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 自身の中で忘れた方がいいと意地の塊で脳内から消し去った。
そんな取るに足らない思い出が強制的に脳内から引っ張り出されたのは終電を逃したあの日から3日後のことであった。

「冴島、名刺だせ」

 私が唖然と男を見つめていると、隣でイラついたように先輩が私の腕を肘で押す。
我にかえると、隣の先輩はすでに名刺交換を終えているところであったため、その場にいる3人の視線が私に注がれていた。
 なんとか平常心を顔に張り付けて名刺入れから2枚名刺を取り出す。

「この度、担当します制作部ディレクターの冴島です」

「頂戴いたします」

頂戴いたすな。

そう心の中でツッコミながら私は目線をすごし下げて男に名刺を差し出した。男は両手で受け取り、自分の名刺を私に差し出す。

「ーーー株式会社、商品企画部の八神です」

「同じく、綿貫です」

「頂戴いたします」

 八神。男の名前をこの時に初めて知った。そして男も私が冴島であることを初めて知ったであろう。
そして八神という男は、あの夜の雰囲気とはまるで違う貼り付けたような笑みを浮かべていた。なにこいつ、私のこと忘れてんのかな。まあ、別にいいけど忘れてても。

 目つきの悪さを誤魔化すようににこにこしながら、私の隣にいる先輩と談笑し始めている男をじっと見つめる。あの負のオーラは微塵もみえない。

「堅苦しいのも何なので、どうぞお座りください」

 先輩がそう言って小さな会議室のテーブルを挟んで向かい側に彼らを促す。
私も先輩の横に座った。八神という男が一瞬、私を視界に入れてそして、逸らす。あ、絶対こいつ気づいている。

「この度は、新発売の缶ジュースのweb広告を作っていただきたくて」

 八神がそう言って紙袋をテーブルに置いた。
私はここである嫌な予感がよぎる。まさかこいつ、

「ハニートラップ…」

この男はスパイで、私がこの会社につとめていることを知っており、商品を事前に売り込むためあの深夜の公園へ?
ーーーえ、そんなことでキスまでする?

「何だ冴島、さっきからボケっとしてクライアントの前だぞ」

「すみません」

 隣の先輩が鬼の形相で私を睨みつけているがこれに関しては日常茶飯事のためなんてことない。
適当に謝罪をして前にいる『クライアント様』にも軽く頭を下げた。

 八神の隣にいる綿貫という若めの男が、紙袋に入れた手を中々出さない八神に痺れを切らして紙袋から取り出したそれ。
昼間にみてもやはり絶妙に気持ちの悪い顔のついたりんごと目が合った。うええ、こっち見るな。

 そして、やっぱりな、という視線を八神に向けると八神は申し訳なさそうに視線を下にさげる。ハニートラップをした罪悪感か、意図せぬ偶然を私のように悔やんでいるのか今問いただすことはできない。

「こちら、弊社の新発売の炭酸りんごジュースでして」

 綿貫が腰を少し上げて私たちの方に缶を寄せる。

「へえ、ダ、シュールでいいですね」

 先輩、絶対『ダサい』って言いかけた。
ダ、シュールってなんだ、人の名前か。

「これ、私がデザインしたもので、こう見えて大学はデザインの方を学びまして」

綿貫、あんた大学で何学んだの。

「綿貫は、現社長のご子孫で…」

 八神の言葉に私を含め、先輩も何かを察して「ああ」と声をもらした。なるほどね。ご子孫だから誰もこの若造に反論できない。
 八神という男の苦労が垣間見えた気がして、あの終電を逃した夜の丸っこい背中と、負のオーラはこいつのせいだったか。と、八神に少し同情した。

「分かりました、では見積もりの方とこちらの商品のことについての詳細を知りたいです」

 先輩がそう言えば、八神は「はい」とホッチキスで止めた資料を私たちの前に差し出した。
 本格的に話が始まれば私はそれを脳内に叩き込み、会社の利益のために動くだけである。

 八神の言葉に耳を傾けながら、資料を読み始めていると、不意に視線を感じて顔をあげた。
すると、正面に座っている綿貫がにこにこと笑いながら頬杖をついて私を見つめていた。

