おばあちゃんの家は古い。築八十年だそうだ。
家の中は広くて、二階はない。こんな一階だけの家は、平屋建てというらしい。
ちょっと強い風が吹くと、暗い廊下の向こう側から、ギイギイときしむような音が聞こえてくる。真夜中でも明るかった都会育ちのわたしとしては、ちょっと怖い。
それでも、言い争いばかりで、ギスギスとした家より、とっても落ち着ける。
そんなことを考えながら、わたし、小田切詠は、すり切れた畳の上に敷かれた、薄い絨毯にごろりと横向きに寝転んだ。
おばあちゃんが、ちゃぶ台に置いたふたつの湯飲みに、ほうじ茶を注ぐ。
時間が止まったような空間に、ほのかに立ち昇る香りと湯気が、とても幻想的だ。
「本当に、うちにきてよかったのかねえ」
「うん。すごくいい」
わたしは、言い切った。
だって、家にいてもお父さんとお母さんが、ずっとケンカをしているだけなんだもの。
わたしのお父さんとお母さんは、芸能人だ。ふたりとも、人気俳優をしている。
ときどきテレビの中で、仲良し夫婦としてバラエティ番組に出演していることもある。ふたりとも、エネルギッシュでキラキラしていて、とても小学五年生の子どもがいるようには見えない。
いつも忙しそうに、昼も夜も関係なく仕事に行っている。もちろん、別のドラマの撮影もあるから、ふたりとも、生活の時間がばらばらだ。
引っ張りだこの芸能人は忙しいので、ふたりとも、子どものわたしことまで、なかなか目が行き届かない。
なので、ふたりは家の中で顔を合わせたら、どちらがわたしの世話をするかでケンカをしている。わたしをあいだにはさんで、わたしには目もくれずに、ふたりで言い争いをしている。
外では仲のいいフリをするくせに。
わたしは、俳優なんて、演技なんて、お芝居なんて、大っ嫌い。
ドラマだって台本どおりで、すべて演技じゃない?
表面だけ、ウソで固めているだけじゃない?
子どもの目の前で悪口を言いあっていて、一歩外に出たら仲良しの真似ごとだなんて。
連休も終わった五月の半ば。
わたしは東京から車で二時間ほどのお母さんの実家、おばあちゃんが暮らしている家に、ひとりで移ってきた。
両親のケンカを黙って見ていたわたしの堪忍袋の緒が、ついに切れたからだ。
あのお母さんとは違って、目の前で湯飲みを手にしたおばあちゃんは、のんびりとした表情を浮かべていた。一緒にいて、ホッとした気持ちになる。
わたしも飛び起きると、あたたかい湯飲みを両手で包み、ひとくち飲んだ。
「転校の手続きはできているから、明日から学校だよ」
「――うん」
おばあちゃんの言葉は、とっても素直に聞ける。
「ひとつの学年に一クラスしかない小学校だから、前に通っていたところより、かなり小さいかねえ。先生には、詠の両親の職業は内緒にしてもらえるようにお願いしているからね」
「うん」
「大丈夫だよ。詠はいい子だ。すぐに友だちもできる」
「うん」
「それに、あの小学校は、子どもが大好きだから。すぐに詠も好きになるよ」
子どもが大好きな小学校。
それって、どういう意味だろう?
