法律事務所向けのソフトウェアの販売という業種に特に繁忙期はない。法律事務所自体が純粋に営利を追求するものでないからだ。
けれどある程度波はあって、一番大きいのが、ソフトのアップデートだ。クライアントからの要望による小さなアップデートはしょっちゅうだが、一番大掛かりなのは毎年ある法改正に伴うもの。作業自体は技術チームの範疇だが、アップデート後は不具合や問い合わせが頻発する。これは年度末や四月五月に集中する。
その中にあって七月は毎年少しゆとりがある。
七月第二週の水曜日、一華はこの期間を利用して、河西との打ち合わせをしようと思っていた。ペアを組んで三か月、ここまでの総括だ。
改めてミーティングを設ける意味があるかは不明だ。他のペアは特にそんなことをしている様子はない。
普段からコミュニケーションを取れていればそれで十分だ。
けれどそれができていない自分には必要だと思ったのだ。
ミーティングルームを取ろうかと思ったが、自席のPCを使う方が効率的、人が少ない時間帯に並びになってすることにした。隣の席の歩に断ると「いーよ」という軽い答えが返ってきた。
「俺は急ぎの仕事はないし、資料まとめているだけだからごゆっくり」
にっこりと笑うその目に、励まされているように感じるのは自意識過剰ではないはずだ。
博物館へ行ったあの日、一華は自分が抱えているつまずきを歩に話した。そのことが、今こうやってミーティングをしようと思ったのに繋がっている。
あんなふうに弱音を吐くのははじめてだった。言いにくい環境で育ったというのもあるけれど、言ったところでなにも変わらないと思ってもいたからだ。
けれど口に出してみて、自分がつまずいている原因に気がついた。そして歩に言ってもらったことをしっかりと考えてみたのだ。
人に頼ることは悪いことではない。感謝してその気持ちを返せれば、迷惑にはならない。むしろいい関係を築くきっかけになる。
それを一華は、歩との関係で実感した。
「よろしくお願いします」
メモを持ち隣に座る河西は、かなり緊張しているようだった。
一華も「こちらこそよろしくお願いします」と頭を下げた。
緊張をほぐしてあげる気のきいたことは言えないのは、一華もちょっと緊張しているからだ。
きつい言い方にならないように気をつけなくては。
このミーティングを機に今後はもう少したくさんの量の仕事を任せようと思っているが、それが適切な量かどうかがわからなくて不安だった。
彼女から要望があったら、調整するつもりだけれど、そもそもこの雰囲気で彼女は自分の意見言えるのだろうか。
とはいえ、やるしかないと、自分にはっぱをかけた。
まずは、彼女からの質問に丁寧に答えていく。普段から質問にはその都度答えるようにはしているが、そもそも顔を合わせることが多くない。真面目な彼女は、きちんとリストを作っていた。
口頭と、時にPCを使って答えたあと、今後任せたい箇所について説明をする。
ドキドキしながら河西の様子を伺うと、彼女は口もとに笑みを浮かべている。
ホッと胸を撫で下ろす。どういう笑みかはわからないが、少なくともマイナスに捉えてはいなさそうだ。
ひととおり説明したら、やるべき予定のことは終わる。
「他になにかわからないところはありますか?」
一華は身体を彼女に向けて尋ねた。
「あの、わからないところではないんですけど、先日の森村弁護士の件で……」
河西が遠慮がちに口を開いた。
『森村弁護士の件』とは、数日前に河西が対応した問い合わせ案件だ。
一華の外出中に、クライアントの弁護士から操作方法についての質問の電話が一華宛に入った。一華のスマホが繋がらないのでオフィスの番号にかかってきたのだ。対応した河西は、いったんは一華のスマホを鳴らしたがやはり繋がらなかったため、後ほど折り返すつもりで疑問点を聞いたところ、自分でわかる範囲だったようでそのまま案内してくれたのだ。
「勝手なことをしてすみませんでした」
しゅんとして頭を下げる河西に、一華は戸惑う。
「え? い、いえ、あれは私がクライアント先にいて電話に出られなかったのが悪かったんです。河西さんが謝ることじゃありません」
報告を受けた際も咎めるようなことは言っていないはずだ。
「でも後から夏木さんに、弁護士さんからの質問は必ず担当営業かコールセンターへ回すようにって言われて。余計なことだったですよね。すみません」
確かにそう統一している営業もいる。間違えた案内をされてはトラブルになりかねないからだ。一華も基本はそれでお願いしているが、今回河西が対応してくれた質問は初歩的な操作方法に関するもの。ひと言言えば済むことを一華の電話が繋がるまで待てというのはあまりにも無駄な時間だ。
