3.ねえ、考えてもみてよリエさん……
マコトがマンションのドアを荒々しく閉めて出ていった日から1カ月が過ぎた。
自宅謹慎を解かれたリエは早朝から職場に呼び出され、デスクで頬杖を付いていろいろ書かれたホワイトボードを眺めていた。だが、決して書かれた内容を吟味していたわけではない。思い悩む視線の先にたまたまホワイトボードがあったに過ぎない。
1カ月前リエが捕まえた犯人は、病院のベットの上で自身の犯罪をすべて認めた。また、リエを傷害罪で訴えることもしなかったので裁判沙汰にはならなかったが、懲罰委員会は彼女に3カ月の減俸という処罰を下した。その後も相変わらず多くの案件が『捜1ユニット』に持ち込まれ、彼女も忙しく対応はしていたものの、マコトとの最後の会話がいつまでも彼女を悩ましていた。
私の何が彼をあんなに怒らせたの?あの日は本当に彼の捜査協力へのお礼のつもりだったのに……。彼が豹変したのは『性癖』と『狂気』が話題になった時だったわ。犯人を殺せばよかったと真顔で言った彼の意見には驚いた。そんなことを言うような彼ではないはずなのに……。とは言っても、別に長年交際しているわけでもないのだから、どれが本当の彼なのかわかるはずもないのだけれど……やっぱり、ペドフィリアは理解不能だわ。でも……いったい私の何が彼をそんなに怒らせたのよ。そんなことをメビウスのリングのように堂々巡りで思い悩む。
確かに彼女はあの時彼を自宅へ迎えるにあたり、ちょっとおめかししたのは、彼と親しくなり少しでも近づきたいと願ったからだ。だがあの時つい欲を出して『知りもしない彼を理解したふり』をしてしまった。そんな偽善的な自分への後悔に、結局はたどり着くのだった。
「吉岡さん。何ボケっとしているの!高崎の事件の検討会議をする時間よ」
萩原先輩に促されて、我に帰ったリエはのっそりと席を立つ。その時リエのスマホが煩く鳴りだした。
ただ漠然と繰り返す診療の日々がまた明日の月曜から始まる。そんなだるい思いに駆られる日曜の夜、マコトは自身のマンションのベランダから夜の月を眺めていた。決して月の美しさを堪能していたのではない。リエと同じように思い悩む視線の先にたまたま月があったに過ぎない。
やはり彼もリエの家を飛び出して以来、彼女と同じようにある思いを引きずっていたのだ。あの時、なぜ自分にあれほどの怒りが込み上げてきたのだろうか。自分の性癖を意識してか、かなり前から自分の感情を表に出すことを避けていた。なのに、今まで厳重に守っていた自分の人生の掟をいとも簡単に破ってしまうとは……。逆に言えば、リエがマコトの心の奥底に隠してある感情の箱の鍵を、いとも簡単に開けてしまった。彼にとってリエほどの危険人物は他にいない。
マコトは父親が医師であり比較的裕福な家庭に生まれた。子どものころ、診療所を営む両親は忙しさのあまり彼をあまりかまうことができなかった。時にマコトは『両親は自分のことを愛していない』という思いにも駆られてた事もある。
小・中学校ではいじめに遭い、高校から一時不登校の兆しを見せることもあった。親からのプレッシャーでなんとか国立大学の医学部に進学したものの、学業も友人関係もうまくいかず、家にこもりがちな日々を送った。小児に性的に興奮することを自覚したのは、この頃だった。きっかけは、近所の本屋で見つけた1冊のコミック。内容は、成人男性が少女を性虐待するものだった。なぜかマコトは一読して「これだ!」と思った。以降、児童の性行為が描かれたポルノコミックやビデオを見ながらマスターベーションをすることにはまっていく。
医師になることを義務付けられ、大学の履修や両親からのプレッシャーで追い詰められると、何もかも投げ出して好きなことをやろうという考えが浮かぶ。その時マコトにとっては、小児性愛に関する妄想がうまくいかない人生での満たされない気持ちを発散する最適な行為だった。しかしやがて、実際に子どもがどんな匂いするのか、どのくらい肌が柔らかいのかとか、2次元では飽き足らなくなっていく。
『このままだと自分は子どもに危害を加えかねない。それどころか、“それ”ができるのなら子どもを殺しても構わないとまで思う怪物になってしまう』
自分のことが怖くなったマコトは、医師的視点で小児性愛を勉強し自身の治療に取り組む。しかし、残念ながらどこを探してもそれを治療する方法は見当たらなかった。ただあるのは心の土壌から際限なく芽を出す妄想の新芽をつまむように『マスターベーション禁止』『子どもの集まる場所には近づかない』そして『どうしても子どもと接する必要が生じた場合は自らの性欲を減退する薬剤を自身に投与する』ということで対処した。これは治療法ではない、いわゆる対処法でしかない。
「つまりペドフィリアにはどんな救いも存在しない……」
夜月に照らされたマコトは、ため息混じりに独り言をつぶやく。突然彼の耳にリエの発した言葉が響く。
『小児性愛は狂気ではないわ。「独特な性癖」のひとつよ』
その言葉を聞いた時、彼は不覚にも一瞬の救いを感じた。しかし彼は慌ててその気持ちを打ち消す。いやいや、こんな無知な刑事の言葉を信じてはいけない。そんな言葉を真に受けて心に隙を作ったら、結局狂気のモンスターになり下がり破滅するのは自分だ。
「結局……自分は誰にも気づかれずひっそりと人生の終わりを待つしかない……」
彼はその独り言を合図に寝室へ向うことにした。
ベッドへ横になるとマコトはやがて眠りの湖にゆっくりと沈んでいく感覚を感じていた。しかしあろうことか、そんな彼の腕を掴み湖の水面に引き揚げる人物がいた。挙句の果て、その人物に岸辺にまで引き擦られ、マコトはそのそぼ濡れた貧弱な肉体を月の明かりの前に露呈する羽目となった。
「そのまま湖の底に潜んでひっそり死のうなんて虫が良すぎないかしら」
見るとその声の人物はリエだった。
