Dr.BEM~ペドフィリアは狂気なのか

2.僕たちの狂気をそんなに軽く考えているとは....

 マコトが診療と事務処理を終えて診療所を出たのは夜の8時過ぎだった。もちろん診療所は実家の自宅ともなっていたがマコトは両親との同居が嫌で別にマンションの一室を借りていた。同居を避ける理由は両親との関係が悪かったのではなく、ひたすら自身の都合による。自らひた隠しにしている秘密がたとえ家族と言えども漏れることを恐れたのである。
 マコトは診療所から出ると電信柱に寄りかかっている小柄な人影を見た。挙動不審とも言えないこともないが、ただひたすら帰宅を急ぐ彼にとってはその人物がたとえ電信柱をよじ登っていたとしても、なんら関心を向ける気配はなかった。視線も向けず通り過ぎようとしたマコトの肩を鷲掴むかのように、その人影が声を発する。
「市原マコト先生ですよね」
 マコトは声の主を見た。スキニーなデニムのパンツに、からし色のジャンパー。髪は短く切っていたが、骨盤の張り具合で、相手が若い女性であることがわかった。
「はい、そうですが……」
「わたし……覚えてませんか?」
 そう問われても、全く思い出せない。美しい若い女性の親しそうな笑顔を前にして、恥ずかしさやときめきなど微塵もなく、彼はただ困惑と警戒で眉をひそめた。
 マコトは仕事柄、人に会うと相手の骨格を診てしまう。話しかけてきた相手は小柄ながら結構しっかりとした骨格で、何らかのスポーツを体験、もしくは継続している人物であることがわかる。かなり活発で気が強そうな女性だ。普通の男性なら骨格よりはその骨格を覆っている柔らかい脂肪と滑らかな皮膚に関心が働くのだが、その点に関してはまったく無頓着であった。ただ見つめるだけで一向に口を開かないマコトに焦れて女性が口を開く。
「私、一度診察していただいたんですけど」
「ああ、患者さんですか……失礼しました。しかし今日はもう診察時間は終了してますので、ご相談があれば明日改めて……」
「いえ、診察ではないんです。私は吉岡リエ、警視庁のものです」
 リエは警察手帳をマコトに提示した。それを見たマコトの体が硬直した。特に罪を犯したものでなければ警察手帳を見てこんな過度に硬直するはずもないのだが……。そんな度の過ぎたマコトの変化に気づく素振りもなくリエは言葉を続ける。
「マコト先生。お話を聞きしたくて……ちょっとお時間よろしいですか?」
 実にアナログな対応だが、マコトはこの場から脱兎のごとく駆け出して自宅へ逃げ切るよう身構えた。しかし、そうはさせじとリエが言葉を続ける。
「立ち話もなんですから……。そう、たしかマコト先生のご自宅はここからお近くでしたよね。お伺いしてもよろしいでしょうか?」
 この刑事は自分の住処を知っているのか……。リエの言葉はマコトへ目に見えない手錠を掛けた。

 なぜこの刑事を自宅に上げてしまったのか、コーヒーを入れながらマコトは自問自答する。だいたいなんでこの女刑事は自分の自宅を知っているのだろうか。自宅に上がり込んだ女刑事は、マコトの部屋のリビングルームのあちこちを興味深そうに見て回っている。
 路上であれこれ聞かないので、職務質問ではない。なんの取り調べなのか知らないが、事情聴取なのだろう。だが任意聴取なのだから拒否もできた。だいたい、任意聴取ならまず電話で警察署に呼び出しを受けて署で聴取を受けるのが普通だ。待ち伏せされてしかも自分の家に上がり込まれて取り調べられるなんて流れが変だ。いやとにかく、今のところ自分は警察にお世話になるようなどんな犯罪も犯していない。だから何を聞かれても逮捕されることはないはずだ。ただ、自分の()()ことだけは絶対に知られてはならない。
「あっ、ありがとうございます」
 リエはマコトの差し出すコーヒーカップを見てようやくリビングのソファーに腰かけた。
「それで聞きたいことってなんでしょうか……」
 マコトの問いにはしばらく答えずリエはコーヒーを口に運ぶ。そして口に含んだコーヒーをゆっくり飲み込むと、マコトを正視しその目元に笑みを浮かべて言った。
「マコト先生はペドフィリア障害、いわゆるペドフィリアにお詳しいですよね」
 いきなりのリエのひとことに、マコトの脳が爆発した。
 ペドフィリアは、小児(通常13歳以下)を対象とする、反復的で性的興奮を引き起こす強い空想、衝動、行動を生み出す性癖である。その性癖は、男児のみ、女児のみ、またはその両方が関心の対象となり、かなり昂揚的な性的興奮を生じさせる。マコトの場合、小児に対する関心を抑えるために弱からぬ苦痛を感じて、日常生活に支障をきたしている程度のペドフィリアで、犯罪行為まではいっていない。だがいつそれが耐え難い衝動に成長し、実行動として露見してしまうのか戦々恐々とした日々を送っていたのである。
