この学校、私立景星学園は汚れに満ちている。汚れには純粋な世間一般でいう汚れや、マイナスな感情まで、さまざまな種類がある。
それが怪異なら別に構わない。裏生徒会が対処するだろうし、箒でぶっ叩けば祓えるから。
この世の中いちばん怖いのはホコリだ。誇りではない、埃だ。
埃というものは厄介でぶっ叩いたらむしろ舞うばかり。丁寧に床を撫でるように箒で掃くことが掃除のコツ。
この掃除を最大の趣味としている、学校の変わり者。それこそこの私、九十九彩夏。いや、変わり者とはいえ、周りから言われているだけで私自身はただの潔癖症。
要するに、自分自身が「変わった人」であるとは口では言いつつも全く思ってない。
まぁさっきも言った通り。怪異よりも怖いのは埃だ。
これだけ聞いてもよくわからないし、単に思考回路がおかしいと思うだけかもしれない。
そもそも怪異が視えない人にとっては「怪異がどうのこうの」と言っている時点で頭のおかしい人になるだろう。そんなレッテルを貼られるのは非常に不本意だ。
なにより、理解できないにしても、私の持論くらい聞いてほしいものだ。
別に、聞き流してもらっても構わない、ただ聞きたい人もいるかもしれないから詳しく言おう。
怪異は箒でぶっ叩くだけで簡単に取り除ける汚れ。埃はぶっ叩いたら舞うから簡単には取り除けないタチの悪い汚れ。
こんな違いがある。どっちの方が苦手になるかは一目瞭然だろう。
そんな私にも最近厄介に思う怪異がいる。
私が怪異を厄介だと思うのはかなり珍しい。自分で多少贔屓目に見ていたとしても、だ。
それは同級生の朝影怜という男子生徒……に取り憑いてる幽霊共だ。
別に朝影本人はどうでも良い。なんか妙に私のことを見てはいるけど本人自体に害はない。無害という言葉がお似合いのペラペラ健気男だ。ここまでは妙に情報通な同級生が教えてくれた。
いや、言わせたという方が正しいのだけど。そんなことはさして重要でもない、置いておこう。
問題はその幽霊が、なぜか私に嫌がらせをするみたく学校を汚してくること。
いや、相手に嫌がらせの意思がなかったとしても、私にとっては十分嫌がらせといえるものだ。
例えば今日の例を出そう。
あの最悪な、思い出すだけでも吐き気を催す事件を。
それはその日の朝のことだった。
教室に入ろうと扉に近づいた時、ツンと鼻につく異臭がした。腐敗臭のような匂いだろうか。でも、ただの腐敗臭ではない。湿気と、何日も放置されたことによる独特の酸っぱさを感じる匂いだった。
呼吸を止めても喉の奥にへばりつくその匂いがすごく不愉快だ。
立て付けの悪い扉を力づくで開ける。ガタガタと扉を数回開こうとし、やっと開いた。
開けた視界に映ったのはところどころ青緑色が見える。つまり腐った生ゴミだった。
青のりみたいなカビの粉が吹いたその生ゴミの山。同じように青く粉を吹いたものとは天と地ほどの差。
気色悪い。
通りで異臭を放つわけだ。これ何日放置したらこうなるわけ?
他の教室も見てみたけれど、置いてあるのはうちのクラスだけ。
嘲笑を浮かべて見下してくる幽霊はどうせ本体じゃなくておそらく分身だからまともに祓いようもない。
要するに、迷惑行為の多い幽霊だ。
まぁ、そんなこと私には関係ない。
私は即座にビニール手袋を二重にし、常に常備しているマスクの上からさらに高密度の医療用マスクを重ねた。こんなカビの胞子の舞う場所で、深呼吸など論外。いや、自殺行為に等しい。
この汚れを人が来るまでに掃除するのにどれだけの労力が必要か。どうやら頭の足りない幽霊らしい。この教室は朝影も使うのに。
幽霊に呆れながら愛用の箒を握った。今日は裏山で掃き掃除でもしようと思っていたけれど予定変更だ。この教室を掃除する。
箒の柄を握る手に力がこもった。
カツン、と床を蹴る音がする。足音。誰のかはおおかた予想がつくでしょう。
「九十九さん、お久しぶりですね。なぜここに、という質問は無粋ですかね」
「辻宮会長。お久しぶりです」
我が校の生徒会会長兼裏生徒会会長の辻宮椎奈。黒髪に吊り目をした美人会長だ。
裏生徒会は、比較的理解のある人だから良いけれど。面倒ごとを持ってきやがって。幽霊どもの理解力の無さに呆れる。
「会長はなぜこんなところに?」
