4.繋がった……
「おい、吉岡。お前最近データルームへこもりっきりだが、いったい何調べてるんだ」
カフェコーナー。自動販売機の紙コップに紅茶が落ちてきているのを眺めているリエに、高岡チーム長が近づき話しかける。
イオンモール高崎でマコトの衝撃的な言葉を耳元で囁かれて以来、彼女は常に何かに追われているような気分になっていた。一度は彼を突き放したものの、連続事件であるとなったら話は変わる。過去にも同様な犠牲者がいて、そして今後もその犠牲者が増えるということになるのだ。群馬県警の捜査本部ではそんな捜査方針を打ち立てての捜査はまったく行われていなかった。もしそうなら、本庁内に特別捜査本部を設けて、もっと広範囲での捜査を展開しなければならない。
しかし、彼の話を聞いただけで、確たる証拠もなく所轄県警から事件を取り上げて警視庁内に“小児誘拐連続殺人事件 捜査本部”を設置しましょうと上申するわけにもいかない。
『お願いだからリエさん。5歳から10歳までの小児が郊外住宅地で行方不明になり、未だ不明もしくは遺体が発見された未解決事件の情報を集めてもらえないかな。まずはふたりで検討してみようよ』
結局そんなマコトの願いを聞き入れて、こうして忙しい思いをしているリエだった。
「ちょっと探し物があって……」
そんな二人の様子が気になってか、萩原先輩も寄ってきた。
「いくらデータルームを探してもそこに行方不明者が隠れている訳ではないでしょ……いつまでもデータルームに居ないでデスクに戻って仕事しなさい」
萩原先輩の小言に首をすくめるリエ。
「探し物って……これに関係あるのか?」
高岡チーム長が一枚の写真をリエに示した。見ると、辺鄙な川端にたたずむリエとマコトが写っていた。
「群馬県警から高崎の死体遺棄事件の立ち入り禁止現場に侵入した奴がいるって照会があったんだが……これお前だよな」
そうだよ、やっぱ監視員くらいいるよな……。リエは自分の浅はかさに舌打ちする。
「ああ、これですか?これは……ほらこの間の非番の日、ドライブデートしてたんです。隣に写ってる男の人と……」
思わずとぼけた返答を返したが、萩原先輩が見逃すはずはない。
「あなた、非番のデートスポットが事件現場なの?」
「ええ……まあ……行くところが思いつかなくて……」
「そんなデートに付き合う彼ってどんな趣味してるの?変態?」
「ひどいな、彼は変態じゃありません。立派な整形外科医ですよ」
ムキになって反論するが、萩原先輩の皮肉は止まらない。
「将来、彼と結婚したら新婚旅行は全国殺人現場巡りになりかねないわね」
「結婚?先輩、飛躍しすぎですよ!」
ニヤニヤしながら聞いていた高岡チーム長が萩原先輩の皮肉に割って入ってきた。
「いずれにしろだな……萩原、まだ俺たちの出番はないようだよ」
不承不承ながら自分のデスクに戻る萩原先輩を笑ってなだめながら、高岡チーム長はリエの写る写真を胸ポケットにしまった。
「県警には何とかうまいことを言っておくが、くれぐれも内規を破らない範囲でたのむぜ」
リエの肩をポンと叩いて、彼もリエから離れて行った。
マコトのマンションのドアフォンが鳴る。入ってきたのは大きな手提げ袋を持ったリエだった。
「重かったわ。汗かいちゃったんでシャワー借りられる?」
「いっ、いきなりシャワー?」
「それとマコト先生のでいいので着替え貸してくれる?」
「いいけど……ちょっとリエさんにはでかいと思うぜ」
「なんでもいいわ」
「言っておくけど僕の部屋には女性用の下着なんてないからね」
「大丈夫。会社(警視庁)に泊まれるようにいつでも下着の替えは持って出勤しているから」
共同作業を始めていたマコトとリエの間の会話にいつからか敬語が消えていた。リエはマコトに出してもらったTシャツとスウェットの上下そしてタオルを持つとバスルームに飛び込む。リエは清潔で整理されていたバスルームを見て、こんな男と暮らせたら結構便利かもしれないなどと勝手に想像しながらシャワーを浴びる。バスルームから出てきたリエにマコトが声を掛けた。
「とりあえずお腹すいたろ。キッチンに来て食事でもどう?」
キッチンに並んでいるおいしそうな晩餐を見て、リエは思いがけないマコトの申し出に歓喜する。
「ところでさ……その恰好だけどさ……」
キッチンテーブルに着席したリエを一瞥すると目をそらしてマコトが言った。
「何、問題ある?」
「男の部屋で素肌にTシャツ一枚っての何とかならない」
「どうして?楽だし……マコト先生はこんな大人の女の姿見てもなんともないんでしょ」
「まったく……リエさんはペドフィリアを舐めてるよ。ペドフィリアだからって……」
リエがマコトに最後まで言わせず彼に向かって胸を張ってTシャツのをめくり上げようとした。
「それに私の秘密が本当か検証できるじゃない」
マコトは両手で目を覆うと怒ったように叫ぶ。
「リエさんの秘密なんて検証したくない!だいたい食事する相手へ失礼でしょ。上に何か着ないなら晩御飯は食べさせないよ!」
「わかったわよ。そこまで言うなら仕方ないわね……」
リエがTシャツの上にスウェットトレーナーを着て席に戻ると、嬉しそうにマコトの作った夕飯を口に入れた。
「美味しい……マコト先生は料理上手ね」
「こんな私ですから、あまり人付き合いがなくてね。なんでも自分でやる癖がついちゃってね」
そうだ……自分の部屋に人を呼んで自分が作った食事を振舞うなど今までの彼の人生では考えられなかった。一方美味しい晩御飯を頬張るリエは、バスルームで持った『こんな男と暮らしたら便利』という想像が、確信に変わっていくのを禁じえなかった。
食事が終わったふたりはリビングルームに移動すると、リエが持ってきた資料を床にばらまき検討を始める。
「ここ6年の範囲で会社のデータベースを当たってみたの。言われた行方不明届にハマるのが関東圏で6件、でも一応全国であたったら37件もあったわ」
「そうか……人の行動には必ずルーティーンがある。だから同一犯の事件には必ずなにがしら共通点があるものだが……」
「発生場所の地理的な共通点はないわね……ねえ、こんなに全国に散らばっていてさ、本当に連続事件なのかしら」
「改めてそう言われると自信が揺らぐが……コーヒーでも飲んでもう一度見直してみよう」
マコトがキッチンからメーカーマシンで淹れたてのコーヒーを持ってくる。コーヒーの香りで満ちたリビングルーム。カップから立ち上る湯気が、真剣に資料を見比べているマコトの顔をなぜる。リエのガサツな生活からは決して得ることのできない心地よい時間だ。彼女はなぜか今までに感じたことない柔らかい気分に浸って、暫しうっとりマコトを眺めていた。やがて彼の声で我に帰る。
「地理的な共通点は見当たらないが、時間的な要素ではどうだろうか」
「時間ったって行方不明になった時間なんてどれもが想定時間で当てになるかどうか……」
「いや、時間といっても曜日なんだけど……高崎の時は土曜の午後だろ。土曜の午後に行方不明になった届はいくつある?」
リエは自分のノートパソコンに読み込ませたデータベースで検索をする。
「ええっと……2018年に3件 2019年に4件 2020年と2022年の3年間はないわね……それから……2023年は高崎を含めて2件だわね」
「地域とか発生月とか、もっと正確に言うと?」
