1

ぼく達が住む町に、突然大きなニュースが降ってきたのは、もうそろそろ冬休みに入ろうか、というころだった。クラスのみんなは冬休みに向けての予定をたてていたし、当然ぼくの家でもみんなでスキーに行くという話が持ち上がっていた。だから一日も早く冬休みにならないかと、夜寝る前に、次の日の学校の支度をするついでにカレンダーを覗き込んでいた。
 事件はそんなときに、まったくなんの前触れもなくやってきた。ある朝、学校に行く前、いつものようにリビングの椅子に座り、となりには当然ランドセルを置いていた。輝かしかったランドセルはいつからかひび割れ、艶をなくしていたが、それでもまだ立派にその役割を果たしていた。もちろん、果たしてもらわなければ困ってしまう。ぼくはまだ後一年以上小学校に通わなきゃならない。
 お母さんが焼いてくれたトーストを食べて、半熟卵の黄身をフォークでつぶしているときだった。テレビに、どこかで見たことがある景色が映った。テレビの画面のテロップには、埼玉県大宮市となっていた。心臓が飛び上がった瞬間でもある。
「お母さん、お母さん」
 かじりかけのトーストを皿の上に戻して、シンクの前に立っているお母さんに声をあげた。朝、お母さんはいつも忙しそうにしている。今日の朝も、忙しそうだったが、こっちはそれどころではなかった。
「なによ、どうしたの、大樹(たいき)」
 ちょっと不機嫌なお母さんの声だった。そもそもお母さんは、朝はいつも機嫌が悪い。
「ねえねえ、大宮市ってうちの市のことだよね? テレビ見てよ。どっかで見たことがある気がしない?」
 キッチンからやってきたお母さんは、濡れた手をエプロンに当てて、画面に見入っている。
「大宮市は、確かにこの大宮市のことだと思うけど、どこの場所かまではわからないわ」
 首をすくめて、お母さんはすぐにキッチンに戻っていってしまった。ぼくにはそれが大事件のように思えて、普段は見もしないテレビの画面にくぎ付けになった。
 事件は、こうだ。
 小さな女の子ばかりを狙ってはいたずらをしたり、そのうちの何人かは殺してしまった犯人が、この大宮市に住んでいたという。頭からコートをかぶった犯人の姿も映し出されたが、顔がさっぱり見えないので、それが誰かはわからなかった。でも、まわりの景色はやっぱりどこか見たことがある気がしてならない。
 ぼくはじっとテレビに見入って、トーストを食べることも忘れてしまっていた。おまけに切り替わったCMがスーパーマリオブラザーズだった。クラスの中で、ファミコンを持っていないのはぼくくらいだった。
「お母さん、見てよ。テレビ。マリオのCMやってるよ。ぼくもファミコン欲しいよ。クラスのみんなが持ってるんだよ」
 頬を膨らませた。
「なに言ってんの。ゲームなんか必要ないの。あんたはたくさん勉強して、いい大学出て、いいところに就職するの。お父さんみたいに工場で働いて、安いお金でこき使われるなんていやでしょ。まったくこの好景気なのに、うちだけこんなにお金がないなんて。それは全部お父さんのせいなんだから」
 最後はほとんど愚痴だった。
「でもさあ、ファミコン持ってないと、話についていけないよお」
「大樹、いい加減にして。早くご飯食べちゃって。片付かないし、学校に遅れてもお母さんは知らないわよ」
 いらだった声がしたから、はぁい、と返事をして、またトーストにかじりついた。トーストは少し冷めてしまっていた。潰した黄身も固くなり始めている。急いでご飯を食べ、ランドセルを背負って、外に出ていった。家の中とは違って、冷たく、肌を切り裂く空気が待っていた。班の集合場所は、家のすぐ前だ。すでに何人かが集まっている。事件のニュースを見たやつもいた。
「絶対、うちの近所だよ」
 同じクラスで、となりの家に住む恭介が、やや興奮気味に語った。
「うんうん、ぼくもそう思う」
 鼻息を荒らくして、ぼく達は事件のことを話し合い、見たこともない犯人を想像した。