でも、わたしはおばあちゃんの言葉を、それほど深く考えていなかった。
やっぱり、新しい学校生活を考えると、落ち着きがなくなってしまう。
これまで通っていた私立の小学校では、芸能人の娘という目で見られていた。
運動でも歌でも勉強でも、なんでもできて当たり前のように高い期待で、いつもだれかから注目されていた。
でも、実際は歌も運動も苦手だし、食べ物の好き嫌いも多い。長いセリフを覚えることが得意で演技がうまい両親と違って、わたしは、暗記がぜんぜんできない。
相手にうまく言葉を伝えることも、すてきな笑顔を浮かべることも、超苦手。
本当のわたしは、すぐに涙が出てしまう泣き虫だ。
なのに、なかなか素直になれない、両親譲りの意地っ張り。
いまも、こんなわたしが、転校先の小学校になじめるのか、ものすごく気がかりだ。
でも、この不安は、おばあちゃんに心配をかけたくなくて、言えない。
ああ、カナちゃん。
前の学校で、わたしのことを理解してくれた親友、カナちゃん。
真ん丸眼鏡で髪をおさげにした、とってもやさしくてふんわりとした空気をまとった、そばにいてホッとするカナちゃん。
転校で離れ離れになっちゃうのが、とっても悲しかった。
でも、遠く離れても、ずっと気持ちはつながっているよね。
いつまでも友だちだよね。
※
小学校の正門を入ると、葉っぱだけの桜の木と池がある、小さな中庭があった。その中庭の向こう側に、築百年は超えているという古めかしい三階建ての校舎がある。
中庭を横切って少し歩き、緑色の金網が張りめぐらされた一角の扉を抜けると、敷地だけは誇れる広々とした運動場に出る。この運動場は、校舎の端にある職員室と図書室前の廊下と、反対側の端にある廊下とつながっているらしい。
わたしは、担任の先生のあとについて、職員室から教室へ向かう廊下を歩いていた。
今日は体育の時間があると言われていたから、袖口と短パンが紺色の、白い体操服姿だ。
転校初日に、いきなりこの格好でランドセルは、少し恥ずかしい。
うつむき気味に、足もとを見ながら歩いていると、ふいに、開け放たれていた窓の外から、なにかポンポンというような音が響いてきた。
これは――ボールを蹴るような音だろうか。
なにげなく、目を向ける。
けれど、窓の向こう側の運動場に、人影はない。
不思議な気がして、首をかしげたとき、教室の前に着いた。
そして、教室のドアを開いて、先生と一緒に教室に入った瞬間、ざわざわとしていたみんなが、一瞬でシンと静まりかえった。
転校生が珍しいのだろう。
同じ体操服姿の物珍しそうな視線が、頭のてっぺんから足のつまさきまで向けられる。
先生が、わたしの名前を黒板に書いていると、とたんにはじまる、ささやき声。
「うわあ、髪がきれい。真っ黒で長くて、まっすぐサラサラ」
わたしは、お父さん譲りの黒髪だ。
眉が隠れるくらいの前髪を残して、両耳の上でバッテンになるように、細いヘアピンでとめている。
これは、カナちゃんからお別れのときにもらった、大事なヘアピンだ。
新しいクラスになじめるか心配だけれど、きっと勇気をくれる、わたしにとって大事なアイテムだ。
「目が大きい。お人形みたい」
二重で切れ長の大きな目は、お母さん譲りだ。
親子そろって、目力がすごいと、よく周りから言われる。
鏡で見るとギョロッとしている気がするので、わたしはあんまり好きじゃない。
「色が白くて、かわいい!」
色白なのは、友だちと外で遊ばなかったせいだろう。
わたしもカナちゃんも、教室で本を読むのが大好きだった。
転校生は、誰でもかわいく見えるものだときいたこともあるから、わたしは、そのまま受け取らないように、唇を一文字に結んだ。
「小田切詠さん、仲良くしてね」
先生の言葉に、みんなは一斉に手をあげると、大声でいい返事をした。
わたしは、頭をさげる。緊張で、言葉なんか出てこない。黙ったまま、すぐに、用意された一番後ろの机に、急いで向かった。
そして、席に腰をおろした瞬間。
『ぴんぽんぱんぽーん!』
突然、校内放送が流れてきた。
わたしは、ドキッとして、黒板の上にあった放送スピーカーを見上げる。
機械音じゃない。だれかの――子どもの声だ。
アナウンスの効果音を、口で言っているんだ。
気になったわたしは、そのあとのお知らせの内容に、じっと耳をすませようとした。けれど、いつまでたっても、続けられるであろう内容が聞こえてこない。
そのうちに、わたしは気がついた。
先生が。
周りのクラスメイトが。
いまの放送が聞こえなかったかのように、スピーカーを見あげていないということに。
「それじゃあ、一時間目の算数の授業をはじめます。教科書を開いて。小田切さんは教科書が用意できるまで、となりに見せてもらってね。今日から、体積にはいります」
先生の言葉に、わたしの頭の中は、疑問符でいっぱいになった。
え?