「放っておいてくださいよ!」
リエにがなり立てるマコト。
「あなた、人間じゃないんだからそんなこと許されないわよ」
「人間じゃない?どういうことです」
「神様はね、最初の人間であるアダムを創造したあと、寝ている間に彼のあばら骨を1本引き抜いて初めての女性であるイブを創り人類を完成させたのよ。でもね、あんたらペドフィリアはアダムが吐き捨てた唾から勝手に細胞分裂してできた図々しい生物……つまり人類とは言い難い生き物なのよ。そんな輩が人間のフリして湖の底で潜んで死のうなんて、盗人猛々しいったらありゃしないわ」
「確かに……僕は世の中にとって危険な存在かもしれないけど」
「はは、自分は人間だって言い張るの?だったら……これでも人間って言えるのかしら」
リエがくるりと1回転すると、なぜか彼女は水着を着た少女に変身していた。
「小学生時代の私……リエちゃんよ。かわいいでしょ」
その姿を見たマコトの動悸が激しくなる。そして彼の股間が硬直し始めた。
「ほーら、自分で抑えられないくらい興奮して、身体が変化してきた」
マコトは自分の胸にこみ上げてくる衝動の発露を両手で必死に抑え込んだ。しかしそんなマコトの努力もむなしく、やがてマコトの体の部位のあらゆる先端が孟宗竹のように伸びはじめ、身体が膨れ上がり、口が大きく裂けはじめた。しかもなんと体中の穴という穴からムカデのような虫が湧き出てきたではないか。
「やめてください、リエさん!」
「何言ってんのよ。私は何もしてないわよ。あなたが勝手にトランスフォームしてるんじゃない」
まことは少女時代のリエの水着姿の前で見るも悍ましい怪物と化した。そんな彼を見上げてリエが言った。
「わかったでしょ。人間のフリなんかするのやめなさい」
怪物となったマコトの目から血の涙が流れ出てきた。
「おやおや、ようやく自分が人間ではないことが自覚できたのね。悲しい?マコト先生」
マコトの裂けた口ではどんな言葉も発することができなかった。
「人間になりたいの?マコト先生」
首とも頭とも言えない部分がわずかに上下に動いた。
「人間になりたい気持ちはわかるけどね、それは無理な話だわ」
マコトの体はさらに膨張を続け、もう爆発寸前だ。
「けどね、マコト先生。人間になりたいと思い続けられる怪物こそができることってあるのよ。わかってる?あなたに人間のフリをして湖の底で朽ちていく暇はないのよ」
マコトの身体がついに爆発し、その肉片があたり一面に飛び散った。
爆発音で目が覚めたマコト。その音がセットした目覚まし音とシンクロしていたのだった。飛び跳ねるように目が覚めたマコトはまず体が無事かどうか確かめた。
『ああ、夢だったのか……』
気持ち悪い夢だった。しかし現実の世界でも夢のリエの思惑通り、パジャマの中のマコトの一部分が反応していたことが情けなかった。リエは本当にペドフィリアを発情させるのが上手だ。そんなやるせない気持ちで、もそもそと起き出した彼は、自らを諫めつつ歯を磨く。朝食を準備し、毎朝のルーティンであるテレビのリモコンを手にした。
『一昨日から行方不明になって公開捜査をおこなっていた6歳の少女の遺体が、群馬県高崎市保渡田町の唐沢川で発見されました。その後、川上の川辺で少女の靴が発見され、その場所から何らかの事情で川に転落し少女が流されたものと考えられます。少女の死因はまだ確認されておらず、警視庁は事故と事件の両方の観点からその原因を調査しております……』
朝のニュースを見てマコトの食事を摂る手が止まった。川の岸辺に残された少女の靴の映像が目に留まった瞬間、彼の額に汗が滲んだ。どうしてそういう行動に出たのか、未だにわけがわからないのだが、彼はテーブルに置かれた自身の携帯を乱暴に握り締めると、夢中でリエの個人携帯の番号を探し始めた。
リエは何となく湧き出る笑みを隠すことに苦労していた。隣ではマコトが車を運転している。
「あんな勢いで部屋を出て行ったくせにドライブデートのお誘いなんて……どういう風の吹き回しかしら?」
「デートってわけじゃ……でもあの時はちょっと興奮して……ごめんなさい」
マコトはリエのイジリに表情を変えることもなく運転を続けていた。ふたりを乗せた車は関越道を疾走する。
「そうだわよ、あの時はちょっとびっくりしちゃったけど……今日はその罪滅ぼしってわけ?」
「そう取ってくれてもいいけど……実はどうしてもリエさんと行きたいところがあって……」
「私と行きたい場所?あらまあ、夕日が沈む軽井沢の森?それとも餃子がばか食いできる宇都宮のお店かしら?」
その問いにはマコトは何の返事も返さない。やがてリエのロマンチックな想像を裏切るように車は高崎インターで高速を降りて、暫く何の変哲もない郊外の田舎道を走る。やがて車は畑に囲まれたの貧相な川端で停車した。見ると前方の一画は『立入禁止 KEEP OUT 警視庁』と書かれた黄色いテープで区切られていた。
「ねえ、ここって……」
マコトはしばらくエリア全体を見回していた。
「マコト先生ったら!ちょっと待って……」
リエの制止も聞かず彼は黄色いテープをくぐってその一画に侵入する。川辺にたどり着いたマコトはしばらく手を合わせて黙とうする。そんな彼につられてリエも手を合わせるが、所轄に発見され禁止エリア侵入を咎められはしないかとヒヤヒヤしていた。やがてマコトはしゃがみこんで川辺の様子を観察し始めた。
「ドライブデートのはずが……ここは高崎の少女の遺体が発見された現場じゃない」
リエは呆れてマコトの背になじるように話しかける。彼はそんな物言いにも構わず彼女に問いかけた。
「リエさんはその事件の捜査を担当してるの?」
「とりあえず行方不明届が出た時点で私のチームに情報が来たけど、その後遺体が発見されたので高崎幼女死体遺棄事件として他の課に回されたわ」
「そうか……やっぱり事故じゃないよね?」
