相談にやって来たのは、菜名だった。
ジョギングの途中、家の近くのアパートで、泥酔した女性が男に肩を抱えられ、夜気の奥へと連れて行かれるのを見たという。しかも、それが三度目だった。
“身内を介抱している”ような落ち着いた気配は、どこにもなかった。
警察には通報したが、その後の連絡はなく、曖昧な不安だけが菜名の胸の底に滞った。
俺はアパートの前で張り込むことにした。
数日後。
昨夜運び込まれた女性が、自分の足を頼りにふらつきながら姿を見せた。
俺はその後ろ姿を追った。
肩のあたりまであらわな薄手のトップス。胸元はみぞおち近くまで緩やかに開き、ゆるく巻いた髪が、街に照らされて鈍い色を帯びていた。
“見られる”という行為が、呼吸の奥に静かに染みているようで、その歩みはどこか不安定だった。
男たちの視線が、行き場を探すように寄ってくる。
淡いピンクを含んだ吐息がこぼれるたび、まわりの空気がかすかにぐらつく。
アーケードを抜ける風には、甘い香水が淡く混じっていた。
俺の奥に沈みかけていた腹の虫が、ゆっくり輪郭を取り戻し始めた。
「萬屋マイク、たんて……」
「今日は、そういう気分じゃないのでぇ……」
「ナンパじゃねぇよ」
「なんですか?」
俺は身分を明かし、この女性を守ると胸の内でひそかに決めた。
女性は涼子と名乗った。
立ち止まったわずかな時間のあいだに、涼子の方から半ば依頼のように言葉がこぼれた。
「実は……困っているんですぅ。元カレに粘着されていて……いつも飲みに誘われて、いつの間にか記憶がなくなって、気がつくと朝なんですぅ」
「朝わぁ、頭痛薬をくれてぇ、機嫌よく送り出してくれるんですぅ」
俺がまぶたを細めたのは、その言葉の選び方と、薄く貼りついた笑みのせいだった。
「だって、しょうがなくないですか? 私、転勤が多くて、友だちも恋人もすぐ離れてしまうんです。だから来る人には、とりあえず優しくしてあげたいんですよー」
俺は静かに問い返した。
「それで、あんたは幸せなのか」
涼子の胸の奥で、焦りと空虚が同時に沈んだ。
「幸せじゃないんです。でもぉ、本気で愛されて、守られて、絶対幸せになりたいんです! ほんとですよ!」
その願いを遠ざけているのは、他の誰でもなかった。
涼子自身の“世界の捉え方”だった。
欲望に自ら歯止めをかけられず、分別の前に心が流されてしまう。
その揺らぎが、幸福の輪郭を曇らせていた。
「あの商店街まで戻ろう。俺の事務所がある」
「いってもいいんですかぁー」
「おまえ、そのしゃべり方、どうにかならんのかな。俺までうつった気がする」
事務所では、温い珈琲を前に、涼子の話に耳を傾けた。
転勤のたび新しい恋人ができるが、長続きせず、やがて捨てられる。
それでも元カレは、都合の良い時だけ寄ってくる。
嫌がりながらも慣れ、気持ちに歯止めをかける術を失っていた。
毎日“勝負下着”をつける。
男の目線に合わせたワンピースか、ひらひらしたミニスカート。
飲み会では、お持ち帰りの常連候補。
会社では、茶を差し出す際、視線の角度を工夫していた。
マッサージに行けば店員に言い寄られ、細かなトラブルが続いた。
男を惹きつける力と、涼子の幸せは、まったく別の方向を歩いていた。
一年中、惚れた腫れたの天気予報に心が揉まれる。
ゼロか百か。いるかいないか。
涼子の気分は、いつも嵐の手前だった。
そこで俺は静かに言葉を置いた。
「見てみなよ。満員電車でリュックを背負う女の子も、医療や介護、保育の現場の人たちも、肌を出さずに身を守ってる。飲食店もスーパーも、電気屋でもそうだ。もちろんプライベートでもな。
色気を消すんじゃない。悪意から身を守るためだ。“わたしを軽く見ないで”っていう、静かな意思なんだ」
涼子の眉がきゅっと上がった。