「2018年5月福島県いわき市。8月岐阜県各務原市。11月熊本県上益城群嘉島町の3件。2019年には6月三重県員弁郡東員町。7月埼玉県越谷市。10月秋田県秋田市。12月沖縄県中頭郡の4件。2023年は9月宮城県名取市。そして10月に高崎……」
リエノートパソコンから顔を上げてマコトに言った。
「ねえ、繰り返して言うけど、これだけばらばらだったら同一犯の犯行って考えるの無理がない?」
「話し終わらせてもう帰りたいの?自分の家に」
「そっ、そんなことないけど……」
こんな心地よい場所から出てガサツな自分の家に帰りたいなんて滅相もない。リエの心の声を聞けば、こんな話打ち切りにしてもっと色っぽい話ができればというのが本音かもしれない。
「リエさんの気持ちもわかるけど、もう少し同一犯の犯行である仮定で考えてみようよ」
この家に居るためにはこの話題を続けるしかない。リエは仕方なくあらためてノートパソコンを覗き込む。
「同一犯の犯行であることを前提で考えると不思議なことがいっぱいよね」
「たとえば?」
「“なぜ2020年から2022年の3年間休止されているのか”ってことがひとつ」
「まあ普通に考えればコロナ禍で行動が規制されていた時期と一致するのだが……ねえリエさん、統計的にその頃の犯罪発生率や行方不明届は減ったりしてるの?」
「確かに窃盗や傷害事件の犯罪発生件数は少なくなってはいるけど、行方不明届は極端に少なくなったりしてはいないわね」
「そうか……土曜に発生する行方不明届に関して言えば、その時期とここまで一致するのは何か理由があるのだろうか?」
「不思議なことはそれだけじゃないわ」
リエがいくつかの資料を掴んでマコトに指し示す。
「発生地区があまりにもバラバラよ。同一犯がこんなに全国を飛び回る必要があるの?」
「そうだね……しかも、なぜそこが狩場として選ばれたのだろう。偶然なのか、それとも必然なのか?」
リエが資料を投げて髪を掻きむしった。
「ああ、考えれば考えるほど頭がどうにかなりそう!」
リエはそう言いながらリビングのソファーに倒れ込む。その倒れ込んだ先に胡坐をかくマコトの膝があった。リエはそれをいいことに彼の膝を抱きよせ枕にすると心地よさそうに身を沈める。
「ちょとリエさん。何で僕の膝を枕代わりにするの」
「さあね……なぜマコト先生の膝が枕として選ばれたのだろう。偶然なのか、それとも必然なのか……」
リエはそんなとぼけたことを言いながら寝返りを打つと、資料収集で疲れていたのだろう寝息を立て始めてしまった。枕にされたマコトはそんな彼女に一瞥はくれたものの、嫌がりもせずそのままの姿勢で資料を読み込む。
やがてリエは眠りと覚醒の谷間で自分が抱きかかえられていることを感じた。完全に覚醒できていない彼女は、あまりにも無防備な姿勢から脱しようとするがどうにも体が動かない。どうやら自分はマコトに寝室へ運ばれているようだ。マコトは寝室に入りリエをベットに横たえた。リエは自分の衣服に手を掛けたら殴りかかってやろうと拳を握ろうとするが、手に力が入らない。限りなく期待に近い警戒を裏切って、マコトは彼女にやさしく上布団を掛けると、それ以上彼女に近づかずただベットのそばでリエを見つめていた。
実はマコトは彼女の寝顔を見つめながら、目の前に居る女性がとても不思議でならなかったのだ。こんな自分だ。絶対に経験することができないだろうと諦めていた他人との普通の生活が、リエの前では簡単に実現できてしまう。彼女は自分がペドフィリアであることを知っている。知っているのになぜこんなにも普通に、いや馴れ馴れしく接してくれるのだろうか。一方で、自分はこの女性に自分がペドフィリアであることを知られているのになぜ、臆することなく普通に話すことができるのだろうか。
それは彼女が彼に持つ感情のゆえであるのだが、この時のマコトにはわかるわけがなかった。
リエたちが絞った案件について各県警からの情報が来るたびに、ふたりはマコトの家で夜な夜な情報検討会議をおこなった。会議が長引き夜遅くなった時は、リエは度々マコトの家に泊まる。こんな私的な捜査を始めてから2週間が経ち、今ではマコトの家の洗面所にリエの歯ブラシが置かれるようにまでなっていた。休日も惜しんで情報検討会議をしていたものだから、知らぬ人から見ればふたりは半同棲のカップルと見えたかもしれない。
しかしながら、捜査会議のふたりはそんなロマンチックな外観とはかけ離れた泥臭さで、送られてくる資料を前に様々な仮説を立てた。しかし小児誘拐連続殺人事件だとしたら、1.なぜ、誘拐は土曜の午後に発生するのか。2.なぜ事件発生現場に拠点性がなく全国各地に散らばっているのか。3.なぜコロナ禍の時期と同時期に発生が中断されているのか。この三つの“なぜ”の解明に近づくことができないでいた。
「だからさ、べつに送ってもらわなくてもよかったのに……」
日曜の今日は、議論も煮詰まってしまい早めに検討会議を終えると、気分転換にふたりで外で食事をした。しかしデートもどきの外食の席でも、相変わらず話すことは事件から離れることができないふたりだった。食事も終わり店を出ると、マコトが帰宅するリエを送っていくと言ってきかず、リエのマンションに向けて肩を並べて歩いていたのだ。
「私が襲われたとしても、マコト先生は私の戦闘能力は知ってるでしょ」
「ああ、確かにね……だけど……リエさんと離れがたくてね」
リエは思わぬマコトの返答に心拍数が上がる。もう自宅のマンションの入口は目の前だ。焦る自分を押さえて、平静を装い彼に尋ねた。
「どうして?」
マコトは歩みを止めるとリエに向き直って彼女を見つめる。リエはその目の奥に真摯な光を見た。
「実はリエさんといると……」
その時、背後からいきなりリエに声を掛ける男がいた。
「吉岡リエさんってあんたかい?」
いつもなら、背後を取られるリエではなかったが、この時は事情が違っていた。マコトの返答に気を取られていたので、背後から近づく男の影に気付くことが遅れた。直感的に危険を感じたリエは乱暴にマコトを突き飛ばす。マコトは訳も分からず地べたに叩きつけられ、驚きのあまり声も出なかった。だがそれはリエへ向けられた襲撃に、間違ってもマコトを巻き添えにしてはいけないとの彼女の思いやりであった。リエは突進してくる男の手の中にある光るモノに気付いていたのだ。
男はリエに刃を突き立てる。ただでさえ遅れを取ったリエが、さらに自身の防御と襲撃者への対応を図る前にマコトを守ったものだから、男の刃物から身をそらすタイミングが遅れた。しかしそこは流石のリエ、体を柔らかくひねり刃物が自分の急所に当たるのを外すが、それが精いっぱい、刃は彼女の右手上腕を深くえぐった。リエはその痛みで弾かれたように路面に倒れ込む。傷口を押さえる左手の指の間からかなりの血が流れ出ていた。
第1波の攻撃で彼女に致命傷を負わせることができなかった男は、焦って第2波の攻撃を仕掛けようとリエに飛び掛かる。倒れるリエにのしかかり、今度こそ致命傷を負わせようと刃を向けるが、リエは向かってくる男の足に自分の足を絡めて地面に倒すと、レスリングの攻撃のように男の背後に素早く回って左手で相手の首をチョークする。しかし、リエのできる防御はここまで。流血で次第に意識が朦朧となり、左手のチョークで相手を気絶させるまでの力が出ない。やがてリエの抑え込みから抜け出した男が第3波の攻撃を仕掛けてきたら、もうリエは諦めざるを得ない状況だった。