「冴島さんって彼氏いるんすか」

「おい」

「いいじゃないですか八神さん。俺たちは先輩たちの金魚のフン的な感じだし、そっちはそっちで話してくださいよ、こっちは親睦深めてるんで、ねっ」

何が『ねっ』だ。勝手に金魚のフン仲間に引きずりこむな。

「冴島さんみたいな大人しくて美人な女性を隣に置いておけば、商談も上手くいくっていう戦法ですか?」

 頬杖をつきながら私の隣にいる先輩にそう問う綿貫。先輩は「いえ、そういうわけでは」と引き攣る笑みを浮かべていた。口の悪い先輩のことだ、「このお坊ちゃん殺してやろうか」くらいは思ってそう。

「綿貫、大人しいなんて失礼だ」

「いや別にそこは失礼じゃないですけど」

 そう言って失言を失言と気づいていない八神を睨みつける。この人、素でこれなんだ。八神は「あ、すみません」と口元を手でおさえる。
私たちの雰囲気を見て、今だに引き攣った笑みを浮かべていた先輩が「もしかして」と口を開いた。

「2人、お知り合いですか」

 その質問に私たちは固まる。知り合い、まあ知り合いと言えば知り合いなんだろうけど深掘りされるととんでもなく困る。
 八神はにこりと笑ってうんともすんとも言わない、まるで返答は君に任せると言われているみたいだった。

 なのであえて私も何も言わず、先輩の方を見てへらりと笑って質問をなかったことにするように綿貫の方に顔を戻した。

「綿貫さん、この商品、なんでこのデザインなのか今後のプランニングのためにお聞かせください」

 私がそう言うと、綿貫は少し唇を尖らせて「ん〜」と悩み出した。資料を2枚ほどめくり、私の方にそれを寄せる。

「ここ、一応書いてますけどね、親しみやすさと他にはない面白さを追求しましたって、まあ俺は普通にふってきたものを描いたってって感じっすけどね」

 自分を天才肌みたいに言うな、このポンコツお坊ちゃんめ。耐えきれなくなった隣の先輩が軽く吹き出して誤魔化すように咳を2つほどしたところで、私は「なるほど」と作り笑いを浮かべる。

 社長のご子孫がゆえ我儘放題の勘違いお坊ちゃんによって生み出されたこの商品、そして私たちはこれを断れないことを見越してのこの態度だ。
 まあ、あの夜、家に帰ってから飲んでみたら味は美味しかったが。

「だいたい、おたくはこっちの持ってきた仕事を断れる立場ではないっすよね、ま、俺の力で他の会社に頼むこともできますけど」

 威厳も何も感じられない軽い口調でそう言う綿貫。この中では1番歳下であることは明白であるものの、自分の後ろ盾を盛大に武器にしてぶんぶん振り回してくる。これは、大変だろうな、と2回目の同情を八神に向けた。
すると、静かに話を聞いていた八神が口を開いた。
綿貫と違い、低く、真っ直ぐな声。

「このデザイン、綿貫が考えたのはそうなんですが背景に敷き詰められた小さいりんご、これは社員1人1人が描いたりんごを印字いたしました」

「へえ」

 先輩が興味深そうに缶を持ち上げる。あの夜、私がしたようにゆっくりと缶を回し始めた。

「私たちは、このりんごたちのように歪な小石みたいなものです」

「…小石?」

 私がそう問えば、八神は作り笑いではなく柔らかな笑みを浮かべていた。

「小石って、全く同じ形のものってないじゃないですか。個性やいろんな想いがそこら中に転がってるわけで…それを1つに集めたら、素敵なものが出来るんじゃないかと、そういう思いでこのデザインにしました」

 そう言われて再度この缶ジュースをみると、なんだかそれっぽく見えてくる。私だけでなく、先輩も「なるほどよく考えられてますね」なんて感心していた。

「へえ、そうなんっすね!俺はざっとしたデザインしか作ってないんでOKが出てからは八神さんに託してたんすけど、なんか良かったっす!素敵なもん作れて!」

 八神の顔が少しだけ引き攣った。しばき倒したいんだろうな、この後輩のこと。でも立場的にできない、そんな葛藤と毎日戦っている。可哀想に。
第3回目の同情をした後、私は八神の話の続きを待った。
しかし、八神はこの缶ジュースの『仕掛け』の話はしなかった。
私は話が進められていくなか、目の前にある缶ジュースの表面を見つめていた。

 ハート型は見つからなかった。