Dr.BEM~ペドフィリアは狂気なのか

プロローグ/医師の名前は『市原 マコト』

 吉岡リエは右手にはめられたギブスを眺めながら、やっとこいつから解放される時がやってきたとニヤついていた。場所はリエの住む場所に隣接した整形外科の診療所である。
 1か月前、組織犯罪対策第4課に所属していた彼女は、ある暴力団事務所をガサ入れした。その際、暴れる構成員を力づくで制圧した時に右手の小指を骨折した。もっとも暴れた当人は前歯を上下ともへし折られるという重傷を負うことになったのだが……。童顔で小柄な彼女から想像もできないが、日頃から彼女の粗暴な振る舞いは課内の同僚たちの口に上がっていた。だからと言うわけではないが、その一件後、彼女は丸暴から刑事部 捜査第一課 専門チーム「捜1ユニット」へ転属されることになった。
「吉岡さん、診察室2番へどうぞ」
 看護師の呼び出しでリエは診察室に向かった。診察室のパソコンの前には若い医師が座っていた。彼は机上のモニターから顔を上げることなく忙しくキーボードをたたいている。
「若先生、次の患者さんですよ」
 看護師にせかされて、若い医師はようやくパソコンから顔を上げた。
「吉岡さんですね」
「はい」
 リエの返事の声が裏返っていた。それもそのはず返事と同時に心の中では『めちゃ私のタイプ!』と叫んでいたのだから……。視線が合うと自然に顔が赤くなってきた。そういえば、最後の彼氏に逃げられてもう3年が経つ。どんな人と付き合っても、やがて彼女の肉食系の性質と彼女の仕事ぶりから生じる不規則な生活のリズムを嫌って、別の女性のもとへ走って逃げてしまうのだ。
「ではとりあえずギブスを外してレントゲンで骨の状態を診てみましょう」
 若い医師は、愛想もなくクールな口調でリエの右手を掴むと、小型の電動ノコギリのようなものを使って器用にギブスを破壊し始めた。リエは電ノコがギブスを突き抜けて手の肉を切り裂かないかと少し手に力が入る。しかし、手慣れた若い医師の手つきに安心して、手をゆだねると早速若い医師を観察し始める。これは一種の職業病ともいえる悪い習慣なのだが、その習慣のおかげでことごとく元カレの浮気を見破ることができた。
 リエは若い医師の姿を俯瞰する。もともとリエの右手にギブスをしたのは別の診療所の医師だった。その後転属に伴い引っ越したので、この診療所には初めて来た。市原整形外科という診療所の名前は医院長から取っており、医院長は看護師や患者からは『大(おお)先生』と呼ばれている。目の前にいるこの若い医師は『若(わか)先生』と呼ばれているので、どうも医院長の息子らしい。椅子に座ってわかりにくいが思いのほか長身で足が長い。白衣にいくら隠したとしても、そのしっかりとした胸筋をリエは見逃さなかった。医師の息子にありがちな運動が苦手なガリ勉ではなかったようだ。こりゃ学生時代はモテたんだろうなぁ。
 リエは次に視線を上げて彼の目の奥の光を見た。彼女に言わせれば、そこに焦りや癒し、恐れや怒り、そして悪意や善意が表れる。彼女はそれで観察した相手が嘘を言っているのか、または犯罪を犯した者なのかどうか、ある程度察することができるとのこと。しかしどうだ、リエがいくら瞳の奥を探っても、この若先生の目の奥にはなんら光の煌めきが見当たらない。その瞳は深い霧で覆われ、他人からのぞかれるのを意識的に遮断している。かつてマル暴で相手にしていた輩には、この手のタイプはいない。言い方を変えれば反社の輩は、感情が現れやすく、いたって精神的にはシンプルな悪人たちだったのだ。リエは直感した。こういう瞳の持ち主こそ凶悪犯の性向があるのだ。
「では、レントゲン撮りますので……」
 彼がそばに居る看護師へ目配せした。リエが立ち上がると、突然別の看護師が診察室に飛び込んできた。
「若先生、至急診察お願いします」
「どうしたんですか?」
 若先生が看護師に敬語で応対した。たぶん飛び込んできたのは昔から勤務している古参の看護師なのだろう。
「急患です。遊んでいて階段から飛び降りた拍子に足を捻ったらしくて……足もかなり腫れています」
 待合室ではこどもの泣く声が響いていた。
「もしかして急患はお子さんなの?」
「ええ、6才の女の子です」
 若先生の小さな舌打ちをリエは聞き逃さなかった。
「だったら大先生にお願いして」
「大先生は今日は休診日でしょ」
「そうか……なら他の診療所を紹介してあげて」
「何言ってるんですか、この前も子供の診療を嫌がって。若先生のこども嫌いはいい加減にしてください。苦しんでる患者さんを外に放り投げるなんて許しません!」
 とうとう若先生は看護師に怒られてしまった。そんなやりとりをリエに見られているのに気付いた若先生は、慌てたように返答する。
「わかったよ……そのかわり、ちょっとトイレに行くので3分後に呼んでくれる」
 リエは診察室を出る間際、目の端で若先生の行動を盗み見た。目の端で相手の行動を観察するのは刑事である基本能力のひとつだ。若先生は診療デスクの引き出しから注射器の入ったパックを取り出し、何やら薬を探しているようだった。
 リエがレントゲン室の前で撮影の順番を待つ間、若先生は診察室から出ると白衣のポケットに手を突っ込んだまま彼女の前を通りトイレへと消えた。暫くしてトイレから出てきた若先生の様子を見てリエは驚いた。その瞳は半目で、肩を落としてだるそうに歩く姿は、まるで生きる意欲を失った路上生活者そのものである。まるで別人のように変貌した若先生は、ゆっくりと診察室に戻っていった。
 レントゲン撮影した後再び診察室に呼ばれるまで、リエの頭は若先生の言動を整理しその変貌の理由を探るのに目まぐるしく働いていた。
「吉岡さん、お待たせしました。診察室へどうぞ」
 看護師に呼ばれて診察室に入ると、急患のこどもの診察を終えた若先生はリエのレントゲン写真をのぞき込んでいる。
「骨は……つながってます……そのまま……お帰り頂いて……結構です」
 若先生はなぜか言葉を発するのも辛そうにリエに言った。最初の診療と今とでは口調も別人のようだ。その目をのぞき込むと、深い霧がかかっていたはずの瞳の奥が今度はメコン川の泥水のような濁った水で溢れている。
 リエは前の部署で同じような経験をしたことがある。そうだ、瞬時にここまで人間の目の色を変えられるのは、ドラッグ(薬物)以外には考えられない。麻薬?!オーバードーズ?しかしそれらはどちらかといえば興奮状態、強い幸福感をもたらす向精神的な症状を呈するものなのだが……。
 会計を済ませ診療所を出たリエは、診療所の看板を見返しながらひとつの結論に達した。若先生は決してこども嫌いではないのだ。6才の女の子を医師として冷静に診る為には、自身の湧き上がる感情を抑えるためにトイレで自身に薬剤を打つ必要があったのだ。投与された薬剤はたぶん抗アンドロゲン剤だ。この薬を錠剤ではなく直接筋肉注射をすることで、テストステロンの血中濃度を瞬時に低下させ、自分を一時的な無気力状態にした。
 事件が起きたわけではない。だがリエはまるで事件の重要な容疑者を発見したように、頭脳内のメモ帳へ看板に書かれた医師の名前『市原 マコト』を太文字でメモる。