Dr.BEM~ペドフィリアは狂気なのか

7.そして、リエの手にはいまだ白煙を吐く拳銃が握られていた。

 その男はぐったりした少女を肩に担ぎ川辺をゆっくりと歩いていた。少女は気づかないうちに首へレイプドラッグを“注射”されていた。いわゆる「ニードル・スパイキング(Needle Spiking)」で体が動かない。しかし、少女にとって最悪なのは、ほどなく意識が回復していくことにある。一時的に意識を失い体が動かなくなるが、30分ほどで意識が徐々に回復してくる。そんな繊細なドラッグを調合するところにこの男の狂気的な几帳面さが現れている。そう……対象に意識が無くては、彼が望む快楽を十分に得ることができないのだ。自分が捕らえた小鳥が現す声も出ない恐怖の表情。そして小刻みに震えるまだ誰にも侵されていない白い肌の感触。そのどれもが想像するだけでも彼の気持ちを高揚させていく。
 その男はマコトと同じペドフェリアではあるが、それが実際の凶悪な犯罪につながる正真正銘のパラフィリア症候群だ。一般的には、環境の影響、社会的孤立、性的教育の欠如や不適切な情報などの要因が複合的に作用し、パラフィリア症候群が発症すると考えられている。例えば、幼少期の性的外傷体験。また、社会的な孤立や性的教育の不足による未熟な性的発達など……。つまり個人の性的発達の過程における様々な要因が複雑に絡み合って発症するのだ。
 だがしかし、この男にとっては自分のこれまでの人生を振り返ってもそんな要因がひとつも見当たらない。きっと生まれた時から生物学的要因(脳の構造や機能の異常)であったに違いない。いつからと思い出せない時から、合意のない対象、特に小児に対して苦痛や恐怖を与えることでより性的興奮を得る。そして対象をいたぶっ無理やり行う性行為は彼を爆発的なエクスタシーに導いていく。彼はこのひと時に自分へ命が吹き込まれた意味を見出す。それは性的嗜好というより、彼しか感じえない神に近づく崇高な儀式。こどもは神へ供える生贄に過ぎないのだ。
 もう間もなく崇高な儀式を執り行うことになる。少女を担いで藪の中に入り込み、彼にとっては祭壇と言える神聖な場所を物色していると、彼の耳に車の急停車する音が届いた。彼は思わず舌打ちをする。彼の崇高な儀式を邪魔するものが現れたのか……。彼は警戒して少女の片方の靴を地面に投げ捨てると、その反対方向の藪に少女をドスンと落とし身を潜めた。
 
 リエがGPSで示された場所へ行くと果たしてシェアカーのステッカーを貼った車両が停車していた。リエは背中のフォルダから銃を取り出し慎重に近づいて車の様子を伺った。中には誰もいない。車のボンネットの暖かさは、犯人が近くにいることを示していた。リエの連絡で応援はこちらに向かっている。本来はその到着を待つべきなのだろうが、こうしている間も捕らわれた子どもが犯されていることを思うと、なんとか早く見つけ出し犯行を止めなければならないと、リエの心がせいた。
 あらためてマコトの様子を見たが彼はまだ目が覚めていないようだ。バックアップに彼を起こしてもいいが、市民を犯人逮捕の現場で危険に巻き込むわけにもいかないし、何と言ってっも目覚めた彼が先ほどの様な暴力的な怪物のままだと困る。リエはマコトの腕とハンドルを手錠で繋いだ。拳銃をフォルダへしまうと単身ガードレールを跨いだ。
 そこは舗装道路から外れた藪が生い茂ったきつい傾斜地で、たとえそこにマツタケが生い茂っていたとしても誰も入る気にはならないだろう。こんなところを犯人は子供を担いで下っていけたのだろうか。リエは半信半疑でその傾斜を注意深く下っていった。ほどなくすると、薄汚れた藪色にそぐわぬ華やかな色が視界に入った。リエは思わずその色に飛びつく。それは赤い女の子の小さな靴だった。
 もしこれが犠牲者の靴だとすれば、当然近くに犯人がいてあたりまえなのだが、リエは子どもの靴への観察に気をとられ背後の注意を怠った。そして、その報いとして首筋に鋭い痛みを感じることになる。振り返ると注射器を持ったにやけた男が立っていた。彼女の意識が徐々に遠のいていく。

 リエの意識にうっすら光が漏れてきた時、男の声がした。
「ちぇ、もう目覚めか。やっぱり大人の身体には薬が弱すぎか……」
 リエはもうはっきりと男の姿を認識することができた。その男は30台前後、身長は170くらいか。特に印象的な容姿ではなくごく普通の青年といったところだが、東農運輸ロゴが入った帽子からのぞく瞳は何とも言えない醜悪な光を宿していた。
「あんた警官なんだ」
 声の主は薄笑いを浮かべながらリエの警察手帳と拳銃を弄びながら苔の生えた石に腰かけていた。
「よくここまでたどり着いたな。ついに俺は特定されたわけだ」
 リエはその青年の襟首をつかもうと体を動かそうとした。
「無理だよ。意識は戻っても体はまだ動かない」
 リエは持ち前の強気で言い返そうとするが口さえも思い通りに動かない。
「あんたが何を言いたいかはわかる。特定された以上、これから俺の逃亡生活が始まるんだよね。でも俺は捕まらないよ。日本に名を広めた後はカンボジアにでも行って、俺のファンの期待通りの動画を配信して儲けるつもりなんだ」
 男は口角を上げてリエの身体をなめるように見た。
「せっかく来てもらったんだから、あんたを刻んでスプラッター動画でも撮影しようか……そうだ、配信動画の予告編としては丁度いい……」
 男はスマホを岩の上にセットし、ベルトから大きなサバイバルナイフを取り出した。
「あんたひとりで来たみたいだけど、当然応援は呼んでるよね。あまり時間を掛けて楽しんだら面倒なことになりそうだし……早めに刻んでおいた方がいいな」
 リエに近づく男はこれから人を殺めるにもかかわらず、いたって事務的でまるで魚をさばく調理師かのように無表情だった。
 かつて丸暴だった頃、彼女を襲ってこようとする暴漢からはかならず熱を帯びた凶暴性みたいなものを感じていた。それは言い換えれば、自らを奮い立たせようとする人間らしい熱さとも言える。熱さをたぎらせて自分に向かってくる暴漢に、彼女は不思議と親近感に近いモノを感じていたものだ。しかし、この男からはそんな熱は一切感じなかった。彼女は初めて恐怖を覚えた。やはりマコトの言う通り、この男は人間ではないのだろうか。
 リエは動けぬ自分の首筋にサバイバルナイフの冷たい刃先を感じた。その刃先が水平に滑れば皮膚が切り裂かれ、首は切り離され、血に染まった胴体を眺めながら自分は死ぬ。そんな現実が認められず、これは夢なのだと自分に言い聞かせた。なんだが悲しくなって涙が出てきた。
 