「女の子の肺に水は溜まっていなかったから溺死ではないそうよ」
「自殺って線は?」
「ばかね、まさか6歳の女の子が靴をそろえて投身自殺するなんて考えられないじゃない」
「そうだよね……確かその靴が揃えてあった場所が死体遺棄された地点ってことになるのだろうけど、ここから遠いの?」
「いえ近くよ、1kmくらい上流だったかしら」
「そこへ行ってみよう」
もうマコトは人の話など聞かないモードになっていることはリエにもよくわかった。『この先生は何をしたいんだか……』助手席で運転手にも聞こえる声で愚痴を言うリエ。しかしマコトは相変わらず何事もないように川沿いに車を走らせて1km先の現場に移動した。
やはりここも進入禁止のテープが張り巡らされている。ここまでくると、リエも多少興味が湧いた。調書の写真では感じられないのだが、現場の空間にいると犯人が自分の横に立って同じように現場を眺めているような錯覚に陥る。
「こんな寂しいところだったのか……もちろん人目も監視カメラもあるわけないよね」
あたりを見まわしたマコトがため息をつきながらつぶやく。
「死亡推定時刻の1時間前、被害者の女の子がひとりで近くの公園の砂場で遊んでいる姿は公園の監視カメラで確認できているの。でもそれ以降の足取りが不明。所轄に死体遺棄事件として本部が置かれ必死に捜査しているけど、思うように進んでないみたい」
「女の子の死因は?」
「首に絞殺痕があるから窒息死と推定されているけど、いずれにしても命が絶えた後川に投げ入れられたのね」
「可哀そうに……とっても怖い思いをしただろうに」
「確かに……でも悲しいけど、遺体の発見が早かったから体の損傷が少なく、きれいなままでご両親に会うことができたのはせめてもの救いなのかしら……」
ふたりは川面に向かってあらためて手を合わせた。
「さあ、これでマコト先生の気が済んだでしょう。せっかく休暇取ったんだから今度はもっとデートらしいスポットへ……」
「ところでお腹すいたね。僕がご馳走するから一緒に食べようよ。近くで食事できるところないかな……」
マコトはリエの話を全く聞いていないようだった。
お腹がすいたといってもこんな郊外ではしゃれたレストランなどない。ふたりは近くにあるイオンモール高崎のフードコートに陣取り、各々好きな料理をテーブルに持ち寄ってはいただきますも言わずに箸を動かしていた。誘われたときはドライブデートだと思って、少しは心を躍らせていたリエ。それが裏切られた反動か、マコトへの逆恨みか、ご馳走してくれることをいいことに彼女の前にはちょっと暴食に近い量の料理が並んでいる。
「ところでさっきリエさんは死体遺棄事件と言っていたけど、殺人事件なんですよね」
「今のところ捜査の方針は、誰が殺したかではなくて誰が死んだ女の子を川に遺棄したのかが優先されるの。結局それがわかれば、誰が何のために殺したかがわかるじゃない」
「“誰”はわからないとしても、“何のため”は薄々感づいているのですよね」
「そうね……ねえマコト先生。水持ってきてくれる」
ロマンチックなどひとかけらもない会話でさらに不機嫌になったリエは、不躾にマコトをこき使う。しかし彼はそんな仕打ちにも気分を害することなく、せっせとリエの要望に応えていた。
「ところでこの事件はこの前マコト先生が言っていた『狩り型』になるのかしら」
戻ってきたマコトから水の入った紙コップを受取ながらリエが言った。
「そうですね。僕も『狩り型』ペドフィリアの犯行だと思います。『狩り型』の衝動を完結するためには、獲った獲物を弄び殺すところまで至らなければ達成感が得られない」
「おお怖……警察はこの地域一帯をくまなく捜査して犯人確保に努めているけど、捕まらない間はこのエリアの子どもたちは怖くて外出もできないわね」
「いや……」
マコトは箸も止めずに当たり前のように断言する。
「もうこのエリアに犯人はいないですよ」
「あんた!なんでそんなこと言えるの?素人の癖に!」
リエがリンガーハットちゃんぽんのもやしを口から飛ばして非難した。
「確かに素人だけど、ペド……」
マコトが思わず口から出そうになった言葉を飲み込みまわりを見回す。フードコートには幼い子供連れの親子と数人の高校生がたむろして席に座っていたが、いずれも遠い席だった。彼は安心して言葉を続ける。
「リエさんも知っているように、僕はペドフィリアの気持ちがわかるのです」
「そんな次元の話しじゃなくて……今話題にしているのは殺人鬼のことなのよ」
「まあ聞いてください……“狩り”に出るってのは衝動的な行為じゃないのです。逆にとっても計画的な行為なのです。計画的に殺人を犯す人間はほとんどがそうでしょうけど、自分の生活圏に近いところを狩場にはしません。仮に衝動的に自分の家の近くで殺しをおこなってしまったら、犯人はその死体をできるだけ遠くに捨てたいと思うはずです。だけど、今回は被害者の暮らしていたエリアに遺棄したのだから、犯人はこのあたりに生活圏が無いと考えるのが妥当でしょう」
「でも……今回で味をしめてまた“狩り”にやって来るかもしれないじゃない」
「それもないですね。狩られた動物の仲間は怯えて姿を現さなくなる。賢い狩人ならそんな森がもういい狩場ではないことを知っていますから」
そう言いながら牛丼を頬張るマコトを、リエは箸を止めてまじまじと見つめた。正しいのか、それともただの出まかせか……。しかしこの男の口から出るプロファイリングは妙な説得力を持っているのが不思議だった。
「聞いてもいいかしら」
「なんでしょう?」
「今後一切、捜査に協力はしないと言い切ったあなたが、なんでこの事件に興味を持ったの?」
「この事件。犯人がペドフィリアである僕達にしかわからないメッセージを残したからですよ」
牛丼ぶりから顔も上げず平然と答えたマコトに、リエは言葉を失ってその意味を問いただすまで多少時間が必要だった。
