その日からぼく達は、夕方になると二人きりで会って、話をするようになった。たいていは、学校の話をぼくがして、フィリがそれを黙って聞いていた。場所もあのアパートの前から、近所の公園へと移動した。公園では、シーソーがフィリのお気に入りになった。それに乗って、ぼくは話をし続けた。一度何故、シーソーが好きなのかと聞いてみたことがある。一人じゃできないから、というのがその答えだった。
クリスマスイブの前日、ディズニーストアに足を向けた。クリスマスイブの前日のせいか、それとも祭日のせいか、店の中は恐ろしく混んでいた。しかも来ている客は、みんな女の子達ばかりだ。当然、そんな店に一人でやってくるのは初めてで、せめて恭介を誘えばよかったかな、と少し後悔していると、背の高い女の人にぶつかった。振り返った女の人は、ぼくをにらむと客の中に消えていった。やっぱり恭介と来るんだったと思いながら、それはそれでまた問題があるということを思い出した。恭介には知られたくなかった。女の子にプレゼントをするものが買いたいから、と言えば、恭介は躍起になってからかってくるだろうし、その相手が誰なのかをしつこく聞いてくるはずだ。それはさけたかった。
客の熱気のせいか、頭がぼうっとしてきて、プレゼントを選ぶ余裕なんかまるでなかった。
フィリになにかプレゼントしたかった。いつも窮屈な靴を履いているフィリ。お世辞にも綺麗な格好をしているとは言えないフィリ。そんなフィリに、新しいものをプレゼントしたかった。
客の波にもまれて、店の中をぐるぐると回った。途中、何度もいろんな人とぶつかりながら、最後はやけになっていた。選んだのは、ミッキーマウスの顔が描かれたマグカップだ。値段も手ごろで、ぼくのお小遣いでも充分に買える。カップを持って長いレジの行列に並び、やっとのことでカップを買った。ピンク色の包装紙に、赤いリボンをつけてもらった。フィリのうれしそうに笑う顔を想像してみた。だけどフィリは、そのカップを喜んではくれなかった。
クリスマスイブの日は、やたらと寒かった。おまけに厚い雲が空を覆っていて、公園の丸裸の木々は、寒そうに風に吹かれていた。
赤いリボンの箱を渡すと、フィリは困ったように俯いた。
「中を開けてみてよ」
催促すると、ようやっとフィリはリボンを解いて、箱からマグカップを出した。
「ミッキー」
「うん、なにが好きかよくわからなかったから」
フィリは血色の悪い唇を噛んでいた。
「どうしたの」
「物をもらうとお父さんに怒られる」
「どうして」
「よくわからないけど、ものをもらうと怒られる」
マグカップを持っているフィリの指は、枯れ木のように細く、関節が浮き立っていた。その指に、そっと触れてみた。
「君へのプレゼントなんだ。必死になって買ってきた。小さいものだから、どこかに隠しておけばいいよ」
「できるかな」
「できるよ。それはフィリのものだよ」
ぱっ、とフィリの顔が輝いた。
「大切にする。人からプレゼントをもらうの、初めて」
フィリの頬が緩む。
「お父さんはなにもくれないの? 誕生日とかに」
首を振る。フィリの髪が宙に舞った。
「くれない」
ぼくの家では誕生日もクリスマスもちゃんとプレゼントをもらうのに。フィリがかわいそうに思えてならなくて、でもどうしたらいいのかわからなくて、フィリの手をずっと握っていた。
こうしてぼくは、フィリとの時間を過ごしながら、冬休みを迎え、そして新年へと突入していった。家の空気がかわりだしたのは、ちょうどそのころからだった。
「ちょっと、お父さん。いい加減にしてよ。頭痛がするなんて昨日もじゃないの。そのくらいでどうして仕事を休むのよ」
三学期の始業式の朝だった。お父さん達の部屋から、金切り声がした。いつもならぼくが朝ご飯のときにはいないお父さんが、今日は家にいる。昨日も一昨日もその前も、お父さんは家にいた。お父さんの冬休みはとっくに終わっているのに、お父さんは何故か仕事に行こうとしない。それでお母さんが怒っているのだ。
ため息をついて、お母さんがリビングにやってきた。
「お父さん、頭が痛いの?」
焼きあがったパンに、マーガリンを塗っていた。
「頭が痛いんですって。困ったお父さんね。あんたは気にしないでいいから、早く食べて行きなさい」