そう問いかけると、苦笑いを浮かべて会長は口を開いた。
「異臭騒ぎがあったと報告を受けまして。今こっちはこっちで、旧校舎の歪みの対処で忙しいのですが」
疲労の溜まった顔でそう言う会長に少し同情する。本当に災難な人だ。
「旧校舎の歪みですか?面倒ですね。お疲れ様です。」
「ええ、ちなみに九十九さん、あなたも私の疲労を増やす対象ですからね?」
「そうなんですか?申し訳ないですが、私は掃除を止める気はありませんので」
「まぁそういうことでしたら、ここは私の方でなんとかしますよ。幽霊が関わってるみたいですが。私はそこのところ全くわからないですね」
「そうですか、一応情報提供をしておきますが。貴方のクラスメイト朝影君が関わってるところまでは判明してるんですが。急にイタズラを始めたことについてはさっぱり」
「私の方でも少し調べてみます。このまま学校が汚れるんじゃ困るので」
「お願いしてもよろしいですか?」
「構いません」
「ああ、そうだ。ついでですが。その幽霊方は朝影さんに常に憑いてるようなので物理攻撃はよしたほうがいいと思いますよ」
「私としても問題を起こされるのは困りますし」
その言葉を聞いて、体が固まった。物理攻撃をすること、それが意味するのは「叩いた際に血が出るかもしれない」と最も忌むべき状態が起こりうる可能性が示唆されたこと。
それは最悪の事態だった。
それだけは避けなければならない。その時だった、チャイム音が鳴った。これは登校時間を知らせるチャイム。
もういつ人が来てもおかしくない。
私は深く息を吸い込み――いや、吸い込めない。カビの胞子と、幽霊のねっとりとした怨念に満たされた教室で、私は愛用の箒を再び床に突き立てた。
「終わらせる」
始業までに。
カビの生えた食品に恐る恐る手を伸ばす。
その時、ガラガラという音が鳴った。
戸口を見るとそこにいたのは噂の朝影怜だった。
私の目はキラキラと輝いた。
「ちょうど良いわ、朝影。あんたこの生ゴミたち袋にまとめてゴミ捨て場に捨ててきてくれない?」
「なんで僕!?」
「私あのゴミを素手で触れたくないの。間が悪かったわね。あなたがゴミを持っていってくれたらその間に残りの掃除は私がするわ」
その言葉に戸惑いを隠せない朝影だが、まぁなんとか納得してくれたらしい。
渡した手袋を手に取って恐る恐る生ゴミを拾う。
その時だった、
「許さない、赦さない」
なんてくだらない声が聞こえてくる。
うるっさいなぁ。こっちは掃除中だっつうの!
朝影にはどうやら聞こえていないらしいその声は、幽霊の言葉だろう。
イラつきで箒を握る手に力がこもった。
私の潔癖症は遺伝だ。自分の本体である旅館が汚れるのを嫌った先祖の付喪神。
うちの一族にはそれ以来大抵1人はいつでも潔癖症がいる。
私は先祖の気持ちがよくわかる。自分のテリトリーを汚されるのは癪に障る。
これを綺麗にするまで私は終われない。
今すぐ幽霊を殴りたい衝動を必死に抑える。
視線をゴミを拾い終えて立ち尽くす朝影に向ける。
「めんどくさいわねぇ!朝影、あんたさっさとそのゴミ捨ててきて!」
「えぇ!?」
「良いから早く!」
「え、うん、わかった?」
その返事を聞いてすぐに走り出していく朝影を横目に私は消毒用エタノールを雑巾に大量に染み込ませ、床を全力で拭き始めた。
当時の私はおそらく、ハイにでもなってたんだろう。
朝影がゴミ捨て場から帰ってくるまでに教室中を吹き終わっていた。
このあと本当は乾拭きをなくてはいけない。
別の雑巾を取ろうと廊下に出たところで、朝影が見えた。
「ねぇ、朝影」
「なに?九十九さん」
私の呼びかけにそう応じる。
「あんたはさ、自分が幽霊に取り憑かれてる自覚はある?」
「まぁ、一応」
「なら話は早いわ」
「あんたに憑いてる幽霊全部私が祓ってあげる」
「その代わり、私の掃除手伝ってくれない?」
「え?えええええ!?」
「やかましい!」
と、これが今日の朝に起こった出来事の一連の流れだ。
「朝影、今から時間ある?」
昼休みの始め、私は朝影に声をかけた。
「え、うん。」
「ならいいわ、行きましょ」
「なんで?」
「なにって、作戦会議に決まってるでしょ」
いまだ戸惑う朝影の手を掴んで立ち上がった。