「どういうこと?」
しばらく黙って箸を動かしていたマコトは何か言葉を選んでいるように見えた。
「この事件の犯人が……僕はうらやましくて仕方がないのです」
意外なマコトの返答に驚いてリエは箸をテーブルにたたきつけた。
「本気で言ってるの?」
マコトはリエの問いに平然と問いで応じる。
「なぜ犯人は川辺に被害者の女の子の靴を置いたのだと思います?」
「なぜって……捜査を混乱させようとしたのかも……」
「そのまま靴ともに被害者を遺棄すれば下流に流されて、死体が発見されてもどこで殺されたかなんて特定できなかったはずです。……自己の欲望の満足の為に“狩り”を安全に続けたいなら、靴を残す必要はありません。しかし、犯人は靴を残すことによって、靴が今回の事件のシンボルとして注目されるように演出しました」
マコトは改めてリエに正視すると箸を置いて話しを続けた。
「人は心の中に妄想と現実の両方の世界を共存させています。往々にして人は現実の世界に押し潰されそうになると、妄想の世界に逃げ込み自身を解放する。それが精神を救済する処方箋ですから。ですが、所詮妄想は妄想。それを現実化できないことは当事者がよく知っています。だから妄想の世界に逃げ込んでも、最後は現実に押しつぶされてうつ病になったり、最悪自殺に追い込まれたりする人間も出てくる……」
ここまでしゃべったマコトは、一度紙コップの水でのどを潤しリエの反応を見た。彼女はマコトの雄弁さに押され、食べることも忘れただ目を大きく見張って彼の話を聞いていた。マコトはさらに話し続ける。
「実はペドフィリアの場合も同じなのです。妄想世界で培った欲望を現実社会で達成するためにはやはり越えなければならない壁がある。大抵のペドフィリアは壁を乗り越えることができず朽ち果てていく。だが……この犯人はそんな壁をいとも簡単に突き抜けてしまった。リアルな世界でリアルな対象を相手に、自分の性欲を存分に満たしてしまった……非難を覚悟で言えば、ペドフィリアにとっては夢のようなことを何の躊躇もなく、そしていとも簡単にやり遂げている。犯人はペドフィリア達が憧れるスターそのものといっても過言ではありません」
リエは彼の視線から顔を逸らした。聞いてはいけないことを聞いてしまったような気分になっていたのだ。自分の語りで熱くなったマコトは、そんな彼女を逃がすわけがなかった。
「ところでリエさん。あの川辺に綺麗に揃えて置かれた靴なんだけど、気づいていました?」
突然の問いに戸惑うリエ。
「な、何のことかしら……」
「あの靴に、柄の様に小さく二重に重なるハートのマークが描かれていました」
「そっ、そうだったかしら……」
「実は……あの二重のハートは、ペドフィリアが自らの存在を示すマークなのです。犯人はあの靴にマークを描くことによって、自分のように自らの欲望を現実社会に解放しろという僕たちペドフィリアを煽っているのですよ」
「なんてこと……」
「あらためて言いますが、僕はこの事件の犯人がうらやましくて仕方ありません。と同時に強い怒りにも駆られています。その怒りは、申し訳ないのですが犠牲になった子どもへの同情より先に、なんでこいつだけそんな満足を享受することが許されるのだという妬みが引き起こす強烈な怒りなのです。それは同じペドフィリアだからこそ感じる怒りなのかもしれません」
マコトが自分の席から腰を浮かし、身を乗り出してリエの手を取った。リエは彼の手の汗ばみを感じながら、その後に来る彼の言動を警戒した。
「……とにかく、そんな怪物は存在していてはいけないんだ。ましてやその満足感を現実社会で解放することを扇動するペドフィリアなんて存在してはいけないはずでしょう?だから僕たちで……」
案の定だ。リエの予想通り、マコトの手から伝わってきていたのは危険な熱さだった。彼の弁はまるで犯人を見つけられるのは自分しかいないと言っているように聞こえる。それはあまりにも傲慢だ。前回彼は確かに犯人の特定に貢献したが、それは偶然の産物だったのかもしれない。ホールインワンがそう何度も起こるとは思えない。この件は死体が先にある殺人事件で、警察署のエースたちが必死に捜査している。捜査担当でもないリエがマコトの熱に巻き込まれたら、こんどは自宅謹慎どころではすまない。リエは彼の手を押しのけて彼の熱さに冷水を浴びせる。
「僕たちって言うけど……私は動かないわよ」
リエのつけ放した言葉にマコトが怒ったようにリエを睨む。だがリエは構わず続けた。
「冷静になってよ、マコト先生。あなたの本業はお医者さんでしょ。あなたがどんな名医であっても、捜査に関してはその本業であるエリート警察官にかなうわけがない。たとえ靴のメッセージに気付いたとしても、あなたにできることはたったひとつ。おとなしく警察がおこなう捜査の行方を見守ることだけよ!」
「だけどペドフィリアの犯罪は……」
「だけどもクソもないの!いいから座りなさい」
リエは、マコトの肩を押さえて席に座らせた。そして口調を変えてマコトを説得する。
「ね、だからご飯食べて今日は帰りましょ。次回は非番の時私がマコト先生をドライブデートに誘うから。楽しみにしていてね」
リエがあらためて箸を揃えてマコトに差し出すも、しばらく彼はそれを受け取ろうとしなかった。リエに促されてようやく箸を取った彼だが、未練たらしくどんぶりの底に残ったコメをもさもさとかき混ぜながらつぶやく。
「ねえ、考えてもみてくださいよリエさん……初めての犯行でさ、あんなヒーローみたいに自信たっぷりにさ、世間のペドフィリア達にメッセージを残したりするでしょうか……」
マコトが箸を加えて、物欲しそうにリエを見ながらささやいた。
「高崎の少女は何人目の被害者なんだと思う?これは絶対、とんでもなく邪悪なペドフィリアによる小児誘拐連続殺人事件のはずなのです」
