タイ料理のワゴンでゲットしたカオマンガイとレモンサワーを手に、フードコートに空きを見つけて腰を下ろす。スプリングフェスタは、思っていたよりも盛況だった。
 頭上には七色の電球が張り巡らされ、ステージではジャズバンドが軽快な演奏を披露している。
 学生や会社帰りのビジネスマン、カップルや家族連れ。皆思い思いのフードとドリンクを選び一週間の疲れを癒している。
 スーツ姿の若い男性ふたり組が「ウェーイ」とプラスチックカップを合わせているのを横目に、一華も、自分お疲れ!と心の中で乾杯した。
 カオマンガイをひと口食べて、レモンサワーをごくごく飲む。
 ——うーん最っっっ高!
 思わずくーっと声が出そうになってしまうが、家ではないのでここは我慢。ふーっと長い息を吐いて、手を合わせてカオマンガイを食べはじめる。
 カオマンガイは本場の味に負けないくらい美味しかった。去年夏季休暇を利用してひとりで行ったプーケットを思い出す。また行きたいなぁ、と思いを馳せた。
 現地の人たちとのちょっとした交流や、刺激的で美味しい料理。
 そういえば、今年の夏季休暇はどこに行こう?
 そろそろフライトを抑えておいた方がいいかもと、スマホを手に旅行サイトを立ち上げた時、ある会話が耳に飛び込んできた。
「あ、あそこ空いてるんじゃね?」
「いやひとり座ってるじゃん」
「マジか……」
 自分のことか?と目を上げると、斜め前方からフードコートの空きテーブルを探していると思しき男性のグループがこちらを見ている。年齢と服装からいって、大学生だろうか。
「半分使わせてもらう?」
「いや気まずいだろ」
「てかこのお祭りムードの中で女がひとりってなんなんだよ」
「やけ酒じゃね?」
「いやいやいいじゃん、そういう人もいるんだって。そっとしておいてあげよ」
「でも、可愛くね? 声かけてみる?」
 聞こえてますよという意思表示のために、一華は一旦スマホを置いて彼らの方をしっかりと見る。相席はかまわないが、ナンパは勘弁だ。
「やべ」
「お前、声でかいって」
 気まずそうに言い合って、別のテーブルが空いたのをこれ幸いと去っていった。
 やれやれと一華は思う。
 ひとりで酒を飲む女子が寂しいなんて、まだ若いのに考え方が古いな、と心の中で呆れかえる。
 とはいえそれほど嫌な気分にはならなかった。このくらいは慣れている。周囲の目がいちいち気になることもないし、よからぬ声かけを未然に防ぐくらいの自衛はできる。
 なにせ一華は、単独行動をこよなく愛する"おひとりさま女子"歴、四年なのだから。
 思うに。
 人間が一日に話せる量には個人差がある。そして自分は、それが他の人より随分少ない。
 どうして皆あんなにポンポンと感じよく会話できるのだろうといつも思う。話の流れを瞬時に読み、相手の気持ちを汲み取って、気分よく話をする。
 もちろん一華にもできなくない。けれど、ものすごくエネルギーを使うのだ。
 だから、他人と過ごしたその後に、必ずクールダウンとエネルギーチャージのために話した分の以上の"ひとり時間"を要する。
 学生時代はまだよかった。
 友人たちとの時間を楽しむ余裕があったのは、同じだけのひとりの時間を確保することができたから。
 それが社会人になり、がらりと状況が変わってしまった。
 営業職という職業は、とにかく人と会い話さなければはじまらない。しかも決まりきった営業トークでは顧客の信頼を得ることはできないのだ。相手の要望をうまく聞き出し、それに答えられなくてはならない。
 エネルギーを使うから無理などとは言っていられない。結果、ただでさえ少ない一日の会話可能時間をすべてクライアント先で使ってしまい、プライベートでまで誰かと一緒に過ごそうという気力はまったくと言っていいほど湧かなかった。