いまの放送が聞こえていたの、わたしだけ?
それとも、あの子どもの声は、空耳だったの?
休み時間になると、わたしの周りに、ワッとクラスメイトが集まってきた。
男の子も女の子も、机の上に身を乗りだして顔を寄せてくる。
「いっぺんに名前なんて覚えられないよね。順番に覚えてよ。小田切さんは、詠ちゃんって呼んでいいよね?」
そう言って最初に自己紹介をしてきたのは、となりで教科書を見せてくれた森田愛花ちゃんだ。こげ茶色のくせ毛髪を、両耳の上でふたつに結んだツインテール。
いまもこのクラスの中で、一番グイグイと迫ってきて、一番話しかけてくる。
「あっ。これ、かわいい!」
そう言って、手を伸ばしてきた愛花ちゃん。その先は、わたしのヘアピンだった。
考えるより先に、わたしは大きな声をあげてしまう。
「やめて! 触らないで!」
愛花ちゃんが、驚いたように、目を見開いた。
そして、気分を害したらしく、頬をぷっとふくらませる。
ああ、怒らせてしまったかも。
とっさのことだったから、わたしも、言い方がきつかったかもしれない。
でも、このヘアピン、大切なものなんだもの。
カナちゃんが、お別れにプレゼントしてくれた、大事なものだから。
無造作に触ってもらいたくなかったの。
わたしは、慌てて口を開こうとする。
でも、どんな言葉を使って説明したら、うまく伝わるのかわからず、ためらっているあいだに、休み時間が終るチャイムが鳴ってしまった。
とたんに、クラスメイトがそれぞれ、自分の席に向かって散らばっていく。もちろん愛花ちゃんも、さっさと自分の席に向かう。
わたしは、愛花ちゃんに謝ることも、いいわけもできなかった。
隣の席にもどった愛花ちゃんは、唇を尖らせたままだ。
それでも、次の時間の国語の教科書を広げ、わたしとの机のあいだに、黙って置いてくれた。
家の中は広くて、二階はない。こんな一階だけの家は、平屋建てというらしい。
ちょっと強い風が吹くと、暗い廊下の向こう側から、ギイギイときしむような音が聞こえてくる。真夜中でも明るかった都会育ちのわたしとしては、ちょっと怖い。
それでも、言い争いばかりで、ギスギスとした家より、とっても落ち着ける。
そんなことを考えながら、わたし、小田切詠は、すり切れた畳の上に敷かれた、薄い絨毯にごろりと横向きに寝転んだ。
おばあちゃんが、ちゃぶ台に置いたふたつの湯飲みに、ほうじ茶を注ぐ。
時間が止まったような空間に、ほのかに立ち昇る香りと湯気が、とても幻想的だ。
「本当に、うちにきてよかったのかねえ」
「うん。すごくいい」
わたしは、言い切った。
だって、家にいてもお父さんとお母さんが、ずっとケンカをしているだけなんだもの。
わたしのお父さんとお母さんは、芸能人だ。ふたりとも、人気俳優をしている。
ときどきテレビの中で、仲良し夫婦としてバラエティ番組に出演していることもある。ふたりとも、エネルギッシュでキラキラしていて、とても小学五年生の子どもがいるようには見えない。
いつも忙しそうに、昼も夜も関係なく仕事に行っている。もちろん、別のドラマの撮影もあるから、ふたりとも、生活の時間がばらばらだ。
引っ張りだこの芸能人は忙しいので、ふたりとも、子どものわたしことまで、なかなか目が行き届かない。
なので、ふたりは家の中で顔を合わせたら、どちらがわたしの世話をするかでケンカをしている。わたしをあいだにはさんで、わたしには目もくれずに、ふたりで言い争いをしている。
外では仲のいいフリをするくせに。
わたしは、俳優なんて、演技なんて、お芝居なんて、大っ嫌い。
ドラマだって台本どおりで、すべて演技じゃない?
表面だけ、ウソで固めているだけじゃない?