マコトがマンションのドアを荒々しく閉めて出ていった日から1カ月が過ぎた。
自宅謹慎を解かれたリエは早朝から職場に呼び出され、デスクで頬杖を付いていろいろ書かれたホワイトボードを眺めていた。だが、決して書かれた内容を吟味していたわけではない。思い悩む視線の先にたまたまホワイトボードがあったに過ぎない。
1カ月前リエが捕まえた犯人は、病院のベットの上で自身の犯罪をすべて認めた。また、リエを傷害罪で訴えることもしなかったので裁判沙汰にはならなかったが、懲罰委員会は彼女に3カ月の減俸という処罰を下した。その後も相変わらず多くの案件が『捜1ユニット』に持ち込まれ、彼女も忙しく対応はしていたものの、マコトとの最後の会話がいつまでも彼女を悩ましていた。
私の何が彼をあんなに怒らせたの?あの日は本当に彼の捜査協力へのお礼のつもりだったのに……。彼が豹変したのは『性癖』と『狂気』が話題になった時だったわ。犯人を殺せばよかったと真顔で言った彼の意見には驚いた。そんなことを言うような彼ではないはずなのに……。とは言っても、別に長年交際しているわけでもないのだから、どれが本当の彼なのかわかるはずもないのだけれど……やっぱり、ペドフィリアは理解不能だわ。でも……いったい私の何が彼をそんなに怒らせたのよ。そんなことをメビウスのリングのように堂々巡りで思い悩む。
確かに彼女はあの時彼を自宅へ迎えるにあたり、ちょっとおめかししたのは、彼と親しくなり少しでも近づきたいと願ったからだ。だがあの時つい欲を出して『知りもしない彼を理解したふり』をしてしまった。そんな偽善的な自分への後悔に、結局はたどり着くのだった。
「吉岡さん。何ボケっとしているの!高崎の事件の検討会議をする時間よ」
萩原先輩に促されて、我に帰ったリエはのっそりと席を立つ。その時リエのスマホが煩く鳴りだした。
ただ漠然と繰り返す診療の日々がまた明日の月曜から始まる。そんなだるい思いに駆られる日曜の夜、マコトは自身のマンションのベランダから夜の月を眺めていた。決して月の美しさを堪能していたのではない。リエと同じように思い悩む視線の先にたまたま月があったに過ぎない。
やはり彼もリエの家を飛び出して以来、彼女と同じようにある思いを引きずっていたのだ。あの時、なぜ自分にあれほどの怒りが込み上げてきたのだろうか。自分の性癖を意識してか、かなり前から自分の感情を表に出すことを避けていた。なのに、今まで厳重に守っていた自分の人生の掟をいとも簡単に破ってしまうとは……。逆に言えば、リエがマコトの心の奥底に隠してある感情の箱の鍵を、いとも簡単に開けてしまった。彼にとってリエほどの危険人物は他にいない。
マコトは父親が医師であり比較的裕福な家庭に生まれた。子どものころ、診療所を営む両親は忙しさのあまり彼をあまりかまうことができなかった。時にマコトは『両親は自分のことを愛していない』という思いにも駆られてた事もある。
小・中学校ではいじめに遭い、高校から一時不登校の兆しを見せることもあった。親からのプレッシャーでなんとか国立大学の医学部に進学したものの、学業も友人関係もうまくいかず、家にこもりがちな日々を送った。小児に性的に興奮することを自覚したのは、この頃だった。きっかけは、近所の本屋で見つけた1冊のコミック。内容は、成人男性が少女を性虐待するものだった。なぜかマコトは一読して「これだ!」と思った。以降、児童の性行為が描かれたポルノコミックやビデオを見ながらマスターベーションをすることにはまっていく。
医師になることを義務付けられ、大学の履修や両親からのプレッシャーで追い詰められると、何もかも投げ出して好きなことをやろうという考えが浮かぶ。その時マコトにとっては、小児性愛に関する妄想がうまくいかない人生での満たされない気持ちを発散する最適な行為だった。しかしやがて、実際に子どもがどんな匂いするのか、どのくらい肌が柔らかいのかとか、2次元では飽き足らなくなっていく。
『このままだと自分は子どもに危害を加えかねない。それどころか、“それ”ができるのなら子どもを殺しても構わないとまで思う怪物になってしまう』
自分のことが怖くなったマコトは、医師的視点で小児性愛を勉強し自身の治療に取り組む。しかし、残念ながらどこを探してもそれを治療する方法は見当たらなかった。ただあるのは心の土壌から際限なく芽を出す妄想の新芽をつまむように『マスターベーション禁止』『子どもの集まる場所には近づかない』そして『どうしても子どもと接する必要が生じた場合は自らの性欲を減退する薬剤を自身に投与する』ということで対処した。これは治療法ではない、いわゆる対処法でしかない。
「つまりペドフィリアにはどんな救いも存在しない……」
夜月に照らされたマコトは、ため息混じりに独り言をつぶやく。突然彼の耳にリエの発した言葉が響く。
『小児性愛は狂気ではないわ。「独特な性癖」のひとつよ』
その言葉を聞いた時、彼は不覚にも一瞬の救いを感じた。しかし彼は慌ててその気持ちを打ち消す。いやいや、こんな無知な刑事の言葉を信じてはいけない。そんな言葉を真に受けて心に隙を作ったら、結局狂気のモンスターになり下がり破滅するのは自分だ。
「結局……自分は誰にも気づかれずひっそりと人生の終わりを待つしかない……」
彼はその独り言を合図に寝室へ向うことにした。
ベッドへ横になるとマコトはやがて眠りの湖にゆっくりと沈んでいく感覚を感じていた。しかしあろうことか、そんな彼の腕を掴み湖の水面に引き揚げる人物がいた。挙句の果て、その人物に岸辺にまで引き擦られ、マコトはそのそぼ濡れた貧弱な肉体を月の明かりの前に露呈する羽目となった。
「そのまま湖の底に潜んでひっそり死のうなんて虫が良すぎないかしら」
見るとその声の人物はリエだった。
「放っておいてくださいよ!」