 彼は医師でもあるので、その対処方法を知らないわけでもなかった。化学療法としてテストステロンの血中濃度を低下させる薬剤が有効である。ただそれは治療ではなく対処である。重要な治療方法は、長期の精神療法を経て性衝動を得る方向に変化をもたらすことであるのだが、それらは他者の協力を必要としている。しかしこんな自分を誰にも知られたくなかった彼にとっては、それは不可能な治療方法であったのだ。テストステロンは加齢によって減少することが多い。そこで彼はただひたすら化学療法に頼って自身の老化を待ち、この秘密をしっかりと両腕に抱きながら棺桶に入ることを人生の究極の使命として自分自身に課していたのだ。それをこの女刑事は、あろうことか笑みを浮かべながらの第一声で彼の性向を言い当て、今後の人生を台無しにしようとしているのだ。
 リエは硬直しているマコトを尻目に友達と世間話をするかのように話しを続けた。
「ペドフィリアはパラフィリアの一種と言われてますが……」
 パラフィリアとは、無生物、小児、または合意のない成人に対する苦痛や屈辱に対して、性的興奮をもたらす常習的で強い空想または行動のことである。これは他者に危害を及ぼすことが多いことから精神障害とみなされている。
 マコトは心の中で叫んだ。この女を殺さなければならない。殺人犯として捕まっても、その動機さえ黙秘していれば自分の秘密は守られる。マコトはソファーから跳ね上がると、脱兎のごとくキッチンに駆け込み包丁を握りしめる。そしてリエににじり寄った。しかし、丸暴での勤務経験があるリエは、こんな修羅場は何度も経験している。マコトの行動には全く動じす涼しげにコーヒーカップを口に運んでいた。
「そこでね、マコト先生に聞いてもらいたい事件があるのですよ」
 リエはA子ちゃん失踪事件の状況と経過を話し始めた。マコトの行動をまったく意に介せず、友達へ話すように語り続けるリエ。そんな落ち着きを見せる彼女にいつしか自分のパニックと興奮を吸い取られて、マコトは力なくソファーに崩れ落ちる。そして、彼女の話しに耳を傾けるようになっていた。
「……以上が経過と現在の状況で、未だにA子ちゃんは見つかっていません」
 リエの話しが終わって、しばしふたりは黙って見つめ合った。口火を切ったのはマコトだった。
「それで……私に何をしろと……」
「ご存知のようにペドフィリアによる犯罪は再犯が多いのですが、今回犯歴のある人物がA子ちゃんの周辺には見当たらず……」
「私を疑っているのですか!?」
「いえ、マコト先生のアリバイの裏は取ってますので容疑者からは外れています」
 この女刑事、会う前からさんざん自分のことを調べていたんだな。だから自宅も知っていたんだ。
「捜査が行き詰まっているので、何か打開できるようなお話をペドフィリアに詳しい先生からお聞きできないかと……」
「私はペドフィリアの研究者ではありません。自身の心に潜むペドフィリアの狂気に苦しむ当事者なんですよ!」
 ついにマコトが開き直ってカミングアウトした。リエは包丁の柄でリビングのテーブルをたたくマコトに歓迎の眼差しでほほ笑む。そう、それでいいのよ。ペドフィリアを自覚することでやっと話しができるスタート地点についたのだ。
「申し訳ないですが、自分は先生がその『自身の心に潜むペドフィリアの狂気』とやらに苦しんでいるかどうかは全く関心がありません。誰だって偏愛するものはあるでしょう。それが度を過ぎて他者を傷つけるようなことがあったら、ボコボコにして即逮捕します。でも今の先生は逮捕の対象じゃありません。だから捜査官として、A子ちゃんを見つけ出すためなら、なりふりなんて構ってられませんので、先生に迷惑かけようがかけまいが、何でもいいから解決の糸口を引き出したいだけなんです……だから先生。いい加減その包丁を仕舞ってきてくださいよ」
 リエの指摘でマコトは自分が包丁を手にして何をやろうとしていたことを思い出した。しかし今となっては手にしたものをリエの胸元に差し立てる気分にはなれない。気分が萎えてしまったマコトは仕方なく包丁をもとあった場所に戻すと、憮然とした顔でリビングテーブル越しにリエと対峙した。
「わかりました。ではどうしても私からなにかを聞き出したいと言うなら……条件があります」
 マコトの口調の変化に警戒するリエ。
「なんです……」
