Dr.BEM~ペドフィリアは狂気なのか

1.で、私は何をしたら……

「おう吉岡、ギブスはとれたみたいだな」
 本庁のオフィスへ到着したリエにチーム長の岡島が声を掛ける。
「ええ、やっと……さっぱりしました」
 リエは右手に拳を作ると何発か左の手のひらに打ち付けて回復をアピールした。
「ちょっと待ってよ吉岡さん。前の部署はどうだか知りませんけど、うちのチームの仕事に拳はまったく必要ありません。それに警察学校で実弾射撃訓練でも相当な成績だったらしいけど、拳銃も必要なし。必要なのは頭脳なのよ。わかってる?」
「わかってますよ萩原警部補」
 リエは苦笑いしながら右手の拳をポケットに収めた。同じ女性とは言えリエは行動よりも理屈の先行するこの先輩がどうも苦手だ。
 リエが所属する『捜1ユニット』はチーム長のもと5名で構成された行方不明者案件の専門チームである。警視庁が受理する行方不明届は年間5千件以上で、事情を抱え行方をくらませる人も多いが、重大事件につながるケースもある。膨大な事案の中から事件性を見極めるには、経験に裏打ちされた刑事の勘が頼りになる。そこでこの専門チームが2022年8月に発足された。
「快気祝いってわけじゃないが……早速この失踪届に対応してもらえるか」
 岡島チーム長がファックスをリエの前に差し出した。
 失踪届が出た現場は、茂原の郊外にあるキャンプ地である。キャンプ場から河川に向かう道で7歳の女の子が行方不明になった。テントで食事の準備をする両親。近くの河川で遊んでいる兄達のところへ行くと言って河川に向かう一本道をひとりで下って行った。やがて兄弟が河川から帰ってきてもその女の子は一緒に帰ってはこなかった。聞くと女の子は河川には来なかったという。両親やキャンプ場のスタッフが慌てて探しに出るが見つからない。1時間後に所轄警察へ行方不明届が出され、川に流された可能性も含め警官と機動隊が大規模にあたりを捜索したが1日経過しても女の子は見つからなかった。捜索は今も継続して行われているが、2日目となった今日『捜1ユニット』の出動が要請されたのだった。
「現場では相当数の機動隊員が展開して捜索が続いているのでしょう。まだ犯罪かどうかの確証はないですよね」
 失踪届を見ながら萩原が高岡チーム長に言った。
「ああ、だが大規模捜索で1日探しても見つからないとなると、もうこの周辺には居ないとういう確率が高いな」
「事故で川に流されて遥か河口までいってしまったのか、それとも連れ去りなのか……」
 リエの独り言のようなつぶやきに、重い沈黙が流れた。しばらくして、気を取り直したように岡島が二人に声を張り上げた。
「わかっているかと思うが、俺たちはこの案件に犯罪性があるのかどうかを調べるのが任務だ。周辺の聞き込みと行方不明になった女の子の家族の調書は、まもなくここへ届くことになっている。萩原は現場調書から、吉岡は家族の聞き込み調書から犯罪の可能性を調べてみてくれるか」
 高山の指示に、萩原もリエも独楽ねずみのように動き始めた。

 『捜1ユニット』の任務は、失踪者の写真を持って地域の住民に訪ねて回ったり、ボートを浮かべて川底を探ったりすることではない。現場の状況や調書の確認などから、失踪の犯罪性を探るのが仕事。犯罪性が高いと判断されれば、案件に応じて実働部隊である捜査チームが編成され、犯罪者と失踪者の捜索がはじまる。
 時間が経過すればするほど、犯罪者の検挙率と失踪者の生存率が低下していく。だから、一刻も早くその犯罪性を判断しなければならないのだ。深夜にもかかわらず、高岡、萩原、そしてリエが居るカンファレンスルームの燈は煌々とし、ホワイトボードには判断材料となる様々な写真や書類が張り付けてあった。
「……で、萩原。調書から分かったことを報告してもらえるか」
 高岡チーム長に促され萩原がメモを片手に話し始めた。
「キャンプ場から兄弟が遊んでいる川までの距離は約50メートルです。道は舗装されていませんが土で固めた一本道で、小さい子供とは言え道に迷う可能性は低いかと思われます。また、道の左右は深い藪になっているので、子供がそこに分け入っていくことも難しいです。よしんば、無理やり藪を分け入ったとしても、道は川に平行に沿ってはおらず道程の途中で川に落ちることはまず考えられません。地域で野犬や獣の情報もあがってませんし、現場の捜査官の調書を読む限りではでは、迷子になったとか、事故に遭ったとかの可能性は低いように感じます」
「そうか……では、吉岡はどうだ」
「はい。A子ちゃんは小学校4年の9才。兄弟は兄がふたりの長女です。父親は自動車の修理工場を経営し、母親は3人の子どもを育てる専業主婦です。唯一の娘ということもあり、両親ともにA子ちゃんをとても可愛がっていたようです。特に父親はA子ちゃんを溺愛しており、工場の敷地の一画に自宅があるので、仕事中でもよく戻ってきては娘と遊んでいたとの母親の証言もあります。兄達とのトラブルもなく家族関係的にはごく普通の仲良し家庭ですね」
「そうか……DVもネグレクトも家族間のトラブルもないってことだな。A子ちゃんの性格や最近の動向はどうなんだ?」
「A子ちゃんは明るくて活発な女の子で、友達も多くいじめにもあっていることもないようです。最近特に塞いだりしている様子は見られず、学校にも元気に登校していたと母親が言っていました。当然のことですが、仮にA子ちゃんに悩みがあったとしても、9才の女の子ですから自分から身を隠したり川に身を投げたりするわけもないですし……」
「確かに……」
「それに現状では誘拐と思しき身代金要求もありません」
 岡島は腕を組んでしばし天井に細かく瞬くFLの明かりを見上げていた。ふたりからの情報を聞き、最終的な判断を考えているようだ。リエも萩原もそんなチーム長の様子を固唾を飲んで見守っている。暫くして岡島は意を決したように腕を解くと部下たちに言った。
「調書からの情報から判断すると、誰かに連れ去られたと考えるのが妥当だろう。小児性愛者(ペドフィリア)のなのか、それとも子供を失った精神障碍者なのか……。いずれにしろ、本件の犯罪性を認め、俺は捜査チームの編成を上申する」