だから一華としては河西の対応は完璧だったと思っている。それなのに、ほかの人から叱られるなんて、申し訳ないのひと言だ。
「河西さんの対応でよかったです。むしろ私の方が電話に出られなくて、すみませんでした。その上他の人から注意されて……」
眉を下げて謝ると、河西が困ったように首を振る。
「いえ私が変な気を回しちゃったから」
心底申し訳なさそうにする彼女に、また申し訳ない気持ちになる。彼女の対応は褒められるべきことなのにこんな気持ちにさせてしまって……と思ったところで、はっとする。
博物館へ行った日に歩に言われた言葉を思い出した。
『謝るんじゃなくて、ありがとうって言ってみたら?』
——私、本当に謝ってる。
無意識だった。
誰かに頼るのはよくないことという考え方の癖が口に出ているのだろう。
もちろん、スマホに出られなかったことに対しては、『すみません』で正解だ。
——でも彼女がしてくれたことに対しては?
「違う」
口からポロリと言葉が出て、河西がビクッと肩を揺らす。思わず漏れた呟きを、悪い意味にとったのだ。
慌てて一華は訂正する。
「あ、そうじゃなくて。河西さんのやったことはあっています。私の反応が」
「え? 反応?」
「あ、じゃ、じゃなくて……!」
少し慌てながら、どう言えばいいかと考えていると、河西の向こうのデスクに座る歩がこちらを見ていることに気がついた。
彼は一華を励ますように微笑んでいる。その眼差しに、少し気持ちが落ち着いた。
ふうっと息をひとつ吐き、一華の変な反応に面食らって瞬きを繰り返す河西に向かい口を開いた。
「ありがとうございました」
「え……?」
「河西さんがしてくれたこと、とても助かりました。森下先生は、お忙しいので回答に時間がかかると嫌がられます。だからこそコールセンターではなく私に電話してこられたんです。だからあそこで再び折り返しになっていたら、お叱りを受けたかもしれません。だからすごくありがたかったです。ありがとうございます」
緊張して少し早口になってしまう。けれど言いたいことはすべてを言えた。
河西がぽかんとしている。
「私、夏木さんに注意されたから、てっきり、余計なことをしたかと」
そう思わせてしまったことを申し訳ないと思った。
「ケースバイケースです。営業によっては絶対に自分を通してって場合もあります。でも先週の件は本当に助かったので、河西さんが反省することはなにもありません。夏木さんには、私から事情を話しておきます」
夏木は一華がいない間に河西のフォローをしてもらっているのだから、そういう反応になるのは仕方がない。そのあたりの調整もしっかりしなくてはと肝に銘じる。
「今日のミーティングで河西さんがかなり知識がついてきているように思ったので、これからはクライアントの電話対応もやってもらえたら嬉しいです。もちろん少しずつ。河西さんのペースを見ながらですが」
河西の頬が赤くなる。
「はい。頑張ります」
はじめて見るやる気に満ちた嬉しそうな表情に、一華は今までの自分の言動を反省した。
考えてみればアシスタントには、営業と違って成績などの目に見える成果がない。サポートをしている営業が彼らの仕事にどんな反応をするかによってモチベーションが左右されるのだ。
それなのに自分は彼女にしてもらったことに申し訳なさそうにするばかりで感謝の気持ちをしっかり表してこなかった。
入社早々不安にさせてしまっていたのが申し訳ないが、せめてこれからは挽回したいと強く思う。
そのためには今自分が思っていることを正直に言う方がいいのではないかということが頭に浮かんだ。
「あの、それから……私……のことなんですけど……」
迷いながら口を開く。
河西が不思議そうに首を傾げた。
「私、普通にしてたら、ちょっと怖く見えるみたいで、怒ってるの?って言われることがあるんです。でも怒ってません」
河西が驚いたように瞬きをした。
突然なにを言い出すのだ、と思われているのだろう。
べつにパーソナルな部分を見せなくても、仕事はできる。けれど相手を知ることであるいは自分を知ってもらうことで、思いがけずいい関係を築けることもあるというのを一華は歩との関係で学んだ。
ペアとして彼女といい仕事をしていくために、関係を変えたいと思う。それにはまず自分から心をオープンにするべきだ。
「あと話し方も、いろいろ省いて結論だけ言ってしまう癖があるみたいで、怖く思えるかもしれません。でも、全然怒ってないので、もしそういう印象を受けていたら、ごめんなさい。なるべく気をつけます」