最後の力を振り絞って抑え込みを続けるリエの耳に、いきなり男の叫び声が聞こえた。2回目の叫びを聞いた時、抑え込んでいた男の体が蛸のように柔らかくなった気がした。
「リエさん!もう大丈夫だよ!こいつもう動けないから」
マコトの声に力を緩め押さえ込みを解くと、確かに男は痛みに叫びながらも、地面に倒れたまま身動きができないでいた。マコトに助け起こしてもらいながら男を見ると刃物を持っていた右腕と左足があらぬ方向を向いている。その男の異様な姿勢にリエが叫ぶ。
「あんた!いったいなにしたの?」
「なにって……彼の右肩と左股関節、それに主要な関節のいくつかをはずしたから、もう動けないよ」
人は脱臼や骨折をすると冷汗が出るというが、まったくその通り。暴漢は全身びっしょりになりながら、あらぬ方向を向いた手足で人間とは思えない動きでもがいている。今までに経験したことのない自分の体の状況に、その男の目は砂地獄に落ちる小鹿のごとく恐怖に満ちていた。
「リエさん、警察も救急車も……もうすぐくるから!」
リエは地面をのたうち回る男から、彼女の右腕へ必死に止血を施してくれているマコトに視線を移した。
「自分の体が芋虫のようになって……しかも気絶もできない……整形外科医の技って、血が出てない分、余計に怖いわ……」
「えっ、なんか言った?」
「べつに……」
やがて、リエの耳に救急車の音が聞こえてきた。そうだ、警察や救急車が来る前にやっておくべきことがあった。リエは何か思い出して自分を襲った男に歩み寄る。
「リエさん、何するの?」
マコトの問いへ答える替わりに、リエは心の中で叫ぶ。
『あたしゃ、マコト先生の返答を聞きたかったのに、邪魔しやがって!』
リエはもがき苦しむ男の脇腹に、蹴りを入れに行ったのだ。
日曜の夜の病院は静けさに包まれるものだが、ここだけは様子が違う。リエを受け入れた急患の診療室でひと悶着勃発している。リエが救急で運び込まれたが、幸い暴漢に襲われた傷口は太い血管を切断するほど深いものではないと判明。処置としては止血をした後傷口を縫わなければいけなかったのだが、いかんせん宿直の担当外科医が若かった。彼の針を運ぶ手際の悪さにマコトの我慢の緒が切れた。
「そんなんじゃ。傷跡が大きくのこるだろ!針をこっちによこしなさい!」
自分の勤務病院でもないのにマコトが若い担当医の席を奪ってしまった。唖然とする看護師にマコトはテキパキ指示を出して、リエの腕を縫い始めた。
「マコト先生……大丈夫?」
「大丈夫って……誰に言っているの?僕は整形外科医だよ」
心配顔のリエにも、マコトの手は止まらない。
「ちがうよ!別にマコト先生の腕を疑ってるわけじゃないの。ただ……ここで治療するのは道場荒らしみたいなもんでしょ?」
「道場荒らし?ハハハ……いらぬ心配はしないの!僕は医師免許持ってるし、どこの病院でも治療が必要な人に最善の治療を提供するのが病院の使命なんだから」
確かに彼女が隅に追いやられた若い担当外科医を見ると、彼は今後の治療の参考にしようとスムーズに傷口を塞いでいくマコトの運針を覗き込んでいた。
「ところでリエさん。なぜあの男はリエさんを襲ってきたの?」
治療の手を止めずマコトがリエに問いかける。
「ああ、前の会社(警視庁)のセクションが警視庁の組織犯罪対策部4課だったの」
「4課って?」
「つまり……反社会的組織、いわゆる暴力団の取り締まりや摘発を担当する部署ね」
「ああ、テレビでよく出てくる“マル暴”ってやつ?」
「ええ、そこで結構派手にやっちゃって、あるグループから目をつけられてたのよ」
「派手にやちゃったって……まさか、以前診た右拳の骨折が関係してるんじゃ……?」
そんなことしても意味はないのだが、リエは慌てて左手で右の拳を隠す。
「とにかく……それが目に余るって上司からさんざん怒られ、挙句の果てにその部署からたたき出されてしまって……でも実際は、4課にいては私の身も危険だと考えた上司の親御心だと思うけどね」
「じゃ、あの男はヤクザなのか?」
「元ヤクザね。私が潰した暴力団の構成員かしら。現役のヤクザなら警察関係者には手を出さない。もしそんなことしようもんなら、日本国中の警察を敵に回すようなものだから……でも、引っ越し先まで追っかけてくるとは、よっぽ私のこと恨んでたのね」
「刑事も命がけなんですね……」
マコトが最後の糸を切り、縫合を終えると包帯で腕をぐるぐる巻きにして処置を終えようとした時、ふたりに声を掛ける人物がいた。
「あらあら、襲われたって言うから心配して来てあげたけど、ベットに寝てないところを見ると心配ないみたいね」
「萩原先輩!」
萩原は白衣も着ていないのにリエに包帯を巻いている男を訝し気に眺め見る。それに気づいたリエが少し慌てたようにマコトを紹介した。
「この方が、私が襲われた時凄い技で助けてくれて……」
「ああ、この男性ね。殺人現場が好きな整形外科医の彼氏というのは……」
「えっ?」
自分の正体を知っている萩原の発言に驚くマコト。リエが耳元でその訳を説明した。
「この前の高崎の現場行ったとき写真撮られてたのよ」
「マジ?でも……彼氏って?」
密着してこそこそ内緒話をしているふたりが、イチャイチャしているようで気に入らないのか、萩原は不機嫌にリエに言った。
「その調子だと1日も休めば会社に来られるわよね」
「はい、なんとか……」
「ちょっと、リエさん。少しは休まなくちゃ……」
マコトの心配も聞こえていないのか萩原先輩が彼の言葉を遮る。
「無理しないでと言いたいけど、私たちが対応しなければならない失踪届は休日も祝日も関係なく、テーブルに積み重なっていくからね」
不愛想に言い放つ萩原に、リエが気の毒になったマコトがため息をつく。
「大変だねリエさん……殺そうとする元ヤクザもいれば、怪我しても休ませてもらえない先輩が……」
リエが慌ててマコトの口を押さえたが、事はすでに遅し、彼の非難の矛先がしっかり自分に向けられていることは萩原にも理解できたようだ。
「あたしは元やくざと同類かよ?……おい、彼氏さん。言っておきますけどね。私が無理強いしてるのではないの。この危険な世の中が私たちを休ませてくれないのよ!」
「刑事さんには土日も休日もないってことですか……」
包帯を結びながらマコトは小声でボヤク。萩原はもちろんそんなボヤキも聞き逃さない。
「そうよ。現に昨日の土曜にも女の子がいなくなって……」
萩原の言葉にリエが目をむいて反応した。
「土曜?」
その後マコトが怒ったように萩原を問いただす。
「それは何処なんです?」
ふたりの勢いにたじろぐ萩原だったが、なんとか陣地を取り戻してマコトの問いを押し返す。
「そんなこと一般人の彼氏に言えるわけないでしょ……」
「萩原先輩、そんなことどうでもいいから、どこなんですか?!」
しかし、包帯を巻いた右腕を振りかざして迫るリエの迫力には押されて、萩原がついに土俵を割った。
「長野県佐久市よ……」
自分たちは間に合わなかったのか……。リエとマコトは己たちの無能さを呪い、絶望的な眼差しでお互いの顔を見つめ合った。