 新卒入社して四年あまり、会社関係に親しい人はできていない。
 学生時代の友人とたまに会う時以外は、ランチや一週間のプチ打ち上げ、休日もほとんどすべてをひとりで過ごしている。
 とはいえ一華はそれを残念には思っているわけではない。
 おそらくもともと、気を遣いながら人と過ごすのを少し面倒だと思っていたのだろう。成り行きではじまったおひとりさま生活は、素晴らしく自由で快適だった。
 社会人にとって、フリーな時間は貴重である。それを自分の気持ちにのみ従って使えるのがどれほど素晴らしいことか。身をもって実感している。
 例えば休日の過ごし方。
 ひとりならば時間を気にせず一日中映画館に入り浸り、話題作を片っ端から観ることもできるのだ。その際、何をどの順番で観るのか、食事を挟むのかどうかもすべて自分で決められる。
 もちろんなにもしないで家で一日中本を読んでいる時もある。
 とにかくそうやってひとりのんびり過ごす休日は、忙しい社会人生活を考えたら、とても贅沢な時間の使い方だ。
 会社ではそれなりの結果を出すために、できる努力は全部している。だからこそそれ以外の時間は思いっきり自分を甘やかしたい。
 今この時がまさにそうで、ふらりと立ち寄ったスプリングフェスタで思いがけず出会ったカオマンガイとレモンサワーが、一週間の疲れを癒してくれる、というわけだ。
 またそれだけではなく、一華にとってひとりでゆっくり過ごす時間は、自分を見つめ直すちょっとした反省時間でもあった。
 人間、生きていれば失敗する。
 それを必要以上にネガティブに捉えているわけではないけれど、反省し、なるべく次に活かしたいとは思っている。
"あのときどうすればよかったのだろう?"といった疑問にはじっくり向き合い、次はどうしようかと自分なりに考えるようにしている。
 そしてここのところよく頭に浮かぶのは、ペアを組むアシスタントの河西との関係だ。
 営業社員とアシスタント社員のペア制がはじまったのは、今月頭から。
 彼女は今月頭にコールセンターから異動してきたばかりの入社二年目の社員である。
 いずれは営業に出ることを目標にしているようだから、ペアを組む一華の責任は重大である。自分が教えられることは全部伝えたいと思う一方で、仕事自体を好きになり楽しく働いてほしいとも思う。
 会社の人たちとは距離がある一華だけれど、今回ばかりは口下手だから、などと甘えたことを言ってないで、しっかりしなくては。
 ——これからはちょっとは飲み会にも参加した方がいいのかな……。
 帰りがけの歩とのやり取りを思い出し、一華はうーむ、と考える。
 不定期に開催される若手社員での飲み会は一度も参加したことはない。とにかく気を遣い疲れるだろうことが明白だからだ。彼ら自体は嫌いではないし、仕事仲間としてはむしろその逆だが、終業後はひとりで静かにすごしたい。
 今まではそれでもとくに支障はなかった。けれど、ペアを組む後輩ができた今は状況が変わったような……。
 河西からしてみれば、ペアを組む先輩が、滅多に飲み会に参加しない付き合いづらい相手なのは、あまりいい状況とは言えないはずだ。
 自分の印象がやや悪いの仕方がないが、それで河西に嫌な思いをさせてしまうのは申し訳ない……。
 夜空に連なる色とりどりの電球を見つめながら、どうしたものかと考える。
 考えた末に、飲み会に参加するのがいい解決方法とは思えなかった。
 気が進まない飲み会に行くのが嫌だというよりは、今さら一華が参加したら周りが気を遣うだろうと思ったのだ。夏木を含むアシスタントの一部の女性社員からは一華はあまりよく思われていない。業務外では接触しない方がお互いにとって平和だろう。
 やっぱり飲み会には頼らずに一対一でいい関係を築くべき。