「うん」
返事だけはしてみたものの、やはりお父さんが気になった。というのも、お父さんは仕事に行かないばかりではなく、ほとんど部屋から出てくることがなくなってしまったのだ。そんなに仕事に行きたくないなら、辞めてしまえばいいのにと一瞬だけ思った。でも、ぼくが学校に行くのと同じ理由で、きっと辞めることはできないんだ。
「ほら、大樹。早く食べちゃって」
テーブルの向こうでは、お母さんが眉間に皺を寄せて、不機嫌な顔をしていた。
お父さんの頭痛は、結局ひと月たっても治らず、そしてある日突然、会社を辞めてしまっていた。それがぼくの耳に入るのも、実にあっけなく簡単だった。
その日の夜も公園だった。今日もフィリは赤いスカートを着ている。短いスカートから膝小僧を見せて、フィリは懸命にブランコをこいでいる。足が宙を蹴るたび、フィリの体はふわりと舞った。短い髪も舞った。やがてフィリがこいでいたブランコは、ゆっくりと加速を落としていき、フィリは地面に足をついた。
「それじゃあ、お父さん、ずっと仕事に行ってない?」
「うん、ずっと、行ってない」
フィリと向かい合って、ぼくはブランコの柵に腰を降ろしていた。ひんやりと冷たい鉄棒の感触が、お尻に伝わってくる。
「うちのお父さん、お酒は毎日飲むけど、仕事はちゃんと行くよ」
「うちのお父さんはお酒は飲まないけど、どうしてか仕事に行かなくなっちゃったんだ。それで、お母さんもいらいらしてる。変な家になっちゃったよ」
「じゃあ、もう帰らない?」
きらきらとフィリの瞳が光った。ぼくは首を振った。
「そういうわけにはいかない。ぼくは家には帰るよ。ほかに行くところもないし」
「そうか。そうだよねえ」
フィリはまたブランコを揺らし始めた。
「フィリの家はかわらない?」
「うん、なにもかわらない」
ぼくは両方の肩を落とした。
「本当はそれが一番いいんだよね」
力をなくして、ぼくは言った。
フィリはブランコを揺らし続けて、やがて、そこから飛び降りた。それが合図だった。
「帰ろうか。うちはいいけど、大樹の家で心配するから」
心配なんかしないよ。
そう言いたくなった。でも、よくわからないけど、言えなかった。うん、とうなずいて、ぼく達は公園の前で別れた。
家に帰ると、お母さんの声が響き渡っていた。
「いい加減にしてよ。仕事を辞めてどうするの。ローンだってまだ残ってるのに。一体、なにがしたいの。いつまでそうしてるつもりなの。お父さんが働かなかったら、生活できないことくらいわかってるでしょう。なにを考えてるの」
それはお父さん達の部屋から聞こえた。ぼくは耳を塞いで、階段を駆け上がっていった。このところ、毎日のようにお母さんは怒っている。なにもしないでいるお父さんを叱り続けている。お父さんの気持ちはわからない。でも、お母さんの気持ちは少しわかる。ぼく達家族はどうなっていくんだろう。ランドセルを投げ出して、ベッドにもぐりこんだ。このところ、お母さんは夕飯をろくにつくってくれない。昨日は目玉焼きだけだった。今日はどうするんだろう。夕飯のことなんか、お母さんはもうどうでもいいに違いない。違うそこまで気持ちが回っていないんだ。ぼくは今日と明日しか見てないし、見えない。でも、お母さんはきっと、もっと遠くを見ているんだ。
お母さんの金切り声は、薄い壁を通して聞こえ続けている。
どれくらいたったのかわからなくなったころ、お母さんが部屋のドアを開けて、顔を出した。髪はぼさぼさになっていて、目が充血していて、どきりとした。
「ご飯にしよ」
時計を見ると、もう八時を過ぎていた。お腹がすいた、という感じはまるでなかったけれど、ベッドから這い出して、お母さんの後ろからついていった。テーブルには、すでにお湯を注いでいたカップラーメンとノリも巻かれていない白いおにぎりが一個のっていた。
「お母さんは食べないの?」
用意されていたのは、ぼくのぶんだけだった。
「食べたくないの」
ご飯のかわりに、お母さんはお茶をすすった。
「お父さんは?」
「食べたくないんじゃないのかな。食べたくなったら一人でなんとかするでしょう。子供じゃないんだから」
でも、お父さんは子供みたいにすねて、部屋の中に閉じこもっているじゃないか。