子どもの目の前で悪口を言いあっていて、一歩外に出たら仲良しの真似ごとだなんて。
連休も終わった五月の半ば。
わたしは東京から車で二時間ほどのお母さんの実家、おばあちゃんが暮らしている家に、ひとりで移ってきた。
両親のケンカを黙って見ていたわたしの堪忍袋の緒が、ついに切れたからだ。
あのお母さんとは違って、目の前で湯飲みを手にしたおばあちゃんは、のんびりとした表情を浮かべていた。一緒にいて、ホッとした気持ちになる。
わたしも飛び起きると、あたたかい湯飲みを両手で包み、ひとくち飲んだ。
「転校の手続きはできているから、明日から学校だよ」
「――うん」
おばあちゃんの言葉は、とっても素直に聞ける。
「ひとつの学年に一クラスしかない小学校だから、前に通っていたところより、かなり小さいかねえ。先生には、詠の両親の職業は内緒にしてもらえるようにお願いしているからね」
「うん」
「大丈夫だよ。詠はいい子だ。すぐに友だちもできる」
「うん」
「それに、あの小学校は、子どもが大好きだから。すぐに詠も好きになるよ」
子どもが大好きな小学校。
それって、どういう意味だろう?
でも、わたしはおばあちゃんの言葉を、それほど深く考えていなかった。
やっぱり、新しい学校生活を考えると、落ち着きがなくなってしまう。
これまで通っていた私立の小学校では、芸能人の娘という目で見られていた。
運動でも歌でも勉強でも、なんでもできて当たり前のように高い期待で、いつもだれかから注目されていた。
でも、実際は歌も運動も苦手だし、食べ物の好き嫌いも多い。長いセリフを覚えることが得意で演技がうまい両親と違って、わたしは、暗記がぜんぜんできない。
相手にうまく言葉を伝えることも、すてきな笑顔を浮かべることも、超苦手。
本当のわたしは、すぐに涙が出てしまう泣き虫だ。
なのに、なかなか素直になれない、両親譲りの意地っ張り。
いまも、こんなわたしが、転校先の小学校になじめるのか、ものすごく気がかりだ。
でも、この不安は、おばあちゃんに心配をかけたくなくて、言えない。
ああ、カナちゃん。
前の学校で、わたしのことを理解してくれた親友、カナちゃん。
真ん丸眼鏡で髪をおさげにした、とってもやさしくてふんわりとした空気をまとった、そばにいてホッとするカナちゃん。
転校で離れ離れになっちゃうのが、とっても悲しかった。
でも、遠く離れても、ずっと気持ちはつながっているよね。
いつまでも友だちだよね。
※
小学校の正門を入ると、葉っぱだけの桜の木と池がある、小さな中庭があった。その中庭の向こう側に、築百年は超えているという古めかしい三階建ての校舎がある。
中庭を横切って少し歩き、緑色の金網が張りめぐらされた一角の扉を抜けると、敷地だけは誇れる広々とした運動場に出る。この運動場は、校舎の端にある職員室と図書室前の廊下と、反対側の端にある廊下とつながっているらしい。
わたしは、担任の先生のあとについて、職員室から教室へ向かう廊下を歩いていた。
今日は体育の時間があると言われていたから、袖口と短パンが紺色の、白い体操服姿だ。
転校初日に、いきなりこの格好でランドセルは、少し恥ずかしい。
うつむき気味に、足もとを見ながら歩いていると、ふいに、開け放たれていた窓の外から、なにかポンポンというような音が響いてきた。
これは――ボールを蹴るような音だろうか。
なにげなく、目を向ける。
けれど、窓の向こう側の運動場に、人影はない。
不思議な気がして、首をかしげたとき、教室の前に着いた。
そして、教室のドアを開いて、先生と一緒に教室に入った瞬間、ざわざわとしていたみんなが、一瞬でシンと静まりかえった。
転校生が珍しいのだろう。
同じ体操服姿の物珍しそうな視線が、頭のてっぺんから足のつまさきまで向けられる。
先生が、わたしの名前を黒板に書いていると、とたんにはじまる、ささやき声。
「うわあ、髪がきれい。真っ黒で長くて、まっすぐサラサラ」