ぺこりと頭を下げると、河西がぽかんとする。
けれどすぐにハッとして首を横に振った。
「そんな……! 加藤さんの説明はすごく丁寧です。とてもわかりやすいです。あの私……私もあまり質問してなくてすみません。加藤さんは気にしないでっておっしゃってたのに」
「それは仕方がないです。私、業務に集中してたりすると、つい無表情になっちゃって。怖い先輩だな、と思っていただろうし」
何気なく言った言葉だが、どうやら図星だったようだ。
河西の頬が赤くなっていく。
「怖い先輩っていうか……。そんな……ことは……!」
それ以上は言葉を続けられず気まずそうに目を逸らした。
微妙な沈黙がふたりを包む。
確実に思っていただろう反応だ。けれど、それを口にするわけにもいかず、かといってもはや否定しても無意味なくらい、気まずい空気が流れてしまっている。
「……思ってません」
最後は上目遣いでこちらを見て小さな声で呟いた。
あまりにも無意味な否定に、申し訳ないと思いつつ、一華は噴き出してしまう。顔を背けて肩を揺らす。笑ってはいけないと思いつつ堪えられなかった。
「ごめ、……ごめんなさい……! 全然、思ってていいので、思っててあたりまえなので……! 笑っちゃだめですよね……すみません……!」
「いえ、私も、今の反応やばかったですよね……!」
つられて河西も笑い出す。
そして笑い出した一華の反応に安心したのかぺろっと白状した。
「本当は思っていましたし」
「やっぱり、そうですよね」
ふたりしてくすくすと笑い合ってから、一華はもう一度頭を下げた。
「今まで本当にごめんなさい、私の言葉はそのまま受け取ってもらえるとありがたいです」
河西が嬉しそうに頷いた。
「わかりました。あの、私……加藤さんのことはちょっと怖いなと思っていたのはそうですけと、お客さんとか仕事に対するやり方は、尊敬していました。私もいつか加藤さんみたいな営業さんになりたいです」
今度は一華がぽかんとする番だった。思ってもみなかった言葉だ。
ちょっと信じられないくらいだけれど、お世辞ではなさそうな河西からの真っ直ぐな視線に、じわじわと嬉しい気持ちが込み上げる。
まだ先輩らしいことはなにもできていないのに、そう言ってもらえるのが嬉しくて、頬が熱くなる。
「そう言ってもらえてすごく嬉しい……。えーっと……河西さんがいい営業になれるように、私も、で、できるだけのことはしようと思います」
あまりにも胸がいっぱいで、せっかく褒めてもらえたのに、"できる営業"らしからぬたどたどしさになってしまう。しかも照れてしまって目を伏せたままだ。
河西からしたらちょっとしたリップサービスだったかもしれないのに、この反応は間違いだったかも、ということが頭をよぎった。
ああ、また私……と自己嫌悪に陥っていると。
「……やば」
河西が呟いて口元を手で覆った。
「かわいっ……!」
手の中での言葉はくぐもってよく聞こえない。一華は首を傾げる。
「……え?」
一方で彼女の向こう側にいる歩には、聞こえたようだ。
「やばいでしょ、本当の一華ちゃん」と河西に向かって声をかけている。
河西が口もとを手で覆ったままこくこくと頷いた。
「やばいですっ」
歩がふふふと笑った。
「なんか、がんばろって気になるよね」
「なりますっ、私、早く加藤さんを完璧にサポートできる。アシスタントになります!」
気合い十分で小さく拳を作っている。
いったいなにがどうなって彼女のスイッチが入ったのかさっぱりわからないながらも、「よろしくお願いします」と頷いた。
そして目が合った歩に、どういうこと?という意味で首を傾げてみせたけれど彼はにこにこと笑うばかりだった。
けれどある程度波はあって、一番大きいのが、ソフトのアップデートだ。クライアントからの要望による小さなアップデートはしょっちゅうだが、一番大掛かりなのは毎年ある法改正に伴うもの。作業自体は技術チームの範疇だが、アップデート後は不具合や問い合わせが頻発する。これは年度末や四月五月に集中する。
その中にあって七月は毎年少しゆとりがある。
七月第二週の水曜日、一華はこの期間を利用して、河西との打ち合わせをしようと思っていた。ペアを組んで三か月、ここまでの総括だ。
改めてミーティングを設ける意味があるかは不明だ。他のペアは特にそんなことをしている様子はない。
普段からコミュニケーションを取れていればそれで十分だ。
けれどそれができていない自分には必要だと思ったのだ。
ミーティングルームを取ろうかと思ったが、自席のPCを使う方が効率的、人が少ない時間帯に並びになってすることにした。隣の席の歩に断ると「いーよ」という軽い答えが返ってきた。