「きっと、すげえ、頭のおかしいやつなんだぜ」
 恭介が、鼻から息を吐き出した。
「頭がおかしくなきゃあ、女の子を殺したりはしないさ」
 その朝は、恭介と二人でずっとその話をし続けた。みんなが集まって、歩き出してからも話し続けて、そして、足が止まった。道路の隅にテレビの中継車や黒塗りの車が何台も止まっていた。おまけにテレビのレポーターまでいて、とあるアパートの前にマイクを握って立っていた。ぼくの家から五分と離れていない場所だった。アパートが何軒か連なっている。
「もしかして、ここじゃないのか」
 恭介の鼻息は、更に荒くなった。
 こんな近くに。
 けれど、ぼくはあまり興奮しなかった。それよりも小さな女の子を殺した犯人が、こんな近くに住んでいたことに驚いていた。
 マイクを持ったレポーターが、誰かに話しかけている。同じアパートの住人なんだろうか。
 恭介が走り出していく。
「テレビに映れるかもしれないぜ」
 恭介の頬は赤く染まっていた。

 当然といえば当然だったが、クラスは事件の話で持ちきりだった。昨日までは、月曜日ともなると誰かしらが少年ジャンプを持ってきていて、ドラゴンボールの続きに夢中になったが、今日は同じ月曜日でもジャンプのこともドラゴンボールもでなかった。かわりに事件の話が渦を巻いている。しかも犯人の住んでいたアパートやテレビ中継車を見てしまった恭介は、まるで本物の犯人に出会ったみたいに、手振り身振りを添えて語った。もちろん話題はそれだけにとどまらず、もしかしたら犯人の毒牙にかかった女の子が、このクラスにもいるんじゃないかというところまで話は進んでいった。
「おれは小林萌が怪しいと踏んでる」
 給食が終わったばかりの教室で、恭介は視線を小林萌に視線を注ぎ、小声でそう言った。
「まさか、それはないよ」
 すぐさま否定してみた。萌は確かにクラスの中でも育ちがよくって、胸も出ているし、身長もある。けっこうクラスでは人気があるほうだ。
「なんでそう言い切れるんだよ」
 恭介が頬を膨らませた。
「だって、だって犯人は小さい女の子ばかりを狙っていたんだろ。小林じゃあ、その、小さい女の子じゃないからさ」
 とは言ってみたが、実は小林のことは少しばかり気に入っていて、もし本当に毒牙にかかっていたら、と想像するだけでもいやだったし、誰かにそう思われるのもいやだった。これは恭介には言わなかったけど。
「まあ、そう言われればそうだな。それよりも、帰りもあの現場、見て帰ろうぜ」
「見て帰るもなにも通学路じゃないか」
「そうだった」
 そうなんだ。あの道は、ぼく達の通学路だ。決して避けては通れない。だからぼくと恭介は、走って帰って、まだテレビ局の中継車がいることをしっかりと確認した。朝と違って、レポーターはいなかったが、かわりに、道路の隅々にいろんな大人達が立っていた。みんな寒そうに、ダウンのコートを着て、両方の肩を持ち上げていた。
「すげえな。おれ、中継車って初めて見たよ」
「ぼくだってそうさ」
 事件は、ぼく達の間でお祭り騒ぎになり、かっこうのいいネタを与えてくれた。捕まってしまった犯人なんか怖くはなかった。それよりも、自分達がどうやったらテレビに映るのか、そればかりが気になった。
 中継車を遠巻きに眺めていると、赤いスカートを着た女の子が、小走りに横切っていった。中継車なんか興味ない、まるで関係ない、と言いたげに駆け抜けていく。手足が細いその女の子は、遠くから見ても、肌が黒っぽくて、クラスの女の子達とは違って見えた。
「あいつ、きっと、フィリピンだぜ」
 右腕をこづかれた。
「フィリピン人のこと?」
「そうさ。このあたりには、フィリピン人が多いってうちの母ちゃんが言ってた。だから、あいつもフィリピンなんだ」
「フィリピン人て、何語を話すんだろう」
「さあな」