わたしは、お父さん譲りの黒髪だ。
眉が隠れるくらいの前髪を残して、両耳の上でバッテンになるように、細いヘアピンでとめている。
これは、カナちゃんからお別れのときにもらった、大事なヘアピンだ。
新しいクラスになじめるか心配だけれど、きっと勇気をくれる、わたしにとって大事なアイテムだ。
「目が大きい。お人形みたい」
二重で切れ長の大きな目は、お母さん譲りだ。
親子そろって、目力がすごいと、よく周りから言われる。
鏡で見るとギョロッとしている気がするので、わたしはあんまり好きじゃない。
「色が白くて、かわいい!」
色白なのは、友だちと外で遊ばなかったせいだろう。
わたしもカナちゃんも、教室で本を読むのが大好きだった。
転校生は、誰でもかわいく見えるものだときいたこともあるから、わたしは、そのまま受け取らないように、唇を一文字に結んだ。
「小田切詠さん、仲良くしてね」
先生の言葉に、みんなは一斉に手をあげると、大声でいい返事をした。
わたしは、頭をさげる。緊張で、言葉なんか出てこない。黙ったまま、すぐに、用意された一番後ろの机に、急いで向かった。
そして、席に腰をおろした瞬間。
『ぴんぽんぱんぽーん!』
突然、校内放送が流れてきた。
わたしは、ドキッとして、黒板の上にあった放送スピーカーを見上げる。
機械音じゃない。だれかの――子どもの声だ。
アナウンスの効果音を、口で言っているんだ。
気になったわたしは、そのあとのお知らせの内容に、じっと耳をすませようとした。けれど、いつまでたっても、続けられるであろう内容が聞こえてこない。
そのうちに、わたしは気がついた。
先生が。
周りのクラスメイトが。
いまの放送が聞こえなかったかのように、スピーカーを見あげていないということに。
「それじゃあ、一時間目の算数の授業をはじめます。教科書を開いて。小田切さんは教科書が用意できるまで、となりに見せてもらってね。今日から、体積にはいります」
先生の言葉に、わたしの頭の中は、疑問符でいっぱいになった。
え?
いまの放送が聞こえていたの、わたしだけ?
それとも、あの子どもの声は、空耳だったの?
休み時間になると、わたしの周りに、ワッとクラスメイトが集まってきた。
男の子も女の子も、机の上に身を乗りだして顔を寄せてくる。
「いっぺんに名前なんて覚えられないよね。順番に覚えてよ。小田切さんは、詠ちゃんって呼んでいいよね?」
そう言って最初に自己紹介をしてきたのは、となりで教科書を見せてくれた森田愛花ちゃんだ。こげ茶色のくせ毛髪を、両耳の上でふたつに結んだツインテール。
いまもこのクラスの中で、一番グイグイと迫ってきて、一番話しかけてくる。
「あっ。これ、かわいい!」
そう言って、手を伸ばしてきた愛花ちゃん。その先は、わたしのヘアピンだった。
考えるより先に、わたしは大きな声をあげてしまう。
「やめて! 触らないで!」
愛花ちゃんが、驚いたように、目を見開いた。
そして、気分を害したらしく、頬をぷっとふくらませる。
ああ、怒らせてしまったかも。
とっさのことだったから、わたしも、言い方がきつかったかもしれない。
でも、このヘアピン、大切なものなんだもの。
カナちゃんが、お別れにプレゼントしてくれた、大事なものだから。
無造作に触ってもらいたくなかったの。
わたしは、慌てて口を開こうとする。
でも、どんな言葉を使って説明したら、うまく伝わるのかわからず、ためらっているあいだに、休み時間が終るチャイムが鳴ってしまった。
とたんに、クラスメイトがそれぞれ、自分の席に向かって散らばっていく。もちろん愛花ちゃんも、さっさと自分の席に向かう。
わたしは、愛花ちゃんに謝ることも、いいわけもできなかった。
隣の席にもどった愛花ちゃんは、唇を尖らせたままだ。
それでも、次の時間の国語の教科書を広げ、わたしとの机のあいだに、黙って置いてくれた。