「それってぇ……私に“地味になれ”って言うんですかぁ? なんで女に生まれたのに、好きな服を着て、好きに話してぇ、何が悪いんですか?」
「そりゃ自由だ。誰も責めちゃいねぇ。ただ、“それで寄ってくる男”があんたを幸せにするとは限らねぇ。ゴキブリホイホイに寄ってくる害男だろうが」
俺は静かに続けた。
「いまの自分の“場所”だけ考えりゃいい。肌を多く出す格好は、どうしてもトラブルを招く。装えば装うほど、本当に選ばれたい相手から遠ざかってる気がしないか」
涼子の顔がわずかに歪んだ。怒りと羞恥と不安が、一つの色になって浮かんだ。
「おまえ、痴漢に遭うか」
「そんなのー、しょっちゅうですよ」
「付き合った男は?」
「数えたことないですー」
「一年以上続いた相手は?」
「……もう! なんなんですか、マイクさん!」
震える声は、泣き出す寸前だった。
「家まで送るから、鍵を閉めて寝とけ」
「ふんっ」
涼子を送り届けたあと、俺は例のアパートに向かった。
無事ではすまなかった。
三人組の男たちと揉め、殴られ、蹴られ、説得も届かなかった。
だが食らいついた。
住人の通報で警察が駆けつけ、三人は逮捕された。
男たちのスマホには複数の証拠が残され、
あの部屋には涼子だけでなく、何人もの被害者がいたことが判明した。
夜の底に沈みかけていた声が、ようやくすくわれた。
病院を出ると、菜名が迎えに来てくれた。
「マイクさん、お金にならないのに良く頑張りますね」
「カネの問題じゃねーの」
涼子とは事件の関係で電話連絡を取っていた。
俺の包帯が取れた頃、涼子がフルーツを抱えて事務所に現れた。
少し痩せ、声には柔らかな遠慮が宿っていた。
「マイクさん、ありがとうございました」
「……あの時はムカついたけど、多分あの“例え”が一番残ってたんです。思い出すたび腹立ったけど……“ほんとは違う”って言い切れなかった」
俺はうなずいた。
「怒ってくれた分、届いたんだな。それが目覚めの入り口だ」
「しかし大変だったな。体調はどうだ」
しばらく静かな間があった。
涼子はそっとまぶたを伏せ、言った。
「はい。……私、自分を大事にしてなかった気がします。“モテること”と“愛されること”って、違うんですね。ずっと誰かに見られていたいって思ってたけど、
本当わぁ……安心して“見られずにいられる”時間が欲しかったのかもしれません」
その声は、ようやく地に足がついていた。
俺は開いた胸元を、可愛いブローチで留めた。
「時々、遊びにきてもいいですか?」
「その前に、まずそのしゃべり方をなんとかしてくれー。マイクちゃんも困っちゃいまつー」
「そういや、あそこ、桜の咲くところ……」
「桜ヶ丘ですか?」
「そうだ」
俺はたまにボランティアで福祉施設に行っている。
涼子を連れて行ってみることにした。
乾燥室でタオルを畳んだり、掃除をしたりしながら、少しでも涼子の世界観が広がるようにと願った。
むろんお爺ちゃんたちにはすぐ人気になった。
ピンクのレンズを外すのは、ほんの少し寂しいかもしれない。
だが外した先で、ようやく本当に自分を見てくれる人に出会える。
季節が変わる頃、事務所の扉が静かに開き、涼子が姿を見せた。
髪は肩より上で軽やかに整えられ、シャキッとしたワイドパンツの裾が静かな色を落としていた。
ピンク色の膜は、もうそこにはなかった。
けれど、それが消えたことを、誰も大げさに騒ぎはしない。
今回のごたごたは、ただ静かに、変わり目として過ぎていった。
俺は涼子の“世界の見え方”を、すこしだけ良い方へ導けただろうか。
浦和の夜風は、わずかに肌寒い。
その下で今日も誰かが、自分の足でしゅくしゅくと歩き始めている。
甘く霞んだ世界に、静かに輪郭が戻りつつあった。
その変化はいつだって、小さな音しかしない。