そんな一言を飲み下すために、おにぎりにむしゃぶりついた。塩を付け忘れたのか、なんの味もしないおにぎりだった。ぼくはそれを義務感にとらわれながら食べ、カップラーメンをすすった。
フィリは今ころ、なにをしているだろう。
カップラーメンの湯気の中に、フィリの顔が浮かんでいた。せめて父親に叩かれたり、叱られたりしてなきゃいい。フィリの家も大変だろうけど、ぼくの家のほうも大変だった。
気がつけば、何時の間か中継車を見なくなり、事件は自然消滅したみたいに誰も話をしなくなっていた。そしてぼくは六年生に進級した。お父さんは相変わらず部屋に閉じこもっている。
久しぶりにテーブルの上にお母さんの手作りの夕飯が並んだ。ハンバーグだった。フォークを持って、ハンバーグにかぶりついていると、向かい側に座っていたお母さんが、テーブルに両肘をついた。
「大樹、お母さん、働きに出ようと思うんだけど」
「うん」
フォークを動かす手も口も止まらなかった。
「近所のスーパーなんだけど、いいかな」
「いいも悪いも」
お父さんが働かないんだから、それは仕方ないことなんじゃないの、と言おうとしたけど、うまく言葉にならなかった。
「実は明日から行くことになってるの。今までみたいにおやつを用意したりできなくなるけど、大丈夫かな」
「なんとかするよ」
「うん。お父さんがちゃんと働いてくれればね、お母さんが働きに出ることもなくて、あんたに迷惑をかけることもないんだけど」
「いいよ、ぼくは大丈夫だから」
お母さんの目元が緩む。
「ありがとう、大樹」
翌日から、お母さんはスーパーに働きに出かけていった。学校から帰っても、それまでみたいにお母さんの姿はなくて、洗濯物は干しっぱなしにされていることが多くなった。かわりにぼくが洗濯物をたたんだりした。それが部屋に閉じこもったままのお父さんにわかるはずもなかった。
少しずつ家の中が変わり始めている。
決定的になったのは、それから三ヶ月ほどしてからだ。
「お母さん、スーパーの仕事、辞める」
仕事から帰るなり、お母さんはリビングの椅子に腰を降ろした。
「どうして?」
「それだけじゃあ、お金が足りないの。もう少し割りのいい仕事をする。大樹にはまた迷惑かけちゃうけど、大丈夫よね。大樹だって、もう六年生だもんね」
そう言ってぼくの頭を撫でたお母さんの顔は、少し疲れて見えた。翌日から、お母さんは夕方になると仕事に出かけていくようになった。それがどんな仕事なのかよくわからなかったけど、お母さんは真夜中にならないと帰ってこなかった。そして始めのころはあった朝ご飯が出なくなり、そのうちに朝からお母さんの部屋がお酒のにおいで充満していることもあった。やがて、朝にならないと帰ってこない日も出てきた。それでもお父さんはなにも言わず、部屋に閉じこもっている。ぼくはどうすることもできず、ただ黙って成り行きを見つめ、夕方になるとフィリと公園で会って、話をした。フィリに話をするだけで、心が少し楽になっていった。フィリは今のぼくにとって、失いたくない一番の人物だった。お父さんよりも、お母さんよりも。
六年生は、五年からそのままの持ち上がりクラスなので、教室の顔はかわらなかった。恭介との仲も相変わらずだった。ただ新学期早々に席替えがあって、運よくとなり同士になった。
「おまえの母ちゃんさあ」
ある朝、恭介はひどく言いにくそうに、上目遣いでぼくを見た。
「うん?」
「最近、ちゃんと家に帰ってきてる?」
なにが言いたいのかよくわからなかったけど、探られたくない一番の箇所を指でえぐられたみたいに、胸が苦しくなった。
「帰ってきてるよ」
うそをついた。実はこのところ、毎晩のように朝帰りで、ぼくとは入れ違いだった。そんなときは、たいてい煙草とアルコールのにおいがお母さんの体から放たれていた。
「そか。うん、なら、いいんだ」
ほっとしたように、恭介の顔が緩んだ。
「うちの母ちゃんがさあ、変なことを言っていたからさあ。おまえんちの母ちゃんが、駅前の飲み屋に勤めてて、そこの客と毎晩遅くまで飲んでるって。だからおまえのことがほったらかしになってるんじゃないかって、すごく心配してたんだ」
「そんなことはないよ」