翌日、リエは怪我の養生に取得した休日にもかかわらず、佐久平の失踪届のあった付近の公園にいた。公園のベンチに座る彼女の横にはマコトが座っていた。ふたりは、早朝から失踪届のあった佐久平にやってきて、その現場を逐一見て回った。そしてやはり何もつかむことができず、疲れ切ってこのベンチにへたり込んだのだ。
佐久平は長野県東信地方の佐久(さく)市にあり、群馬県との県境に位置する。佐久市は上信越自動車道や北陸新幹線の開通以来、佐久平駅前のイオンモール佐久平、スーパーモール佐久平内のベイシアやカインズホームなどの大型店舗が次々と林立し大きく発展し、上田市と並ぶ東信地方の中心都市としての地位を確立した新興都市である。新幹線開通によってもたらされた急成長は他の整備新幹線計画等において参考とされることがある。広々とした土地に高いビルもなく、遠く浅間山・八ヶ岳・蓼科山・中央アルプス・北アルプスを望める広い空が特徴的だ。
だが晴れ渡る佐久平の空に似合わず、ベンチに座り込むふたりの気持ちは重く沈んでいた。失踪届のあった現場ではまだ大規模な探索が進んでいる。いまだ女の子の発見には至っていないが、ふたりは同じことを考えていた。もしこの失踪が自分たちの追っている事件であるならば、女の子が生きて発見されることはまずないだろう。ああ、もっと早く自分たちがこの一連の事件の糸口をつかんでいたら、今回の失踪は防げていたはずなのだ。自分たちの無能さが無念でならない。
リエはマコトの足元に小さなピンクのボールが転がってきたことに気付いた。公園で遊ぶことども達が柔らかいボールを投げ合って遊んでいたのだろう。マコトは思わずそのボールを拾ったのだが、10歳くらいの女の子がマコトの足元にあるボールを取りに近づいてくるのを見ると、助けを求めるようにリエを見た。リエはマコトが何を望んでいるのかは分かっていた。ボールをマコトから受け取ると少女に渡した。
「ありがとうございます」
女の子はボールを受け取ると嬉しそうに友達ちの輪に戻ろうとした。
「ちょっと待って……」
急にか細い声でマコトが呼び止めた。意外な言動に驚いているリエにマコトは可愛いキャラクターの描かれたカットバンを渡す。そしてリエに女の子の膝小僧を見るように促した。そこには小さな傷があって、うっすら血が滲んでいた。
「あらまあ、膝を怪我してるのね。お姉さんが絆創膏貼ってあげる」
リエがマコトの意図を理解して、女の子の膝にカットバンを貼ってあげた。かわいい絆創膏を見た女の子はさらに嬉しそうにお礼を言うと駆け出して仲間のもとへ見せに行った。マコトはそっぽを向いていたが、彼の心拍数が上がっていることは、ベンチを伝わってリエにもしっかり伝わっていた。マコトはリエに見つめられて硬い表情で言った。
「信じてもらえるかどうかわかりませんが……僕はペドフィリアですけど……傷ついた子どもを見るのが嫌なんです」
そうか……マコト先生は、女児を見て性的興奮を生じてしまう自分と、子どもを傷つけることが許せない自分のパラドクスのクレパスの中にいる。きっとその中で、いままでも、そしてこれからもずっともがき苦しむのだろう。そんなマコトを思うと、リエは哀れで固く抱きしめてあげたい衝動にかられた。
長い沈黙の後、マコトが表情を和らげてリエに語り掛けた。
「お腹すきましたよね。どこかでお昼にしませんか?」
「どこかって言っても……こんな郊外ではファミレスぐらいしか……」
「いや折角長野へ来たのだから、そばでも食べましょうよ。ここへ来る途中目にした蕎麦屋があるんです」
彼らが入ったのは佐久平駅にほど近い「佐久の草笛」という蕎麦屋であった。東京の高級蕎麦屋とは異なり注文時に店員から「うちの蕎麦は量が多いですから」と注意されるほどの蕎麦をガッツリと食べられる地元店である。普通なら大盛りの信州そばを目の前にて旅行気分を満喫できるのだろうが、今日のふたりの頭からはこの地で起きた失踪事件が離れることはない。
「佐久平での失踪も私たちが追っている事件と関連があるのなら、今年は9月宮城県名取市。そして10月に高崎、そして11月に佐久平……。もう毎月のペースになってるわよ」
「ああ、12月にも日本のどこかで次の犠牲者が出るってことだね。それを防ぐためなら僕は何だってするよ」
「気持ちは先行しても……私たちなんの手がかりもつかんでないわ」
ふたりは黙って蕎麦を噛み締めた。蕎麦の苦味が心にしみる。やがてリエが顔を上げて諦めたようにマコトに言った。
「もう、ふたりだけの捜査では限界じゃない?このペースでいったら次の犯行を止めるのに間に合わない」
「そうだね……もう素人の僕との捜査ごっこに付き合うのはやめて、リエさんの上司に相談して本格的な捜査をお願いした方がいいかもしれない」
「捜査ごっこなんて……私、そんな風に思ったことないわよ。いつも真剣なんだから」
自虐的なマコトの言い様に、リエは口元からそばつゆを飛ばして抗議した。しかし、リエはそう怒ってみたものの、そばをつゆに浸しながら弱々しく続ける。
「でもね、いまのばらばらの情報のままじゃ、いくら相談してもまともに取り合ってくれないと思うの」
「そうなんだ……」
ふたりはまた黙り込んで蕎麦を噛み締めた。
やがてざるの底が見えると、ふたりは食事を終えて何の成果も進展もないまま帰京せざるを得ないことを悟った。
「そろそろ帰ろうか」
「そうね。でもちょっと新幹線へ乗る前に買いたいものがあるの。付き合ってくれる?」
「まさか職場に土産?」
「違うわよ。急にお客さん来ちゃって……って、何言わせんのよ」
「ああそういう事、自分は医師だから気にしないでいいよ。ところで……この辺にドラッグストアあるのかな?付近にコンビニもなかったし……」
「ほらあそこにイオンモールがあるでしょ。中にドラッグストアが絶対あるわよ」
リエが蕎麦屋の窓から見えるイオンモールの大看板を指さす。
「ああ、そうだね。あそこなら……」
マコトの動きが突然止まった。
「何フリーズしてんのよ。ここは割り勘よ。私を先に会計へいかせて奢らせる魂胆でも……」
「ちがうんだよ!リエさん!」
マコトが興奮のあまりいきなり怪我をしているリエの腕を取った。
「痛いわよ、マコト先生!どうしたの?」
「リエさん、確か高崎の失踪現場付近にもイオンモールがあったよね」
「ええ、確か……そこでご飯食べた」
「宮城県ではイオンモールあったのかな?正確には名取市?」
リエはマコトの腕を振り払うとスマホで確認する。
「あったわよ『イオンモール名取』」
「2018年からの現場では?」
「ええっと……福島県いわき市には『イオンモールいわき小名浜』。岐阜県各務原市には『イオンモール各務原』。熊本県上益城群嘉島町には『イオンモール熊本』。2019年の三重県員弁郡東員町には『イオンモール東員』。埼玉県越谷市には『イオンレイクタウンmori』。秋田県秋田市には『イオンモール秋田』。沖縄県中頭郡には『イオンモール沖縄ライカム』」
「今年は9月の『イオンモール名取』10月の『イオンモール高崎』そして10月はここの『イオンモール佐久平』」
繋がった……。ふたりは立ち上がるとしばらく顔を見合わせていた。そして傍から見れば食い逃げと間違われるくらいの速さで店を飛び出て佐久平駅へ走り込み、帰京の切符を買った。むろんリエは自分の体に訪れたお客さんのことなどとうに忘れ去っていた。