「ひとつは、あなたは誰にも知られたくない私の秘密を便利に利用しようとしているのですから、誰にも知られていなくて、かつ誰にも知られたくないあなたの秘密をひとつ私に教えてください」
「ええっ?」
「はやく!」
 マコトにせかされてリエは苦し紛れに叫ぶ。
「ええっと……私……左の乳首のそばに大きなほくろがあって、裸になると乳首が三つあるように見えるんです!」
 絶句するマコト。
「そんな秘密はだめですよ!あなたの家族や旦那さんだったら知ってることじゃないですか」
「胸が膨らみ始めてから親兄弟とはお風呂に入っていませんし、それに結婚はしてませんよ」
「でも……どれほどいるかわかりませんが付き合っている彼氏達ならそんなこと知っているでしょう」
「残念ながら私の乳首を見るまでの深い仲になった彼氏はいないんですよ。いつもその手前で愛想つかれちゃって」
「どうしてまた?」
「仕事が忙しくて会えないこともあるんですけど、たまに彼の家に遊びに行っても、彼がブラジャーのホックに手をかけた段階で、つい殴っちゃうからじゃないでしょうか」
 マコトは思わず爆笑してしまう。自分の人生の危機を目の前にして、何故こんなに笑えるのだろう。そんなことを考えながらも笑いが止まらない。
「そんなに笑うのはやめてくださいよ!」
 リエは顔を真っ赤にしてマコトを諫める。マコトもようやく笑いから立ち直り真顔で彼女に言った。
「だいたいそれは秘密じゃなくて、いわゆるコンプレックスでしょう。」
「待ってよ!マコト先生の場合だって、ただのコンプレックスじゃないってどうして言い切れるの?コンプレックスであろうがあるまいが、『秘密』ってのは要するに他人には知られたくないことってことじゃない!」
「いや……同じ秘密でも僕のとは次元が違う……」
「どうちがうのよ」
「僕の場合他人に知られたら人生が破滅する」
「私だって知られた相手と結婚せざるを得なくなって人生が破滅よ」
「それは破滅じゃなくて……」
「もう……そんなことどうでもいいでしょ!とにかくお互い秘密をばらし合ったんだから先に進みましょ」
 マコトはリエを見つめながらちょっと不思議な感覚を持った。自分の致命傷ともなる邪悪な性癖を知られてしまった相手であるはずなのに、なぜこんなに屈託なくしゃべれるのだろうか?

 
 リエがマコトの部屋を訪問した翌日。所轄の『A子ちゃん失踪捜査チーム』は、俄かにざわめき立っていた。チームメンバーが寝る間も惜しみ、A子ちゃんが失踪したキャンプ地の駐車場に停車していた車のドライブレコーダーをチェック。ついに、そこにペドフィリア犯罪の前歴のある人物が写し込まれていたことを発見したのだ。早速容疑者は召喚され取調室で詰問されている。チームのほとんどがこの容疑者を自白させることができるかどうかに傾注しているさなか、リエは取り残されたようにデスクに頬付けしながらマコトとの会話を思い出していた。
 事件解決のためなんて大義を振りかざし、なんで自分はあんな大胆な聴取をマコトに仕掛けたのだろうか。自分が事件の早期解決を焦っていたのは事実だが、自らの性癖に心から苦しむ相手を前に、リエの言動は酷すぎたのではないだろうか。今まで捜査の名の下で、多少粗暴でも自分の言動に後悔などひとつもしたことのないリエが、なぜマコトとのやり取りに思い悩むのか……。それが純粋に捜査目的ならば微塵も後悔などしないのだが、心の片隅に捜査をいい理由にして彼との会話の機会を得たいと願う自分がいたような気がしてならないからだ。好きな子にいたずらを仕掛けてでも接する機会を作ろうとする小学生並みの幼稚な動機……。いやいや……。リエは頭を振って悩みを振り払う。とにかく今は事件の解決が最優先なんだ。彼女は聴取の内容を記録したメモを見直しはじめた。

「ペドフィリアの強い衝動にかられ、それが行動として現れる場合、大まかにふたつのパターンを表す場合が多いのです」
 話し始めたマコトを前に、リエはメモの上にペンを忙しく走らせる。
「ひとつは『狩り型行動』です。自分の性欲の高揚に耐えられず、猛獣のようになったペドフィリアは獲物を求めてさまよう。美味そうな獲物と遭遇したら忍び足で近づき捕獲する。捕獲された獲物はその場で死に至るまで、いたぶられ、もてあそばれ、そして遺棄される。事後巣に戻った猛獣は、記憶が新鮮なうちに獲物が苦しむ様をその脳裏に蘇らせて快楽を完成させる」
「マコト先生は今回がそれだって思うの?」
「いや、今回はもうひとつのパターン『愛玩型行動』だと思います」
「なにそれ?」