「俺は急ぎの仕事はないし、資料まとめているだけだからごゆっくり」
にっこりと笑うその目に、励まされているように感じるのは自意識過剰ではないはずだ。
博物館へ行ったあの日、一華は自分が抱えているつまずきを歩に話した。そのことが、今こうやってミーティングをしようと思ったのに繋がっている。
あんなふうに弱音を吐くのははじめてだった。言いにくい環境で育ったというのもあるけれど、言ったところでなにも変わらないと思ってもいたからだ。
けれど口に出してみて、自分がつまずいている原因に気がついた。そして歩に言ってもらったことをしっかりと考えてみたのだ。
人に頼ることは悪いことではない。感謝してその気持ちを返せれば、迷惑にはならない。むしろいい関係を築くきっかけになる。
それを一華は、歩との関係で実感した。
「よろしくお願いします」
メモを持ち隣に座る河西は、かなり緊張しているようだった。
一華も「こちらこそよろしくお願いします」と頭を下げた。
緊張をほぐしてあげる気のきいたことは言えないのは、一華もちょっと緊張しているからだ。
きつい言い方にならないように気をつけなくては。
このミーティングを機に今後はもう少したくさんの量の仕事を任せようと思っているが、それが適切な量かどうかがわからなくて不安だった。
彼女から要望があったら、調整するつもりだけれど、そもそもこの雰囲気で彼女は自分の意見言えるのだろうか。
とはいえ、やるしかないと、自分にはっぱをかけた。
まずは、彼女からの質問に丁寧に答えていく。普段から質問にはその都度答えるようにはしているが、そもそも顔を合わせることが多くない。真面目な彼女は、きちんとリストを作っていた。
口頭と、時にPCを使って答えたあと、今後任せたい箇所について説明をする。
ドキドキしながら河西の様子を伺うと、彼女は口もとに笑みを浮かべている。
ホッと胸を撫で下ろす。どういう笑みかはわからないが、少なくともマイナスに捉えてはいなさそうだ。
ひととおり説明したら、やるべき予定のことは終わる。
「他になにかわからないところはありますか?」
一華は身体を彼女に向けて尋ねた。
「あの、わからないところではないんですけど、先日の森村弁護士の件で……」
河西が遠慮がちに口を開いた。
『森村弁護士の件』とは、数日前に河西が対応した問い合わせ案件だ。
一華の外出中に、クライアントの弁護士から操作方法についての質問の電話が一華宛に入った。一華のスマホが繋がらないのでオフィスの番号にかかってきたのだ。対応した河西は、いったんは一華のスマホを鳴らしたがやはり繋がらなかったため、後ほど折り返すつもりで疑問点を聞いたところ、自分でわかる範囲だったようでそのまま案内してくれたのだ。
「勝手なことをしてすみませんでした」
しゅんとして頭を下げる河西に、一華は戸惑う。
「え? い、いえ、あれは私がクライアント先にいて電話に出られなかったのが悪かったんです。河西さんが謝ることじゃありません」
報告を受けた際も咎めるようなことは言っていないはずだ。
「でも後から夏木さんに、弁護士さんからの質問は必ず担当営業かコールセンターへ回すようにって言われて。余計なことだったですよね。すみません」
確かにそう統一している営業もいる。間違えた案内をされてはトラブルになりかねないからだ。一華も基本はそれでお願いしているが、今回河西が対応してくれた質問は初歩的な操作方法に関するもの。ひと言言えば済むことを一華の電話が繋がるまで待てというのはあまりにも無駄な時間だ。
だから一華としては河西の対応は完璧だったと思っている。それなのに、ほかの人から叱られるなんて、申し訳ないのひと言だ。
「河西さんの対応でよかったです。むしろ私の方が電話に出られなくて、すみませんでした。その上他の人から注意されて……」
眉を下げて謝ると、河西が困ったように首を振る。
「いえ私が変な気を回しちゃったから」
心底申し訳なさそうにする彼女に、また申し訳ない気持ちになる。彼女の対応は褒められるべきことなのにこんな気持ちにさせてしまって……と思ったところで、はっとする。
博物館へ行った日に歩に言われた言葉を思い出した。
『謝るんじゃなくて、ありがとうって言ってみたら?』
——私、本当に謝ってる。
無意識だった。
誰かに頼るのはよくないことという考え方の癖が口に出ているのだろう。
もちろん、スマホに出られなかったことに対しては、『すみません』で正解だ。
——でも彼女がしてくれたことに対しては?