「おい、吉岡。お前最近データルームへこもりっきりだが、いったい何調べてるんだ」
カフェコーナー。自動販売機の紙コップに紅茶が落ちてきているのを眺めているリエに、高岡チーム長が近づき話しかける。
イオンモール高崎でマコトの衝撃的な言葉を耳元で囁かれて以来、彼女は常に何かに追われているような気分になっていた。一度は彼を突き放したものの、連続事件であるとなったら話は変わる。過去にも同様な犠牲者がいて、そして今後もその犠牲者が増えるということになるのだ。群馬県警の捜査本部ではそんな捜査方針を打ち立てての捜査はまったく行われていなかった。もしそうなら、本庁内に特別捜査本部を設けて、もっと広範囲での捜査を展開しなければならない。
しかし、彼の話を聞いただけで、確たる証拠もなく所轄県警から事件を取り上げて警視庁内に“小児誘拐連続殺人事件 捜査本部”を設置しましょうと上申するわけにもいかない。
『お願いだからリエさん。5歳から10歳までの小児が郊外住宅地で行方不明になり、未だ不明もしくは遺体が発見された未解決事件の情報を集めてもらえないかな。まずはふたりで検討してみようよ』
結局そんなマコトの願いを聞き入れて、こうして忙しい思いをしているリエだった。
「ちょっと探し物があって……」
そんな二人の様子が気になってか、萩原先輩も寄ってきた。
「いくらデータルームを探してもそこに行方不明者が隠れている訳ではないでしょ……いつまでもデータルームに居ないでデスクに戻って仕事しなさい」
萩原先輩の小言に首をすくめるリエ。
「探し物って……これに関係あるのか?」
高岡チーム長が一枚の写真をリエに示した。見ると、辺鄙な川端にたたずむリエとマコトが写っていた。
「群馬県警から高崎の死体遺棄事件の立ち入り禁止現場に侵入した奴がいるって照会があったんだが……これお前だよな」
そうだよ、やっぱ監視員くらいいるよな……。リエは自分の浅はかさに舌打ちする。
「ああ、これですか?これは……ほらこの間の非番の日、ドライブデートしてたんです。隣に写ってる男の人と……」
思わずとぼけた返答を返したが、萩原先輩が見逃すはずはない。
「あなた、非番のデートスポットが事件現場なの?」
「ええ……まあ……行くところが思いつかなくて……」
「そんなデートに付き合う彼ってどんな趣味してるの?変態?」
「ひどいな、彼は変態じゃありません。立派な整形外科医ですよ」
ムキになって反論するが、萩原先輩の皮肉は止まらない。
「将来、彼と結婚したら新婚旅行は全国殺人現場巡りになりかねないわね」
「結婚?先輩、飛躍しすぎですよ!」
ニヤニヤしながら聞いていた高岡チーム長が萩原先輩の皮肉に割って入ってきた。
「いずれにしろだな……萩原、まだ俺たちの出番はないようだよ」
不承不承ながら自分のデスクに戻る萩原先輩を笑ってなだめながら、高岡チーム長はリエの写る写真を胸ポケットにしまった。
「県警には何とかうまいことを言っておくが、くれぐれも内規を破らない範囲でたのむぜ」
リエの肩をポンと叩いて、彼もリエから離れて行った。
マコトのマンションのドアフォンが鳴る。入ってきたのは大きな手提げ袋を持ったリエだった。
「重かったわ。汗かいちゃったんでシャワー借りられる?」
「いっ、いきなりシャワー?」
「それとマコト先生のでいいので着替え貸してくれる?」
「いいけど……ちょっとリエさんにはでかいと思うぜ」
「なんでもいいわ」
「言っておくけど僕の部屋には女性用の下着なんてないからね」
「大丈夫。会社(警視庁)に泊まれるようにいつでも下着の替えは持って出勤しているから」
共同作業を始めていたマコトとリエの間の会話にいつからか敬語が消えていた。リエはマコトに出してもらったTシャツとスウェットの上下そしてタオルを持つとバスルームに飛び込む。リエは清潔で整理されていたバスルームを見て、こんな男と暮らせたら結構便利かもしれないなどと勝手に想像しながらシャワーを浴びる。バスルームから出てきたリエにマコトが声を掛けた。
「とりあえずお腹すいたろ。キッチンに来て食事でもどう?」
キッチンに並んでいるおいしそうな晩餐を見て、リエは思いがけないマコトの申し出に歓喜する。
「ところでさ……その恰好だけどさ……」
キッチンテーブルに着席したリエを一瞥すると目をそらしてマコトが言った。
「何、問題ある?」
「男の部屋で素肌にTシャツ一枚っての何とかならない」
「どうして?楽だし……マコト先生はこんな大人の女の姿見てもなんともないんでしょ」
「まったく……リエさんはペドフィリアを舐めてるよ。ペドフィリアだからって……」
リエがマコトに最後まで言わせず彼に向かって胸を張ってTシャツのをめくり上げようとした。
「それに私の秘密が本当か検証できるじゃない」
マコトは両手で目を覆うと怒ったように叫ぶ。
「リエさんの秘密なんて検証したくない!だいたい食事する相手へ失礼でしょ。上に何か着ないなら晩御飯は食べさせないよ!」
「わかったわよ。そこまで言うなら仕方ないわね……」
リエがTシャツの上にスウェットトレーナーを着て席に戻ると、嬉しそうにマコトの作った夕飯を口に入れた。
「美味しい……マコト先生は料理上手ね」
「こんな私ですから、あまり人付き合いがなくてね。なんでも自分でやる癖がついちゃってね」
そうだ……自分の部屋に人を呼んで自分が作った食事を振舞うなど今までの彼の人生では考えられなかった。一方美味しい晩御飯を頬張るリエは、バスルームで持った『こんな男と暮らしたら便利』という想像が、確信に変わっていくのを禁じえなかった。
食事が終わったふたりはリビングルームに移動すると、リエが持ってきた資料を床にばらまき検討を始める。
「ここ6年の範囲で会社のデータベースを当たってみたの。言われた行方不明届にハマるのが関東圏で6件、でも一応全国であたったら37件もあったわ」
「そうか……人の行動には必ずルーティーンがある。だから同一犯の事件には必ずなにがしら共通点があるものだが……」
「発生場所の地理的な共通点はないわね……ねえ、こんなに全国に散らばっていてさ、本当に連続事件なのかしら」
「改めてそう言われると自信が揺らぐが……コーヒーでも飲んでもう一度見直してみよう」
マコトがキッチンからメーカーマシンで淹れたてのコーヒーを持ってくる。コーヒーの香りで満ちたリビングルーム。カップから立ち上る湯気が、真剣に資料を見比べているマコトの顔をなぜる。リエのガサツな生活からは決して得ることのできない心地よい時間だ。彼女はなぜか今までに感じたことない柔らかい気分に浸って、暫しうっとりマコトを眺めていた。やがて彼の声で我に帰る。
「地理的な共通点は見当たらないが、時間的な要素ではどうだろうか」
「時間ったって行方不明になった時間なんてどれもが想定時間で当てになるかどうか……」
「いや、時間といっても曜日なんだけど……高崎の時は土曜の午後だろ。土曜の午後に行方不明になった届はいくつある?」
リエは自分のノートパソコンに読み込ませたデータベースで検索をする。
「ええっと……2018年に3件 2019年に4件 2020年と2022年の3年間はないわね……それから……2023年は高崎を含めて2件だわね」
「地域とか発生月とか、もっと正確に言うと?」