リエにがなり立てるマコト。
「あなた、人間じゃないんだからそんなこと許されないわよ」
「人間じゃない?どういうことです」
「神様はね、最初の人間であるアダムを創造したあと、寝ている間に彼のあばら骨を1本引き抜いて初めての女性であるイブを創り人類を完成させたのよ。でもね、あんたらペドフィリアはアダムが吐き捨てた唾から勝手に細胞分裂してできた図々しい生物……つまり人類とは言い難い生き物なのよ。そんな輩が人間のフリして湖の底で潜んで死のうなんて、盗人猛々しいったらありゃしないわ」
「確かに……僕は世の中にとって危険な存在かもしれないけど」
「はは、自分は人間だって言い張るの?だったら……これでも人間って言えるのかしら」
リエがくるりと1回転すると、なぜか彼女は水着を着た少女に変身していた。
「小学生時代の私……リエちゃんよ。かわいいでしょ」
その姿を見たマコトの動悸が激しくなる。そして彼の股間が硬直し始めた。
「ほーら、自分で抑えられないくらい興奮して、身体が変化してきた」
マコトは自分の胸にこみ上げてくる衝動の発露を両手で必死に抑え込んだ。しかしそんなマコトの努力もむなしく、やがてマコトの体の部位のあらゆる先端が孟宗竹のように伸びはじめ、身体が膨れ上がり、口が大きく裂けはじめた。しかもなんと体中の穴という穴からムカデのような虫が湧き出てきたではないか。
「やめてください、リエさん!」
「何言ってんのよ。私は何もしてないわよ。あなたが勝手にトランスフォームしてるんじゃない」
まことは少女時代のリエの水着姿の前で見るも悍ましい怪物と化した。そんな彼を見上げてリエが言った。
「わかったでしょ。人間のフリなんかするのやめなさい」
怪物となったマコトの目から血の涙が流れ出てきた。
「おやおや、ようやく自分が人間ではないことが自覚できたのね。悲しい?マコト先生」
マコトの裂けた口ではどんな言葉も発することができなかった。
「人間になりたいの?マコト先生」
首とも頭とも言えない部分がわずかに上下に動いた。
「人間になりたい気持ちはわかるけどね、それは無理な話だわ」
マコトの体はさらに膨張を続け、もう爆発寸前だ。
「けどね、マコト先生。人間になりたいと思い続けられる怪物こそができることってあるのよ。わかってる?あなたに人間のフリをして湖の底で朽ちていく暇はないのよ」
マコトの身体がついに爆発し、その肉片があたり一面に飛び散った。
爆発音で目が覚めたマコト。その音がセットした目覚まし音とシンクロしていたのだった。飛び跳ねるように目が覚めたマコトはまず体が無事かどうか確かめた。
『ああ、夢だったのか……』
気持ち悪い夢だった。しかし現実の世界でも夢のリエの思惑通り、パジャマの中のマコトの一部分が反応していたことが情けなかった。リエは本当にペドフィリアを発情させるのが上手だ。そんなやるせない気持ちで、もそもそと起き出した彼は、自らを諫めつつ歯を磨く。朝食を準備し、毎朝のルーティンであるテレビのリモコンを手にした。
『一昨日から行方不明になって公開捜査をおこなっていた6歳の少女の遺体が、群馬県高崎市保渡田町の唐沢川で発見されました。その後、川上の川辺で少女の靴が発見され、その場所から何らかの事情で川に転落し少女が流されたものと考えられます。少女の死因はまだ確認されておらず、警視庁は事故と事件の両方の観点からその原因を調査しております……』
朝のニュースを見てマコトの食事を摂る手が止まった。川の岸辺に残された少女の靴の映像が目に留まった瞬間、彼の額に汗が滲んだ。どうしてそういう行動に出たのか、未だにわけがわからないのだが、彼はテーブルに置かれた自身の携帯を乱暴に握り締めると、夢中でリエの個人携帯の番号を探し始めた。
リエは何となく湧き出る笑みを隠すことに苦労していた。隣ではマコトが車を運転している。
「あんな勢いで部屋を出て行ったくせにドライブデートのお誘いなんて……どういう風の吹き回しかしら?」
「デートってわけじゃ……でもあの時はちょっと興奮して……ごめんなさい」
マコトはリエのイジリに表情を変えることもなく運転を続けていた。ふたりを乗せた車は関越道を疾走する。
「そうだわよ、あの時はちょっとびっくりしちゃったけど……今日はその罪滅ぼしってわけ?」
「そう取ってくれてもいいけど……実はどうしてもリエさんと行きたいところがあって……」
「私と行きたい場所?あらまあ、夕日が沈む軽井沢の森?それとも餃子がばか食いできる宇都宮のお店かしら?」
その問いにはマコトは何の返事も返さない。やがてリエのロマンチックな想像を裏切るように車は高崎インターで高速を降りて、暫く何の変哲もない郊外の田舎道を走る。やがて車は畑に囲まれたの貧相な川端で停車した。見ると前方の一画は『立入禁止 KEEP OUT 警視庁』と書かれた黄色いテープで区切られていた。
「ねえ、ここって……」
マコトはしばらくエリア全体を見回していた。
「マコト先生ったら!ちょっと待って……」
リエの制止も聞かず彼は黄色いテープをくぐってその一画に侵入する。川辺にたどり着いたマコトはしばらく手を合わせて黙とうする。そんな彼につられてリエも手を合わせるが、所轄に発見され禁止エリア侵入を咎められはしないかとヒヤヒヤしていた。やがてマコトはしゃがみこんで川辺の様子を観察し始めた。
「ドライブデートのはずが……ここは高崎の少女の遺体が発見された現場じゃない」
リエは呆れてマコトの背になじるように話しかける。彼はそんな物言いにも構わず彼女に問いかけた。
「リエさんはその事件の捜査を担当してるの?」
「とりあえず行方不明届が出た時点で私のチームに情報が来たけど、その後遺体が発見されたので高崎幼女死体遺棄事件として他の課に回されたわ」
「そうか……やっぱり事故じゃないよね?」