 カオマンガイを食べ終えてレモンサワーを飲み干し、一華はそう結論を出す。ゴミをまとめて立ち上がった。
 本当はもう一杯くらい飲みたいが、帰りが遅くなるのはいただけない。
 おひとりさま時間は素晴らしいが、女性の夜の単独行動にはリスクが伴う。
 この辺りは夜中まで賑わっているが、ひとり暮らしのマンションがあるエリアは、十時を過ぎると人通りが少なくなる。コンビニでビールとお菓子を買い込んで、ひとり打ち上げの二次会会場は自宅だ。
 遊歩道を地下鉄の入口目指して歩き、途中ゴミ置き場に立ち寄る。分別しながらゴミを捨て辺りを見回した。
 この公園は普段は管理が行き届いていて、たいていのゴミはゴミ箱へきちんと収まっている。けれど今日は少し荒れていた。
 空のペットボトルが三つほど歩道のあっちこっちに転がっている。
 お世辞にもいいとは言えない光景に、一華のテンションがちょっと上がる。
 そっと周りを見回した。
 メイン会場から少し離れているこの辺りは人通りはまばらだ。しかも皆、祭り気分で浮かれている、誰も一華を見ていない。
 チャンスタイム!という言葉が頭に浮かんだ。
 いそいそと散らばったペットボトルを拾い集め、ささっとゴミ箱へ放り込む。
 ——よし!
 遊歩道を綺麗にして、1ポイント。しかもそれを誰にも気が付かれなかったので1ポイント追加。
 心の中で加点してガッツポーズを決めた。
"徳積みポイント"と名付けている自分の中だけのポイント制度には、もちろん交換制度はない。
 はじまりは、小さい頃に大好きな祖母から『一華、徳を積みなさいね』とよく言われたことだった。
『徳を積む』とは、日々の暮らしの中でちょっとしたいいことや気遣いをすることで、将来自分にも返ってくるという考え方で、うんぬんかんぬん……。
 要するにできる範囲でいいことをすれば自分にもいいことあるかもしれないよという昔の人からのおしえだ。
 電車で積極的に席を譲ったり、落とし物を見かけたらめんどくさがらずに交番に届けたり。
 はじめは小さい子供特有の素直さで言われたとおりにしてみただけだったが、これが一華の人生をちょっと明るく変えた。
 ちょっとしたよい行いは、やってみると気持ちがいい。
 いいことが自分に返ってきているかは不明だし、誰かの感謝は求めていない。言ってしまえば自己満足だが、やったあとは心がすっきりとする。いいことをしたという気持ちがポイントとして自分の中に貯まっていくような気分になった。
 ただ人に見られるとやっかいで、小学生の頃は"いい子ぶってる"とか"先生への点数稼ぎ"などと言われてしまい、少々嫌な思いをした。
 そこで一華は祖母からのおしえに独自のルールを課すことにした。それが"誰にも気がつかれずにやると加点"という部分。そして出来上がったのが、徳積みポイント制度である。
 いいことをしたら1ポイント、誰にも見られないでこっそりやれたら1ポイント加算。
 もうかれこれ二十年くらい、ひっそりとひとりで続けている。もはや趣味といっていい。
 今日は昼間、外回り中に立ち寄ったコンビニでコピー機の使い方がわからなくて困っていたおばちゃんの手助けをした。コンビニ店員に見られていたから加点なしの1ポイント。だから合計3ポイントだ。
 ふわっと風を感じて見上げると視線の先で、チラホラと小さな白い花びらが舞っている。思わず一華は腕を伸ばし、それを手のひら受け止めた。
 徳積みポイントに交換制度はないけれど、まるでご褒美をもらったようだった。
 スマホのクリアカバーの間に挟み込んでにんまり笑う。一週間の終わりに桜の木の下で美味しいカオマンガイを食べられた。
 今週も忙しかったけれどまずまずの終わり方かも。
 ローヒールの靴音をコツコツコツと軽く響かせて、一華はまた地下鉄の駅に向かって歩き出した。