「2018年5月福島県いわき市。8月岐阜県各務原市。11月熊本県上益城群嘉島町の3件。2019年には6月三重県員弁郡東員町。7月埼玉県越谷市。10月秋田県秋田市。12月沖縄県中頭郡の4件。2023年は9月宮城県名取市。そして10月に高崎……」
リエノートパソコンから顔を上げてマコトに言った。
「ねえ、繰り返して言うけど、これだけばらばらだったら同一犯の犯行って考えるの無理がない?」
「話し終わらせてもう帰りたいの?自分の家に」
「そっ、そんなことないけど……」
こんな心地よい場所から出てガサツな自分の家に帰りたいなんて滅相もない。リエの心の声を聞けば、こんな話打ち切りにしてもっと色っぽい話ができればというのが本音かもしれない。
「リエさんの気持ちもわかるけど、もう少し同一犯の犯行である仮定で考えてみようよ」
この家に居るためにはこの話題を続けるしかない。リエは仕方なくあらためてノートパソコンを覗き込む。
「同一犯の犯行であることを前提で考えると不思議なことがいっぱいよね」
「たとえば?」
「“なぜ2020年から2022年の3年間休止されているのか”ってことがひとつ」
「まあ普通に考えればコロナ禍で行動が規制されていた時期と一致するのだが……ねえリエさん、統計的にその頃の犯罪発生率や行方不明届は減ったりしてるの?」
「確かに窃盗や傷害事件の犯罪発生件数は少なくなってはいるけど、行方不明届は極端に少なくなったりしてはいないわね」
「そうか……土曜に発生する行方不明届に関して言えば、その時期とここまで一致するのは何か理由があるのだろうか?」
「不思議なことはそれだけじゃないわ」
リエがいくつかの資料を掴んでマコトに指し示す。
「発生地区があまりにもバラバラよ。同一犯がこんなに全国を飛び回る必要があるの?」
「そうだね……しかも、なぜそこが狩場として選ばれたのだろう。偶然なのか、それとも必然なのか?」
リエが資料を投げて髪を掻きむしった。
「ああ、考えれば考えるほど頭がどうにかなりそう!」
リエはそう言いながらリビングのソファーに倒れ込む。その倒れ込んだ先に胡坐をかくマコトの膝があった。リエはそれをいいことに彼の膝を抱きよせ枕にすると心地よさそうに身を沈める。
「ちょとリエさん。何で僕の膝を枕代わりにするの」
「さあね……なぜマコト先生の膝が枕として選ばれたのだろう。偶然なのか、それとも必然なのか……」
リエはそんなとぼけたことを言いながら寝返りを打つと、資料収集で疲れていたのだろう寝息を立て始めてしまった。枕にされたマコトはそんな彼女に一瞥はくれたものの、嫌がりもせずそのままの姿勢で資料を読み込む。
やがてリエは眠りと覚醒の谷間で自分が抱きかかえられていることを感じた。完全に覚醒できていない彼女は、あまりにも無防備な姿勢から脱しようとするがどうにも体が動かない。どうやら自分はマコトに寝室へ運ばれているようだ。マコトは寝室に入りリエをベットに横たえた。リエは自分の衣服に手を掛けたら殴りかかってやろうと拳を握ろうとするが、手に力が入らない。限りなく期待に近い警戒を裏切って、マコトは彼女にやさしく上布団を掛けると、それ以上彼女に近づかずただベットのそばでリエを見つめていた。
実はマコトは彼女の寝顔を見つめながら、目の前に居る女性がとても不思議でならなかったのだ。こんな自分だ。絶対に経験することができないだろうと諦めていた他人との普通の生活が、リエの前では簡単に実現できてしまう。彼女は自分がペドフィリアであることを知っている。知っているのになぜこんなにも普通に、いや馴れ馴れしく接してくれるのだろうか。一方で、自分はこの女性に自分がペドフィリアであることを知られているのになぜ、臆することなく普通に話すことができるのだろうか。
それは彼女が彼に持つ感情のゆえであるのだが、この時のマコトにはわかるわけがなかった。
リエたちが絞った案件について各県警からの情報が来るたびに、ふたりはマコトの家で夜な夜な情報検討会議をおこなった。会議が長引き夜遅くなった時は、リエは度々マコトの家に泊まる。こんな私的な捜査を始めてから2週間が経ち、今ではマコトの家の洗面所にリエの歯ブラシが置かれるようにまでなっていた。休日も惜しんで情報検討会議をしていたものだから、知らぬ人から見ればふたりは半同棲のカップルと見えたかもしれない。
しかしながら、捜査会議のふたりはそんなロマンチックな外観とはかけ離れた泥臭さで、送られてくる資料を前に様々な仮説を立てた。しかし小児誘拐連続殺人事件だとしたら、1.なぜ、誘拐は土曜の午後に発生するのか。2.なぜ事件発生現場に拠点性がなく全国各地に散らばっているのか。3.なぜコロナ禍の時期と同時期に発生が中断されているのか。この三つの“なぜ”の解明に近づくことができないでいた。
「だからさ、べつに送ってもらわなくてもよかったのに……」
日曜の今日は、議論も煮詰まってしまい早めに検討会議を終えると、気分転換にふたりで外で食事をした。しかしデートもどきの外食の席でも、相変わらず話すことは事件から離れることができないふたりだった。食事も終わり店を出ると、マコトが帰宅するリエを送っていくと言ってきかず、リエのマンションに向けて肩を並べて歩いていたのだ。
「私が襲われたとしても、マコト先生は私の戦闘能力は知ってるでしょ」
「ああ、確かにね……だけど……リエさんと離れがたくてね」
リエは思わぬマコトの返答に心拍数が上がる。もう自宅のマンションの入口は目の前だ。焦る自分を押さえて、平静を装い彼に尋ねた。
「どうして?」
マコトは歩みを止めるとリエに向き直って彼女を見つめる。リエはその目の奥に真摯な光を見た。
「実はリエさんといると……」
その時、背後からいきなりリエに声を掛ける男がいた。
「吉岡リエさんってあんたかい?」
いつもなら、背後を取られるリエではなかったが、この時は事情が違っていた。マコトの返答に気を取られていたので、背後から近づく男の影に気付くことが遅れた。直感的に危険を感じたリエは乱暴にマコトを突き飛ばす。マコトは訳も分からず地べたに叩きつけられ、驚きのあまり声も出なかった。だがそれはリエへ向けられた襲撃に、間違ってもマコトを巻き添えにしてはいけないとの彼女の思いやりであった。リエは突進してくる男の手の中にある光るモノに気付いていたのだ。
男はリエに刃を突き立てる。ただでさえ遅れを取ったリエが、さらに自身の防御と襲撃者への対応を図る前にマコトを守ったものだから、男の刃物から身をそらすタイミングが遅れた。しかしそこは流石のリエ、体を柔らかくひねり刃物が自分の急所に当たるのを外すが、それが精いっぱい、刃は彼女の右手上腕を深くえぐった。リエはその痛みで弾かれたように路面に倒れ込む。傷口を押さえる左手の指の間からかなりの血が流れ出ていた。
第1波の攻撃で彼女に致命傷を負わせることができなかった男は、焦って第2波の攻撃を仕掛けようとリエに飛び掛かる。倒れるリエにのしかかり、今度こそ致命傷を負わせようと刃を向けるが、リエは向かってくる男の足に自分の足を絡めて地面に倒すと、レスリングの攻撃のように男の背後に素早く回って左手で相手の首をチョークする。しかし、リエのできる防御はここまで。流血で次第に意識が朦朧となり、左手のチョークで相手を気絶させるまでの力が出ない。やがてリエの抑え込みから抜け出した男が第3波の攻撃を仕掛けてきたら、もうリエは諦めざるを得ない状況だった。