力一杯引っ張って、私は朝影を教室から教室から連れ出した。
それが怪異なら別に構わない。裏生徒会が対処するだろうし、箒でぶっ叩けば祓えるから。
この世の中いちばん怖いのはホコリだ。誇りではない、埃だ。
埃というものは厄介でぶっ叩いたらむしろ舞うばかり。丁寧に床を撫でるように箒で掃くことが掃除のコツ。
この掃除を最大の趣味としている、学校の変わり者。それこそこの私、九十九彩夏。いや、変わり者とはいえ、周りから言われているだけで私自身はただの潔癖症。
要するに、自分自身が「変わった人」であるとは口では言いつつも全く思ってない。
まぁさっきも言った通り。怪異よりも怖いのは埃だ。
これだけ聞いてもよくわからないし、単に思考回路がおかしいと思うだけかもしれない。
そもそも怪異が視えない人にとっては「怪異がどうのこうの」と言っている時点で頭のおかしい人になるだろう。そんなレッテルを貼られるのは非常に不本意だ。
なにより、理解できないにしても、私の持論くらい聞いてほしいものだ。
別に、聞き流してもらっても構わない、ただ聞きたい人もいるかもしれないから詳しく言おう。
怪異は箒でぶっ叩くだけで簡単に取り除ける汚れ。埃はぶっ叩いたら舞うから簡単には取り除けないタチの悪い汚れ。
こんな違いがある。どっちの方が苦手になるかは一目瞭然だろう。
そんな私にも最近厄介に思う怪異がいる。
私が怪異を厄介だと思うのはかなり珍しい。自分で多少贔屓目に見ていたとしても、だ。
それは同級生の朝影怜という男子生徒……に取り憑いてる幽霊共だ。
別に朝影本人はどうでも良い。なんか妙に私のことを見てはいるけど本人自体に害はない。無害という言葉がお似合いのペラペラ健気男だ。ここまでは妙に情報通な同級生が教えてくれた。
いや、言わせたという方が正しいのだけど。そんなことはさして重要でもない、置いておこう。
問題はその幽霊が、なぜか私に嫌がらせをするみたく学校を汚してくること。
いや、相手に嫌がらせの意思がなかったとしても、私にとっては十分嫌がらせといえるものだ。
例えば今日の例を出そう。
あの最悪な、思い出すだけでも吐き気を催す事件を。
それはその日の朝のことだった。
教室に入ろうと扉に近づいた時、ツンと鼻につく異臭がした。腐敗臭のような匂いだろうか。でも、ただの腐敗臭ではない。湿気と、何日も放置されたことによる独特の酸っぱさを感じる匂いだった。
呼吸を止めても喉の奥にへばりつくその匂いがすごく不愉快だ。
立て付けの悪い扉を力づくで開ける。ガタガタと扉を数回開こうとし、やっと開いた。
開けた視界に映ったのはところどころ青緑色が見える。つまり腐った生ゴミだった。
青のりみたいなカビの粉が吹いたその生ゴミの山。同じように青く粉を吹いたものとは天と地ほどの差。
気色悪い。
通りで異臭を放つわけだ。これ何日放置したらこうなるわけ?
他の教室も見てみたけれど、置いてあるのはうちのクラスだけ。
嘲笑を浮かべて見下してくる幽霊はどうせ本体じゃなくておそらく分身だからまともに祓いようもない。
要するに、迷惑行為の多い幽霊だ。
まぁ、そんなこと私には関係ない。
私は即座にビニール手袋を二重にし、常に常備しているマスクの上からさらに高密度の医療用マスクを重ねた。こんなカビの胞子の舞う場所で、深呼吸など論外。いや、自殺行為に等しい。
この汚れを人が来るまでに掃除するのにどれだけの労力が必要か。どうやら頭の足りない幽霊らしい。この教室は朝影も使うのに。
幽霊に呆れながら愛用の箒を握った。今日は裏山で掃き掃除でもしようと思っていたけれど予定変更だ。この教室を掃除する。
箒の柄を握る手に力がこもった。
カツン、と床を蹴る音がする。足音。誰のかはおおかた予想がつくでしょう。
「九十九さん、お久しぶりですね。なぜここに、という質問は無粋ですかね」
「辻宮会長。お久しぶりです」
我が校の生徒会会長兼裏生徒会会長の辻宮椎奈。黒髪に吊り目をした美人会長だ。
裏生徒会は、比較的理解のある人だから良いけれど。面倒ごとを持ってきやがって。幽霊どもの理解力の無さに呆れる。
「会長はなぜこんなところに?」
そう問いかけると、苦笑いを浮かべて会長は口を開いた。