「女の子の肺に水は溜まっていなかったから溺死ではないそうよ」
「自殺って線は?」
「ばかね、まさか6歳の女の子が靴をそろえて投身自殺するなんて考えられないじゃない」
「そうだよね……確かその靴が揃えてあった場所が死体遺棄された地点ってことになるのだろうけど、ここから遠いの?」
「いえ近くよ、1kmくらい上流だったかしら」
「そこへ行ってみよう」
もうマコトは人の話など聞かないモードになっていることはリエにもよくわかった。『この先生は何をしたいんだか……』助手席で運転手にも聞こえる声で愚痴を言うリエ。しかしマコトは相変わらず何事もないように川沿いに車を走らせて1km先の現場に移動した。
やはりここも進入禁止のテープが張り巡らされている。ここまでくると、リエも多少興味が湧いた。調書の写真では感じられないのだが、現場の空間にいると犯人が自分の横に立って同じように現場を眺めているような錯覚に陥る。
「こんな寂しいところだったのか……もちろん人目も監視カメラもあるわけないよね」
あたりを見まわしたマコトがため息をつきながらつぶやく。
「死亡推定時刻の1時間前、被害者の女の子がひとりで近くの公園の砂場で遊んでいる姿は公園の監視カメラで確認できているの。でもそれ以降の足取りが不明。所轄に死体遺棄事件として本部が置かれ必死に捜査しているけど、思うように進んでないみたい」
「女の子の死因は?」
「首に絞殺痕があるから窒息死と推定されているけど、いずれにしても命が絶えた後川に投げ入れられたのね」
「可哀そうに……とっても怖い思いをしただろうに」
「確かに……でも悲しいけど、遺体の発見が早かったから体の損傷が少なく、きれいなままでご両親に会うことができたのはせめてもの救いなのかしら……」
ふたりは川面に向かってあらためて手を合わせた。
「さあ、これでマコト先生の気が済んだでしょう。せっかく休暇取ったんだから今度はもっとデートらしいスポットへ……」
「ところでお腹すいたね。僕がご馳走するから一緒に食べようよ。近くで食事できるところないかな……」
マコトはリエの話を全く聞いていないようだった。
お腹がすいたといってもこんな郊外ではしゃれたレストランなどない。ふたりは近くにあるイオンモール高崎のフードコートに陣取り、各々好きな料理をテーブルに持ち寄ってはいただきますも言わずに箸を動かしていた。誘われたときはドライブデートだと思って、少しは心を躍らせていたリエ。それが裏切られた反動か、マコトへの逆恨みか、ご馳走してくれることをいいことに彼女の前にはちょっと暴食に近い量の料理が並んでいる。
「ところでさっきリエさんは死体遺棄事件と言っていたけど、殺人事件なんですよね」
「今のところ捜査の方針は、誰が殺したかではなくて誰が死んだ女の子を川に遺棄したのかが優先されるの。結局それがわかれば、誰が何のために殺したかがわかるじゃない」
「“誰”はわからないとしても、“何のため”は薄々感づいているのですよね」
「そうね……ねえマコト先生。水持ってきてくれる」
ロマンチックなどひとかけらもない会話でさらに不機嫌になったリエは、不躾にマコトをこき使う。しかし彼はそんな仕打ちにも気分を害することなく、せっせとリエの要望に応えていた。
「ところでこの事件はこの前マコト先生が言っていた『狩り型』になるのかしら」
戻ってきたマコトから水の入った紙コップを受取ながらリエが言った。
「そうですね。僕も『狩り型』ペドフィリアの犯行だと思います。『狩り型』の衝動を完結するためには、獲った獲物を弄び殺すところまで至らなければ達成感が得られない」
「おお怖……警察はこの地域一帯をくまなく捜査して犯人確保に努めているけど、捕まらない間はこのエリアの子どもたちは怖くて外出もできないわね」
「いや……」
マコトは箸も止めずに当たり前のように断言する。
「もうこのエリアに犯人はいないですよ」
「あんた!なんでそんなこと言えるの?素人の癖に!」
リエがリンガーハットちゃんぽんのもやしを口から飛ばして非難した。
「確かに素人だけど、ペド……」
マコトが思わず口から出そうになった言葉を飲み込みまわりを見回す。フードコートには幼い子供連れの親子と数人の高校生がたむろして席に座っていたが、いずれも遠い席だった。彼は安心して言葉を続ける。
「リエさんも知っているように、僕はペドフィリアの気持ちがわかるのです」
「そんな次元の話しじゃなくて……今話題にしているのは殺人鬼のことなのよ」
「まあ聞いてください……“狩り”に出るってのは衝動的な行為じゃないのです。逆にとっても計画的な行為なのです。計画的に殺人を犯す人間はほとんどがそうでしょうけど、自分の生活圏に近いところを狩場にはしません。仮に衝動的に自分の家の近くで殺しをおこなってしまったら、犯人はその死体をできるだけ遠くに捨てたいと思うはずです。だけど、今回は被害者の暮らしていたエリアに遺棄したのだから、犯人はこのあたりに生活圏が無いと考えるのが妥当でしょう」
「でも……今回で味をしめてまた“狩り”にやって来るかもしれないじゃない」
「それもないですね。狩られた動物の仲間は怯えて姿を現さなくなる。賢い狩人ならそんな森がもういい狩場ではないことを知っていますから」
そう言いながら牛丼を頬張るマコトを、リエは箸を止めてまじまじと見つめた。正しいのか、それともただの出まかせか……。しかしこの男の口から出るプロファイリングは妙な説得力を持っているのが不思議だった。
「聞いてもいいかしら」
「なんでしょう?」
「今後一切、捜査に協力はしないと言い切ったあなたが、なんでこの事件に興味を持ったの?」
「この事件。犯人がペドフィリアである僕達にしかわからないメッセージを残したからですよ」
牛丼ぶりから顔も上げず平然と答えたマコトに、リエは言葉を失ってその意味を問いただすまで多少時間が必要だった。