最後の力を振り絞って抑え込みを続けるリエの耳に、いきなり男の叫び声が聞こえた。2回目の叫びを聞いた時、抑え込んでいた男の体が蛸のように柔らかくなった気がした。
「リエさん!もう大丈夫だよ!こいつもう動けないから」
マコトの声に力を緩め押さえ込みを解くと、確かに男は痛みに叫びながらも、地面に倒れたまま身動きができないでいた。マコトに助け起こしてもらいながら男を見ると刃物を持っていた右腕と左足があらぬ方向を向いている。その男の異様な姿勢にリエが叫ぶ。
「あんた!いったいなにしたの?」
「なにって……彼の右肩と左股関節、それに主要な関節のいくつかをはずしたから、もう動けないよ」
人は脱臼や骨折をすると冷汗が出るというが、まったくその通り。暴漢は全身びっしょりになりながら、あらぬ方向を向いた手足で人間とは思えない動きでもがいている。今までに経験したことのない自分の体の状況に、その男の目は砂地獄に落ちる小鹿のごとく恐怖に満ちていた。
「リエさん、警察も救急車も……もうすぐくるから!」
リエは地面をのたうち回る男から、彼女の右腕へ必死に止血を施してくれているマコトに視線を移した。
「自分の体が芋虫のようになって……しかも気絶もできない……整形外科医の技って、血が出てない分、余計に怖いわ……」
「えっ、なんか言った?」
「べつに……」
やがて、リエの耳に救急車の音が聞こえてきた。そうだ、警察や救急車が来る前にやっておくべきことがあった。リエは何か思い出して自分を襲った男に歩み寄る。
「リエさん、何するの?」
マコトの問いへ答える替わりに、リエは心の中で叫ぶ。
『あたしゃ、マコト先生の返答を聞きたかったのに、邪魔しやがって!』
リエはもがき苦しむ男の脇腹に、蹴りを入れに行ったのだ。
日曜の夜の病院は静けさに包まれるものだが、ここだけは様子が違う。リエを受け入れた急患の診療室でひと悶着勃発している。リエが救急で運び込まれたが、幸い暴漢に襲われた傷口は太い血管を切断するほど深いものではないと判明。処置としては止血をした後傷口を縫わなければいけなかったのだが、いかんせん宿直の担当外科医が若かった。彼の針を運ぶ手際の悪さにマコトの我慢の緒が切れた。
「そんなんじゃ。傷跡が大きくのこるだろ!針をこっちによこしなさい!」
自分の勤務病院でもないのにマコトが若い担当医の席を奪ってしまった。唖然とする看護師にマコトはテキパキ指示を出して、リエの腕を縫い始めた。
「マコト先生……大丈夫?」
「大丈夫って……誰に言っているの?僕は整形外科医だよ」
心配顔のリエにも、マコトの手は止まらない。
「ちがうよ!別にマコト先生の腕を疑ってるわけじゃないの。ただ……ここで治療するのは道場荒らしみたいなもんでしょ?」
「道場荒らし?ハハハ……いらぬ心配はしないの!僕は医師免許持ってるし、どこの病院でも治療が必要な人に最善の治療を提供するのが病院の使命なんだから」
確かに彼女が隅に追いやられた若い担当外科医を見ると、彼は今後の治療の参考にしようとスムーズに傷口を塞いでいくマコトの運針を覗き込んでいた。
「ところでリエさん。なぜあの男はリエさんを襲ってきたの?」
治療の手を止めずマコトがリエに問いかける。
「ああ、前の会社(警視庁)のセクションが警視庁の組織犯罪対策部4課だったの」
「4課って?」
「つまり……反社会的組織、いわゆる暴力団の取り締まりや摘発を担当する部署ね」
「ああ、テレビでよく出てくる“マル暴”ってやつ?」
「ええ、そこで結構派手にやっちゃって、あるグループから目をつけられてたのよ」
「派手にやちゃったって……まさか、以前診た右拳の骨折が関係してるんじゃ……?」
そんなことしても意味はないのだが、リエは慌てて左手で右の拳を隠す。
「とにかく……それが目に余るって上司からさんざん怒られ、挙句の果てにその部署からたたき出されてしまって……でも実際は、4課にいては私の身も危険だと考えた上司の親御心だと思うけどね」
「じゃ、あの男はヤクザなのか?」
「元ヤクザね。私が潰した暴力団の構成員かしら。現役のヤクザなら警察関係者には手を出さない。もしそんなことしようもんなら、日本国中の警察を敵に回すようなものだから……でも、引っ越し先まで追っかけてくるとは、よっぽ私のこと恨んでたのね」
「刑事も命がけなんですね……」
マコトが最後の糸を切り、縫合を終えると包帯で腕をぐるぐる巻きにして処置を終えようとした時、ふたりに声を掛ける人物がいた。
「あらあら、襲われたって言うから心配して来てあげたけど、ベットに寝てないところを見ると心配ないみたいね」
「萩原先輩!」
萩原は白衣も着ていないのにリエに包帯を巻いている男を訝し気に眺め見る。それに気づいたリエが少し慌てたようにマコトを紹介した。
「この方が、私が襲われた時凄い技で助けてくれて……」
「ああ、この男性ね。殺人現場が好きな整形外科医の彼氏というのは……」
「えっ?」
自分の正体を知っている萩原の発言に驚くマコト。リエが耳元でその訳を説明した。
「この前の高崎の現場行ったとき写真撮られてたのよ」
「マジ?でも……彼氏って?」
密着してこそこそ内緒話をしているふたりが、イチャイチャしているようで気に入らないのか、萩原は不機嫌にリエに言った。
「その調子だと1日も休めば会社に来られるわよね」
「はい、なんとか……」
「ちょっと、リエさん。少しは休まなくちゃ……」
マコトの心配も聞こえていないのか萩原先輩が彼の言葉を遮る。
「無理しないでと言いたいけど、私たちが対応しなければならない失踪届は休日も祝日も関係なく、テーブルに積み重なっていくからね」
不愛想に言い放つ萩原に、リエが気の毒になったマコトがため息をつく。
「大変だねリエさん……殺そうとする元ヤクザもいれば、怪我しても休ませてもらえない先輩が……」
リエが慌ててマコトの口を押さえたが、事はすでに遅し、彼の非難の矛先がしっかり自分に向けられていることは萩原にも理解できたようだ。
「あたしは元やくざと同類かよ?……おい、彼氏さん。言っておきますけどね。私が無理強いしてるのではないの。この危険な世の中が私たちを休ませてくれないのよ!」
「刑事さんには土日も休日もないってことですか……」
包帯を結びながらマコトは小声でボヤク。萩原はもちろんそんなボヤキも聞き逃さない。
「そうよ。現に昨日の土曜にも女の子がいなくなって……」
萩原の言葉にリエが目をむいて反応した。
「土曜?」
その後マコトが怒ったように萩原を問いただす。
「それは何処なんです?」
ふたりの勢いにたじろぐ萩原だったが、なんとか陣地を取り戻してマコトの問いを押し返す。
「そんなこと一般人の彼氏に言えるわけないでしょ……」
「萩原先輩、そんなことどうでもいいから、どこなんですか?!」
しかし、包帯を巻いた右腕を振りかざして迫るリエの迫力には押されて、萩原がついに土俵を割った。
「長野県佐久市よ……」
自分たちは間に合わなかったのか……。リエとマコトは己たちの無能さを呪い、絶望的な眼差しでお互いの顔を見つめ合った。