「違う」
口からポロリと言葉が出て、河西がビクッと肩を揺らす。思わず漏れた呟きを、悪い意味にとったのだ。
慌てて一華は訂正する。
「あ、そうじゃなくて。河西さんのやったことはあっています。私の反応が」
「え? 反応?」
「あ、じゃ、じゃなくて……!」
少し慌てながら、どう言えばいいかと考えていると、河西の向こうのデスクに座る歩がこちらを見ていることに気がついた。
彼は一華を励ますように微笑んでいる。その眼差しに、少し気持ちが落ち着いた。
ふうっと息をひとつ吐き、一華の変な反応に面食らって瞬きを繰り返す河西に向かい口を開いた。
「ありがとうございました」
「え……?」
「河西さんがしてくれたこと、とても助かりました。森下先生は、お忙しいので回答に時間がかかると嫌がられます。だからこそコールセンターではなく私に電話してこられたんです。だからあそこで再び折り返しになっていたら、お叱りを受けたかもしれません。だからすごくありがたかったです。ありがとうございます」
緊張して少し早口になってしまう。けれど言いたいことはすべてを言えた。
河西がぽかんとしている。
「私、夏木さんに注意されたから、てっきり、余計なことをしたかと」
そう思わせてしまったことを申し訳ないと思った。
「ケースバイケースです。営業によっては絶対に自分を通してって場合もあります。でも先週の件は本当に助かったので、河西さんが反省することはなにもありません。夏木さんには、私から事情を話しておきます」
夏木は一華がいない間に河西のフォローをしてもらっているのだから、そういう反応になるのは仕方がない。そのあたりの調整もしっかりしなくてはと肝に銘じる。
「今日のミーティングで河西さんがかなり知識がついてきているように思ったので、これからはクライアントの電話対応もやってもらえたら嬉しいです。もちろん少しずつ。河西さんのペースを見ながらですが」
河西の頬が赤くなる。
「はい。頑張ります」
はじめて見るやる気に満ちた嬉しそうな表情に、一華は今までの自分の言動を反省した。
考えてみればアシスタントには、営業と違って成績などの目に見える成果がない。サポートをしている営業が彼らの仕事にどんな反応をするかによってモチベーションが左右されるのだ。
それなのに自分は彼女にしてもらったことに申し訳なさそうにするばかりで感謝の気持ちをしっかり表してこなかった。
入社早々不安にさせてしまっていたのが申し訳ないが、せめてこれからは挽回したいと強く思う。
そのためには今自分が思っていることを正直に言う方がいいのではないかということが頭に浮かんだ。
「あの、それから……私……のことなんですけど……」
迷いながら口を開く。
河西が不思議そうに首を傾げた。
「私、普通にしてたら、ちょっと怖く見えるみたいで、怒ってるの?って言われることがあるんです。でも怒ってません」
河西が驚いたように瞬きをした。
突然なにを言い出すのだ、と思われているのだろう。
べつにパーソナルな部分を見せなくても、仕事はできる。けれど相手を知ることであるいは自分を知ってもらうことで、思いがけずいい関係を築けることもあるというのを一華は歩との関係で学んだ。
ペアとして彼女といい仕事をしていくために、関係を変えたいと思う。それにはまず自分から心をオープンにするべきだ。
「あと話し方も、いろいろ省いて結論だけ言ってしまう癖があるみたいで、怖く思えるかもしれません。でも、全然怒ってないので、もしそういう印象を受けていたら、ごめんなさい。なるべく気をつけます」
ぺこりと頭を下げると、河西がぽかんとする。