 岡島の上申により、失踪現場の所轄警察署に『A子ちゃん失踪捜査チーム』が設置された。A子ちゃん失踪から3日後のことである。そのチームに『捜1ユニット』からリエが派遣された。
 捜索チームのリーダーは所轄の刑事部長が任命されたが、連れ去り事件の経験も少ないリーダーのため、リエは少なからずリーダーの資質に疑問を感じていた。
 捜索基本方針としては、ペドフィリアの連れ去りである可能性が高いので、前科者のデータベースが集められ、連れ去りをおこなう可能性のある人物のアリバイ確認とともに、日頃A子ちゃんに接している人物に対して犯罪歴照会をおこなった。
 子どもたちを保護するために公には「DBS(Disclosure and Barring Service)(前歴開示・前歴者就業制限機構)」が制度化されている。このDBSは2021年に成立した新たな法律で立ち上がった制度で、日頃子供たちに接する機会が多い教職員の採用の際、児童・生徒へのわいせつ行為による懲戒免職や教員免許の失効などの経歴を確認することが義務化され、同年4月からデータベースの運用がスタートされたものだ。また、翌22年には児童福祉法が改正され、保育士についても子供へのわいせつ行為などを理由に保育士登録を取り消された場合、再登録ができないなど厳格化されたほか、保育士を対象とした経歴のデータベースも運用されている。
 しかし、公に制度化されているDBSはあくまでも縦割りで教職員や保育士の採用にかかわる範囲なのだが、警視庁内でのDBSは同類犯罪を犯したすべての人物がデータベース化されている。
 周知の通り小児性愛に関する犯罪は、ドラッグ以上に再犯率が高い。ちょっとしたいたずらを糸口として、重大な犯罪へとエスカレートしていく。警視庁内のデータベースは、それがどんな些細な事件であっても、またそれが有罪になっていなくても、同種の犯罪者の記録はしっかりアーカイブされる。そして該当者は監視されているのだ。公になれば人権侵害ではないかと問題視されかねないほどのデータシステムである。本件に関してもその膨大なデータベースが活用されたが、A子ちゃんの近辺には犯罪歴のある人間はいなかった。
「……となると、ちょっとやっかいだな」
 所轄の会議室で『A子ちゃん失踪捜査チーム』リーダーの刑事部長はチームメンバーを前にして頭を抱える。
「殺人事件の捜査は動機が推測されれば、ある程度容疑者は絞られる。だがペドフィリアによる誘拐となると動機がはっきりしているものの容疑者の絞り様がない。とにかく犯歴を辿ることが最良の捜査方法なんだが……」
 ついに捜査チームのリーダーは天を仰ぎ黙り込んでしまった。一向に具体的な捜査指示を出さないリーダーを見て、せっかちなリエがじっと我慢できるわけがない。
「前がないからって捜査を止めるわけにはいきませんよね。それで、今後の捜査方針はどうするんです?」
 『捜1ユニット』から『A子ちゃん失踪捜査チーム』へ一時的に派遣されているリエは、チームメンバー全員の思いを代弁したつもりだったが、所轄の要員で構成されるメンバーの誰もがリエの意見を求めていたわけではないので、リエの声はただ虚しく会議室床に転がっていく。捜査の停滞……まさにそれを字で書いたような雰囲気だ。
 正直なところリーダーの刑事部長は、さっきから自分に突っかかってくるこの生意気な小娘が煙たくなっていた。本庁ではなく所轄の部下だったら怒鳴り散らして黙らせるのに……。彼は暫く経ってようやく口を開く。
「そうだな……メンバーは二班に分かれて、1班は機動隊を指揮して捜索範囲を75㎞に拡大して捜索を継続してくれ。もう1班は当時不審な人物がいたかどうか、当時のキャンプ地の利用者を含め地域住民への聞き込みを頼む」
 刑事部長の言葉を合図に、メンバーはそれぞれの任務に散っていった。一人取り残されたリエが刑事部長に詰め寄る。
「で、私は何をしたら……」
「君はだな……」
 刑事部長はリエに目も合わさず会議室の出口に向って歩きながら、独り言の様に言った。
「本庁に戻って高岡さんの肩でも揉みながら報告を待ってればいい」
「そんな……」