 そこで恭介の興味は女の子から、またテレビ局の中継車に戻った。でもぼくは、いつまでもその子から目が離せずにいた。何故なら、その子があんまりにもみすぼらしかったからだ。赤いスカートは汚れていた。上に着ていたダウンのジャケットはだぶだぶのうえに、ところどころから白い綿が飛び出していた。それに奇妙に小さな靴を履いて、かかとをつぶしていた。それでも転ぶことなく、女の子は器用に駆けていった。どこに行くのかわからないその子を、ぼくは見えなくなるまで追い続けていた。
 
 まったく動かない中継車に飽きて、恭介と二人、その場から帰ったのは、三十分ほどたってからだった。ぼくの家の前で、恭介とは別れ、中に入っていくと、お母さんが待っていた。
「遅かったじゃないの。どこでなにしてたの」
 お母さんはリビングで洗濯物をたたんでいた。
「中継車見てたんだ。朝、ニュースでやってただろ。あれってさ、やっぱりうちの近所だったんだ。しかも通学路のところでさ、テレビ局の車や人がいっぱい来てたよ。お母さんは見に行った?」
「お母さんはそんなに野次馬じゃありません」
 白いタオルをたたむ手を、お母さんは休ませなかった。
「すごかったよ。ぼく、中継車っていうの、初めて見たよ」
「わかったから。おやつを食べてしまって。冷蔵庫にサンドイッチが入ってるから。それを食べたら、塾に行きなさい。それから、その前はもう通っちゃ駄目よ」
 ランドセルを置く間もなく、冷蔵庫を開けた。中には、ポテトサラダのサンドイッチが入っていた。駅前のパン屋の名前が書かれた、透明な袋に包まれている。手を洗いもせず、サンドイッチを取り出した。
「どうして通っちゃだめなの?」
「危ないからよ」
「犯人はもう捕まったんだよ。危なくないよ」
「危ないの。大きな車が出たり入ったりしてるでしょう。事故にでもあったら困るから。明日から通学路もかえましょうって、お母さん達、相談したのよ。それで決まったの」
「そんなのおかしいよ。車なんかちっとも動いてなかったよ」
 サンドイッチをかじる。ひんやりと冷たかった。
「それでもお母さんの言うことを聞きなさい。いいわね、これは相談して決めたことなの。それよりも、大樹、あんた、手を洗わないで食べたわね。ランドセルも背負ったままじゃないの。もう五年生なんだから、自分のことは自分でちゃんとしなさい、いいわね」
 パンを食べていたから、返事はできなかった。お母さんもそれ以上はなにも言わなかった。とにかくランドセルを降ろして、手を洗い、そしてサンドイッチを食べ終えてから塾に出かけた。塾といっても、ぼくはそんなに勉強は好きじゃなかった。勉強しなくても、そこそこの点数は取れていた。だからそれでよかったのに、お母さんが無理矢理塾に入れてしまった。学校と違って、塾はあまり楽しくなかった。
 塾では、学校の授業よりも少し先を進んでいるところをやる。わからないところは、何度も繰り返し教えられる。ぼくはたった一時間しか行ってなかったけれど、ものすごく退屈で、帰りにはまたあの中継車がある道を通って帰るのを楽しみにしていた。黙っていれば、お母さんにはわからない。だから早く授業が終わらないかと、そればかりが気になった。授業が終わって、解放されたときには、小躍りしたいくらいだった。バッグを手に下げて、急いで外に出る。もうあたりはすっかり暗くなっていた。おまけにお腹がすいていた。育ち盛りなのだ。あれっぽっちのサンドイッチだけでは全然足りなかった。早く家に帰ってご飯を食べたいのと、中継車を見たいのは、半々だった。とにかくどちらもぼくの足を急がせるには充分すぎた。中継車の止まっている道まで急いで駆けていった。車は相変わらずたくさん止まっていて、テレビ局の人達もそこここに座り込んでいる。
 なんの変化もない。そりゃあそうだ。犯人はもう捕まったのだ。ここでするべきことはなにもない。その場から立ち去ろうとしたときだった。あのフィリピン人の女の子が道端に座っていた。膝を抱えて、背中を丸めている。中継車を見ているわけではなさそうだった。相変わらず服は汚れていた。ぼくはその子に近付いていった。心なしか、ゴミ置き場のにおいがした。
