翌朝の一年B組は、昨日より少し落ち着いた空気に包まれていた。
 席が窓に近い一樹は、カーテン越しの光を浴びながら、
 ノートを机に並べて授業の準備らしきことをしていた。

 左隣の席では──
 吉川実桜が静かに教科書を開いていた。

 右隣で教科書を開く吉川実桜は、
 無駄のない仕草で髪を耳にかけた。
 真っ直ぐ通った横顔と、涼しげな目元。
 その佇まいだけで、自然と“美人”という言葉が浮かぶ。

 澄んだ空気をまとったような綺麗さで、
 どこか近寄りがたい雰囲気があった。


 ただ昨日より少しだけ席に馴染んでいるように見える。

 (……話しかけづらい)

 一樹は自然と視線を逸らした。
 嫌いなわけではない。
 ただ、どことなく“距離を置く”雰囲気がある。

 そこへ佐伯が教壇に立った。

 「よーし、じゃあ今日から本格的に始めるか。
  最初は恒例の、軽く自己紹介大会」

 「え〜」という声がクラスのあちこちから上がる。
 佐伯は笑いながら手をひらひらと振る。

「重くなくていいからな。
  名前とひと言くらいで十分。
  趣味とかは、あとでじわじわ知っていけばいいんだよ」

 和やかな雰囲気のまま、順番に立っていく。
 やたら張り切る者、緊張で声が震える者、
 笑いを取ろうとして微妙に滑る者。

 一樹は窓の外をぼんやり見ながら、
 その空気をただ流していた。

 そして──

「じゃあ、吉川」

 佐伯に呼ばれ、隣の少女が静かに立ち上がった。

「……吉川実桜です。
  中学は県外で、……その、仲良くしてくれたら嬉しいです」

 控えめで、透明感のある声だった。
 その一言で、クラスの空気がわずかに変わる。

(案外ちゃんと言えるんだな)

 一樹の胸に、ふとそんな感想が浮かぶ。

 自己紹介はあっさり終わり、休み時間に入る。
 クラスのあちこちで「よろしく!」と声が飛び交い始めた。

 その中で──
 一樹の手からペンが滑り、床へ転がる。

 拾おうと前に手を伸ばした瞬間、
 隣から細い指が同じペンに触れた。

「あ……」

 指が触れそうになり、二人とも小さく動きを止める。

 吉川が先にペンを拾い上げ、
 小さく微笑んで差し出した。

「……はい」

「……ああ、ありがとう」

 それだけのやりとり。
 けれど、胸の奥に小さな熱が宿った。

 吉川は席に戻りながら、
 ほんの少しだけ横目でこちらに視線を向けた。

(……話しかけてみようかな)

 一樹が言葉を探すより早く──

「はいはーい、授業始めるぞー」

 佐伯が教室へ戻ってきた。

 作られかけた小さな会話のタイミングは、
 春風のようにそっと消えていった。

昼休み。
 一年B組の教室はにぎやかで、
 あちこちで弁当の蓋が開く音や笑い声が響いていた。

 一樹は蓮と悠真と並んで弁当を食べていたが、
 ふと扉が開く音に顔を上げた。

 入ってきたのは、
 背筋が伸びていて、歩き方に無駄がなく、
 どこか教室の空気を落ち着かせる男子。

 黒川 彗。

 四中のエースとして名が通っていた男──
 山城と蓮とは、中学の大会で何度か対戦した相手だ。

 黒川は空いていた席に静かに座っただけだったが、
 その姿は自然と周囲の視線を集めた。

 「黒川だな。懐かしいわ」
 蓮が箸を止めて言う。

 一樹も思わず立ち上がっていた。
 (久しぶりだし……挨拶くらいはしとくか)

 黒川の近くまで歩き、声をかける。

 「……よ。久しぶり」

 黒川は視線だけ上げ、
 わずかに表情を緩めた。

 「山城か。
  本当に同じクラスだったんだな」

 蓮も近づいてきて笑う。
 「お前さ、昔と雰囲気変わらねぇよな」
 「そうか?」

 黒川は淡々と返し、
 そのまま一樹へ向き直った。

 「……ところで。
  怪我、もう大丈夫なのか?」

 一樹は一瞬だけ目を瞬く。
 (あれからだいぶ経ったのに……覚えてたのか)

