横浜の海は、夜になると鉄の板のように、ひややかに光っていた。
その明るみは、過ぎた日々の残り音を抱えたまま、静かに脈を打つように広がり、寄せては返す波の奥で、ひとりの女の来し方を淡く映していた。
その女が、麻衣子だった。
和歌山で育った家は、いつしか宗教の渦へと呑み込まれはじめていた。
母は信仰に身を沈め、家の中の小さな物音さえ、季節の匂いとともに薄れていった。
恋愛の末に婿として入った父が、母の変わりようの理由を知ったのは、ずっと後になってからだった。
娘を宗教の幹部に差し出す話が、水面の下で動いていると耳にしたのは、闇がもっとも深く沈む晩のことだった。
蛍光灯がゆらぐ台所で、父はふるえる指で、小さな封筒を麻衣子の手のひらへ押しこんだ。
封筒は汗を吸い、紙の繊維がしっとりとやわらかくなっていた。
「逃げなさい。ここはもう駄目や。
麻衣子、おまえだけは、生きなあかん」
その声には、父の積み上げてきたすべての時間が内包されていた。
家を抜けるための、最後の細い綱だった。
弱いながらも、その光はたしかに闇を裂いていた。
そこからの日々は、逃げ道を探すより先に涙が枯れ、体の芯が空洞になっていくような時間が続いた。
それでも横浜の海風は、頬にそっと触れ、ようやく辿りついた終着点の存在を知らせてくれた。
住む場所も働き口もないまま、夜のふちを歩き続けていたある日、麻衣子は一軒のバーに拾われた。
ママと呼ばれる女は、鋭い目つきの奥に、深い布団のようなぬくもりを隠していた。
背の高い麻衣子は、どこか弱さの影をのぞかせるせいか、自然と客に好かれた。
カウンターに立つと、故郷に残る癒えない記憶は一時だけゆるみ、ここなら息ができると感じた。
近畿訛りがうすれてきた頃、ひとりの客が扉を押し開けた。
横浜の探偵を名乗る男──兄貴だった。
軽い笑みの奥には、街の底に沈む痛みを嗅ぎ分けてきた者の勘がひそんでいた。
兄貴はいつしか麻衣子を「まいまい」と呼び、麻衣子も自然にそう呼ぶようになった。
「まいまい、タバコある?」
「セッターならありますよ」
横からママが口をはさむ。
「男は黙ってセブンスターよ」
「ママー、マイセンも置いてくれって」
「私のでよければ、お使いください。帰りに買って帰りますから」
「まいまい、助かるよ」
「いえ。ほんのことです」
そんな小さな往復が重なり、横浜という街のあたたかさが、ゆっくりと麻衣子の肌になじんでいった。
やがて兄貴の声に、うすい疲れの影がさしはじめた頃、ぽつりと頼みごとが落ちてきた。
「まいまい、今度、ちょっとだけ手伝ってほしいんだよ」
「どうしたんです?」
「ワンちゃんがいなくなっちゃってさ」
「ワンちゃん探しですね。もちろん、お手伝いします」
それが麻衣子にとって、最初の探偵助手としての仕事となった。
年月が流れ、街には危険ドラッグの匂いが満ち、クラブの空気は濁流のように重くなっていった。
政治家からの依頼で、娘がその渦に巻きこまれたという。
兄貴は「女でなければ踏みこめない場所」があると判断し、ママの了承を得たうえで、麻衣子に声をかけた。
クラブの入口からは、体の裏側まで震わせる重低音が漏れ、熱気はほとんど狂気に近かった。
売人の視線を追っていた時、娘を見つけた瞬間、胸がぎゅっとつまった。
その手首は紙細工のように軽く、触れれば折れそうだった。
売人を追うか娘を救うか──迷いはなかった。
麻衣子は娘を抱えるように外へ出し、兄貴の腕がすぐにそれを受けとめた。
その夜、麻衣子の胸の底で、静かな答えが形を取った。
──沈む声を拾い上げる側の人間になりたい。
逃げるためだけに歩いてきた人生で、初めて自ら選んだ道だった。
兄貴の事務所とバーを行き来する日々が続いたある晩、兄貴は火の残ったタバコを灰皿で押しつぶしながら言った。