「あの中継車から、なにかかわったことあった?」
 そう話しかけると、女の子はびくりとしたように両方の肩をすくめて、顔を真っ直ぐこちらに向けた。大きな目をした女の子だった。黒い瞳は小さく、白目ばかりが目立っていた。目鼻立ちがすっきりしているその顔は、はっきりと違う国の人間であることを教えてくれる。少なくとも、ぼくのクラスの中にはそんな顔をしている子は一人もいなかった。
「なにかかわったことあった? ずっとここにいたんだろ? あの中継車の中からアナウンサーの人が出てきたとかさ、そういうのなかった?」
 女の子は黙って、首を振った。
「ちぇっ。なんだ。やっぱり、犯人も捕まったから、もう出てこないのかな」
 つまらなさそうに、足元にあった小石を蹴飛ばした。
「さっき」
 か細い声がした。唇の間から見えた歯は、黄色かった。
「さっき、カメラが回ってた。あのアパートを映してたの」
 指でさしたアパートは、赤い屋根に白い壁をしていた。一畳ほどのベランダがついたアパートは、どこにでもあるのと同じものだった。なんだ、ちゃんと日本語話せるじゃん、と思いながら腰をかがめてその子の顔を覗き込んだ。
「それ、どこの局だった?」
「知らない」
 彼女の声は、透き通っていた。見てくれとはまったく違って、声だけは可愛いなと思った。
「そうなんだ。それじゃあ、ときどき動きがあるんだ。ねえ、君は、どこの子? この近所なら、南小学校だよね?」
 この辺に住んでいる子供達は、みんなそこに通う。これだけみんなと見てくれが違うなら、どこのクラスにいても話題になるはずだ。彼女は、唇を噛みしめた。
「この近所の子じゃないの?」
「あそこに住んでるの」
 そうして爪が真っ黒になった指先が示したのは、犯人が住んでいたのと同じアパートだった。

 びくん。
 今度はぼくの両肩が持ち上がる番だった。視線は真っ直ぐにアパートに向けられる。遠くから報道陣が見張っているのだろうか、アパートのまわりはひっそりと静まり返っている。
「犯人を見たことある?」
 こくん、と頷いた。
「話したことは?」
 もう一度うなずいた。
 何故か口の中が、からからに渇く感じがした。もしこの子から犯人のことを聞き出させるとしたら、ぼくは恭介よりも、テレビ局の人よりも早い情報を得ることになる。
「犯人て、どんな感じの人?」
 唐突過ぎたかな。口にしてから、ちょっと後悔した。
「じゅんぺーさんは、いい人。あたしにお菓子をくれたりした。お小遣いもくれた。それにいつも笑っていた。お父さんのように叩いたりしないし、いつもかばってくれた」
 半歩、後ろに下がっていた。
 もしかしてこの子も犯人の毒牙にかけられた一人だろうか。そんなわけがない。だったらこんなふうには絶対に言わない。けれど犯人は小さな女の子が好きだったらしい。彼女の年齢がいくつなのかはわからないが、ぼくよりも少し年下に見えた。犯人が好む年齢じゃないか。
 ぐるぐると頭の中でいろいろな想像が回る。
「じゅんぺーさん、いい人。とても、いい人。犯人、ほかにいる。でも、お父さんも警察の人もテレビの人も、みんなじゅんぺーさんが犯人っていう。なにか違う」
 そこで初めて気付いたのだが、彼女のイントネーションは少しだけぼく達と違った。なんというか、切れ切れの言葉を話す。ぶちぎれた感じがする。
「それ、誰かに言った?」
「お父さんに。でも、笑われて終わった」
「お母さんには?」
 血色の悪い唇がきゅっと結ばれる、下を俯いた。
「お母さん、帰ってしまったから。いない。もう何年も会ったことない」
「帰ったって、どこに?」
「自分の国。フィリピンってお父さんは言ってた。だから今はお父さんと二人で住んでる。あのアパートに。そこにじゅんぺーさんは、ときどき遊びに来た。お菓子やお酒を持って、遊びにきた。うれしかった。だから、じゅんぺーさん、犯人じゃない」
