に感じた、宝物を見つけたような高揚感は本物だったし、まだ続いている。
 彼女は、自分にとってかけがえのない存在だ。今までの歩の人生で過ぎ去っていたたくさんの人の他の誰とも違う。
 そう確信したと同時に、歩はさっきの話を思い出し、心配になる。
 一華はなぜ担当クライアントである弁護士と一緒にいたのだろう?
 彼女がなにか不正を働いているとは微塵も思わないけれど、自分より他人を優先させ意外と流されやすいところがある彼女だから、よからぬことに巻き込まれているのではないかと思ったのだ。
 数日前、少し様子がおかしかったこととなにか関係があるのだろうか。
 もしなにかに巻き込まれているのなら力になりたい。
 彼女は望んでいないかもしれないけれど……。
 ベンチに座ったまま、もやもやと考えていた歩は、振り切るように立ち上がる。うじうじと考えているのは性に合わない。
 自分はいつも先手必勝の精神だったじゃないか。
 まずは事実確認だ。その上で力になれることがあるなら、全力でやる。そしたらそのあと自分の気持ちを聞いてもらおう。
 そう決意して歩は公園を出た。
 スマホを出してメッセージアプリを立ち上げる。今から話せるのがベストだけど……どういうメッセージを打とうかと考えながら駅に向かう。
 ふと通り沿いのオープンカフェのテラス席に目が留まった。向かい合って食事をする男女に見覚えがあったからだ。
 一華と例の弁護士だ。
 胸が嫌な感じに鳴り出した。
 思わず息を潜めて近づいた。
 金曜日の夜の喧騒に紛れて会話は聞こえないが、表情がわかる距離まで来て眉を寄せる。
 一華が泣いていたからだ。
 うつむき、肩を振るわせている。それに気がついたと同時に、歩の身体が動いた。