「この世界はな、女ってだけで敵が増える。
続けるつもりなら、名前を変えたほうがいい。
マイクって名をやるよ。俺のだ。使え」
軽い調子の口ぶりだったが、その瞳は底まで澄んでいた。
街で生き抜くための鎧を、自分の名前ごと差し出すようだった。
麻衣子の胸に、走るような熱がこみ上げた。
「兄貴。お願いします。んまにありがとうございます」
名の変更を進める最中、父が母と刺し違えた──という報せが届く。
宗教の影は最後まで父を離さなかった。
兄貴は言葉を少なくしたまま書類を確認し、必要な段取りを整え、麻衣子が崩れないよう静かに寄りそった。
こうして萬屋麻衣子は、萬屋マイクという名を得た。
過去を断ち切るための、新しい呼び名だった。
さらに年月が過ぎ、麻衣子は独立し、浦和の片隅に小さな事務所を構えた。
第三の人生は、陰る声に応えるための道だった。
兄貴のそばで過ごした長い時間のせいで、横浜独特の言葉遣いが自然と身につき、男のように振るまうことも増えた。
風貌は次第に男性に近づき、ホルモンバランスの影響か、うっすらと髭まで生えた。
多くの人間の表情を見てきたせいか、心にそっと寄りそえる探偵として歩き続けている。
母の影は消えず、父の手の温度は折にふれて胸の奥で疼く。
けれどそれらは、足を重くする鎖ではなく、逆光となって進む先をそっと照らしていた。
近いうちに横浜へ行くつもりでいる。
兄貴とよく立った高台へ。
鉄のように光る海と、遠くでゆれる街あかりが見えた、あの場所へ。
伝えるべき報告がいくつかあり、そして言葉では足りない感謝があった。
いまも現実には、行き場を失った声がひそやかに漂っている。
名を変え、街を変えても、その声へ向かって歩くかぎり、マイクの道は途切れない。
今日も麻衣子は、マイクとして歩く。
父が最後に残した掌の温度と、兄貴の背中の輪郭を胸の底にしまいながら。
──宵のどこかで、救いを待つ声のほうへ。
その明るみは、過ぎた日々の残り音を抱えたまま、静かに脈を打つように広がり、寄せては返す波の奥で、ひとりの女の来し方を淡く映していた。
その女が、麻衣子だった。
和歌山で育った家は、いつしか宗教の渦へと呑み込まれはじめていた。
母は信仰に身を沈め、家の中の小さな物音さえ、季節の匂いとともに薄れていった。
恋愛の末に婿として入った父が、母の変わりようの理由を知ったのは、ずっと後になってからだった。
娘を宗教の幹部に差し出す話が、水面の下で動いていると耳にしたのは、闇がもっとも深く沈む晩のことだった。
蛍光灯がゆらぐ台所で、父はふるえる指で、小さな封筒を麻衣子の手のひらへ押しこんだ。
封筒は汗を吸い、紙の繊維がしっとりとやわらかくなっていた。
「逃げなさい。ここはもう駄目や。
麻衣子、おまえだけは、生きなあかん」
その声には、父の積み上げてきたすべての時間が内包されていた。
家を抜けるための、最後の細い綱だった。
弱いながらも、その光はたしかに闇を裂いていた。
そこからの日々は、逃げ道を探すより先に涙が枯れ、体の芯が空洞になっていくような時間が続いた。
それでも横浜の海風は、頬にそっと触れ、ようやく辿りついた終着点の存在を知らせてくれた。
住む場所も働き口もないまま、夜のふちを歩き続けていたある日、麻衣子は一軒のバーに拾われた。
ママと呼ばれる女は、鋭い目つきの奥に、深い布団のようなぬくもりを隠していた。
背の高い麻衣子は、どこか弱さの影をのぞかせるせいか、自然と客に好かれた。
カウンターに立つと、故郷に残る癒えない記憶は一時だけゆるみ、ここなら息ができると感じた。
近畿訛りがうすれてきた頃、ひとりの客が扉を押し開けた。
横浜の探偵を名乗る男──兄貴だった。
軽い笑みの奥には、街の底に沈む痛みを嗅ぎ分けてきた者の勘がひそんでいた。