実際、ほったらかしにされていた。朝ご飯どころか、夕飯もない。塾に行かなくても、文句も言われない。かわりにおやつもない。だからこのところぼくは、近所のコンビニ弁当かカップラーメンばかり食べていた。お金だけは、お母さんがくれるのだ。
「大丈夫だよ」
うそをついた。仲のいい恭介にまで。でも、不思議と胸は痛まなかった。仕方なかった。お母さんの名誉も守らなきゃならない。それに、一番の原因はお父さんだ。お父さんがちゃんと仕事に行ってさえいれば、なんの問題もなかった。その当の本人は、今も部屋に閉じこもっている。ほとんどなにも食べず、風呂にも入っていない。だからお父さんの体はいつも臭かったし、頬はげっそりと削げ落ちていた。元のお父さんの面影は、もうどこにも見つけられないほど、変わり果ててしまっていた。
その日の夜も、フィリと会った。公園に行く前に、今日はコンビニに寄って、おにぎりを二つ買った。コンビニの中はまぶしいくらいに明るい。ぼくはその中が大好きだった。少なくとも家の中よりは数倍明るくて、誰のことも気にしない。ぼくという存在を無視してくれる。そんな空間が好きだった。後ろからついてきたフィリは、今日も赤いスカートをはいて、なにかもじもじとしていた。フィリはぼくのお金でなにかを買うことをとても気にする。
「いいんだ、気にしなくても。どうせお母さんが置いていったお金なんだから」
なにもしなくなったかわりに、お金だけはたくさん置いていくようになった。それで埋め合わせをしているのだろうけど、なにも埋まらない。
「フィリはなにが食べたい?」
けれどフィリは、いつもそうであるように、両手を前に組んで、視線をあちこちに散らばしているだけだった。
「おにぎり。鮭といくらとシーチキン、どれがいい?」
どれもぼくの好物だった。
「シーチキン」
小さくフィリが答える。黙ってうなずいて、シーチキンを一つといくらを一つ、それにぺットボトルのお茶を二つ買ってから、公園に行った。
コンビニから公園まではそう遠くない。公園も狭く小さいのに、ときどき犬をつれた人がやってくる。ぼく達は隅っこにあったベンチに座り、お茶を飲んで、おにぎりを食べた。
「家の中がさ、一日中お酒くさいんだ」
「うん。うちもそう」
「フィリの家はかわってるって言ってたけど、本当はこれが普通なのかもしれないね」
フィリは答えない。黙ってシーチキンのおにぎりを食べ、お茶を飲んだ。もちろん育ち盛りのぼく達が、これっぽっちのおにぎりで胃袋が満たされるわけがなかった。でも、それ以上のものを食べたいという気持ちが起こらない。
「フィリ。普通ってなんだろうね」
暗闇の中で、ぼくは言った。公園の隅では、すでに葉桜にかわろうとしている一本の木が、頼りなげに揺れている。
ぼくの心は、きゅっと縮こまり、苦しくなってくる。こういう感覚を覚えたのも、つい最近になってからだった。この日も、胸がどうしようもなく苦しくなってきて、フィリの平たい胸に頭を押し付けた。フィリは何も言わず、ぼくの頭を撫でてくれる。
壊れてしまったのは、家の中だけではなかった。ぼくも壊れようとしている。それをかろうじてフィリが支えてくれている。
「フィリ。二人でどっか遠くに行っちゃおうか」
首を振るのがわかった。
無理だとわかっていて、ぼくは聞いたのだ。
平たい胸に押し付けていた頭を上げると、すぐそこにフィリの顔があった。迷いはなかった。フィリの唇に自分の唇を押し当てていた。フィリの唇は小さくて、固い蕾のようだった。そうしてぼくは、思い切りの力でフィリを抱きしめた。そうしないと、自分がどうにかなっちゃいそうだった。
フィリと別れてから家に帰った。例によって電気はついていない。キッチンも居間も暗いままだ。ドアを薄く開き、お父さんの部屋を覗く。壁に向かってあぐらをかいていたお父さんはなにかぶつぶつと言ってる。なにを言っているのかはわからない。ただぶつぶつ言っている。当然だが部屋の中は暗く、垢とアルコールのにおいが充満していた。
冷蔵庫を開けると、形の悪いおにぎりが二つ皿にのっているのが入っていた。ぼくのためにつくられたものなのかどうかわからなかった。そのおにぎりの皿を出し、ラップをはがしてにおいをかぐと、心なしかアルコールと香水のにおいがして、気味が悪くなった。迷いもせず、それをゴミ箱の中に皿ごと捨てた。