 冷たい風が吹いてきた。ぼくの頬を叩くように撫でていく。彼女は寒くないのだろうか。俯いたままの瞳には、うっすらと涙が浮かんでいた。
 その場から駆け出していたのは、彼女ではなく、ぼくのほうだった。中継車を横目で見るわけでもなく、すっとんで家に帰っていた。家の中に入ると、カレーのにおいが漂っていた。
「大樹、帰ったのー」
 キッチンからお母さんが声を張り上げている。急いで靴を脱いで、家にあがる。キッチンで、お母さんがレタスを洗っていた。
「今日は遅かったのねえ。そんなに勉強してきたんだ。えらいえらい」
 フィリピンの女の子と話していたことを知らないお母さんは、上機嫌だ。お母さんの機嫌は、だいたい朝が悪くて、午後になるにつれてよくなり、夜にはもっとも機嫌がよくなる。もっともそれは、ぼくがちゃんと塾に行った日に限られるけど。
「ねえ、お母さん」
 手提げバッグを持ったまま、お母さんの横に並んだ。身長はやっとお母さんと同じくらいになった。
「なあに」
「犯人じゃない人が犯人てこと、あるの?」
「はあ? あんた、なに言ってるの」
「だからさ、間違えて、別の人を犯人にしちゃうってやつ」
「そんなことあるわけないでしょ。日本の警察は優秀なんだから。それよりも早くお風呂に入ってきなさい。今日はお父さん、遅くなるっていうから、先にご飯にしちゃうから」
 でも、あの子は犯人じゃないって言ったよ。
 その一言は口に出てこなかった。その晩、ぼくはずっとニュースを見続けた。うちの近所で起こった事件をもっと詳しく知るためだ。だけど、夜のニュースで流れていたのは、犯人がどんな人物であるか、ということだけだった。そこで初めて知った事実といえば、犯人の男は、高山順平という二十八歳で、新聞配達員をしていたこと。あのアパートは、その会社の寮になっていた。もともとは関西出身だということくらいだった。
 あの子の指先を思い出した。黒い爪は、確かに真っ直ぐにあのアパートを指していた。あの子の父親もきっと新聞配達員なんだ。
 わかったことといえば、それだけだった。

 翌日から、通学路が少しだけ変わった。不平を最初に漏らしたのは恭介だった。
「大人達はよお、おれ達がテレビに映ったりするのが羨ましいんだ。だからこんなことをしたんだぜ」
 白い息を吐き出して、恭介は納得できないと頬を膨らませた。
「それよりもさあ、ぼく達の学校に、フィリピンの子っていたっけ?」
「フィリピン?」
 恭介は空を仰いだ。雲ひとつない、真っ青な空だった。
「少なくとも、うちの学年にはいないと思うぜ。なんでそんなこと聞くんだよ」
「この近所にフィリピンの子がいるからさ」
「おまえ、フィリピンなんかに興味があんの?」
 くくく、と恭介は笑った。
「このあたりにフィリピンパブがいくつかあるからな。まあ、いてもおかしくはないけど、そういう子はそういう学校に行くんじゃねえの」
「そういう学校って、フィリピンの子の学校ってこと?」
「よくわかんねえけどさ、そういう学校だよ」
 それ以上は、恭介にもわからないらしく、両手を頭の後ろで組み合わせた。
 そういう学校。
 あの子は見かけるたびに窮屈な靴を履いて、赤いスカートを着ていた。お世辞にもきちんと洗濯しているようには見えなかった。お母さんがいない、とあの子は言っていた。お母さんはフィリピンに帰ったんだって。どうして家族一緒に暮らせないんだろう。家族は窮屈だけど、当たり前のものだった。少なくともぼくの中では。
 その日一日は、授業も身に入らなくて、ぼんやりと一日を過ごした。昼休みのドッジボールにも参加しなかった。なんだかそんな気分にはなれなかったのだ。帰りには、こっそりと犯人のアパートの横を通った。中継車はまだ止まっていたが、あの子はいなかった。家では、今日もお母さんが洗濯物を片づけていた。昨日となにも変わらない風景だ。