ジョギングの途中、家の近くのアパートで、泥酔した女性が男に肩を抱えられ、夜気の奥へと連れて行かれるのを見たという。しかも、それが三度目だった。
“身内を介抱している”ような落ち着いた気配は、どこにもなかった。
警察には通報したが、その後の連絡はなく、曖昧な不安だけが菜名の胸の底に滞った。
俺はアパートの前で張り込むことにした。
数日後。
昨夜運び込まれた女性が、自分の足を頼りにふらつきながら姿を見せた。
俺はその後ろ姿を追った。
肩のあたりまであらわな薄手のトップス。胸元はみぞおち近くまで緩やかに開き、ゆるく巻いた髪が、街に照らされて鈍い色を帯びていた。
“見られる”という行為が、呼吸の奥に静かに染みているようで、その歩みはどこか不安定だった。
男たちの視線が、行き場を探すように寄ってくる。
淡いピンクを含んだ吐息がこぼれるたび、まわりの空気がかすかにぐらつく。
アーケードを抜ける風には、甘い香水が淡く混じっていた。
俺の奥に沈みかけていた腹の虫が、ゆっくり輪郭を取り戻し始めた。
「萬屋マイク、たんて……」
「今日は、そういう気分じゃないのでぇ……」
「ナンパじゃねぇよ」
「なんですか?」
俺は身分を明かし、この女性を守ると胸の内でひそかに決めた。
女性は涼子と名乗った。
立ち止まったわずかな時間のあいだに、涼子の方から半ば依頼のように言葉がこぼれた。
「実は……困っているんですぅ。元カレに粘着されていて……いつも飲みに誘われて、いつの間にか記憶がなくなって、気がつくと朝なんですぅ」
「朝わぁ、頭痛薬をくれてぇ、機嫌よく送り出してくれるんですぅ」
俺がまぶたを細めたのは、その言葉の選び方と、薄く貼りついた笑みのせいだった。
「だって、しょうがなくないですか? 私、転勤が多くて、友だちも恋人もすぐ離れてしまうんです。だから来る人には、とりあえず優しくしてあげたいんですよー」
俺は静かに問い返した。
「それで、あんたは幸せなのか」
涼子の胸の奥で、焦りと空虚が同時に沈んだ。
「幸せじゃないんです。でもぉ、本気で愛されて、守られて、絶対幸せになりたいんです! ほんとですよ!」
その願いを遠ざけているのは、他の誰でもなかった。
涼子自身の“世界の捉え方”だった。
欲望に自ら歯止めをかけられず、分別の前に心が流されてしまう。
その揺らぎが、幸福の輪郭を曇らせていた。
「あの商店街まで戻ろう。俺の事務所がある」
「いってもいいんですかぁー」
「おまえ、そのしゃべり方、どうにかならんのかな。俺までうつった気がする」
事務所では、温い珈琲を前に、涼子の話に耳を傾けた。
転勤のたび新しい恋人ができるが、長続きせず、やがて捨てられる。
それでも元カレは、都合の良い時だけ寄ってくる。
嫌がりながらも慣れ、気持ちに歯止めをかける術を失っていた。
毎日“勝負下着”をつける。
男の目線に合わせたワンピースか、ひらひらしたミニスカート。
飲み会では、お持ち帰りの常連候補。
会社では、茶を差し出す際、視線の角度を工夫していた。
マッサージに行けば店員に言い寄られ、細かなトラブルが続いた。
男を惹きつける力と、涼子の幸せは、まったく別の方向を歩いていた。
一年中、惚れた腫れたの天気予報に心が揉まれる。
ゼロか百か。いるかいないか。
涼子の気分は、いつも嵐の手前だった。
そこで俺は静かに言葉を置いた。
「見てみなよ。満員電車でリュックを背負う女の子も、医療や介護、保育の現場の人たちも、肌を出さずに身を守ってる。飲食店もスーパーも、電気屋でもそうだ。もちろんプライベートでもな。
色気を消すんじゃない。悪意から身を守るためだ。“わたしを軽く見ないで”っていう、静かな意思なんだ」
涼子の眉がきゅっと上がった。