翌日、リエは怪我の養生に取得した休日にもかかわらず、佐久平の失踪届のあった付近の公園にいた。公園のベンチに座る彼女の横にはマコトが座っていた。ふたりは、早朝から失踪届のあった佐久平にやってきて、その現場を逐一見て回った。そしてやはり何もつかむことができず、疲れ切ってこのベンチにへたり込んだのだ。
佐久平は長野県東信地方の佐久(さく)市にあり、群馬県との県境に位置する。佐久市は上信越自動車道や北陸新幹線の開通以来、佐久平駅前のイオンモール佐久平、スーパーモール佐久平内のベイシアやカインズホームなどの大型店舗が次々と林立し大きく発展し、上田市と並ぶ東信地方の中心都市としての地位を確立した新興都市である。新幹線開通によってもたらされた急成長は他の整備新幹線計画等において参考とされることがある。広々とした土地に高いビルもなく、遠く浅間山・八ヶ岳・蓼科山・中央アルプス・北アルプスを望める広い空が特徴的だ。
だが晴れ渡る佐久平の空に似合わず、ベンチに座り込むふたりの気持ちは重く沈んでいた。失踪届のあった現場ではまだ大規模な探索が進んでいる。いまだ女の子の発見には至っていないが、ふたりは同じことを考えていた。もしこの失踪が自分たちの追っている事件であるならば、女の子が生きて発見されることはまずないだろう。ああ、もっと早く自分たちがこの一連の事件の糸口をつかんでいたら、今回の失踪は防げていたはずなのだ。自分たちの無能さが無念でならない。
リエはマコトの足元に小さなピンクのボールが転がってきたことに気付いた。公園で遊ぶことども達が柔らかいボールを投げ合って遊んでいたのだろう。マコトは思わずそのボールを拾ったのだが、10歳くらいの女の子がマコトの足元にあるボールを取りに近づいてくるのを見ると、助けを求めるようにリエを見た。リエはマコトが何を望んでいるのかは分かっていた。ボールをマコトから受け取ると少女に渡した。
「ありがとうございます」
女の子はボールを受け取ると嬉しそうに友達ちの輪に戻ろうとした。
「ちょっと待って……」
急にか細い声でマコトが呼び止めた。意外な言動に驚いているリエにマコトは可愛いキャラクターの描かれたカットバンを渡す。そしてリエに女の子の膝小僧を見るように促した。そこには小さな傷があって、うっすら血が滲んでいた。
「あらまあ、膝を怪我してるのね。お姉さんが絆創膏貼ってあげる」
リエがマコトの意図を理解して、女の子の膝にカットバンを貼ってあげた。かわいい絆創膏を見た女の子はさらに嬉しそうにお礼を言うと駆け出して仲間のもとへ見せに行った。マコトはそっぽを向いていたが、彼の心拍数が上がっていることは、ベンチを伝わってリエにもしっかり伝わっていた。マコトはリエに見つめられて硬い表情で言った。
「信じてもらえるかどうかわかりませんが……僕はペドフィリアですけど……傷ついた子どもを見るのが嫌なんです」
そうか……マコト先生は、女児を見て性的興奮を生じてしまう自分と、子どもを傷つけることが許せない自分のパラドクスのクレパスの中にいる。きっとその中で、いままでも、そしてこれからもずっともがき苦しむのだろう。そんなマコトを思うと、リエは哀れで固く抱きしめてあげたい衝動にかられた。
長い沈黙の後、マコトが表情を和らげてリエに語り掛けた。
「お腹すきましたよね。どこかでお昼にしませんか?」
「どこかって言っても……こんな郊外ではファミレスぐらいしか……」
「いや折角長野へ来たのだから、そばでも食べましょうよ。ここへ来る途中目にした蕎麦屋があるんです」
彼らが入ったのは佐久平駅にほど近い「佐久の草笛」という蕎麦屋であった。東京の高級蕎麦屋とは異なり注文時に店員から「うちの蕎麦は量が多いですから」と注意されるほどの蕎麦をガッツリと食べられる地元店である。普通なら大盛りの信州そばを目の前にて旅行気分を満喫できるのだろうが、今日のふたりの頭からはこの地で起きた失踪事件が離れることはない。
「佐久平での失踪も私たちが追っている事件と関連があるのなら、今年は9月宮城県名取市。そして10月に高崎、そして11月に佐久平……。もう毎月のペースになってるわよ」
「ああ、12月にも日本のどこかで次の犠牲者が出るってことだね。それを防ぐためなら僕は何だってするよ」
「気持ちは先行しても……私たちなんの手がかりもつかんでないわ」
ふたりは黙って蕎麦を噛み締めた。蕎麦の苦味が心にしみる。やがてリエが顔を上げて諦めたようにマコトに言った。
「もう、ふたりだけの捜査では限界じゃない?このペースでいったら次の犯行を止めるのに間に合わない」
「そうだね……もう素人の僕との捜査ごっこに付き合うのはやめて、リエさんの上司に相談して本格的な捜査をお願いした方がいいかもしれない」
「捜査ごっこなんて……私、そんな風に思ったことないわよ。いつも真剣なんだから」
自虐的なマコトの言い様に、リエは口元からそばつゆを飛ばして抗議した。しかし、リエはそう怒ってみたものの、そばをつゆに浸しながら弱々しく続ける。
「でもね、いまのばらばらの情報のままじゃ、いくら相談してもまともに取り合ってくれないと思うの」
「そうなんだ……」
ふたりはまた黙り込んで蕎麦を噛み締めた。
やがてざるの底が見えると、ふたりは食事を終えて何の成果も進展もないまま帰京せざるを得ないことを悟った。
「そろそろ帰ろうか」
「そうね。でもちょっと新幹線へ乗る前に買いたいものがあるの。付き合ってくれる?」
「まさか職場に土産?」
「違うわよ。急にお客さん来ちゃって……って、何言わせんのよ」
「ああそういう事、自分は医師だから気にしないでいいよ。ところで……この辺にドラッグストアあるのかな?付近にコンビニもなかったし……」
「ほらあそこにイオンモールがあるでしょ。中にドラッグストアが絶対あるわよ」
リエが蕎麦屋の窓から見えるイオンモールの大看板を指さす。
「ああ、そうだね。あそこなら……」
マコトの動きが突然止まった。
「何フリーズしてんのよ。ここは割り勘よ。私を先に会計へいかせて奢らせる魂胆でも……」
「ちがうんだよ!リエさん!」
マコトが興奮のあまりいきなり怪我をしているリエの腕を取った。
「痛いわよ、マコト先生!どうしたの?」
「リエさん、確か高崎の失踪現場付近にもイオンモールがあったよね」
「ええ、確か……そこでご飯食べた」
「宮城県ではイオンモールあったのかな?正確には名取市?」
リエはマコトの腕を振り払うとスマホで確認する。
「あったわよ『イオンモール名取』」
「2018年からの現場では?」
「ええっと……福島県いわき市には『イオンモールいわき小名浜』。岐阜県各務原市には『イオンモール各務原』。熊本県上益城群嘉島町には『イオンモール熊本』。2019年の三重県員弁郡東員町には『イオンモール東員』。埼玉県越谷市には『イオンレイクタウンmori』。秋田県秋田市には『イオンモール秋田』。沖縄県中頭郡には『イオンモール沖縄ライカム』」
「今年は9月の『イオンモール名取』10月の『イオンモール高崎』そして10月はここの『イオンモール佐久平』」
繋がった……。ふたりは立ち上がるとしばらく顔を見合わせていた。そして傍から見れば食い逃げと間違われるくらいの速さで店を飛び出て佐久平駅へ走り込み、帰京の切符を買った。むろんリエは自分の体に訪れたお客さんのことなどとうに忘れ去っていた。