「ねえ、お母さん。フィリピンパブってなに? このあたりにたくさんあるの?」
 洗濯物をたたんでいたお母さんは、きっと、両方の目をつりあげてぼくを見た。
「どこでそんな話を聞いてきたの。このあたりにそんなものはありませんよ、なにを言ってるの」
「でも、ぼく」
 あの子のことを言おうとした。でも、何故か言ってはいけない気がして、思わず口をつぐんでいた。
「そんな余計なことを考えている暇があったら、ちゃんと勉強しなさい。でないと、お父さんみたいになっちゃうわよ。あんたは、いい高校に入って、いい大学を出て、一流企業に入るんだから。それがお母さんの夢なの。お父さんみたいに高校しか出てないと、いいところに就職できないでしょう」
 足を忍ばせて、二階にある自分の部屋に入っていった。なにかにつけて、お母さんはすぐにあの一言を言う。
 お父さんみたいになっちゃ駄目。それにはいい高校に入らなきゃ。
 ぼくは別に、お父さんが工場に勤めていることは恥ずかしくなかったし、それでもいい、という気持ちがあった。お母さんが、何故あんなことにこだわるのかまるでわからなかった。
 ビデオのスイッチを入れた。昨日、塾に行っていたせいで見れなかったアニメを見る。ドラゴンボールだ。フリーザとの対決がそろそろ佳境に入ろうとしている。一話だって見逃せない。もちろんジャンプも毎週買っていて、コミックも全部持っている。だから話の先はわかっているんだけど、アニメはアニメでまた別の魅力があるんだ。オープニングテーマまで巻き戻すと、ぼくは画面に集中した。スーパーサイヤ人になった悟空は強い。フリーザなんかに負けない。アニメの進行と共に、自分の気持ちが盛り上がってくるのがわかった。ぼくは、アニメに夢中になっていった。
 ドラゴンボールを見終わって、ビデオの電源を落とすと、雨が降っていることに気がついた。窓を開けるとばらばらと細かい雨が降っている。中継車の前にいたあの子のことを思い出した。学校帰りにはいなかった。でも、今の時間ならいるかもしれない。階段を一気に駆け下りていった。
「大樹、どこに行くの。もうご飯よー」
 お母さんの声を振り切って、外に出ていた。雨は細かく、冷たかった。かさをさして駆けていくと、中継車の前にしゃがみ込んでいるあの子を見つけた。今日も赤いスカートだった。かさはさしていなかった。
「風邪、ひくよ」
 彼女の頭の上にかさを差し出した。
 雨に打たれて、ぶるぶると体を震わせていた。
「家に帰ったほうがいいよ。すぐそこなんだろう」
 首を振る。雨で濡れた髪が、左右に揺れた。
「お酒、買って帰るまで、家に入れない」
「それならすぐに買って帰ればいいよ」
 ぶるぶると、また首を振る。
「お金、持ってない。じゅんぺーさんがいたときは、お金くれた。今はくれない。だから、お酒、買えない」
 金を持たずに買い物に出される? その算数が頭の中で出来上がらなかった。
「君、名前、なんていうの」
 もう何度も会っているのに、今まで名前を聞こうとしなかった。
「フィリ。みんな、そう呼ぶ。お父さんが、おまえはフィリピン女の子供だから、ちょうどいいって」
「フィリ」
 呟いてみた。心地いい音色の名前だった。
「フィリ。かさ、あげる」
 冷たくなったフィリの手に、かさを握らせようとした。フィリは激しく首を振って、拒む。
「人からものをもらうと、お父さんに叱られる」
「じゃあ、貸してあげる。次に会ったときに返してくれればいいから」
 無理矢理指を開かせて、かさを握らせた。
 フィリの真っ黒い目が、ぼくを見つめている。
「お金は貸してあげられないから。お酒は買えなかった、お金がなかったからって本当のことを言えばいいよ」
「叩かれる」
「でも、ないんだから、仕方ない。本当のことを言えばわかってくれるよ。きっと。大丈夫。風邪をひく前に帰ったほうがいい」
 ぼくはそれだけを言うと、元来た道を引き返した。細かい雨の中、走って家に帰った。