「ペドフィリアが行動に出るプロセスとして、まず妄想が心の中で育まれ、そして拡大化し、いよいよ我慢ならない衝動に突き動かされて行動に走る。性犯罪者の犯罪行動の代表的なプロセスとして、犯罪心理学の教室で教えてもらったことないですか?」
「うーん、どうだろ……」
「ペドフィリアから来る妄想を心に鍵をかけて閉じ込めておいても、ある日こどもに出会い、日頃からその子を眺め、時にはその子と手をつなぎ、抱き上げしていくうちに、もう止めようもない衝動に成長していってしまう」
「なんか似たような話が、確か映画の『羊たちの沈黙』あったわよね」
「そうです。映画の中で事件を追うFBI女性訓練生のクラリスに獄中のハンニバル・レクターが言ったセリフですよ」
「殺しを駆り立てるものは“究極の切望”なのだ。我々は毎日見ているものを切望する」
「よく覚えてますね……確かリエさんが生まれる前に封切られたの映画ですよ」
「私ね、学生の頃からクライムサスペンスモノが好きで、この作品はビデオで何回も観たわ」
「クラリスが今の君だとしたら、今の僕はさしずめ『ハンニバル・レクター』つまりぞっとする怪物ってところですかね……」
 少しげんなりしたような表情を見せるマコト。リエはそんな彼を気に掛ける様子もなく話の続きを催促する。
「それでマコト先生はなんでこの件が『愛玩型行動』だと思うの?」
「狩り型行動の場合、郊外の住宅地や団地で遊ぶ子供を狙う場合が多い。子どもも自分の生活圏では警戒心が希薄になるのだろうね。だから言い寄ってくる知らない大人も、日常の一部だと感じてしまうのだろう。それは狩りをする側からすればありがたいことですから」
「でも、今回のケースはキャンプ地……」
「そう、非日常の環境と時間の中ではどんなに楽天的なこどもでも言い寄ってくる見知らぬ大人を警戒しないはずがないです。よしんば暴力的に拉致したとしても、川からの距離、両親のいるキャンプ地からの距離を考えればそこに抵抗の声が届かないわけがない」
「マコト先生は今回の犯人はA子ちゃんの顔見知りの人物だと思うのね」
「まあ、確信はないのだけれど……日頃A子ちゃんに接しながら自らのペドフィリアの妄想を拡大させて止めようもない衝動を抱き、A子ちゃん一家がこの日このキャンプ場に行くことを知って、ついに行動のきっかけを得た人物」
「なるほど……」
 リエはメモを取る手を止めて、まじまじとマコトを見つめた。
「もしかしたらマコト先生はいっぱしのプロファイラーになれるかもよ」
 うっとりするリエの視線にいったんは照れて頭を掻くマコトではあったが、すぐに自らの性癖を思い出して表情を暗する。
「これはプロファイリングなんかじゃない。自分がやりそうなことを想像して言っているんです。だから、もしこの通りなら僕は間違いなく犯人と同類ということを証明しているようなもんで……自分ながら本当に恐ろしいことだと思う……」
 リエは一瞬、彼の暗い顔に憐憫を感じた。
「ありがとう。ここまで話が聞ければあとは私の仕事ね」
 リエはメモをバックに仕舞いながら、思いついたようにマコトに尋ねた。
「ねえ、もうひとつ聞かせて。もしマコト先生の言うとおりだったとしたら、A子ちゃんは生存しているかしら?」
「愛玩型行動者はとらえた子どもをおもちゃのように扱う。人は大概、おもちゃを得たら当分の間は動かして楽しむものです。だが、おもちゃが期待通りに動かなくなってしまえば遊びにも飽きて、自分の罪とともにA子ちゃんを跡形もなく捨てようとするでしょうね」
「A子ちゃんが行方不明になったのは4日前ね……」
「そう、医学的に言ってもA子ちゃんが生命体として動ける体力はせいぜい4〜5日が限界。それを過ぎればA子ちゃんは犯人に何されても動かなくなる……。そうなればどんな形でも両親がA子ちゃんを抱くことが永久にできなくなる確率はとても高くなるでしょう」

 リエはメモを閉じた。
 今取調室で詰問されている重要参考人は、昨夜マコトの言ったプロファイリングと明らかに異なっている。もしマコトが正しければ、犯人は別にいるはずだし、今日明日中にA子ちゃんを見つけ出さなければ、今生きている幼い命をみすみす失うことになってしまう。リエはマコトのプロファイリングに従って、独自に容疑者を検討してみた。
 まず、ペドフィリアであるほとんどが男性なので、そこを出発点にしよう。
 プロファイリングのひとつ目『日頃からA子ちゃんに接っしている人物』ーまず家族からスタートして範囲を広げながら該当する人物のプロファイリングを重ねてみた。家族、親族、近所の住人、毎日通う学校や塾の先生および関係者、母親がA子ちゃんの手を引いて買い物につれ出している商店街の店主や売り子たち。A子ちゃんに日ごろ接する男性の範囲は膨大だ。