「異臭騒ぎがあったと報告を受けまして。今こっちはこっちで、旧校舎の歪みの対処で忙しいのですが」
疲労の溜まった顔でそう言う会長に少し同情する。本当に災難な人だ。
「旧校舎の歪みですか?面倒ですね。お疲れ様です。」
「ええ、ちなみに九十九さん、あなたも私の疲労を増やす対象ですからね?」
「そうなんですか?申し訳ないですが、私は掃除を止める気はありませんので」
「まぁそういうことでしたら、ここは私の方でなんとかしますよ。幽霊が関わってるみたいですが。私はそこのところ全くわからないですね」
「そうですか、一応情報提供をしておきますが。貴方のクラスメイト朝影君が関わってるところまでは判明してるんですが。急にイタズラを始めたことについてはさっぱり」
「私の方でも少し調べてみます。このまま学校が汚れるんじゃ困るので」
「お願いしてもよろしいですか?」
「構いません」
「ああ、そうだ。ついでですが。その幽霊方は朝影さんに常に憑いてるようなので物理攻撃はよしたほうがいいと思いますよ」
「私としても問題を起こされるのは困りますし」
その言葉を聞いて、体が固まった。物理攻撃をすること、それが意味するのは「叩いた際に血が出るかもしれない」と最も忌むべき状態が起こりうる可能性が示唆されたこと。
それは最悪の事態だった。
それだけは避けなければならない。その時だった、チャイム音が鳴った。これは登校時間を知らせるチャイム。
もういつ人が来てもおかしくない。
私は深く息を吸い込み――いや、吸い込めない。カビの胞子と、幽霊のねっとりとした怨念に満たされた教室で、私は愛用の箒を再び床に突き立てた。
「終わらせる」
始業までに。
カビの生えた食品に恐る恐る手を伸ばす。
その時、ガラガラという音が鳴った。
戸口を見るとそこにいたのは噂の朝影怜だった。
私の目はキラキラと輝いた。
「ちょうど良いわ、朝影。あんたこの生ゴミたち袋にまとめてゴミ捨て場に捨ててきてくれない?」
「なんで僕!?」
「私あのゴミを素手で触れたくないの。間が悪かったわね。あなたがゴミを持っていってくれたらその間に残りの掃除は私がするわ」
その言葉に戸惑いを隠せない朝影だが、まぁなんとか納得してくれたらしい。
渡した手袋を手に取って恐る恐る生ゴミを拾う。
その時だった、
「許さない、赦さない」
なんてくだらない声が聞こえてくる。
うるっさいなぁ。こっちは掃除中だっつうの!
朝影にはどうやら聞こえていないらしいその声は、幽霊の言葉だろう。
イラつきで箒を握る手に力がこもった。
私の潔癖症は遺伝だ。自分の本体である旅館が汚れるのを嫌った先祖の付喪神。
うちの一族にはそれ以来大抵1人はいつでも潔癖症がいる。
私は先祖の気持ちがよくわかる。自分のテリトリーを汚されるのは癪に障る。
これを綺麗にするまで私は終われない。
今すぐ幽霊を殴りたい衝動を必死に抑える。
視線をゴミを拾い終えて立ち尽くす朝影に向ける。
「めんどくさいわねぇ!朝影、あんたさっさとそのゴミ捨ててきて!」
「えぇ!?」
「良いから早く!」
「え、うん、わかった?」
その返事を聞いてすぐに走り出していく朝影を横目に私は消毒用エタノールを雑巾に大量に染み込ませ、床を全力で拭き始めた。
当時の私はおそらく、ハイにでもなってたんだろう。
朝影がゴミ捨て場から帰ってくるまでに教室中を吹き終わっていた。
このあと本当は乾拭きをなくてはいけない。
別の雑巾を取ろうと廊下に出たところで、朝影が見えた。
「ねぇ、朝影」
「なに?九十九さん」
私の呼びかけにそう応じる。
「あんたはさ、自分が幽霊に取り憑かれてる自覚はある?」
「まぁ、一応」
「なら話は早いわ」
「あんたに憑いてる幽霊全部私が祓ってあげる」
「その代わり、私の掃除手伝ってくれない?」
「え?えええええ!?」
「やかましい!」
と、これが今日の朝に起こった出来事の一連の流れだ。
「朝影、今から時間ある?」
昼休みの始め、私は朝影に声をかけた。
「え、うん。」
「ならいいわ、行きましょ」
「なんで?」
「なにって、作戦会議に決まってるでしょ」
いまだ戸惑う朝影の手を掴んで立ち上がった。
力一杯引っ張って、私は朝影を教室から教室から連れ出した。