けれどすぐにハッとして首を横に振った。
「そんな……! 加藤さんの説明はすごく丁寧です。とてもわかりやすいです。あの私……私もあまり質問してなくてすみません。加藤さんは気にしないでっておっしゃってたのに」
「それは仕方がないです。私、業務に集中してたりすると、つい無表情になっちゃって。怖い先輩だな、と思っていただろうし」
何気なく言った言葉だが、どうやら図星だったようだ。
河西の頬が赤くなっていく。
「怖い先輩っていうか……。そんな……ことは……!」
それ以上は言葉を続けられず気まずそうに目を逸らした。
微妙な沈黙がふたりを包む。
確実に思っていただろう反応だ。けれど、それを口にするわけにもいかず、かといってもはや否定しても無意味なくらい、気まずい空気が流れてしまっている。
「……思ってません」
最後は上目遣いでこちらを見て小さな声で呟いた。
あまりにも無意味な否定に、申し訳ないと思いつつ、一華は噴き出してしまう。顔を背けて肩を揺らす。笑ってはいけないと思いつつ堪えられなかった。
「ごめ、……ごめんなさい……! 全然、思ってていいので、思っててあたりまえなので……! 笑っちゃだめですよね……すみません……!」
「いえ、私も、今の反応やばかったですよね……!」
つられて河西も笑い出す。
そして笑い出した一華の反応に安心したのかぺろっと白状した。
「本当は思っていましたし」
「やっぱり、そうですよね」
ふたりしてくすくすと笑い合ってから、一華はもう一度頭を下げた。
「今まで本当にごめんなさい、私の言葉はそのまま受け取ってもらえるとありがたいです」
河西が嬉しそうに頷いた。
「わかりました。あの、私……加藤さんのことはちょっと怖いなと思っていたのはそうですけと、お客さんとか仕事に対するやり方は、尊敬していました。私もいつか加藤さんみたいな営業さんになりたいです」
今度は一華がぽかんとする番だった。思ってもみなかった言葉だ。
ちょっと信じられないくらいだけれど、お世辞ではなさそうな河西からの真っ直ぐな視線に、じわじわと嬉しい気持ちが込み上げる。
まだ先輩らしいことはなにもできていないのに、そう言ってもらえるのが嬉しくて、頬が熱くなる。
「そう言ってもらえてすごく嬉しい……。えーっと……河西さんがいい営業になれるように、私も、で、できるだけのことはしようと思います」
あまりにも胸がいっぱいで、せっかく褒めてもらえたのに、"できる営業"らしからぬたどたどしさになってしまう。しかも照れてしまって目を伏せたままだ。
河西からしたらちょっとしたリップサービスだったかもしれないのに、この反応は間違いだったかも、ということが頭をよぎった。
ああ、また私……と自己嫌悪に陥っていると。
「……やば」
河西が呟いて口元を手で覆った。
「かわいっ……!」
手の中での言葉はくぐもってよく聞こえない。一華は首を傾げる。
「……え?」
一方で彼女の向こう側にいる歩には、聞こえたようだ。
「やばいでしょ、本当の一華ちゃん」と河西に向かって声をかけている。
河西が口もとを手で覆ったままこくこくと頷いた。
「やばいですっ」
歩がふふふと笑った。
「なんか、がんばろって気になるよね」
「なりますっ、私、早く加藤さんを完璧にサポートできる。アシスタントになります!」
気合い十分で小さく拳を作っている。
いったいなにがどうなって彼女のスイッチが入ったのかさっぱりわからないながらも、「よろしくお願いします」と頷いた。
そして目が合った歩に、どういうこと?という意味で首を傾げてみせたけれど彼はにこにこと笑うばかりだった。