 ただもうひとつ、犯人を絞るプロファイリングのネタがある『A子ちゃん一家がこの日このキャンプ場に来ていることを知ることができた人物』
 キャンプ場に行ったのは全国的な連休の一日だから、この日A子ちゃん一家が家族でどこかに遊びに行くだろうことはすべての人々が想像できる。しかし、さすがに特定された茂原のキャンプ場へ行くことを知る人物は少ないはずだ。突然、リエの頭の中で調書報告を読み上げる萩原の声がこだました。
 『工場の敷地の一画に自宅があるので……』
 リエは上着を掴むと署を飛び出していった。
 
 
 『A子ちゃん失踪捜査チーム』の取調室。捜査チームのリーダーはマジックミラーを通して取調デスクにうずくまる容疑者の様子を眺めてため息をついていた。ドライブレコーダーの記録からやっとこさ容疑者らしき人物を見つけ出し召喚したのだが、彼は取調室で何を聞いても泣きながらグスグス鼻を鳴らすだけだった。取調べが始まってからだいぶ時間が経っている。取り調べの時間にも制限はあり、特別な許可がない限り、1日8時間以内、基本的に午前5時から午後10時までの運用とされている。現段階では拉致の確たる証拠も出ていないので拘留するわけにはいかない。かといって迅速に自白を取ろうと拷問するわけにもいかない。朝9時から始まっている取調べは何の成果もなく、どうも今日は容疑者を帰すしかないようだ。明日も召喚するしかないか……。この時、彼の頭では犯人の特定がA子ちゃんの発見につながるという考えが最優先されており、A子ちゃんの生存に係わる時間の意味について考えが及んでいなかった。
 その時、部屋のドアが勢いよく開けられ、部下が飛び込んできた。
「なんだ!部屋へ入るのにノックもできんのか!びっくりするだろ」
「いえ、びっくりはこれからですよ……刑事部長。A子ちゃんが発見されました!」
「なに?」
「発見されたA子ちゃんは極度の栄養失調と脱水の症状があって……今、ICUで治療を受けているそうです。ただ、生命に別状はないようですよ」
「で、どこで発見されたんだ?」
「両親が経営する修理工場の近くの資材置場です」
「修理工場の近く?……で、やはり拉致なのか?」
「はい」
「犯人は?」
「社員の修理工です」
「そうか、なら早くここに連行してこい!」
「それが……半殺しにされたみたいで……犯人も病院直行です」
「どうして?」
「A子ちゃんの居場所を聞き出すためにボコボコにした奴がいて」
「誰がやったんだ?」
「……吉岡捜査官みたいですが……」
「あの小娘か!」
 捜査チームのリーダーは目の前のデスクに拳を叩きつける。
「そんなことやったんじゃ違法捜査だろうが……A子ちゃんを発見できても裁判では証拠にならん。検事にどやされるぞ!」
 優先すべきは犯人の断罪なのか、A子ちゃんの命なのか……。司法の下で動く警察の永遠の課題である。

 
 「吉岡さん、診察室2番へどうぞ」
 リエが診療室のドアを開けるとにこやかにあの古参の看護師が笑顔で迎えてくれた。マコト先生と言えば……相変わらず彼は机上のモニターから顔を上げることなく忙しくキーボードをたたいている。
「若先生、次の患者さんですよ」
 古参の看護師にせかされて、マコト先生がようやくパソコンから顔を上げた。そして、その患者の顔を見ると彼は大きなため息をつきをついた。
「私の顔を見て、いきなりため息はないでしょう」
 笑って患者席に座るリエ。
「リエさん……今度はいったい何事ですか」
 そんなマコトの対応を見て、すかさず看護師の説教が飛ぶ。
「若先生、その態度はなんです!診察へ来られた患者さんに失礼でしょ……それとも何ですか、そんな失礼な態度が許されるような親しい間柄なんですか?」
「そっ、そんなことあるわけないだろ!」
 看護師の疑惑の眼差しにマコトが慌てて否定するものの、リエは意地悪な笑みを浮かべて看護師に言った。
「でもね……マコト先生とは先日お互いのすごい秘密を共有する深い仲になったんです」
「リエさん、私の職場でふざけるのはやめてください!」
 真顔で怒り出すマコトに、リエもこれ以上のイジリは危険だと口を閉じる。
「それで、今日はどうしたんですか」
 事務的なマコトの診察開始の前振りに、リエは黙って右手を差し出す。右手には包帯が巻かれ丁寧に外すと皮膚がボロボロの拳が現れた。
「どうしたらこんなになるんですか……これじゃうちに来るよりは手の外科の医院のほうが……」
