恋愛は付き合う前が楽しい

 恋愛は付き合う前がいちばん楽しい──
そう言った人が誰だったのか、山城一樹は覚えていない。
けれど、その言葉だけは妙に胸に残っている。
付き合った瞬間、物語は終わりに向かいはじめる。その感覚に、彼は静かに同感していた。




 入学式が終わったばかりの校庭には、まだ春の匂いが残っていた。

 桜の花びらが風に舞い、新しい制服に慣れない一年生たちの肩へ、髪へ、そっと降り積もる。

 春は出会いと別れの季節。
 これから始まる人間関係のどこかで誰かが笑い、誰かが泣き、そしてまた出会う。

 その中で、山城一樹【やまぎいつき】はゆっくりと校舎を歩いていた。
 特別な期待も不安もない。
 もうすぐ始まる日常がただ静かに続いていくと思っていた。

「おーい、一樹!お前相変わらず顔暗すぎだろ。」

 中学時代からの親友の藤原蓮【ふじわられん】が片手を上げて近づいてくる。
 入学式中も周囲の女子と笑いながら喋っていた、場の空気を明るくするタイプだ。

 「緊張してんの?」
 「してない。」
 「絶対してる顔だってそれ。人を殺す時の目だよ。」
 「そんな目してないから。」

 蓮は大げさに肩をすくめて笑う。
 「てかさ……」
 彼は周囲の女子たちを見回し、
 にやっと笑って、声を潜めるでもなく言い放った。

 「うちのクラス、めちゃくちゃレベル高いぞ!
   可愛い子ばっかりだ!」

 「お前、それ本人たちに聞こえたら死ぬぞ」
 「事実なんだからいいんだよ! あの子とか、絶対人気出るって」
 「知らねぇよ。」
 「おまえこそどうなんだよ。」
一樹は返事をせず、風に散る桜を見上げた。

 そのわずかな視界の中で、
 これから関わることになる数人の少女たちが横切っていく。
 その誰も、まだ“一樹の物語の登場人物”ではなかったけれど──
 春風は静かに、確実に、彼らの距離を縮めようとしていた。



教室に入ると、まだ新しい机の並ぶ一年B組はざわめきで満ちていた。
 カーテン越しの春光が差し込み、クラスの空気はどこか浮き足立っている。

 その中で、すでに席に座っていた竹中悠真【たけなかゆうま】が、両手を振って大げさにアピールしてきた。
 「おーい一樹ー! 蓮ー! 一緒のクラスでよかったわー!」

 一樹は席を確認し、少し安心したように胸をなでおろす。
 竹中はうるさいし、藤原は調子に乗りがちだが──
 (まぁ、この二人がいてくれるなら、面倒なクラスでもなんとかなるか)
 そう小さく思った。

 しばらくして、教室の前の扉が開く。

 「全員席につけー」

 入ってきたのは、ネクタイをゆるく締めた爽やかな大人──
 今年の担任、佐伯隆司だった。

 「一年B組の担任になった佐伯だ。よろしくな。
  授業は現代文だが……まぁ簡単に言うと、青春の指南役ってやつだ」

 クラスに小さな笑いが起きる。
 一樹は前の席を見ながら、
 (いきなり堅苦しくない感じだな……)
 と、ほんの少しだけ肩の力が抜けた。

 佐伯が続ける。

 「自己紹介も小難しいことはしない。今日はこのまま解散だ。
  明日から頑張ろうなー!」

 その瞬間、クラスにはほっとした空気が広がった。
 椅子が引かれる音、荷物を持つ気配、早くも賑やかな声。

 一樹は教壇の佐伯を見ながら、ふっと思う。
 (……いい先生でよかったな)

 そう感じたのはこの先の高校生活を予感できるほど佐伯の声がどこか温かかったからだった。




下駄箱を抜けると、春の風がふわりと三人の制服を揺らした。
 校庭を彩る桜はまだ咲き残っていて、散る花びらが靴先をかすめる。

 「いや〜! 改めて思うけどさ!」
 蓮が伸びをしながら歩き出す。
 「うちのクラス、マジで可愛い子多くね?」

 「またそれ?」
 一樹が呆れた声を返す。

その横で、悠真が全力で頷く。
 「分かる! ていうかさ、隣の席の子やばくない? 超綺麗だったぞ一樹!」

 「……普通だろ」
 「普通じゃねえよ!? あれは“上位互換ビジュアル”ってやつだよ!」
 「意味わかんねぇよ」

 蓮が楽しそうに笑う。
 「一樹はさ、なんでそう冷静なんだよ。
  入学初日から隣が可愛い子って、男子的にポイント高いイベントだろ?」

 「イベントって言うな」

 悠真が食い気味に前へ出る。
 「いや、イベントだって! 俺が隣だったら一生分の運使い果たしたって叫んでたわ!」
 「声量で運使うやつ初めて見た」
 「山城も叫べよ! ほら、青春だぞ青春!」
 「うるさい」

 蓮がニヤッと笑って、山城の顔を覗き込む。
 「でもさ、気になってんだろ?」

 「何が」
 「隣の子。……吉川さんだっけ?」

 一樹は少しだけ視線を逸らした。

 「気になってないって」
 「ほら〜出た、この否定の速さ」
 「二人とも黙れ」

 三人の会話は、まるで中学からずっと続いてきたかのように自然で軽かった。
 そして話題は、ふと変わる。

 「そういえばさ」
 蓮が歩きながら言った。
 「一樹、部活どうするんだ?」

 「……サッカー部だろ。決まってる」

 二人が同時に頷く。

 藤原は当然という顔だが、悠真は目を輝かせた。
 「だよな! 一樹なら余裕だって! 中学の大会でバチバチだったし!」

 一樹は少しだけ視線を落とした。

 「……まぁ、あの怪我のせいで全部変わったけどな」

 ふと、空気が変わる。

 蓮が口を閉じ、悠真が「あ」と声を漏らした。

 「ご、ごめん……」
 「別にいい」

 入学直前の怪我。
 スカウトが来ていた全国常連校への進学もなくなり数週間の入院生活を送った。

 その病室で、
 暇を持て余した一樹に「絶対ハマるから!」と、
 漫画や小説や恋愛ゲームを大量に貸してきたのが──悠真だった。

 「でもさ!」
 悠真が急に明るく言い直す。
 「その怪我のおかげで、一樹……恋愛漫画にどっぷりだったじゃん!
  あれ絶対今に活きるって!」

 「どう活きるんだよ」
 「恋愛経験の代わりってやつ!」
 「やめろ恥ずかしい」

 蓮が笑いながら肩を叩く。
 「大丈夫だって。一樹は動けるとこまで戻ってんだろ?なら高校でも絶対やれるさ」

 一樹はほんの少しだけ息を吸い込み空を見上げた。
 春の夕焼けが校舎を赤く染めていた。

 「……まぁ、やれることはやるよ」

 その言葉に、蓮と悠真が同時に笑った。
 三人の影が並んで伸びていく。

 この何気ない帰り道が、
 ほんの少しだけ“一樹の物語が動く音”を含んでいることに、
 誰もまだ気づいていなかった。