「どういうこと?」
しばらく黙って箸を動かしていたマコトは何か言葉を選んでいるように見えた。
「この事件の犯人が……僕はうらやましくて仕方がないのです」
意外なマコトの返答に驚いてリエは箸をテーブルにたたきつけた。
「本気で言ってるの?」
マコトはリエの問いに平然と問いで応じる。
「なぜ犯人は川辺に被害者の女の子の靴を置いたのだと思います?」
「なぜって……捜査を混乱させようとしたのかも……」
「そのまま靴ともに被害者を遺棄すれば下流に流されて、死体が発見されてもどこで殺されたかなんて特定できなかったはずです。……自己の欲望の満足の為に“狩り”を安全に続けたいなら、靴を残す必要はありません。しかし、犯人は靴を残すことによって、靴が今回の事件のシンボルとして注目されるように演出しました」
マコトは改めてリエに正視すると箸を置いて話しを続けた。
「人は心の中に妄想と現実の両方の世界を共存させています。往々にして人は現実の世界に押し潰されそうになると、妄想の世界に逃げ込み自身を解放する。それが精神を救済する処方箋ですから。ですが、所詮妄想は妄想。それを現実化できないことは当事者がよく知っています。だから妄想の世界に逃げ込んでも、最後は現実に押しつぶされてうつ病になったり、最悪自殺に追い込まれたりする人間も出てくる……」
ここまでしゃべったマコトは、一度紙コップの水でのどを潤しリエの反応を見た。彼女はマコトの雄弁さに押され、食べることも忘れただ目を大きく見張って彼の話を聞いていた。マコトはさらに話し続ける。
「実はペドフィリアの場合も同じなのです。妄想世界で培った欲望を現実社会で達成するためにはやはり越えなければならない壁がある。大抵のペドフィリアは壁を乗り越えることができず朽ち果てていく。だが……この犯人はそんな壁をいとも簡単に突き抜けてしまった。リアルな世界でリアルな対象を相手に、自分の性欲を存分に満たしてしまった……非難を覚悟で言えば、ペドフィリアにとっては夢のようなことを何の躊躇もなく、そしていとも簡単にやり遂げている。犯人はペドフィリア達が憧れるスターそのものといっても過言ではありません」
リエは彼の視線から顔を逸らした。聞いてはいけないことを聞いてしまったような気分になっていたのだ。自分の語りで熱くなったマコトは、そんな彼女を逃がすわけがなかった。
「ところでリエさん。あの川辺に綺麗に揃えて置かれた靴なんだけど、気づいていました?」
突然の問いに戸惑うリエ。
「な、何のことかしら……」
「あの靴に、柄の様に小さく二重に重なるハートのマークが描かれていました」
「そっ、そうだったかしら……」
「実は……あの二重のハートは、ペドフィリアが自らの存在を示すマークなのです。犯人はあの靴にマークを描くことによって、自分のように自らの欲望を現実社会に解放しろという僕たちペドフィリアを煽っているのですよ」
「なんてこと……」
「あらためて言いますが、僕はこの事件の犯人がうらやましくて仕方ありません。と同時に強い怒りにも駆られています。その怒りは、申し訳ないのですが犠牲になった子どもへの同情より先に、なんでこいつだけそんな満足を享受することが許されるのだという妬みが引き起こす強烈な怒りなのです。それは同じペドフィリアだからこそ感じる怒りなのかもしれません」
マコトが自分の席から腰を浮かし、身を乗り出してリエの手を取った。リエは彼の手の汗ばみを感じながら、その後に来る彼の言動を警戒した。
「……とにかく、そんな怪物は存在していてはいけないんだ。ましてやその満足感を現実社会で解放することを扇動するペドフィリアなんて存在してはいけないはずでしょう?だから僕たちで……」
案の定だ。リエの予想通り、マコトの手から伝わってきていたのは危険な熱さだった。彼の弁はまるで犯人を見つけられるのは自分しかいないと言っているように聞こえる。それはあまりにも傲慢だ。前回彼は確かに犯人の特定に貢献したが、それは偶然の産物だったのかもしれない。ホールインワンがそう何度も起こるとは思えない。この件は死体が先にある殺人事件で、警察署のエースたちが必死に捜査している。捜査担当でもないリエがマコトの熱に巻き込まれたら、こんどは自宅謹慎どころではすまない。リエは彼の手を押しのけて彼の熱さに冷水を浴びせる。
「僕たちって言うけど……私は動かないわよ」
リエのつけ放した言葉にマコトが怒ったようにリエを睨む。だがリエは構わず続けた。
「冷静になってよ、マコト先生。あなたの本業はお医者さんでしょ。あなたがどんな名医であっても、捜査に関してはその本業であるエリート警察官にかなうわけがない。たとえ靴のメッセージに気付いたとしても、あなたにできることはたったひとつ。おとなしく警察がおこなう捜査の行方を見守ることだけよ!」
「だけどペドフィリアの犯罪は……」
「だけどもクソもないの!いいから座りなさい」
リエは、マコトの肩を押さえて席に座らせた。そして口調を変えてマコトを説得する。
「ね、だからご飯食べて今日は帰りましょ。次回は非番の時私がマコト先生をドライブデートに誘うから。楽しみにしていてね」
リエがあらためて箸を揃えてマコトに差し出すも、しばらく彼はそれを受け取ろうとしなかった。リエに促されてようやく箸を取った彼だが、未練たらしくどんぶりの底に残ったコメをもさもさとかき混ぜながらつぶやく。
「ねえ、考えてもみてくださいよリエさん……初めての犯行でさ、あんなヒーローみたいに自信たっぷりにさ、世間のペドフィリア達にメッセージを残したりするでしょうか……」
マコトが箸を加えて、物欲しそうにリエを見ながらささやいた。
「高崎の少女は何人目の被害者なんだと思う?これは絶対、とんでもなく邪悪なペドフィリアによる小児誘拐連続殺人事件のはずなのです」