 マコトは呆れてリエの拳をあちこちから眺めながら愚痴る。
「でも……ご活躍はニュースで知りましたよ。お手柄でしたね」
 笑みを含んでそんなことを言ってくれるマコトに、リエも照れを隠せないでいた。『それもマコト先生のプロファイリングのお陰です』そう口元から出かかっていたがあわてて口をつぐんだ。事件にかかわったことはくれぐれも秘密にして欲しいとのマコトの要望を思い出したのだ。彼はそのことが自身の性癖の露見につながることを極端に恐れていた。
「骨には異状ないようですよ。傷が炎症起こしたり感染したりしないようお薬を塗っておきましょう。軟膏の処方箋を出しておきますので、一日一回ガーゼを取り換えて塗布してもらえれば、1週間くらいで皮膚が再生しますよ」
 マコトはいたって冷静に、そして事務的にそう言うとリエに一瞥もくれずまたキーボードをたたき始めた。
「あのー……マコト先生、今夜お暇ですか。私と晩御飯いかがでしょうか?」
 リエが口にした一言で診察室の時間が止まった。マコトも看護師も驚いたようにリエを凝視する。
「それって、若先生にデートのお誘いなの?」
 看護師が嬌声を上げる。
「まあ、そう取っていただいてもいいですけど……」
 まさか捜査協力のお礼とも言えないリエは、包帯の巻かれていない左手で頭を掻いた。
「リエさん、そのような話は診察室では困りますよ……」
 狼狽するマコトに構わず、リエはポケットからメモを出すと彼に手渡した。
「今夜の集合時間と場所はここに書いてありますから」
 メモを暫し眺めながらマコトは考えた。そして意を決してメモをポケットにしまい、看護師に聞こえないように返事をする。
「わかりました……今夜お伺いします」
 しかし、古参の看護師がそのささやきを聞き逃すわけがなかった。
「そういうことですか……いくら若先生にお見合い相手を紹介しても、まったく興味を持たない理由が分かったような気がするわ」
 看護師の言葉を背に、リエは逃げるように診察室から飛び出していった。
 リエは診療所のロビーで会計を待った。椅子に座る彼女の顔が、わずかながら上気していた。それは今夜の会食をマコトが承諾してくれたことが原因なのだろうが、本人はそれを待合室の室温が高いせいだと無理やり理由づけていた。

 リエが指定した場所は、彼女のマンションだった。マコトがやってきたのはリエから渡されたメモに書いてあった言葉に無関心ではいられなかったからだ。メモにはこう書かれていた。『A子ちゃんがどうなったのか、それに右手の拳がどうしてこんなになったのか、その顛末が聞きたいでしょ』
 1階の入口で部屋番号を押すと『はーい』と聞きなれた声とともにゲートが空き、マコトはリエの住む階にとエレベーターで上る。
「マコト先生 ようこそ」
 マコトの家で事件について話した日以来リエには会っていない。あの時はいかつい戦闘機乗りのようないでたちだったが、ドアを開けてマコトを迎え入れるリエは、髪を下ろして可愛いキャラクターが描かれた緩い感じの部屋着だった。今まで見せていない女性の側面を強調していたようだったが、マコトの性癖では当然心拍数は上がらない。招き入れられて彼女の部屋をざっと見たマコト。彼の印象としては、彼女の部屋は整然としているとは言い難かった。だがマコトはその部屋の様子にも不快感を感じることはなかった。彼女は想像していた通りのひとり暮らしだったし、加えて生活が不規則で激務の女性刑事なのだから仕方がないことなのだ。
「どうぞ、そのテーブルに腰かけて」
 マコトは言われた席に着くが、テーブルの上には何の準備もない。やがてまたドアのチャイムが鳴る。
「ほら、来た来た」
 リエがドアの前で迎えたのはUberである。ポーターが運んできたフードとドリンクがマコトのテーブルの上に並べられた。
「わざわざ自宅に呼びつけておきながら、手料理じゃなくてごめんなさい」
「とんでもないです。そんな手をしてるのに、料理を強いる方がどうかしてる……」
 マコトはリエの右手を指し示した。それに自宅に呼びつけられたと言っても、これから二人で話すだろう事はどうあっても他人の耳に入ってはならない内容のはずだ。だから、お互いどちらかの自宅での話にしなければならないことはマコトも承知していた。
「とりあえず、事件解決を祝して乾杯ね」
「ごめん、自分はまかり間違っても衝動を解放しないように、酔うことを避けているのです。酒は遠慮します」
「えっ?今まで一滴もお酒飲まないで過ごしてたの?」
「まあ……そういうことになるかな……」
「そうなの……じゃ、ウーロン茶で」