兄貴はいつしか麻衣子を「まいまい」と呼び、麻衣子も自然にそう呼ぶようになった。
「まいまい、タバコある?」
「セッターならありますよ」
横からママが口をはさむ。
「男は黙ってセブンスターよ」
「ママー、マイセンも置いてくれって」
「私のでよければ、お使いください。帰りに買って帰りますから」
「まいまい、助かるよ」
「いえ。ほんのことです」
そんな小さな往復が重なり、横浜という街のあたたかさが、ゆっくりと麻衣子の肌になじんでいった。
やがて兄貴の声に、うすい疲れの影がさしはじめた頃、ぽつりと頼みごとが落ちてきた。
「まいまい、今度、ちょっとだけ手伝ってほしいんだよ」
「どうしたんです?」
「ワンちゃんがいなくなっちゃってさ」
「ワンちゃん探しですね。もちろん、お手伝いします」
それが麻衣子にとって、最初の探偵助手としての仕事となった。
年月が流れ、街には危険ドラッグの匂いが満ち、クラブの空気は濁流のように重くなっていった。
政治家からの依頼で、娘がその渦に巻きこまれたという。
兄貴は「女でなければ踏みこめない場所」があると判断し、ママの了承を得たうえで、麻衣子に声をかけた。
クラブの入口からは、体の裏側まで震わせる重低音が漏れ、熱気はほとんど狂気に近かった。
売人の視線を追っていた時、娘を見つけた瞬間、胸がぎゅっとつまった。
その手首は紙細工のように軽く、触れれば折れそうだった。
売人を追うか娘を救うか──迷いはなかった。
麻衣子は娘を抱えるように外へ出し、兄貴の腕がすぐにそれを受けとめた。
その夜、麻衣子の胸の底で、静かな答えが形を取った。
──沈む声を拾い上げる側の人間になりたい。
逃げるためだけに歩いてきた人生で、初めて自ら選んだ道だった。
兄貴の事務所とバーを行き来する日々が続いたある晩、兄貴は火の残ったタバコを灰皿で押しつぶしながら言った。
「この世界はな、女ってだけで敵が増える。
続けるつもりなら、名前を変えたほうがいい。
マイクって名をやるよ。俺のだ。使え」
軽い調子の口ぶりだったが、その瞳は底まで澄んでいた。
街で生き抜くための鎧を、自分の名前ごと差し出すようだった。
麻衣子の胸に、走るような熱がこみ上げた。
「兄貴。お願いします。んまにありがとうございます」
名の変更を進める最中、父が母と刺し違えた──という報せが届く。
宗教の影は最後まで父を離さなかった。
兄貴は言葉を少なくしたまま書類を確認し、必要な段取りを整え、麻衣子が崩れないよう静かに寄りそった。
こうして萬屋麻衣子は、萬屋マイクという名を得た。
過去を断ち切るための、新しい呼び名だった。
さらに年月が過ぎ、麻衣子は独立し、浦和の片隅に小さな事務所を構えた。
第三の人生は、陰る声に応えるための道だった。
兄貴のそばで過ごした長い時間のせいで、横浜独特の言葉遣いが自然と身につき、男のように振るまうことも増えた。
風貌は次第に男性に近づき、ホルモンバランスの影響か、うっすらと髭まで生えた。
多くの人間の表情を見てきたせいか、心にそっと寄りそえる探偵として歩き続けている。
母の影は消えず、父の手の温度は折にふれて胸の奥で疼く。
けれどそれらは、足を重くする鎖ではなく、逆光となって進む先をそっと照らしていた。
近いうちに横浜へ行くつもりでいる。
兄貴とよく立った高台へ。
鉄のように光る海と、遠くでゆれる街あかりが見えた、あの場所へ。
伝えるべき報告がいくつかあり、そして言葉では足りない感謝があった。
いまも現実には、行き場を失った声がひそやかに漂っている。
名を変え、街を変えても、その声へ向かって歩くかぎり、マイクの道は途切れない。
今日も麻衣子は、マイクとして歩く。
父が最後に残した掌の温度と、兄貴の背中の輪郭を胸の底にしまいながら。
──宵のどこかで、救いを待つ声のほうへ。