ぼくは一人で風呂の湯をわかし、一人で風呂に入った。学校には行くし、フィリにも会うから、いつも綺麗にしていたかった。とくにおちんちんのまわりは綺麗に石鹸を泡立てて洗った。小さなおちんちんが熱を帯びていくのがわかる。ぼくはこれを、自分一人だけの秘密として楽しんだ。そこには誰も教えてくれないけれど、最初からわかっていた快楽が待っていた。だから最近風呂に入ると、手が勝手にその場所に伸びていく。
快楽がひと段落を過ぎると、念入りに手を洗い、湯船に使ってから、風呂場を後にした。
部屋にあがると、この前お母さんがおみやげだよ、と買ってきたファミコンがテレビの前に置かれていた。ゲームにはあまり興味がなくなってしまっていたが、ほかにすることがないので、スーパーマリオをやった。今のところ、これしかソフトがなかったのだ。もう塾に行かなくても、勉強をしなくても、誰も文句を言う人はいない。当然だけれど、成績は見る見る落ちていったが、それをとがめる人もいなかった。
テレビの中では、マリオが必死になって走っていた。
その日は十二時過ぎまでゲームをした。そろそろ寝ようかという時期になって、家の前に車が止まった。
どうもありがとう、またねぇ。
陽気なお母さんの声がした。この時間に帰ってくるのは珍しい。普段はもっと遅い。がたがたとドアの開く音と一緒にぼくを呼ぶお母さんの声がした。下に降りていくと、酔っ払って髪を振り乱し、アルコールと香水のにおいにまみれた母親が待っていた。
「ちょっとお、お水、くんできてくれない?」
玄関先でよろよろと靴を脱ぎながら、お母さんは壁づいたに歩いていた。断わるのも面倒になり、グラスに水をくんでやってお母さんに渡すと、息をつく間もなく、それを一気に飲み干した。グラスを空にしたお母さんはリビングにある椅子に座り込み、ぼくにも座るようにと指示をした。だが、ぼくは座らなかった。
「あんたはさあ、お母さんがこんなになっちゃって、だらしないとかみっともないとか思ってるんでしょ」
そこでお母さんはしゃっくりを一つした。
「そりゃあお母さんだって、自分のしていることくらい、よおくわかってんのよ。でもね、こうしないと、食べていけないの。わかるでしょ。お父さんがあんなんなんだもん。お母さんが働かないとね。お母さんはあんたのために、働いてんの。わかるでしょ。この家のローンだってあるしさ、もうしょうがないのよね」
そこまで言うと、お母さんはテーブルにうつっぷして眠ってしまった。毛布をかけてやることもしなかった。お母さんを置き去りにして、部屋に戻り、ベッドに入った。
もうなにもかもがどうでもよかった。
ある日、フィリを家に呼んだ。その日は、夏の生暖かい雨が降っていた。雨が降っていては公園で話もできないからと、渋っていたフィリの背中を押して無理矢理つれてきたのと同じだ。
家に来てすぐに、お父さんの後ろ姿をこっそりとフィリに見せてやった。お父さんは相変わらず壁に向かって、なにかぶつぶつと言っていた。
「おかしいでしょ」
ドアを後ろ手で閉めた。
「よくわかんない」
フィリは本当に困った顔をしていた。その後、ぼくの部屋で、スーパーマリオをやった。ゲームをするうちにフィリの緊張も解けていき、笑顔が見えるようになった。そういえば、フィリは笑った顔をめったに見せない。フィリはいつも感情のない顔をしていた。
「どう? ぼくの家」
「うちよりも広い」
「でも、汚いだろ?」
掃除や洗濯なんかほとんどしていなかった。
「うちも似たようなもんだから」
フィリは顔を伏せた。その顔に、ぼくは頬を寄せた。そして最近では決まりごとになったキスをした。このところ、会うたびにキスをしていた。フィリは嫌がらなかったし、それについては、なにも言わなかった。そしてぼくは、細いフィリの体を思い切り抱きしめ、まるで最初からなにもかもわかっていたみたいに、フィリの服を脱がせ、まだ発育不足のフィリの胸を吸った。フィリの首に銀色のネックレスがかかっていた。小さな花が形どられているコインがついている。細く伸びた花だった。なんていう花なのかはわからない。反対側には、女の人の横顔が彫られていた。
「これ、なに?」
銀色の鎖を指でひっかけた。