「申し訳ないが君。その女、簡単に刻まれては困るんだ」
 その声で刃先の滑りが止まった。男が視線を上げるとそこにニヤニヤ笑っているマコトがいた。彼の手首にある手錠にはハンドルがぶら下がっていた。瞳の色は褐色のままだ。そう怪物マコトが現れたのだ。
「その女刑事、散々僕を利用したあげく、突然殴りつけてハンドルに縛り付けて……このまま綺麗に殺されたんじゃ腹の虫がおさまらない」
 男がマコトを睨みつけた。しかしナイフを持つ自分を見た時に常人の現す恐怖が彼の姿から感じられない。そのあまりにもの落ち着きに異常性を感じて男は警戒を高めた。
「あんたも俺を捕まえに来たのか?」
 マコトは何も答えずただニヤニヤしながら男を見下ろしていた。返答の無いマコトに焦れて男がいった。
「嫌だと言ったら?」
「まぁそうなったら……手ぶらで帰るわけにもいかないし、その女の代りに君の獲物で楽しむしかないな」
 男が子どもを隠した方向を見ると、生贄であった少女の姿はなくなっていた。
「おっ、お前」
 男はニヤニヤ笑うマコトの瞳をのぞき込み、ついにマコトの瞳の奥にある異常性を感じ取った。そうか、この男も自分と同じ狂気を持っているのだ。男が少し緊張を解いて言葉を続けた。
「だったらさ……あんたも一緒に楽しめばいいじゃないか」
 その男の言葉を聞いてマコトの表情が変わった。
「確かに子どもは好きだがスプラッターは趣味じゃない」
 マコトの全身から野獣のような臭気が漂い始めた。
「……それに君の嗜好は尊重するとしても、子どもに対する君の扱い方はちょっと乱暴すぎないか」
 マコトの臭気を嗅いで、男は再び自身の身が固くなるのを感じた。リエの首に添えたナイフを持つ手に力が入り、リエの首の皮膚から血が滲んだ。
「君が捕らえたこどもだけどさ……手足にすり傷があるし、どこかにあたったのか唇にうっすら血が滲んでたよ。まさか、殴ったりはしてないだろうね」
「そっ、そんなこと……どうでもいいことだろ!」
「さっき君は、僕がなんでここに来たか聞いたよね?」
 マコトがゆっくりと一歩踏み出した。
「それは、君が高崎で僕を呼んだからだよ」
 マコトが近づけば近づくほど、彼の粘っこい臭気に絡まれて、男は体が動きにくくなる。リエはリエで自分の頸動脈にナイフが添えらていることも忘れ、マコトの接近に全身が震えるのを感じていた。
「君は怪物のくせに承認欲求なんて人間的なことをして……」
 マコトはゆっくりと歩みを進める。マコトが発する強烈な臭気……それはきっとけた外れの『狂気』なのだろうが……それがもたらす結果は、彼自身を含む彼のまわりのすべてのものの破壊でしかない。
「ぼくへ殺しに来てくれと哀願したからじゃないか」
 その言葉が終わらぬ内に一閃、素早くナイフを持つ男の手首を掴み、怪物マコトはその手を払った。ナイフはリエの首の皮をさっとなぞりながら、宙へ弾き飛ばされる。同時に彼は片方の手で男の眼球に拳をたたき込む。そのパワーとスピードは普段のマコトからは考えられないものだった。顔面を両手で覆って苦しむ男の背後からマコトは腕を回して首を絞めた。みるみる男の頭そして顔が赤くなる。外科医であるマコトは正確に男の気管を塞いだ。
「さあ、君の思い通り……地獄へ戻ろう……」
 男の生気が潮の引くようにゆっくりと薄れていく。男の意識はもう飛んでいるのに、マコトは一向に腕を解こうとしない。先ほど女の子の安全確保のためにその小さな体を抱き上げて車にかくまった。実はその時の感触が彼を極限なまでに高揚させていた。自分でコントロールできないほどの高まり。そのはけ口を探していたマコトは、彼の腕の中でこと切れていく犯人にそれを見出していた。マコトの口元にうっすらと笑みがこぼれていた。
 その時、銃声がした。怪物マコトは右肩を撃ち抜かれ、その焼けるような熱さと衝撃で気を失い、首を締めていた男とともに崩れ落ちる。その銃声に導かれたように数台の車の停車する音が響いた。そして、ようやく半身が動けるように回復していたリエの手には、いまだ白煙を吐く拳銃が握られていた。