「それってぇ……私に“地味になれ”って言うんですかぁ? なんで女に生まれたのに、好きな服を着て、好きに話してぇ、何が悪いんですか?」
「そりゃ自由だ。誰も責めちゃいねぇ。ただ、“それで寄ってくる男”があんたを幸せにするとは限らねぇ。ゴキブリホイホイに寄ってくる害男だろうが」
俺は静かに続けた。
「いまの自分の“場所”だけ考えりゃいい。肌を多く出す格好は、どうしてもトラブルを招く。装えば装うほど、本当に選ばれたい相手から遠ざかってる気がしないか」
涼子の顔がわずかに歪んだ。怒りと羞恥と不安が、一つの色になって浮かんだ。
「おまえ、痴漢に遭うか」
「そんなのー、しょっちゅうですよ」
「付き合った男は?」
「数えたことないですー」
「一年以上続いた相手は?」
「……もう! なんなんですか、マイクさん!」
震える声は、泣き出す寸前だった。
「家まで送るから、鍵を閉めて寝とけ」
「ふんっ」
涼子を送り届けたあと、俺は例のアパートに向かった。
無事ではすまなかった。
三人組の男たちと揉め、殴られ、蹴られ、説得も届かなかった。
だが食らいついた。
住人の通報で警察が駆けつけ、三人は逮捕された。
男たちのスマホには複数の証拠が残され、
あの部屋には涼子だけでなく、何人もの被害者がいたことが判明した。
夜の底に沈みかけていた声が、ようやくすくわれた。
病院を出ると、菜名が迎えに来てくれた。
「マイクさん、お金にならないのに良く頑張りますね」
「カネの問題じゃねーの」
涼子とは事件の関係で電話連絡を取っていた。
俺の包帯が取れた頃、涼子がフルーツを抱えて事務所に現れた。
少し痩せ、声には柔らかな遠慮が宿っていた。
「マイクさん、ありがとうございました」
「……あの時はムカついたけど、多分あの“例え”が一番残ってたんです。思い出すたび腹立ったけど……“ほんとは違う”って言い切れなかった」
俺はうなずいた。
「怒ってくれた分、届いたんだな。それが目覚めの入り口だ」
「しかし大変だったな。体調はどうだ」
しばらく静かな間があった。
涼子はそっとまぶたを伏せ、言った。
「はい。……私、自分を大事にしてなかった気がします。“モテること”と“愛されること”って、違うんですね。ずっと誰かに見られていたいって思ってたけど、
本当わぁ……安心して“見られずにいられる”時間が欲しかったのかもしれません」
その声は、ようやく地に足がついていた。
俺は開いた胸元を、可愛いブローチで留めた。
「時々、遊びにきてもいいですか?」
「その前に、まずそのしゃべり方をなんとかしてくれー。マイクちゃんも困っちゃいまつー」
「そういや、あそこ、桜の咲くところ……」
「桜ヶ丘ですか?」
「そうだ」
俺はたまにボランティアで福祉施設に行っている。
涼子を連れて行ってみることにした。
乾燥室でタオルを畳んだり、掃除をしたりしながら、少しでも涼子の世界観が広がるようにと願った。
むろんお爺ちゃんたちにはすぐ人気になった。
ピンクのレンズを外すのは、ほんの少し寂しいかもしれない。
だが外した先で、ようやく本当に自分を見てくれる人に出会える。
季節が変わる頃、事務所の扉が静かに開き、涼子が姿を見せた。
髪は肩より上で軽やかに整えられ、シャキッとしたワイドパンツの裾が静かな色を落としていた。
ピンク色の膜は、もうそこにはなかった。
けれど、それが消えたことを、誰も大げさに騒ぎはしない。
今回のごたごたは、ただ静かに、変わり目として過ぎていった。
俺は涼子の“世界の見え方”を、すこしだけ良い方へ導けただろうか。
浦和の夜風は、わずかに肌寒い。
その下で今日も誰かが、自分の足でしゅくしゅくと歩き始めている。
甘く霞んだ世界に、静かに輪郭が戻りつつあった。
その変化はいつだって、小さな音しかしない。