 フィリ、という名前が、とても新鮮に聞こえて、いつまでも耳から離れなかった。
 その日の夜中、トイレに立つと、お父さんとお母さんがまだ起きていた。
「あの子、このあたりにフィリピンパブはないか、なんていうのよ。変な事件の犯人もすぐそこに住んでいたっていうし。治安がよくないんじゃないのかしら。このあたりって」
「そうは言っても、まだ家は買ったばかりだし、すぐにどこかに引っ越すというわけにも」
 小さくくぐもった声だった。お父さんは、お母さんの前だといつも子ねずみみたいに小さくなってしまう。
「もっとよく地域のことを考えて買えばよかったのよ。学校も近いし、スーパーからも駅からも近くて便利がいいと思ってたのに。フィリピンパブなんか近くにあるなんて、最初から知ってたら買わなかったのに」
「今更そんなこと言ったって」
「そうだけど、言わずにはいられないのよ。この辺には、フィリピン人との混血も多いようだし」
「子供の付き合いなんかたかだか知れてるさ」
「そうだけど、万が一ってこともあるでしょう。フィリピンの子と何時の間にか友達になってましたってなんて言われたらいやだわ、わたし」
 トイレには行かず、そのまま自分の部屋に戻った。
 お母さんはフィリピン人のことをよく思っていない。
 フィリのことは、絶対に言えない。口が裂けても、だ。
 ぼくは、激しく下腹を突き上げてくるおしっこを我慢して、もう一度布団にもぐっていた。

 翌日、塾の帰りに例のアパートの前を通ると、フィリがかさを持って立っていた。
「かさ、ありがとう」
 ぼくを見つけると、フィリは小鳥みたいに小さな歩幅で駆けてきて、かさをさしだした。
「それから、これ、お礼」
 そう言ってフィリが、スカートのポケットから出したのは、イチゴミルクキャンディーだった。掌には三つのっていた。ぼくはそれを全部受け取り、一つをフィリに返した。
「二人で食べようよ。ありがとう」
 包みを破って口の中に放りこむと、甘い味が広がって唾液が滲み出てきた。
「おいしいよ、フィリも食べな」
 こくんと頷いたフィリはイチゴミルクキャンディーを口の中に入れた。
「大好きなの。よくじゅんぺーさんがくれた」
「そうなんだ」
「だからじゅんぺーさん、犯人じゃない。でも、じゅんぺーさん、帰ってこない。お父さんは、あんなやつはもう帰ってこなくてもいいと言った。でも、あたしは帰ってきてほしい。じゅんぺーさん優しい。いつもこうしてお菓子をくれた」
 赤いスカートから見える膝の下に、青い痣がついていた。それには気付かないふりをする。
「フィリはお父さんと二人暮らしなの?」
「うん。でも、いろんな人達が出入りする。いつもいつも誰かがいて、お父さんと二人きりにはならない」
「お父さんのお友達?」
「だと思う。みんな、お酒をよく飲む。あたしは買いに行かされる。足りなくなると、夜中でも」
「お金を持たされずに?」
「うん」
「かわってるね」
 フィリは困ったような顔をして、両手を後ろに持っていき、膝をあわせて、もじもじさせた。
「どうかわってる?」
「どうって。いろいろ」
 説明に困ってしまった。ぼくはお酒を買いに行かされることもないし、お金を持たせてもらわないこともない。なにもかもが違っている。
「あたし、学校にも行ってない。それって、かわってる?」
 真っ黒な瞳の奥で、なにかがきらりと光っている。
 心臓がどきん、と高鳴った。
「学校に行ってないの? いつから?」
「ずうっと。お父さんがフィリピン女の子供には必要ないから、行くことないって。でも、学校って楽しいんでしょう?」
「楽しいこともあるけど、そうでないことも多いよ」
「学校ではどんなことをするの?」
「いろいろさ」
 かいつまんで、フィリに話してやった。日々の授業のこと。恭介のこと、クラスのこと。フィリは目を輝かせて聞いている。
「あたしも、本当は行きたい。でも、行けない」
 俯いたフィリの瞳が、涙に潤んでいた。