「お母さんが残していったって、お父さんが言ってた。ジャスミンの花なんだって、じゅんぺーさんが教えてくれた。お母さんのもの、これしか残ってない」
「ジャスミンの花」
本物は見たことがない。
鎖を指に巻きつけていると、右の肩に、また青い痣がついていることに気がついた。その痣も吸った。フィリはなにも言わなかった。そこまで来てしまうと、後は歯止めがきかなくなった。大きく膨らんだものを、フィリの中に押し入れてしまうまでそう時間はかからなかった。フィリはやっぱりなにも言わなかった。その快楽は、自分の掌でするよりも、何倍もすごかった。自分でも知らないうちに、初めての射精をし、フィリの上に崩れていた。
「大樹」
フィリは初めて、ぼくの名前を呼んでくれた。
「大樹、辛いね」
ぼくの頭を撫でながら、フィリは呟いた。フィリの体の上で、大粒の涙をこぼした。それがどこから来た涙なのか。初めての快楽からきたうれしさのためか、あるいは家の中がこんなになってしまった悲しさのためなのか。とにかくぼく達は、また二人だけの秘密をつくった。それ以来、会うたびに抱き合った。一つなにかが外れてしまうと、進んでいくのは、あっけない。それはぼくの家の中の状況とよく似ていた。
その手紙に気付いたのは、やっぱりフィリと抱き合ってからだった。フィリは家に帰り、お父さんと二人きり残された家の中で、テーブルに置かれていた白い封筒に気が付いた。中を開くと、一万円札が二十枚と白い便箋が入っていた。
大樹へ
から始まる文章は、見慣れたお母さんの文字だった。お母さんの文字はへたくそで、いつもミミズがはいつくばっている文字を書く。だからすぐにお母さんの文章だとわかった。
大樹へ
お母さんは本当に心底疲れきってしまいました。お父さんはいつまでたっても働こうとしないばかりか、家の中にこもってばかり。家のローンと生活費。それらを稼ぐために、お母さんがどんな仕事をしていたのか、大樹ももう子供ではないのだから、わかっていると思います。お母さんは、あれほど毛嫌いしていたフィリピン人に混ざり、近所のパブでお客さんにお酒を飲ませる仕事をしてました。大樹のために、家のために、とがんばって来ましたが、もう限界です。大樹には申しわけない、きっと恨まれると思うけれど、お母さんにも限界があります。少ないけれど当座の生活費としてお金を置いていきます。ごめんなさい。
お母さんは出ていった。
手紙とお金をその場に置いて、お母さんの荷物を見てみたが、なにかがなくなった様子はなく、身一つで出ていったことがわかった。
お母さんは、ぼくを捨てた。
そう理解できるまで、いくらかの時間が必要だった。でも、不思議と悲しいとか、恨むとかそういった気持ちは沸いてこなかった。あまりにも突然すぎたせいかもしれない。しばらくの間、ぼくはお金が入った封筒を持って、立ち尽くしていた。
お父さんにはなんて言おう。いや、言ったところでなにも伝わらない気がした。それでも、ぼくはお父さんの背中に向かって言ってやった。
「お母さん、出ていっちゃったよ」
返事は返ってこなかった。
その次にお母さんがいなくなったことを話したのは、フィリだった。やはりぼくの部屋で話をした。
「大樹、辛い? 悲しい?」
真っ黒な瞳には、涙が少し浮かんでいた。
「あたし、お母さんのこと、覚えてない。いつ出て行ったのかも知らない。でも、悲しい。とても悲しい。だから、大樹の気持ち、わかる」
ぼくの手を握ったフィリは、自分の頬まで持っていき、手の甲を撫でた。それから音をたてずに立ち上がり、フィリは自分から服を脱いだ。痩せて黒い肌を、ぼくは抱いた。それまでと同じように抱いた。フィリがいれば、お母さんがいなくても、なにもかわらない気がした。けれどそれは間違いだった。二十万、というお金は、ぼくにとっては大金だったけれど、大人の世界ではそうではない、という事実を思い知らされた。銀行から光熱費やローンがおりなくなったために、直接業者の人がお金を取りにきた。仕方なく、その中から少しずつ払っていった。なによりも痛手だったのは、家のローンだった。それだけで半分以上がなくなり、結局手元に残ったのは、五万円と少しだった。手元に残ったお金を見つめながら、来月はもう光熱費もローンも払えないことを知った。