 「まぁ、もう平気だよ。
  走るのも問題ない」

 黒川はゆっくりと頷いた。
 「そうか。よかった」

 その言葉には余計なニュアンスがなかった。
 心配しすぎるでもなく、無関心でもなく、
 ただ事実を確かめて安心しているような声音。

 蓮が肘で一樹をつつく。
 「黒川ってさ、無口なのに優しいよな」

 黒川は肩を軽くすくめる。
 「別に普通だ」

 一樹はふと気が向いたように口を開く。
 「なぁ黒川。
  今日、放課後……蓮と悠真とゲーセン行くんだけどさ。
  お前も来る?」

 黒川は少しだけ考える間を置き、
 静かに言った。

 「予定は特にない。
  ……行っていいなら、行く」

 「いいに決まってんだろ」
 蓮が笑って背中を軽く叩く。

 黒川はほんのわずか、口元を緩めた。
 「じゃあ……あとで」

 昼休みの喧騒の中で、
 自然と“四人組”の空気ができあがっていった。

放課後の校門を出ると、
 夕陽が傾きはじめて、影が長く伸びていた。
 風はまだ少し肌寒いのに、
 それでも“新しい生活が始まった”空気だけはどこかあたたかい。

 一樹、蓮、悠真、そして黒川。
 四人は自然と列になって歩きながら、
 学校近くの商店街を抜けていく。

 「なぁなぁ、まず音ゲーやるだろ?
  それから格ゲーやって、UFOキャッチャー行って……」
 悠真がテンション高く予定を立てる。

 蓮が笑って肩を叩く。
 「お前、先に決めすぎなんだよ。
  黒川は何するんだ?」

 突然振られた黒川は、
 小さく首を横に振った。

 「特にない。
  見てるだけでも問題ない」

 「いやいや!せっかくだしやろうぜ!
  黒川、めっちゃ器用そうじゃん」
 悠真が笑いながら煽る。

 黒川は少し困ったように視線を落とす。
 「器用ではないと思うが……まあ、できる範囲で」

 一樹は後ろを歩く黒川の顔を横目で見た。
 相変わらず落ち着いている。

 ふと、気になっていたことを口にした。

 「そういえば黒川。
  部活、どうするつもりなんだ?」

 黒川は少しだけ歩みを緩めた。

 「……サッカーはもうやらないよ」

 蓮と悠真が同時に振り返る。

 「え、マジ?」
 「お前、あれだけ上手かったのに?」

 黒川は特に気負うでもなく言った。

 「中学でやり切った感じがあってな。
  続けたくないわけじゃないんだが……
  違うことやってみてもいいかと思ったんだ」

 一樹は少しだけ驚いた。
 黒川ほどの実力者なら、
 むしろ高校でも主力になるのが当然だと思っていたからだ。

 「じゃあ……どこ入るんだ?」

 「弓道部」

 蓮が「おお〜」と声を漏らす。
 悠真はすぐにバカ騒ぎする。

 「絶対似合う!!
  黒川が弓道とか、なんかポスターにいそう!」

 黒川は苦笑いをし、
 少しだけ視線を前に向けて話した。

 「静かな場所で集中するのが好きなんだ。
  サッカーとは違った形で体を動かしたいってのもある」

 一樹は歩きながら、
 その言葉に妙に納得している自分に気づいた。
 (確かに……黒川らしいよな)

 黒川がちらりとこちらを見た。

 「山城は……サッカー部に入るんだろ?」

 「まぁな」

 「……怪我、大丈夫なんだよな?」

 その問いは静かで、
 余計な感情を乗せない優しさがあった。

 一樹はひと呼吸おいてから、
 「もう平気だよ」とだけ答えた。

 黒川はゆっくりと頷く。
 「そっか。よかった」

 その何気ないやりとりが、
 なぜか少しだけ胸に残った。

 男子4人はそのまま夕陽の商店街を抜け、
 ゲームセンターのネオンが見える通りへと歩いていった。