 酒好きのリエは、いつもなら酒の席で相手が飲めないと知ると、愛嬌たっぷりにいじりまくる。それも彼女の愛情表現のひとつなのだが、今回は断酒の理由も理由なので、それも慎まなければとマコトのグラスに神妙にウーロン茶を注いだ。
「では、カンパーイ そしてありがとうございました!」
 リエはおいしそうに自らのグラスに満たされたビールでのどを鳴らした。
「ところで、どうやってA子ちゃんを見つけたのです?」
 早速の問いにも、リエは相手を焦らすようになかなかビールグラスを口から離さない。
「確かふたりで話した翌日ですよね?A子ちゃんを発見したのは……」
 話を急かすマコトに仕方ないという表情のリエが、ようやくグラスをテーブルに置く。
「捜査内容を不用意に一般市民に漏らしてはいけないって、お国からきつく命令されているんだけど……」
「じゃあ、なんで僕を呼びつけたんですか!」
 リエは真顔で焦れるマコトを十分楽しんだ後、高座に上がった講釈師のように語り始めた。
「マコト先生と話した翌日、あらためてプロファイリングを見直したのよ……」
「ああ、あの『日頃接しながら自らのペドフィリアの衝動を拡大させていて、一家がこの日このキャンプ場に来ていることを知った人物』ってやつ?」
「そうしたら……修理工場の敷地内に自宅があって、そこへ社員を呼んで食事したり、A子ちゃんも両親の目の届く職場で遊んでたりしていたってことが調書に書いてあった事をあらためて思い出したの。つまり家族ぐるみ和気あいあいの職場ってとこね」
「修理工場の社員は日頃からA子ちゃんを眺める機会が多かったってことですか?」
「そう……そんな職場なら、社長も今度の休日に家族でどこへ行くか雑談の中で社員に漏らすんじゃないかと思って」
「なるほど……だけど社員はひとりってわけじゃないですよね」
「ええ、社員は5名。男性の修理工が4人。女性の事務員がひとり」
「この手の犯罪は女性であることが極端に少ないから、とりあえず女性事務員は除外できますね……」
「同感!男性の修理工は4名だからとりあえずそこから取り掛かったの」
「どうやって絞り込んだのです?」
「犯人を発情させれば、必ずA子ちゃんのところに行く、だからこの4人に発情するように仕掛けたのよ」
 マコトは口に含んだウーロン茶を噴出した。
「発情させる!……いったいどうやって?」
「お母さんを説得してA子ちゃんの水着の写真をお借りして……」
「ちょっと待って、それは禁じ手じゃないの?」
「何言ってんのよ!『そうなればどんな形でも両親がA子ちゃんを抱くことが永久にできなくなる確率はとても高くなる』って脅かしたのはマコト先生でしょ。もう、こっちも手段を選ぶ余裕なんてないじゃない!」
 リエは荒々しくグラスに残ったビールを一気にあおった。そんな彼女の開き直りに圧倒されながら、マコトはその空いたグラスにビールを注ぎながら話の続きを催促する。
「で……それからどうしたのです?」
 リエは包帯の無い方の手でグラスをあおった後にその勢いに乗じて話し始めた。
「水着写真を借りてフォルダに挟み込み、4人それぞれに聞き込みをするふりをしてわざとフォルダを落とし写真を拾わせたの……ウップ」
 リエはゲップで話を中断したが、そんな彼女を見つめてマコトはもどかしそうに話の続きを待った。
「失礼……みんな『落ちましたよ』なんて言って平気な顔して拾ってくれたけど……」
「そりゃそうでしょ……そんな写真を見ていきなり興奮をあらわにする奴なんていないですよ」
「けどね……その中のひとりだけ、写真を拾うのに違和感があるやつがいて」
「違和感?」
「言葉じゃ言うのも難しいのだけれど……息がね……弾まないで、揺れるっていうか……」
「弾まず揺れるって……意味わかんないです」
「うーん……だれだってしゃがんで写真を拾えば多少でも息が弾むでしょ。だけどその男だけ息が揺れてたの。これは思わず生じた衝動や不安を意識的に抑えようとして吐く息を制御しているってことになるのかな」
 マコトはその話を聞いて、じっとリエを見つめて黙ってしまった。
「なっ、何よ?急にだまちゃって……」
「……リエさんの観察眼って恐ろしいですね……僕の場合はいったい何を見られて性癖を見破られたのだろう……」
 話の意外なところを拾うマコト。
「まあ、それは想像に任せるけど……とにかくそうなったらもうその人物一本に絞り込んで賭けるしかないじゃない」
「それで?」
「その修理工をマークして、仕事終わりにも尾行してみたの」
「リエさんの思惑通り、発情してA子ちゃんの居る場所へ向かったのですか?」
「そう、男は一旦自宅に戻ったんだけど、すぐに出てきて人目を気にしながら歩き始めたわ」
「それでそのまま尾行してA子ちゃんを発見?」
「そうだといいんだけど……私、途中でドジ踏んじゃって」
「えっ?」
「尾行がばれちゃったの」
「嘘でしょ!」
「仕方ないから、その場所でボコボコしてA子ちゃんの居場所を吐かせたのよ」
「マジですか……それで拳があんなになっちゃったんですか」
「まあ、そういうことね」
「なんだ、結局知的捜査じゃなくて、ナチの親衛隊みたいに拷問でA子ちゃんを見つけたってことなんだ?」
「だって……マコト先生も言ってたでしょう『そうなればどんな形でも……』」
「ああ、わかった、わかった、わかりました。プロセスは兎も角、A子ちゃんが生きている間に見つかってよかったです。本当にお手柄でした」
「だけど手放しには喜べないの」
「どうして?」
「A子ちゃんを見つけたものの、証拠に基づいて手順を踏んだ捜査じゃない。つまり完全な違法捜査。当然犯人は弁護士に知恵いられて、裁判では『暴力を振るわれて出まかせを言ったら、たまたまA子ちゃんがいた』って言ってくるでしょ。そうしたら有罪にできないのよ。反対に犯人から傷害罪で訴えられるかもしれない。検事からさんざん絞られるし、上司からは当分自宅で謹慎してろって言われるし……」
「そうですか……司法の元で正義を成すって大変なんだですね」
「ええそれに、今回の事件でA子ちゃんやその家族が負った心の傷は深く、気の遠くなるような長い時間をかけて癒していかなければならない。いや、癒しようのない傷を負ってしまったというのも事実ね」
 リエはしばらくグラスに残っているビールが弱い泡を弾けさせているのを眺めていたが、やがて自分の気持ちを整理するかのように、そのグラスをぐっと煽った。
「でもいいの。そういう現実はあるけれど事件の解決に向けて最善を尽くし最善の結果を得たと思うことにする。アタシ的には、A子ちゃんの命を救えたことで満足よ」
 リエは空いたグラスに手酌でビールを満たすと、マコトに捧げて乾杯を促す。しかし、マコトは自分のグラスを持とうとはしなかった。
「実のところ……ボク的には全然満足できないですね」
 リエに同調を示さないマコトの不満そうな言葉に、彼女は思わず声を荒げた。
「満足できないって……何が不満なのよ!」
「なんでA子ちゃんの居場所を吐かせた後、犯人を殴り殺さなかったんですか?犯人は有罪になろうが、無罪になろうが、生きていればこの先ずっと自分の狂気と付き合わなければならないんですよ。また衝動に負けて、幼い命を危険にさらすかもしれない。だったらいっそ彼も自身の狂気とともにこの世から消し去ってもらえたら、どれほど楽だったろうか」
「ちょっと!それ極論じゃない!」
「いや、リエさんは僕たちが持つ狂気へのどうしようもない恐れと苦悩がわからないでしょうが……」
 リエはマコトが語る突拍子もない論旨に驚くがあまり、彼の言葉を最後まで待つ冷静さを失っていた。
「待って!ペドフィリアは狂気ではないわ。『独特な性癖』のひとつよ。世の中には縛られて鞭打たれなければ興奮できない人や、同性じゃなきゃ性欲が起きない人もいるじゃない。そんな数多くある性癖のひとつにしか過ぎないでしょ。狂気ってのは、そんな性癖を利己的に同意の意思がない他人を巻き込んで現実に持ち出そうとするところで生じるものじゃないかしら」
「わかってないな!現実化しようがしまいが、ペドフィリアだけは社会的に無条件にアウトなんだよ。それは『独特な性癖』ではなくて一生消えることのない『狂気』そのものなんだ!」
「そんなわけが……」
 マコトの剣幕にリエはそれから先の言葉を失った。やがてマコトは大きなため息とともに席を立つ。
「興奮してごめんなさい……今日はごちそう様でした。もう帰ります」
「えっ、……ちょっと」
 どうしていいかわからず狼狽するリエには目もくれず、彼は急いで彼女に背を向けた。また彼女の鋭い観察眼で、自分を詮索されることを避けたのだろう。
「リエさんが僕たちの狂気をそんなに軽く考えているとは思いませんでした。今では、そんなリエさんに協力したことを後悔していますよ」
 彼は背中越しにそう言い残して勢いよくドアを閉めた。いったん腰を浮かしたリエだったが、彼がドアを閉める音が、リエを全力で拒否する彼の意思を伝えているようで、追う気も失せてしまった。ひとり残された部屋でリエはやけくそ気味にビールを煽る。彼をあんなに怒らせた理由が解らず、ビールの苦味が彼女の舌を責め続けていた。